こんにちはアメリカ!

2009-07-19 20:26:20 | Weblog
 子供の頃、アメリカという国に憧れた。アメリカに住みたいと思っていた。
 大人になるにつれ、いつの間にか憧れの対象はヨーロッパや南米やアジアに変わり、なんだかアメリカという国がとても浅はかでちっぽけなものに見え始めた。とても乾いた情緒の理解されない国に見えた。ハリウッドもディズニーも見なくなって、ゴダールやトリュフォーを見るようになった。西海岸のロックンロールの代わりにボサノバを聞くようになった。
 そうしてしばらくスノッブに塗れているうち、どこか遠くからジミヘンの弾く星条旗よ永遠成れが聞こえてきて、僕はお風呂上りにコカコーラを飲んでみた。長い道路を歩いて一回りしてきたような気分だった。僕はやっぱりアメリカという国が好きで、その気持ちが一体なんであれどこかに決着が必要だった。

 子供の頃、広い世界に憧れた。冒険の旅に出たかった。あらゆるものを見たかった。科学者になりたかった。発明家になりたかった。有名になりたかった。世界をびっくりさせてやりたかった。面白いことをしたかった。人とは違うことをしたかった。
 大人になるにつれ、そういった考え方は僕達の時代のイデオロギーを反映したものに過ぎないと理解し始めた。ユニークでも何でもなく、まさしく日本の政府が考えるこれからの日本人像そのものらしいということだった。普通が嫌な普通の人。幸福を履き違えた世代。本当は普通の生活が一番なのに教育のせいで普通が嫌な人々がたくさん育ったと説明された。職業を選んで我侭だから仕事がないのだと批判されて貧困を足元に突きつけられて、一部の人々は長らくぼんやりした夢を見ていたのだ目が覚めたと大人しい暮らしを選んだ。お前達の言う個性なんて個性でもなんでもないし、だいたい個性の一体どこが大事だかそんな惨めな生活で説明できるのか、とプライドを粉砕されたり。普通の幸福に浸る人々の笑顔を見て慌てて家を買ってみたり。
 そうして、別に人並みに暮らせればいいとか熱意のある人が苦手だとか言っているうちに、やりたいことをやって何度もこけて慢心創痍で尚走り回っている人々が沢山現れて、僕は野望を隠すのはもうやめにしようと思った。彼らは世界を引っ掻き回して大笑いしていた。この世界には取り返しの付かないことなんて何一つない。

 封印していた問いを一つ。
 
「僕は何か?」

 この問いを敲き台にして高尚さ自慢の為だけの議論が展開されるのを何度も聞いて、僕は心の中で一人でしかこの問いを問わないことにしていた。でも、そういうのももうやめにした。面倒だからとか恥ずかしいからとかいう理由で何かを言わないのはもう本当に面倒だなと思う。

 ヘンリー・ミラーが言ったように、たぶんこの世界は楽園で、僕達はただ遊ぶためだけに生まれてきた。そして死んでも何も失われはしないし、やり直しも何度でもできるし、安心して遊んでればそれでいいのだと思う。
 貧乏臭く小さくまとまる必要は本当はどこにもない。贅沢は敵だというのは戦争中の政府の為のスローガンだ。資本主義を否定する人々の理屈では「パイは決まっていてそれをみんなで取り合うゼロサムゲームだ」ということになっているけれど、これは全くの間違いだ。世界にある「富」も「価値」も「食べ物」も僕達は無限に増やすことができる。全員が自由で豊かになることができる。 

 

僕達はどうしてまだ月へ遊びに行けないのか。

2009-07-16 17:48:37 | Weblog
 あまり人の書いたものばかり紹介してもなんですけれど、しばらく前にホリエモンこと堀江貴文さんが宇宙開発について書いた記事

 http://uonome.jp/article/horie/486

 を読んで随分強く印象に残ったままなので、ここに紹介します。

 たぶん、とても多くの人が思っていると思うのですが、アポロは1969年、今から40年も前に月へ行ったのに、どうして宇宙開発はそれ以後ほとんど進歩していないのか。それに対する一つのすっきりした回答です。

