書評『転校生とブラックジャック』:私があの人ではなく私であるという不可思議

2012-02-14 01:45:21 | 書評
 今まで2冊しか本を読んだことがないのですが、それでも一番好きな哲学者だと断言している永井均さんの本を久々に読んでいます。「転校生とブラック・ジャック」という本で、副題が「独在性をめぐるセミナー」と書かれている通り、先生と生徒たちが語り合うという平易な形式で書かれた本ですが、非常に考えることが多くてなかなか読み進めることができません。でも、まあ少しづつ進めていこうと思う。
 先に、永井さんが好きだと書きましたが、好きだというよりは、こういう人がいてくれて本当に良かったなと思っています。なぜなら、たった2冊しか読んでいないのにこういうことを書いて良いのか分かりませんが、僕の印象では永井さんが子供の時から取り組んでいらっしゃる問題というのは、僕が子供ときから考えている事と、かなり似ているからです。それが、副題にも書かれている「独在性」というものです。あと、これも独在性に含めてよいのかもしれませんが、「記憶」。

 独在性というのは「自分が、あの人ではなく、自分であること」なのですが、僕はこれが昔から不思議で、考えてもなんだか良く分からなくて、ただ途中から「うーん」と唸って終わる、ということを何度も繰り返してきました。
 それは哲学的な素養や、徹底した思考の足りない僕の限界で、そこから先へ進むには永井さんのような先人が必要でした。だから本当に永井さんの存在をありがたく思います。

 自分が自分であることは、当たり前のようでいて当たり前ではないように思います。
 僕は「僕」であり、「今」「ここ」から「僕」を中心に開いた世界を見ていますが、僕が「あの人」であり、「あの時」「あの場所」から「あの人」を中心に開いた世界を見ていた可能性だってあったはずです。
 僕の代わりに、僕として、全く同じ両親から、全く同じタイミングで生まれて、全く同じ遺伝子を持っていて、全く同じ出来事を生きて来て、全く同じ記憶を持ち、全く同じ性格を持っている、「しかし僕ではない」僕という存在だって在り得たはずです。

 ただ、端的にそういうことは起こらず、僕は今ここに僕として存在し、僕から開けた世界を見ています。それが、「以前」からそうであり、「以後」もそうであるのかは分かりませんが「今」はそういうことになっています。
 もしかしたら、さっきまで僕はあの人だったかもしれません。

 なんというか、ときどき映画やなんかで「体が入れ替わる」話ってありますよね。
 あれで、入れ替わるのが体だけでなく「記憶(あるいは性格なども含めて)」も入れ替わるとしたらどうでしょうか。
 体が入れ替わっただけなら、本人達は入れ替わったことに気付きますが、「記憶」まで一緒に入れ替わったら、本人達は入れ替わったことに気付くのでしょうか。たぶん気付かないですよね。それどころか、他の人達から見ても、彼らが入れ替わったなんて思う人は一人もいないに違いありません。
 「うん、それはだって、外側も内側も全部入れ替わるのなら、それは入れ替わりじゃないじゃん」という人もいると思います。
 だけど、断じてここでは入れ替わりは発生しているわけです。
 なぜなら、先ほどまで、それぞれの世界はそれぞれから開かれていて、その視座は移動していないからです。この視座は記憶のことではありません。もしも記憶が変更されたり消されてしまっても、その人がそこから世界を見ているという視座は変化しません。この視座というものの本質が何なのかというのが独在性のポイントでもあると思います。

 話がややこしいので、もう一度同じようなことを書きますが、僕達は多分他の人と「体」「記憶」を共に交換しても気付かないでしょう。だから、僕には僕がずっと本当に僕であって、さっきまであの人であったわけではない、という確信があまりないのです。
 あまりない、とは言っても、普段は確信して日常生活を送っていますが、もちろん。

 「記憶」については次回書きたいと思います。

転校生とブラックジャック――独在性をめぐるセミナー (岩波現代文庫)
永井均
岩波書店


翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない (ちくま学芸文庫)
クリエーター情報なし
筑摩書房

