満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

           山本潤子  『音楽に恋してる』

2009-10-30 | 新規投稿

「楽曲に恵まれた」と山本潤子が回想する時、私達は村井邦彦や荒井由実による至高の楽曲をまず、想起するのだろうか。究極の歌唱は究極の楽曲とともにあった。同時に当初、赤い鳥における村井ナンバーと他のナンバー、ハイファイセットにおける荒井ナンバーと杉真理ナンバー等のそれぞれの落差を感じていた私が歌手、山本潤子の過去の全貌を各種、復刻音源を聴き込む事で知るに及び、後藤悦冶郎や渡辺としゆきその他、多くの作家による楽曲の魅力も次第に引き上げられていくのを感じた事は事実である。それもひとえに山本潤子という希代のボーカリストの歌唱による楽曲の力のリフトアップによる説得力が私の印象の変化をもたらせたのだ。‘ギターを弾きながら歌うべき’とサジェスチョンしたのは伊勢正三だったというが、そのシンガーソングライター然とした山本潤子の風貌とは私にとって、しかしやはり、‘歌手’のそれである。しかもそれは‘究極の歌手’に他ならない。

山本潤子の歌唱とは一定のジャンルに収斂されるものではないと感じている。それは洋楽ポップスと日本民謡の伝承の共存という志しの高さを実現していた赤い鳥やコーラスポップスの王道を音響的快楽に結びつけたような音楽性を誇ったハイファイセットの孤高から顧みても、その懐の深さは窺えよう。それは美声による万象の超越性ではない。むしろ山本潤子はあらゆる局面を歌うことができる万能の歌手であると認識する。「翼をください」英語バージョンの洋楽基準的な突破感覚や「竹田の子守唄」の情念はどちらも山本潤子の世界の両翼であろう。

ハイファイセットは結果的に‘ニューミュージック’と呼称された当時のジャパニーズ洋楽の筆頭と位置つけられ、日本的情念から意識的に離れていく事で、その音楽性を自ら限定するような制作が多かった気がするが、同時により痛感するのが、そのレコーディングにおけるアレンジのワンパターン性である。当時のスタジオワークにおけるバンドサウンドによる音楽性がいわゆる‘都会的洗練’という様式に収まり、赤い鳥時代のホーンやストリングスを大胆に使用するビートルズ的実験精神や、村上ポンタや大村憲司がガンガンにロックするバッキングとの奇妙なマッチ感覚といった楽曲全体の濃さは失われていた。私にとってハイファイセット以降の作品における感動とはあくまでも山本潤子の歌の端々に現れる内面性であり、壮大さであり、多幸感といった歌声のバリエなのだと思う。

‘オーガニック・ミュージック’をコンセプトにしたという新作『音楽に恋してる』はそよ風のような肌触りの心地よい曲が並ぶ好作である。このボサノバやカフェミュージクのような耳触りの音楽性もまた、シティポップを極めてきた山本潤子の一つの個性ではあろう。ただ、一つ一つの楽曲が並列なアレンジでまとめられ、小さな物語集となったこの作品を単に爽やかで、耳触りの良い佳作と侮ってはいけない。逆に全体のオーガニックなムードによって見失いがちな楽曲の濃さが部分的に散見され、注意深く聴く必要がある。即ち、「きらりきら」、「金曜日の夜は・・・」、「茜空」、「ふと気づけば」、「春の日」等に見られるメロディの深さ、重さ、歌の屹立度は劇的な内実を秘めた重厚な歌と認識する。個人的にはこれらは異なるアレンジによる再録を期待したいと思うほどだ。更にアルバムの後半にダウンテンポなナンバーを配し、そこに小さな物語の繋がりを‘流れ’、展開によって大きなメッセージに変えていこうとするささやかでいて、強い意志が感じられる。日常における小さな幸福感を紡ぎ出し、それを広げていくようなマジックが山本潤子の本意なら、その歌声によるピースフルなメッセージとは不変の魂による彼女の永年のコンセプトなのではないか。その魂はこの4年ぶりの新曲によるアルバムでもやはり、不変であった。

この稿を書いている途中でふとYOUTUBEをチェックした。そこで見つけた「忘れていた朝」を坂崎幸之助とデュエットする山本潤子の歌のちょっと尋常でない神々しさを見るにつけこの歌手の輝きを改めて思い知らされるのであった。

2009.10.30

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする