京都から東京、2月、バイク、引っ越し and all: day 1

2015-09-05 00:23:12 | 東京日記
 2015年2月8日、天気予報は今季最強の寒波がやってくると言い、僕はバイクで京都を後にした。
 半年前のこの小さなバイクの旅、あるいは引っ越しのことを忘れてしまわないうちに書いておきたいと思う。とは言っても大体は既に忘れていて、さらにTシャツと短パンの季節から振り返れば凍えて死にそうだった行程全てが嘘だったような気分にすらなる。あの日は本当に寒くて、Tシャツと短パンの季節がこの国にあるなんてやっぱり嘘にしか思えなかった。

 京都から東京へ引っ越すことが決まったとき、同時にバイクで移動することも決めていた。普通自動車免許しか持っていない僕のバイクは、何年か倉庫で埋もれていたという96年のYB-1で、友達のお父さんにたったの1万円で譲ってもらったものだ。実家に乗って行った時、バイクを見た僕の母親は「これ動くの?大丈夫?」と怪訝な顔をしていたが、わずかなオーバーホールで既に1年以上極めて安定的に動いている。一通り全体を触ったのと、片道1時間近くかけて山の中まで通っていたこともあり、僕とバイクの間にはそれなりの一体感もあった。それに以前は78年の6Vモンキーに騙し騙し乗っていたので(いつもどこかを修理していた)、それに比べればYB-1の信頼感は圧倒的だった。

 ただ、バイクで移動しようと思ったのは引っ越しが春になると思っていたからで、色々なことがバタバタと繰り上がり引っ越しが2月になったときは少し考え直した。2月というのは日本で一番寒い時期で、そんな中50ccのバイクで京都から東京まで移動するのはどう考えても苦痛だ。大体雪が積もったり地面が凍ったらアウトじゃないか。しかし此の期に及んで引っ越しのトラックでバイクを送るというのはあまりにも味気なく、何かあったらその場からバイクを送るでもなんでもできると、結局はバイクで移動することにした。

 春のうららかなツーリングから厳寒の2月へ変更になったのは予定外ではあったがこれはまだマシなことだった。
 もう一つの予定変更は結構シリアスで、不動産会社や引っ越し屋の都合で僕は東京までたった1泊で行くことになったのだ。出発直前までは2泊を予定していた。道のりとして京都から東京まではざっと500キロある。平均時速50キロで移動できれば10時間で済むが、あいにく僕のは50ccのバイクで、法定速度のことはいいとしても、信号やなんだかんだ考えると平均時速50キロで移動することは難しい。平均して50キロで移動するためにはもっと早いマシンが必要だ。たぶん15時間は絶対に掛かるだろうと思った。
 さらに一泊というと丸2日間というイメージがあるけれど、今回の一泊というのはそういうことではなく、1日目の出発は京都で引っ越し業者に荷物を渡したりした後の昼下がり(結局友達と喋ってて夕方5時半に。。。)で、2日目は不動産屋の営業時間内夜8時までの実質26時間半しかなかった。6時間半眠って残り20時間。そこにシャワーや寝る支度、起きてからの身支度を2時間とって残り18時間。15時間が本当にバイクに乗っている時間だとしたら休憩に使えるのは3時間で、まあトラブルが起きて途中で修理などしなくてはならないようなことになったらお終いなプランだった。

 引っ越しが終わって、シェアメイト達にお別れを言い、タンクとリアにネットで無理矢理荷物を括り付けたバイクで家を後にしたのはすでに夕方に差し掛かる4時だった。その後、まっすぐ滋賀県へ向かわず岡崎にある友人の家へお別れを言いに行った。彼とはいつもついつい長話になるのだが、この日も一言の予定がパンとコーヒーで1時間以上話し込む。朝から慌ただしくて、僕はまだこの日朝から何も食べていなかったのでこれはとても助かったし、このあと厳寒の中5時間以上バイクで走ることを思えばカロリーの摂取は必要なことだった。
 さらに彼はどうみても高価で高性能な手袋を「北極で水に手を突っ込んでも大丈夫なやつ」と言いながらくれた。この手袋は肘まであって、まあここまで大袈裟なのは要らないだろうと思っていたのだけど、数時間後にこの手袋の有り難みが寒さと共に骨身に染みることとなった。これがなければ今回の小旅行は無理だった。