 つまり全部「官」でやっているから。
 一部を引用すると
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例えばこのような話があります。宇宙で地上とは比べ物にならないくらいの放射線を浴びる衛星には、特注のマイクプロセッサを搭載しないといけないという神話です。しかし、実際には秋葉原で売っているような市販の民生用チップに放射線を浴びさせてテストしたところ、インテル社のCPUはエラーをほとんど起こさなかったといいます。3台並列で並べて相互のヘルスチェックを行えば運用期間中全く問題を起こさない衛星の製造が可能になったそうだ。電池などでも同じような話があります。しかし特注のチップを作ると予算は100倍以上になるのだそうだ。これも官業の非効率性をあらわしている一端の事実とも言えるでしょう。つまり、ロケットは安全保障上の問題から長いこと官業に縛られてきたがゆえに非効率な浪費が繰り返されてきており、製造コストも高止まりしているがゆえに、未だに人類が月に二度といけないような状態になっているのです。

では、どうすれば解決するのでしょうか? 答えは簡単です。民間に宇宙開発を開放することです。官需ではなく民需で自立できるような宇宙産業を育てればよいのです。実はロケットは単なる輸送手段であり、先端技術の開発の為に存在するのではないのです。自動車に例えるならば、これまで国家主導でF1マシンの開発競争をしていたのですが、実は自動車は単なる輸送手段と考えればF1マシンは必要なく、極論すればホンダのスーパーカブのような格安のバイクでもかまわないのです。
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 たしか、「夏のロケット」という小説があって、僕はそれを昔読んだのですが、ストーリーとしてはこれもどうしてアポロ計画から何十年も立ちテクノロジーは進歩したのに僕達は宇宙へ行けないのか?当時はファミコン並のコンピュータしかなかったのに?と疑問に思った若者グループが自分達でロケットを作って飛ばす話でした。実はもう必要な技術はだいたい安くで揃ってる。民間に開放すれば宇宙は急速に近くなると僕も思う。

 なんというか、とにかく今まで大袈裟に考えすぎていたのではないでしょうか。
 ごちゃごちゃ言いすぎて前に進まない状態で、本当はもっと色々やってみればいいだけの話ではないか。それで堀江さんは今実際にロケットの開発をされています。こういった堀江さんのスピードと「べつにやればいいじゃん」とやってしまうところが実に愉快だと思う。ライブドア事件で訳の分からない形で逮捕されて、宇宙開発へまわせる資金が随分減ったのではないかと思うけれど楽しみです。

20090715.

2009-07-16 13:40:26 | Weblog
 2009年7月15日水曜日。

 セミとカラスとヒヨドリの声が煩くて、早朝尚明るい夏の太陽が窓から眩しくて僕は暑苦しい浅い浅い眠りから目を覚ます。まだ5時半だった。昨日Dの誕生祝から戻って眠ったのは3時前だから、まだ3時間も眠っていない。窓のすぐ外に木々が生い茂っているのは素敵だなと思っていたけれど、自然と暮らすというのはこういうことだ。窓の外ではセミと鳥達が変わりばんこで大騒ぎしていて、彼らにとっては僕の時計なんて何の関係もなかった。太陽が昇れば1日は始まり、日が落ちれば眠るのだ。僕は窓を閉めて自然のサイクルをシャットアウトして、それからエアコンとPCのスイッチを入れて文明の生み出す冷たい風とウェブをハワイから流れ出るラジオステーション。5曲ハワイアンを聴いて、水を飲んで、また浅い眠りに付く。
 夢を見て、忘れる。
 存在の耐えられない軽さを耐える軽さの存在が定義する200年前を生きて死んだあの男の名前。
 そう昨日はDの誕生日だった。アンデパンダンに9時という当初の予定は簡単に急遽変更され、アジアレストランでカンガルーやワニやカエルといった変わった肉をどうしてか食べていると時間はすぐに10時になって、何も知らされなかったAは可哀想に9時にアンデパンダンに来たけれど誰もいなくて45分待ったけれど誰もこなかったから30分サイクリングしてきた、と僕達がアンデパンダンで乾杯をする直前に現れた。それでニコニコといいよいいよと言い、フランス人らしくワインを選んでみんなにサーブしてくれて、あと2ヶ月で彼も国へ帰るのだなと思うとなんだか悲しくなりそうになった。プレゼントを上げて花を上げて乾杯して写真をとって喋っていると閉店の時間になって、Zが1年くらい前からたまに行くという変なバーに行く。暗い雑居ビルの4階にある小さなお店で小さなフロアとDJブースがあって、店は僕達9人でほぼ貸しきり状態ではじめてこのメンバーでみんなしてワーワーと踊った。僕はAに唯一知っているヒップホップの簡単なステップを教えてあげて、それからみんなで輪になって繋いだ手の間をくぐりあってこんがらがって笑うという意味のないことをしてなんだかやけにはしゃぐ。早い人は2週間後に日本を離れるし残された時間はそう多くない。シカゴから来たアメリカ人と話すため英語のできないZがAsに通訳を頼むとAsはZが何かちょっかいを出されたのだと勘違いしてアメリカ人を殴りそうになってお店を出ることになる(僕はこのとき廊下で電話をかけていて様子をしらないけれど、このコンピュータ会社勤務のアメリカ人とは量子コンピューティングの話で意気投合したあとだったのでとても残念だった)。Zは日本語とモンゴル語しかできないし、Asはアラビア語と英語しかできないし、アメリカ人は英語しかできないし、もともとAsはどうかんがえても通訳になり得ない。僕達の分断された言葉。それで「まだ言葉が分裂する前のことを知りたい」とチベットだかどこだかを飛びまわっていらした中沢新一さんのことを強く思い出した。僕達はやがて一つの言葉を持つのだろうか。