書評『暇と退屈の倫理学』國分功一郎:環世界を誤解していたこと

2012-01-21 02:02:17 | 書評
 「暇と退屈の倫理学」という國分功一郎さんの本を、去年の暮れに友達が貸してくれて、面白く読みました。
 その本の途中に「環世界」の話が出てきます。
 文脈としては、ハイデッカーの退屈論は「人間は環世界を持たない(閉じ込められていない)」ことに依存しているが、それは間違っている、人は環世界を持っている、ただ、ある環世界から他の環世界への移動能力が高いのだ、故にハイデッカーの退屈論はこう批判される、という感じだったと思います。

 ここで、僕は「環世界」という言葉の取り扱いに悩まされました。

 「環世界」という言葉は元々知っていて、馴染みのあるものだったのですが、どうやら僕はこの言葉を誤解していたようなのです。
 この言葉は、それぞれの生き物が世界(周囲の環境)を認識するときの、それぞれ固有の認識の仕方(世界観の組み立て方)を表しています。最初に環世界という言葉を使い出したのはユクスキュルというドイツ人の生物学者で、彼は例としてある種のダニを取り上げます。

 そのダニは、じっと木の枝なんかにぶら下がっていて、それで人やイヌなんかの動物が下を通りかかると落ちて取り付いて、そして吸血するわけです。枝で待って、落ちて、吸血。至ってシンプルに。
 ところが、これを「ダニが枝から人に落ちて血を吸った」と表現するのは、あくまで人間のすることであって、ダニ本人にとってはそういうことは起こっていない。
 なぜなら、そのダニには目も耳もないからだ。
 ただ、ダニは嗅覚と温度感覚、触覚だけを持っている。
 したがって、僕達が「視覚」を頼りに創り上げた「空間」も「木」も「人」も「イヌ」も、そういうものは何にもダニの世界にはない。ダニは枝にしがみついているとか、人の上に落ちたとか、そういうことを一切「思わない」し「思えない」。
 彼らはただ「臭がしたので手を離し」「皮膚の温度を感じたので血を吸う」だけだ。
 彼らはそういう世界を生きている。僕達には想像すらできないような世界を。

 それをダニの「環世界」というのだ、と長らく思っていたのだけど、どうやら僕の勘違いかもしれません。

 僕がはじめて環世界という言葉を聞いたのは、たぶん日高敏隆さんの本の中でだと思います。
 日高さんは日本の動物行動学の草分け的な方で、ユクスキュルが環世界を紹介した『生物から見た世界』の翻訳もされていますし、本もたくさん書かれました。
 僕が一番良く覚えているのは、「モンシロチョウはどうやってオスメスを見分けているのか」という話です。
 当時、モンシロチョウも昆虫だし、まあ雌雄はフェロモンで見分けてるんでしょ、みたいな感じで理解されていたらしいのですが、日高さんの観察によれば「それにしてはかなり遠くからでも見分けてるけどなあ?」ということでした。
 そこで、日高さんはモンシロチョウの雌雄を「紫外線にも感度のある写真」で撮ってみます。
 結果は「メスはそのまま白いけれど、オスは真っ黒」でした。
 真っ黒というのは、つまり紫外線が感光したということで謂わば「紫外線色」です。
 僕たち人間には紫外線は見えませんが、モンシロチョウには紫外線は見えます。
 だから、モンシロチョウが雌雄を見分けるのは、モンシロチョウにとっては明々白々に簡単なことで、オスとメスは色が全然違うわけです。フェロモンも何にも持ち出すまでもなく。
 モンシロチョウは紫外線が構成要素に含まれる「環世界」を生きていて、人間はそうではない。
 チョウと人は全く別の環世界を生きている。

 僕の「環世界」という概念の理解は、チョウの例のように、あくまで「その種固有の知覚器官に依存したもの」でした。  
 紫外線を見るチョウの環世界、超音波で”見る”コウモリの環世界、光のない洞窟の中にだけいる昆虫の世界。
 環世界は種別にあるもので、同種であれば、同等の知覚器官を持つ者同士であれば、環世界は同じだと思っていたのです。

