満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

Paul Motian   『Time and Time Again』

2008-02-14 | 新規投稿

打音が宙に舞う。
様々な色のアタックが音階を奏でる事なく空間を綾取る。そこには確かな旋律やコードがある。打音が持続し、止まり、曲がりくねるようだ。律動が解体され、破片となった拍子が一筆書きのように永く連なる。その音象たるや空中に描いた水墨画の如し。現実という時に添うのではなく、異次元の中に固有のリズムを刻む時空が創出された。あくまでも静的に、定温な音響が浮上する世界。アンチクライマックスな感性は徹底される。これは最早、均衡の極意だろう。

ポールモチアン。
この人はドラマーなのか。いや、ドラマーには違いないが、一種の空間芸術家と言って差し支えないだろう。ビルエバンス(p)、スコットラファロ(B)とトリオを組んだ60年代から、モチアンのグルーブを解体、熔解させる試みは続いているのだろう。ミニマリズムへの明確な反抗がそこにあったのか。それは定かではない。しかし彼は明らかに‘アフリカ’から遠い地平を目指しているかに見える。ジャズの故郷、原形を意識的に回避する、そのリスクを引き受けながら、新たな原形=オリジンを創造したのだ。

メロディックドラミングと言っても良いだろうか。
ポールモチアンは拍を刻む定刻を旋律的にデザインする。それは複合(ポリリズム)でもない。広義のリズムからは離れたものと認識される、そのリズム世界はモチアンの心から発せられる‘歌’としかいいようがないものだ。ビートのグルーブではない言わば‘メロディグルーブ’をモチアンはピアニストやギタリスト、ホーンプレイヤーと同列に演奏する。いや、それらを‘うわもの’とさえ意識もしていないのだろう。夭逝した天才、スコットラファロもギターのようにベースを弾いた演奏者だった。モチアンはそんなプレイヤ-との対峙を必要とする経験を積んだ演奏家だ。その到達地点の奥深さ。推して知るべしだろう。

バップの‘熱さ’の後、メロディによる新たなグルーブ概念はマイルスデイビスも試みている。ただ、それはウェインショターとのホーンの応酬による実験であり、あくまでリズムセクションとの二分法と言う意味で、ジャズ音楽の構造全体の変革とは言えなかったかもしれない。白人トリオであったビルエバンストリオだからなし得た変革とは、三者によるメロディの自由演奏だったのだろう。それが結果的に固有のグルーブの創造に至った。ラファロとモチアンはエバンスの究極的メロディにリズムを提供しなかった。即興的なメロディで応酬する事でそれに対抗したのだ。そこには見えない闘争があり、スリルがあった。
‘メロディによるグルーブ’はアフロに端を発すビート形式やブルーノートのスケールから意識的逸脱を図り、西欧的対位法をジャズに持ち込んだエバンスの‘旋律世界’に対して旋律的インタープレイを提示したラファロ、モチアンのリズムセクションによって成されたのだろう。

『Time and Time Again』はモチアン、ビルフリゼール(b)、ジョーロバーノ(sax)のトリオによるニューアルバム。三人の奏でる単線メロディが空中に無作為に発せられる。作曲された一つのメロディを反復、変形させながらサウンドデザインしてゆく音楽。これはもはや音響世界。アンビエントな空間芸術だろう。
私はもう30回くらい聴いている。しかし全く記憶がない。空気のように耳に溶けていく。‘無’になるような音楽。いつも途中で音楽を意識していない。気付けば終わっている。ちゃんと聴いていたのか。いや、聴いていない。しかし聴いている。なぜなら心地よさが確かに実感できるから。多分、聴いていたのではなく、音楽が浮遊する空間に私はいただけなのだ。こんな音楽があってもいい。いや、もっとあるべきだ。
ポールモチアン。76才。誰もいない場所に行き着き、そこで演奏している希有なミュージシャン。

2008.2.14

 

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