満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

菊池雅章TRIO 『Sunrise』

2012-04-16 | 新規投稿


かねてから予告されていた菊池雅章のECMでのファーストアルバムがやっとリリースされた。ジャズシーンきっての名門レーベルであるECMで日本人初のリーダー録音を行った菊池雅章は私達の誇りに違いないが、個人的には同レーベルの作品の数々を愛聴しながらも、レーベルカラーとも言えるそのクリーンすぎる音質に微妙に好き嫌いが分かれる作品が多いレーベルであることも確かだ。従って私の本作品への関心は菊池雅章の獣性とも言えるそのカウンター的な音楽世界がECMのレーベルカラーからいかに逸脱し、独自性を保つかという点にある事は以前にも書いた

ECM録音の質感、その音色が菊池雅章の音楽とは相いれないという私の思い込み。果たしてそれは杞憂に終わった。本作『sunrise』に於けるリバーブを最小限に抑えられた音の感触に安心し、尚且つ、いつもながらの菊池雅章の抽象的な音階使いに更に安心。嘗てのデザードムーンやピアノソロで聴かれた無調のリリシズムとも言える透徹な音響、その音数を抑えた静的な場面から徐々に立ち上がるような音像を予想し、1曲目の「ballad 1」でその予感が的中するが、2曲目のアブストラクトな楽曲、3曲目の鋭角なグルーブが登場するにつれ、以前のトリオ演奏にないスリリングな局面に遭遇する。きたなーという感じ。
7曲目「sticks and cymbals」、8曲目「end of day」でのフリー性は即興の原型を提示するかのようなシンプルな美学の発露を感じるが、菊池雅章の音楽に‘自由’ならぬ‘自発’が濃厚に顕われるのもいつもの事。恐らくこのアーティストにあって、ジャズ本来の‘スイング’こそが重要案件であり、批評言語でもあろう‘フリー’なる概念は果たして意識外である事も想像に難くない。固有のスイングこそは菊池雅章にとってジャズの本質を包摂する絶対要素であろう。そこには前衛や実験、フリーという数多のアーティストが主題として格闘するテーマが当然のように胚胎され、実践されてもいる。菊池雅章はそれらを自明な事としてスイングする事に専心するのだ。聴く者に絶対快楽をもたらす菊池ミュージックの最たる要因がそのスイングの動性、しかも個性豊かなドライブ感とも言うべき生命力である事は間違いない。私にとってこの感覚を感じ取れるピアニストはそれほど多くない。私が期待した例のカエルを踏んじゃったみたいな‘うぇいうぇい!’という唸り声も3曲目あたりから来た。やはり、これがないとね。ECMの事だからカットするか最小レベルの音量に抑え込む事も予想していたが、それをしなかった。正解。

本作『sunrise』で注目されるもう一人の演奏者は言うまでもなくドラムのポールモチアンだ。本作は昨年、惜しまれながら他界したモチアンのラストレコーディングでもあるのだ。9曲目の「uptempo」は打音の空間デザイナー、モチアンの面目躍如たる律動豊かなドラムが響き渡る。思えば私はこのブログで菊池雅章とポールモチアンについて度々、書いてきた。両者の相性はその‘音数の思想’の共鳴に依るのだろうか。数多のピアノトリオという形態から想定される予定調和なジャズが、彼等の手にかかると全く異なるジャンルのような様相を見せる。音楽のフォーマットや原曲を扱いながらも演奏者個人の自発性のみが立ち現われ、存在性だけが屹立するような音楽。毎度の事とは言え、ここでの音楽は誰にも似てません。
アルバム構成の最初と真ん中、そしてラストに配された「ballad」が要所を決める。その構築のコンセプトに菊池雅章の想いも見る。スタンダードやバラッドが全くその原型を留めず溶解する旋律の中で菊池雅章は超個性のバラッドを奏でる。その一筆書きの極意を東洋的と言ってもいいが、もはや菊池雅章はその自己の内奥のエゴやら情念やあらゆる‘欲’の放出を行っているようにも感じる。悟りや達観ではない、完全なる欲求の世界。表現世界が未完だからこそ放たれる強靭な反骨心を世に問うてるのだ。菊池雅章は未だ満足はしていない。その強烈なエゴが生み出す強い音楽世界。盟友モチアンを失った彼は今後、その闘いを一人で継続してゆくのだろう。

2012.4.16
    
コメント (2)
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