 ところが、『暇と退屈の倫理学』における環世界の取り扱いを読んで見るに、そこでは「宇宙物理学を学ぶ前後」「タバコを吸う前後」などで「環世界は異なる」とされていたのです。
 つまり、持っている知識や置かれている状況によって「環世界は異なる」と。
 
 僕はここで「えっ?そんな勝手な解釈許されるのか?」となってしまい、そのあとは國分さんの主張を恐る恐る読む感じになったのですが、先日読んだある記事に日高さんが「木こりが木を見るのと、女の子が木を見るのでは、同じ木を見ても見え方が違う」みたいな話を書いていらしたので、どうやら環世界をいう言葉はそういうものらしいのです。

 持てる知識、経験、状況なんかで「世界の見え方、感じ方」が変わることは良く解ります。
 どうやら、それも「環世界」だということです。
 僕が勝手に狭義の解釈をしていただけなのですが、なんとなく「知覚依存」と「知識経験依存」を両方一括りで環世界と呼んでいいのかどうか府に落ちません。
 包含関係が、「知覚依存」⊂「知識経験依存」なので、一括りにするのは全く問題ないわけですが、両方を一緒にするのであれば話は「各自が各自で刻一刻と変化するそれぞれの世界を生きている」という、なんともざっくりした当然で扱いに困る帰結だけが導かれるように思います。

 そうか、だからここで國分さんは「環世界移動自由度」というパラメータを導入するのか。

 もしかしたら、本の批判が成立するのではないかという予感と共にこれを書きだしたのですが、逆に納得する形になりました。

暇と退屈の倫理学
國分功一郎
朝日出版社


生物から見た世界 (岩波文庫)
クリエーター情報なし
岩波書店

書評『毎月新聞』佐藤雅彦:ことわざが嫌いなんです

2012-01-15 13:53:52 | 書評
 漢字の成り立ちを説明し、そして何か人生訓のようなことを唱える人がいますが、僕にはまったく意味が分かりません。「人」という字は二本の棒が支え合うことでできている、人というのは支え合って生きていくのだ、みたいなやつです。
 そもそも、人という漢字の源は左向に立っている人間を表したものだといわれていて、この例ではハナッから話になっていないのですが、もしも本当にそうだとしても、漢字の成り立ちがそうだからって、だから何?という風にしか僕には思えません。

 という話を友達にしていて、ついでに「ことわざも嫌い」ということを説明すると、やけに納得してもらえたので、ことわざの悪口を書こうと思います。
 実は同じ事を昔書いたことがあるのですが、改めて。

 ことわざ嫌い、の発端は佐藤雅彦さんの「毎月新聞」という本です。
 毎月新聞という本は、月に一度の連載エッセイを集めたような本だったと思いますが、その中に「じゃないですか禁止令」というタイトルの文章がありました。
 じゃないですか、というのは「イチゴっておいしいじゃないですか~」とか「今日って寒いじゃないですか~」とか「これって重たいじゃないですか~」の「じゃないですか~」です。
 イチゴが好きなんだったらイチゴが好きだと言えばいいのに、イチゴが好きであることが相手にとっても人々一般にとっても当然であるかのように「じゃないですか~」と言うのが気に食わない、というわけです。
 寒いから外に出たくないなら、「寒いので私は外に出たくない」ということを表現するべきなのに、「寒いから誰だって外に出たくないですよね、あなただってそうですよね、だから私外に出ないですけれど、当然のことですよね」という風に誤魔化した表現として「寒いじゃないですか~」になっているわけです。

 当時、僕はこれを読んで、なるほどなと思いました。
 嫌なら嫌だと言えばいいのに、「それって結構嫌じゃないですか~」みたいに言われたら、確かに少しカチンと来るかもしれない。「自分を出発点として」自分がそう思う。ではなく、「世間を出発点として」それが当然なのだから自分は当然そう思うのが当然、みたいに責任の所在をぼやかして「世間」に拡散させてしまう巧妙な表現手段。

 なるほどな、と思いながら、良く似たものが他にもあることに思い至った。
 それが「ことわざ」です。
 ことわざというのは別に真理でも経験則でも先人の知恵でもなんでもなく、ただの「責任曖昧化装置」です。