E->J.

2009-07-16 12:35:37 | Weblog
 「日本人は英語ができない」というのは、もう常識みたいに思われているけれど、別に日本人だけではなくて英語から遠い言語圏の人はそんなにペラペラ英語を話せないと思う。だから僕はニュアンスによっては、この「日本人は英語ができない」というテーゼそのものに対して素直には賛同し兼ねるけれど、実際のところ多くの日本人が英語をペラペラと話すわけではないので、まあ日本人は英語ができないということを真であるとしようと思う。

 日本人が英語をあまり話せない理由は「受験勉強に偏った英語教育が悪いから」という教育「方法」を批判するものと「中高6年英語を習うといっても週2,3コマだけなわけだから絶対的に勉強時間が不足している」という勉強「時間」を批判するも、それから「日本語の言語構造は英語のそれに大きく異なっている上に、発話の際もちいる音域も異なっている」という日本人の「能力」を指摘するものの3つに大別されると思う。

 どれもある程度は正しいのだろう。だけど、英語を自由に話す日本人も掃いて捨てるほどいるわけで、その気になっても日本人は英語を話せないというわけではない。つまり、日本の教育政策上「英語を操れるようにする」ということがそんなに優先されて来なかったというのは一つの結論として正しいと思う。何が原因かに関係なく改善の余地はいくらでもあり、どこをどのように直せば良いのかは実際に何度も繰り返し指摘されてきた。
 政府が改善を行わなかった理由は「コストが掛って面倒だった」か「やりたくなかった」のどちらかしかない。そしてちょっと怖い話だけど、やりたくなかったのだろうというか国民が自由に英語を操ると困るのだろうという「陰謀説」が時々語られる。

 最近グーグル八分にされているという藤沢数希さんのブログ「金融日記」の記事がこの陰謀論の話でした。

 文部省は日本人の英語不能化政策の解除をしてみてはどうだろうか?

 この記事のほとんど全部を引用すると、
(以下引用)___________

その点、独裁制の政治と言うのは非常に分かりやすい。
北朝鮮の権力者は学校教育や新聞やテレビを使って毎日国民を洗脳しています。
外から見れば明明白白なのですが、一部の権力者は国民を支配して搾取するためにこのようなことをしているわけです。
旧東ドイツの官僚は豊かな西側に逃げ出そうとする国民を縛り続けて支配するためにベルリンの壁を作りました。
大日本帝国では軍のエリートが「天皇陛下のために死ぬことは尊いこと」と国民を洗脳して、無実の若者を人間ミサイルにしたりやりたい放題でした。
独裁政治では、権力者が国民を洗脳したり暴力で強制したりしていかに都合よく支配するかと言うその一点において全く曇りがない。
本当に分かりやすい。