 さて、本当に京都とお別れだ。
 5時を過ぎて夕方はいよいよ夕方らしくなっている。今日の目的地は愛知県の蒲郡。予約してあるホテルに遅くても11時には着く予定だった。もう何年も何度も通っている白川通からインクラインを抜けて山科、滋賀へとバイクを走らせた。この道をもう戻って来ないのだと思うと少し寂しい。
 僕は京都市内に19歳から36歳まで17年間も住んでいて、いわゆる「若者」時代の全てが京都市近郊にあった。大津にも琵琶湖にも楽しい思い出や悲しい思い出がたくさんあって、それらを思い出すと感傷的にはなるが離れることは清々しくもあった。少しだけ降ってきたこの雨を遣らずの雨だと呼んでもいいだろうか。そのような感傷に浸る余裕があったのも、知らない角を曲がって知らない道に入り、それが山の奥へと進むまでのことだった。地図を見るとよく分かるのだけど、滋賀県の大津辺りから三重県の四日市に抜けるには山岳地帯を越えなくてはならない。普通は高速道路でスイスイと文字通りバイパスするわけだが、50ccのバイクでは高速道路には乗れないので山の中をひた走るしかない。冬の日没は早くすっかり完璧に日は落ちていた。暗く寒い峠道を走る車はほとんどない。雨の暗闇を走っているのは僕だけであまりいい持ちはしない。
 そういえば、さっき友達の家で「関東から自転車で京都まで来た人が、三重から滋賀に抜ける峠が本当に寂しいって言ってた」というようなことを聞いた。峠には家も店もそしてガソリンスタンドもなかった。ガソリン満タンにしてくれば良かったな。このバイクは古いバイクなのでガソリンメーターが付いていない。メーターの付いていないバイクは大抵予備タンクが付いていて、普通に走っていてガス欠になったら予備に切り替える。たとえば僕のバイクは全部で7リットルのガソリンが入るのだけど、そのうち5リットルが通常走行用で、残り2リットルが予備だ。ガソリンタンクからキャブレターへの途中にあるコックを「ノーマル」にしておくと、残りが2リットルになった時点でガス欠になる。そこですかさずコックを「予備」に切り替えて残りの2リットルでガソリンスタンドへ向かうという段取りになっていて、2リットルあれば7、80キロは走れるから普通なら困ることはない。
 ところが、あいにくコックが壊れていて僕のはずっと「予備」になったままだ。つまり、5リットル使った時点での警告的なガス欠はなく、7リットル全部使ってしまって本当にタンクがスッカラカンになるまでガス欠にはならない。もちろんそれは正真正銘のガス欠であり、そうなればバイクはもう1メートルも動かない。こんな寂しい峠でそれは絶対に御免こうむりたい。たしか蒲郡まで走れるくらいガソリンはあったと思うのだけど、こんなに登りばかりだと少し不安になる。

 と思っていたら、なんとエンジンが止まった。路肩に寄せて、バイクを揺らしてタンクの音を聞いてみる。まだジャブジャブいっているのでガソリンはある。
 キック。
 掛からない。
 キック。キック。キック。
 掛からない。ガソリンがあって掛からないということは故障してしまったのだろうか。
 もちろん一通りの工具は持っているし、部品もタイヤチューブの他にスパークプラグ位は持っている。が、時間も体力も奪われるし面倒だし寒いし暗いし雨だし、こんなところで故障というのは絶対に嫌だった。
 悪い予感で一杯になりながらの押し掛け。
 掛からない。。。
 悲惨な気分になりながら、坂のきつい場所に移動しての押し掛け。
 掛からない。
 祈るような気持ちで、もっと加速付けて押し掛け。
 ブー、、、ボン、ボンっ、ボボボボ。
 掛かった。助かった。。

 エンジンが掛かると、バイクは何事もなかったかのように走り出した。ちなみに、この後は一度もバイクに不調はなく。半年経った今日に至るまで全く快調に動いている。どうしてあの時止まってしまったのかは分からない。
 峠を抜けてもしばらくはガソリンスタンドがなく、最初に目に付いたスタンドまで平坦な道を何分走っただろうか。スタンドの明かりが見えてほっとする。バイクの調子が悪いかもしれないし、そうであればエンジンを止めるのは怖いがそうも言っていられないので給油することにした。冬の雨の日に荷物満載のバイクへ給油するのは本当に面倒だ。バイクを止めて、手袋を外し、カッパの下の防寒のツナギの下から財布を引っ張り出し、ネットを外してタンクの上の荷物を一旦下ろして、それからようやく通常の給油手順をはじめることができる。何もかもが濡れて冷たくて不快だ。
 ガソリンは3リットルも入らなかった。「こんなちょっとの給油ですみませんね。峠でなんとなくガス欠が不安になって思わず寄っちゃいました」僕は多少ほっとしたのもあってアルバイトの店員にそう言った。「そうでしょ、あの辺全然なんにもないですし」