 たとえば、早川君という友人がいたとして、早川君が転職の相談を持ちかけてきたとします。
 話を聞く限り、さっさと転職すればいいように思えたとします。
 僕は言います「そっか、じゃあ早く転職しちゃえばいいと思うよ」。
 これだけならば良いのですが、なんだか心がモヤモヤするので、次の言葉を付け加えてしまうかもしれません。
 「ほら、善は急げって言うじゃん」

 最後の「ことわざ」が何の為に付け加えられたのかというと、それは一つには自分の発言を「ことわざ」という権威で強化する為ですが、残念ながら事はそれに留まりません。ここでは、巧妙に「急げ」という自分の意見を、それが自分一人の意見ではなく、さも「誰に聞いたってそう答えるに決まっている、これは間違っていたとしても自分の間違いではなく世間の誰でも間違うこと、そういう当然の意見」という体を装っているのです。責任の所在を拡散させているわけです。

 もともと、ことわざというのは沢山用意されていて、僕達は「善は急げ」の代わりに「急いては事を仕損じる」とか「石の上にも3年」とか「石橋は叩いて渡れ」などの「転職、ちょっと考えなおしたら」に属するであろうことわざを選ぶことだってできたのです。
 つまり、「転職、それ考えなおしたら、石の上にも3年っていうじゃん」と言うことだってできたのです。その場合、どうしてそういうことを言ったのかというと、「自分がちょっとそれは早急に思うと感じた」からです。意見の起こりには「ことわざの介入なんてありません」。つまり、ことわざは「ことわざ故になんとか」ではなく、常に事後的に「後付として」使われているだけなのです。それも、責任曖昧化装置として。
 だから、僕はことわざを真剣な会話に混ぜてくる人が信用できません。

毎月新聞 (中公文庫)
佐藤雅彦
中央公論新社


三島由紀夫レター教室 (ちくま文庫)
三島由紀夫
筑摩書房

 

書評『フレデリック―ちょっとかわったねずみのはなし』:あるいは芸術について

2012-01-13 14:00:37 | 書評
 (あるいは芸術に絶望した芸術家のために)

 僕はもう32歳だし、それに男だし、世の多くの成人男性がそうであるように「ぬいぐるみ」には特に興味がありません。小さい時にはいつも持ち歩いていたぬいぐるみもありました。今でも見掛けて「かわいいな」とか「よくできてるな」とかチラリと思うことはありますが、まあそれだけのことです。
 ところが、先日街角で次のようなぬいぐるみを見掛けて、なんだか若干グッと来てしまいました。「プレゼント」か「何かの材料にする」でもない限り、ぬいぐるみを買うという選択肢はもうないので、流石に買うことはありませんでしたが、ぬいぐるみを見て「欲しい」と思ったのはとてもとても久しぶりのことです。

フレデリック ぬいぐるみ(M)
クリエーター情報なし
ラムフロム


 このぬいぐるみのキャラクターを、僕は全く知らないわけではなく、頭の片隅に「どこかで見たことがある」という程度の認識は持っていました。どこかで見たことはあるけれど一体なんだか分からない、というのは一番気になることの一つなので、後で検索してみたところ「フレデリック―ちょっとかわったのねずみのはなし」という絵本のキャラクターでした。
 作者は「スイミー」も書いたレオ・レオニ。
 日本語への翻訳は、日本唯一のプロ詩人と言っても過言ではない谷川俊太郎さんです。

 フレデリックはぬいぐるみを見てもわかるように、見た目はどちらかというと「ゆるキャラ」なので、絵本もそういった呑気な話なのだろうと思っていたのですが、全然違いました。

 話は、フレデリックと仲間のネズミたちの話です。
 みんなが冬に備えて一生懸命働くのに、フレデリックは働きません。
 なんか、ずっと寝てるみたいにボーっとしてるわけです。
 そして、「どうして君は働かないのだい?」とか「寝てるの?」とか言ってくる仲間に向かって、