さて、前置きは長くなりましたが、僕はそろそろ文部省は日本人の英語無能化政策を解除する時ではないかと思っています。
支配する側の人間から見ると英語教育と言うのはやっかいなものです。
もし国民が自由に英語を喋れるようなったら世界最高税率の所得税や法人税を逃れるために優秀な日本人や日本の企業がどんどん海外に流出してしまうかもしれないからです。
さりとて欧米の技術を取り入れて国を発展させるためには国民に英語教育をせざるを得ないわけです。
日本の支配者は国民を縛りつけながら、且つ海外からの情報をどんどん収集したかったのです。

そこで、日本の優秀な官僚はこのふたつの相反する要求を満たすために世界にも例のない非常にすぐれた英語の教育システムを作り出したのです。

英文を日本語に機械的に置き換える非常に特殊な技巧を英語の義務教育の中心に添えました。
このような訓練を中学生の若い脳にくり返しくり返し強制することにより、見事に国民の英語のコミュニケーション能力を不能化することに成功したのです。
いちいち英語を前に行ったり後ろに行ったりしながら日本語に置き換えるために、この方法を教育された人は全く英語が話せなくなってしまうのです。
これは日本国の支配者にとっては非常に素晴らしいことでした。
英語のコミュニケーションができなくなるので日本人が海外に逃亡することを暴力を使わずに防ぐことができたからです。

そしてこの英語教育のすごいところは日本人は英語でコミュニケーションをとることができなくなるのに、英語の学術論文などは理解できるようになることです。

日本の官僚は日本人の英語のコミュニケーション能力を不能化させながらも、膨大な英語文献へのアクセスを可能としたのです。

この英語教育は戦後の日本の高度経済成長のカナメになりました。
世界中から英語の情報が日本に入ってくるのに、日本人は英語を読むことはできてもしゃべったり書いたりすることができないので、日本から海外へ情報が流出することがほとんど起きなかったのです。
この一方通行の情報の流れが戦後の日本の急速な工業化を可能にしたのです。

___________(引用終わり)

 陰謀説を裏付ける信頼性の高い資料があるのかどうかとか、そういったことを僕は何も知らないので、この話が本当か嘘かは断言できない。でも流れとしてはそれなりに筋が通っていなくも無いように思うし、陰謀論ではない別の視点から論じた物でやはり結論が「会話は別にいいから読み書きを重視」となっているものをいくつか読んだことがある。

 考えてみれば、日本人が「読めるけれど話せない」言葉は英語が最初ではない。僕達は「漢文」という「中国語の文章をなんとか日本語に読み下す方法。でも中国語ではないし日本語でもない」というちょっと良く分からない謎のジャンルを持っている。そして平仮名カタカナの発明以後ですら長い間「公式な」文章は漢文で書かれていた。日本語が書き言葉と話言葉を持つのは漢文の影響が大きいと思うけれど、この二つが(一応)統合されたのは明治時代、坪内逍遥の登場を待たねばならなかった。
 自国の言葉をそのまま書き下す文字を発明したのに、尚何百年も漢文に拘ったのは病的だと思う。平安のアバンギャルド歌人藤原定家ですら日記は漢文で付けている(お陰で僕は彼の明月記を読むことができない)。紀貫之のことを僕達は子供の頃に「男なのに女の振りをして平仮名で書いた」と習うので、なんだか変な人のように思い勝ちだけど、普通に考えてみれば平仮名で書くのは当たり前の感覚で、わざわざ漢文を使っている人の方が異常だったと思う。

 僕はこの漢文という謎の言語が「国家の陰謀」で作られたとは到底思えないし、そういうことを言う人もいないと思う。漢文は「中国語をまるまる勉強するのは大変だけど、なんかこうやったら意外と読めちゃう裏技」として発明され普及した筈だ。なぜなら当時日本から中国へ渡るのは命がけだったから、中国語ができるようになったから中国に住もうなんて簡単に考える人はいなかったと思う。

 そして、このときの「中国語がとりあえず読めちゃう裏技」と同じノリで作られたのが日本の英語教育法のベースであって、僕にはもともとそこには悪意なんて無かったと思うのです。そしてこれが長々と改善されなかったのも、漢文を長々と使い続けたのと同じで、なんとなく変えられない日本人の気質なのではないかと思う。