 給油後、エンジンはキック一発で掛かり、一旦冷えてしまうと掛からなくなるかもしれないというのは杞憂になってくれた。オッケー、エンジンは快調みたいだし、ガソリンは正真正銘の満タンで、そして峠は終わった。あとは都市とはいかなくても田舎町とか市街地とか、いわゆる国道沿いを走るだけだ。
 山の向こうとこちらで気候が違うのか、それとも夜が深まりつつあるせいか、スタンドを出て20分ほど走ると急激に寒さが浸透してきた。それまでは「寒いなー、まったく」という感じだったのだが、ここへ来ては「これは真剣に考えないと良くない気がする」というシリアスな寒さに変化していた。相変わらず雨も降っていたので、僕は国道から左折して田圃の先に見えるアパートのピロティへ一旦避難することにした。荷物の中から予備の服を取り出して着れそうなものは全部無理矢理着込む。それからカバンの中を引っ掻き回すとホッカイロが3つ入っていたので、3つとも全部お腹の辺りに貼り付けた。峠を越えてから全然お店の類を見ていないが、次にコンビニとかドラッグストアとか何かがあったら絶対にカイロを買おう。引っ掻き回した荷物を再び整理して、それからカッパを着て、防寒用のフェイスマスクを付けて、僕はまた雨の国道へ向かった。

 ドラッグストアが見つかるまで、そんなに距離はなかったのだが、ドラッグストアに辿り着くと同時に雨が雪へと変わった。なんというか、「そうか、そうなるんだ」というような意味のない感想しか持てず、バイクを止めてカッパを脱ぎ、庇の下から僕はしばらく雪を眺めていた。積もったり地面が凍結したらお終いだ。店内に入ると、当たり前だけどそこは普通のどこにでもあるドラッグストアだった。ちょっと広くて、薬の他にお菓子とか食べ物とか、洗剤とかゴミ袋とか化粧品とかシャンプーが売られていて、蛍光灯が明るく隅々まで照らし、お得だという何かの情報やチェーン店独自のヘンテコな歌が流れていて、何人かの買い物客が日常的な買い物をしていて、パートナー社員という良くわからない肩書きと苗字を書いたバッジを白衣に付けた店員がその相手をしている。そして暖かい。
 体の芯が冷たくて、店内の暖かい空気がはっきりとしたエネルギーの流れとして入ってくる。カロリーが必要だ。僕は貼るカイロを10個、それから靴の中に入れるカイロを10個の他にチョコバー2本とホットココアを買って食べた。カイロをウェアの下に貼り、ブーツの中にカイロを入れる。ブーツの中はすでに濡れていて不快だ。快適さという観点からして、今はどこにもポイントを稼げるところがなかった。寒さも雨も雪も暗さも重苦しい服もブーツもメットも全てが不快だった。

 とりあえず体が温まり、ある程度のカロリーも摂取したので、ついでにトイレを済ませてからドラッグストアを後にする。すでに濡れているカッパを着ると不快さは一層強まり、シールドに張り付く雪もさらに不快だった。道路に落ちた雪はすぐに溶けていき、今ならまだ走れる。とりあえず先を急ごう。腹部に貼り付けたカイロは低温火傷でもしそうなくらいに暑かったが、ブーツの中のカイロは湿気ですぐにダメになったのかほとんど何の役にも立っていなかった。しばらくして雪が止んでくれたのは幸いだった。いつ上がったのか忘れてしまったけれど、四日市に入るまでには上がっていたはずだ。四日市に差し掛かって、夜の工業地帯に見とれそうになっていたときは雪はすでに上がっていた。
 この後は蒲郡まで一度コンビニで休憩を挟んで国道を走るだけだった。ホテルに着いたのは11時半くらいで、僕は部屋に入ってすぐにシャワーを浴びた。この日一番幸せだった瞬間は暖かいお湯を浴びたこの瞬間かもしれない。そのあと、近所のコンビニで買った唐揚げとか焼きそばパンとかとにかく脂っこいものを大量に食べ、そして普段は絶対に見ないどうでもいいバラエティ番組でタレントがベビー用品店に行ったりするのを眺めて、どうにかカッパやブーツの手入れをしてから眠った。多分1時くらいに眠りに落ちたのではないかと思う。そうして寒い夜は終わった。

 (その2へ続く)

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