 「違うよ。おひさまを集めてるんだ」とか、
 「色を集めてるんだ」とか、
 「言葉を集めてるんだ」

 などの、良く分からない言葉を返すのです。

 そして、冬がやってきます。
 最初のうち、蓄えた食べ物があったので、ねずみ達は楽しく過ごすのですが、そのうちに蓄えが尽きてきます。もちろん、なんにも働いてないフレデリックもむしゃむしゃと蓄えを食べます。
 有りがちな感じに、このまま食料がなくなった頃に、フレディックが大活躍してみんなの危機を救うのだろうと思っていたら、なんというか、そうも単純ではありませんでした。
 食べ物もなくなりくさったみんなは「そういやなんか訳わからないこと言ってたけど、あれってどうなってるの?」とフレディックに聞きます。

 フレディック応えて曰く、

 「目をつむってごらん」

 えっ。。。

 いや、わかるんだけど。
 フレディックはもうなんかオーラも違うんです。
 仲間のねずみ達はみんないいやつですっかり騙されるというか。
 もしも宜しければ次の動画を見てみてください。とても面白いです。




 物語というのは、別に意見や教訓を引き出すものではありません。
 作者はこの物語でどういうことを言いたいのか、なんて本当にどうでもいいことです。
 ただ僕はこの話がとても好きで、なぜたったの500円なのか、なぜこんなに安いのか全く謎な英語版の本を買いました。

フレデリック―ちょっとかわったのねずみのはなし
クリエーター情報なし
好学社


Frederick
クリエーター情報なし
Dragonfly Books

 
  

書評『暇と退屈の倫理学』國分功一郎:単独で完結する歓喜としての進化

2012-01-03 01:49:48 | 書評
 1811年から17年に掛けて、イギリスでラッダイト運動というものがあったらしい。
 機械に職を奪われることを恐れた労働者達が、機械を破壊するというものだ。テクノロジーの普及が職を奪うというのは現代でも良く聞かれる話だが、こんな運動が200年も前に起こっていたなんて驚くばかりだ。とは言え、イギリスでの産業革命は1760年代から進行(1770年代後半からワットの蒸気機関は実用化)しているので、労働に機械が投入されるようになってから、ラッダイト運動までは半世紀あったことになる。もしも、人が機械にある種の敵意を覚えるのだとしたら、50年というのは十分な時間だったのかもしれない。そして、現代はさらにそのまま200年経過した未来ということになる。
 既に工業化された世界で育った僕達にとって、200年も昔の人達が、当時の「素朴な」機械に労働を奪われると考えたのは、あまりピンと来ることではない。今のテクノロジーを持ってしても、まだまだ機械が人間の代わりをできない労働は山のようにあるからだ。
 でも、そう思うのは何かの「基準」のようなものが、既に僕の中で破壊されているせいなのかもしれない。僕は、基本的には科学少年として育ち、博士課程まで工学部にいたので、当然の如く科学技術が大好きだ。科学が世界を救うとも思っていた。社会には多種多様な問題が存在しているけれど、その大半は、ほとんどはテクノロジーの進歩が解決すると思っていた。労働という側面に限定して言うと、全ての労働は高度なテクノロジーが人間の代わりにするようになり、人はただ毎日楽しんでいればいいようになるだろうと思っていた。
 だけど、現実には人の喜びと労働というものは切り離すことのできない関係になっている。自分で釣った魚はおいしいし、自分で作ったご飯はおいしいし、掃除をしたら気持ちいいし、息を切らして山に登ったら気持ちいいし。
 僕達は、面倒くさいことをしなければ喜びを得られない、という面倒さを持っている。

 これは、科学が世界を救うと信じていた人間の、それが誤解に過ぎなかったという懺悔ではなくて、科学の発展というのが本当に「発展の先にあるもの」を目指しているのだろうか、という話です。
 以前、http://blog.goo.ne.jp/sombrero-records/e/efcdf60ca49d9898208f055654a9abad という記事にも書いたのですが、僕は目の前にある道具を改良してしまいます。これは人のかなり本能的な欲求だと思います。そして、もちろん改良した物の便利さを味わうことは喜びです。
 しかし、僕達の感じる「喜び」は、実は改良した物の「便利さ」の中にあるのではなく、「前より一歩使い安さがアップした」という差分の中にあるのではないかと思う。一歩前進すること自体の中に。
 科学とか改良とかテクノロジーとかをごちゃ混ぜにしてしまっているけれど、僕達はなんだって大抵最終目標なんて持たずにやっていて、持っていても実は最終目標は一応設定しているだけなのは、人生が最終目標を持ち得ない謎の何かである以上明らかだとも言えます。