 実際に一部の英語教育者は先進的な方法で英語を生徒に教えて居て、たとえば僕の高校3年のときの英語の先生は無茶苦茶だった。一応進学校を謳った高校なのに「文法とか間違っててもいいからぱっと思ったことをバーと兎に角書いて喋って」といった感じで、家はカギを掛けなくて外人とか猫が勝手に出入りしているという変わった年配の先生だったから雑談も面白かったし、僕達は「面白いけれどこんなことでいいのだろうか」と思いながら机に座っていた。今から思えばい授業だったと思う。
 他にも英会話学校だって山ほどあるし、実用的な英語を教えている人はいくらでもいて、でもその人たちに何かの制裁が加えられているようには見えない。だから、政府の陰謀というのではなくて、単に漢文のときと同じように日本人は日本人らしくやっているだけなのではないだろうか。もちろん陰謀に見えないような陰謀かもしれないし、結局のところは資料がないと何も語れないけれど。

i.

2009-07-07 18:23:03 | Weblog
 基本的に僕が好きな物語の形式というのは大体決まっている。それはとてもシンプルだ。特技を持つ人々で構成された集団が何かを解決するもの。メンバーの全員が特技を持っていなくてもいいけれど、半分くらいは特技があって欲しい。僕は子供のときからずっとこの形式を好んできた。
「ズッコケ三人組」
「マガーク少年探偵団」
「グーニーズ」
「僕らの七日間戦争」
「ガンバの冒険」
 そういった話。ピンチが訪れると、そのピンチに対応した特技を持つメンバーがそれを解決する。
 大人になってから体験した物語では村上龍の「半島を出よ」が強烈だった(この小説は本当に強烈だった)。福岡が北朝鮮に占拠されて日本政府が何もできないでいるところを、社会的はみ出し者の少年達が特技を駆使して戦う圧倒的な情報量とイマジネーションを駆使して書かれた物語。
 どういうわけか、これらの物語は僕の中で全て夏とリンクされている。

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 暫く前に数年ぶりでばったり再会した友人に、先日またばったり会いました。彼は恋人と一緒にバイク屋の店頭でお店の人の話を聞いていて、僕はその後ろを自転車で通りかかり背中をポンと叩いた。
 その昔、まだブログというものが無かった頃、僕はメールマガジンなるものを発行していて、そのとき彼も記事を書いていたのだけど、一回目の内容が「僕は自己紹介が嫌いです。物は言いようだし、言っても表せないし。」というようなもので、当時はまあそれは僕も分かるけれど、という程度だったのが、このごろは深く同意する。これが好きで、あれが嫌いで。私ってこういう人間です。
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 名古屋の友達(本当は愛知の名古屋じゃない所に住んでいるみたいだけど)が、作ったミニコミを送ってくれた。次回は良ければ何か寄稿してくれてもいい、ということだったので、僕は「最近感じ良い感じで書くのやめて、ちょっと凶暴化してきた感じだから、僕の書いたものはもう好きじゃないと思う」というような返事としたところ。「それは近頃のブログを見てて思ってた」とのこと。
 これまで、僕は中立で控えめで温度が低くて、といったスタンスを取り勝ちだった。もちろん、それは僕の中にそういった要素が多々あるからだ。だけど、これも当然のようにそうではない要素もたくさん存在する。それらを最低限しか見せないようにしていたのは、配慮でもあり恥じらいでもあり媚でもあった。つまりは茶番ということだ。
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 茶番をたくさん演じて来て、それはそれでいい、と思っていたことに飽きてしまいました。茶番がもう本当にそこら中にあって。僕が演じている物も他の人が演じている物も。少なくとも僕に関して茶番はもうやめにします。
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 マウスというのは実に画期的な発明だったと思う。コンピュータのインタフェースとしての機能、既存のものからのアナロジーではないユニークさ。だけど、マウスを使うことに苦痛を覚えている人は結構多いと思う。実は僕はマウスの存在意義が分からないというか、大多数のPCユーザがマウスを当然のように使っている現状が理解できない。文字を打ち込んだ後にカーソルを動かすためにキーボードからマウスへ手を移動させるのって面倒ですよね。thinkpad のトラックポインタみたいにキーボードから手を離さなくても作業できる環境がデフォルトになってもおかしくはないと思う。illustrator やphotoshop で作業するとき以外にそこまでの精度でカーソルをコントロールする必要はないし、それに画像を加工する場合はワコムタブレットみたいなものを使った方が便利だろうから、どちらにしても普通のマウスの出番はもう無いように思います。

 thinkpad usbキーボード

 

ene.

2009-07-01 13:53:34 | Weblog
 全然意識をしていなかったけれど、前々回の記事に、4年前のたぶん第一回目鴨川パーティーの日記をなんとなく貼り付けて、それで前回の記事には7月20日に鴨川でパーティーをすることになったと書いていますね。面白い偶然。

 これは高校生くらいのときに友達と電車の中で話をしていて、それからも何度か話題には上ったことなのだけど、「もしも僕達が勝手に国会を作って、そこでの政策や法案を全部ネットやテレビで発表し、その政策に対する支持の方が実際の国会に対する支持よりも大きくなったとき一体何が起こるのだろう」(テレビの太田総理みたいですね。あと橋本大阪府知事らの作ろうとしているものは結構これに近いのかもしれないなと思う)。

 たとえばニセ国会で道路交通法を改正して高速道路の制限速度を撤廃したとして、それに賛同する国民が高速道路を飛ばし回り、捕まっても罰金の支払いを拒否、なんていうのが年間に5000万件くらい起こったらどうなるんだろうか(これは事故が多発しそうなので良い例ではないですね)。
 支払いを拒否して逮捕されて投獄されても、世間の人々が「あの理不尽な時速制限のせいで牢屋に入ってたなんてかわいそうだ」と同情はするものの、もう犯罪者呼ばわりはされない。

 まったく実行力の無い子供だったので空想するだけに終わったけれど、中学生のときは制服が嫌で、もしも生徒の70パーセントくらいが結託して毎日私服で登校して教師の注意を完全に無視したら何が起きるのだろうと思っていた。

 こういうのはクーデターと呼ばれる。

 最近、言論の弾圧ってやっぱり世界中で激しいし、日本も同じだなあと思っていたところ、『金融日記』( http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/ )というブログの中で「このブログがどうやらグーグル八分にされている」という記述があった。これを情報統制だというのは短絡的だけど。

 ちなみに『金融日記』で紹介されていた、幸福の科学を母体とする幸福実現党のマニュフェストが結構面白いです(ユーラシア大陸1周リニアモーターカーとか)。http://www.hr-party.jp/about/pdf/main2.pdf

 2009年6月30日火曜日
 Oが兵役の為暫くトルコに戻るので、研究室で朝から荷物を整理している。彼は海外で研究生活を送っているということで2週間程の短い兵役。集められた全員が軍事トレーニングをするのではなく、中には掃除とか庭の手入れとかをするだけの人もいるようで、兵役といってもそれほど大変ではなさそうさけど、先々週くらいに「蚊を殺そうとしたら壁にぶつけて靭帯を損傷した」親指で兵役は務まるのだろうか。兵役の話をしていると、フランス人のMは「フランスでは1日、応急手当とかだけ」と言い、フィンランド人のPは「僕は半年みっちり受けた。-20度の森の中で2週間過ごしたり、それはそれは素敵な訓練だった」と言った。僕は自衛隊に何人か友達がいたので、軍事訓練についての話は結構聞いたけれど本当に大変そうだと思う。
 昼過ぎにOを見送りながら、10月には本当に彼はトルコに帰るので、その別離のリハーサルみたいな気分になって、思っていたよりずっと寂しい気分になる。研究室に2人だけでほぼ毎日3年間も一緒にいたし、かなり気の合う友達だから当然のことだ。もちろんそう遠くはない未来に学会だとかあるいはノーベル賞の授賞式や結婚式で再会するだろうけれど。

 お昼ご飯は一人でさっと済ませたかったので、一人で食堂へ行き冷麺などを食べる。結局は食べ終えた後にSに会って、久しぶりにしばらく話す。研究室に戻るとKとMがちょっとというのでまた食堂へ行って、ジュースを飲んで少し話す。

 夜中12時半くらいにTがサクランボを今から届けてくれるというので、はるばる研究室まで持ってきてもらって、1時間くらい話をする。サクランボは3時くらいにYと全部食べてしまった。とても甘くておいしい。

 2009年7月1日水曜日
 目が覚めた。