 パスカルが何かの本に「ウサギ狩りに行く人にウサギを上げてみなさい、喜ばれるより嫌がられるよ、だってその人は”ウサギ”が欲しいんじゃなくて”暇潰しにウサギ狩りがしたい”んだから、ウサギあげちゃったらウサギ狩りに行けなくなっちゃうじゃん。くっくっく」みたいなことを書いているらしい(國分功一郎「暇と退屈の倫理学」より)。
 くっくっく、とかそういうのは僕の超訳ですが、このパスカルの話にもう少し説明を加えると、パスカルの議論の立脚点は、

 「人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋でじっとしていられないから起こる。じっとしてれば良いのにできない、それでわざわざ不幸を招いている」

 という考え方にあります。
 なんともヤな人ですね。
 それでも、人がじっと退屈していられないのは事実です。パスカルによれば、「我々は退屈したくない」→「暇潰ししたい」→「ウサギ狩り」ということであり、「ウサギが必要」→「ウサギ狩り」ということではありません。人は暇潰しにウサギ狩りに行く。目的は暇潰しであってウサギではない。でも暇潰しが目的だなんて自分でも思いたくないので目的はウサギだと自分で自分を騙している。もちろん、現実に食べ物がなくてウサギを取ってくる必要がある場合もあるでしょうが、それは言い訳が一層厚くなるということです。
 科学技術の進歩も、必要だとか実用化だとかにではなく、結局は進歩それ自体に喜びがあるのだろうなと思います。

 もともと「やる気、というのは結構な部分が企業化社会の幻想ではないか、やる気がある人が採用されるから、いつの間にかやる気という謎の信仰ができあがったのではないか」という話を書くつもりでラッダイト運動の話から工業化→企業化と繋ぐつもりだったのが、完全に違う話になりました。

暇と退屈の倫理学
朝日出版社


退屈の小さな哲学 (集英社新書)
ラース・スヴェンセン
集英社

若い後輩のためのリーデングリスト(by伊藤健一郎)

2011-12-10 13:40:23 | 書評
 僕も未だに、彼が一体何の研究をしているのか良くは知らないのですが、歴史や社会のことを研究している友人の伊藤健一郎くんが先日面白いテクストを見せてくれました。壁一面にアマチュアバンドのライブ告知が貼られている如何にも簡素なバーで、「留学する後輩のためにこういうのを書いたんだ」とビール片手に見せてくれたその文章は本のリストでした。
 リストの差し出され方も内容も面白くて、そのラッキーな後輩だけのものにするよりも、もう少し多くの人に読まれる方が良いのではないか、何より僕自身がリストを手元に置いておきたいと思い、データを貰って以下に貼り付けました。
 むろん、これは”歴史や社会なんかを学び始めた人宛”という限られた文脈で書かれたものですが、我々は全員歴史にも社会にも関係を持って生きているので、実はたくさんの人がこのリストを楽しめるのではないかと思います。
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『若い後輩のためのリーデングリスト』
 伊藤健一郎
 twitter : @ito_kenichiro
 mail : ito.kenichiro@gmail.com

 アメリカに行くまでに読んでおいた方がいい本のリストです。
 なるべく広いテーマを扱った本を中心に選びました。 

 とりあえず誰かが話していることを聞く。書かれてあることを読む。その知識が役に立つのか、とか好きか嫌いかは気にしない。この本を読めば、確実に自分は成長すると信じて、とりあえず「読む」という「戦略的な受動性」が学びには必要なのだと考えるようになりました。でも、そうするためには、今読んでいる本に対する「無条件・盲目的な」信頼が不可欠になります。それは何を根拠にした信頼なのか。どうして私はこの本を読めば、自分が成長できると信じられるのか。
 答えは簡単で、「なぜなら、私が信頼している人が私に薦めてくれたから」です。僕も多くの「この人はすごい」「こんな人になりたい」と思っていた先輩から貸してもらったり、気の合う友人と交換したりしながら、いろんな本と出会ってきました。そうした本との出会いは、それ以外の方法での出会いと比べても、親近感を強く感じるせいか、断然濃密な読書体験をもたらしてくれました。
 これから本格的に学問をしようという若い友人に宛てて、こうしたリストを作ってみたのは、そういう伝統を意識してのことです。
 受け止めていただければ、それにまさる喜びはない、みたいな。

◆現代社会に関する基礎的教養

・小熊英二『民主と愛国:戦後日本のナショナリズムと公共性』(新曜社、2002年)

「枕か。」と言いたくなるような分厚い本ですが、内容はとても読みやすい歴史の本です。
 歴史というか、敗戦後の日本がどのように戦争体験を思想化してきたか、あるいは思想化に失敗したのか、という事が書かれた本です。まるでその時代に自分がいたかのように錯覚する不思議な感覚を与えてくれる傑作。図書館にもいくつか置いてあるよ。「歴史認識」や「ナショナリズム」や「左派・右派対立」などに関心があるのなら、是非読んでみてください。著者は意外と若くて(40歳くらい?)イケメンです。
〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性
小熊英二
新曜社



・ダワー『敗北をだきしめて』(岩波書店、2004年)

 アメリカと日本の関係史。アメリカによる占領統治を日本の権力者、そして社会はどのように経験したのかということが丁寧に描かれている名著です。訳がとても読みやすいです。小難しい歴史書というより、娯楽として楽しめる本です。アメリカに行くのであればなおさら必読でしょうね。
敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人
ジョン・ダワー
岩波書店



・宮台真司『日本の難点』(幻冬舎新書122、2009年)

 主にバブル以降の10年にわたり活躍しまくっていた日本を代表する社会学者です。口は悪いし、挑発的な議論の展開の仕方をするので、嫌いな人も多いです。というか、伝統的な日本の左翼の人は宮台が嫌いです。言う事がコロコロ変わる、とか悪口もいわれています。にもかかわらず、彼の議論には愛が底流している事は、彼の本を読めばすぐにわかることです。
 この人の本を読み終えると、自分が頭よくなった気がしてテンションが上がるので、クセになります。世の中には、そうした多くの「宮台信者」がいますが、「気持ちの悪いひと」と思われがちなので、「隠れミヤディアン」くらいがちょうどいいようです。
日本の難点 (幻冬舎新書)
宮台真司
幻冬舎



・國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社、2011年)

 僕が最近読んだ中でもっとも鮮烈な知的興奮をえた本です。ニーチェ、マルクス、ハイデガー、など尻込みしてしまうほど難解な政治哲学・思想の急峻も、優秀なガイドである國分さんの導きで登れば、あんがいフラッと見晴の良い地点まで歩けてしまう、という感じでしょうか。さわやかな本です。哲学的素養が自分には欠けると感じることがあるとしたら、この本は良いスタートになると思いますよ。
暇と退屈の倫理学
國分功一郎
朝日出版社



・大澤真幸『文明の内なる衝突:テロ後の世界を考える』(NHK出版、2002年)
    『逆接の民主主義』(角川oneテーマA-81、2008年)

 大澤さんは国際関係学部でも、とくに多文化共生といった問題系に関心のある教員・学生の間でよく読まれている大人気の社会学者です。人気の秘訣は、その文章の分かりやすさ。簡潔さと複雑さがあわさったロジックの美しさだろうと思います。とくに新書でよめる『逆接の民主主義』は北朝鮮問題の解決にたいするもっとも大胆な提案を含んでいます。す・ご・く、おもしろい。
文明の内なる衝突---9.11、そして3.11へ (河出文庫)
大澤真幸
河出書房新社

逆接の民主主義 ――格闘する思想 (角川oneテーマ21)
大澤真幸
角川グループパブリッシング


・内田樹『日本辺境論』(新潮新書、2009年)

 引っ張りだこのアカデミシャン(現代思想)です。ながらく神戸女学院で教えておられましたが、昨年で退官されました。TVには出ない方なので、知らない人は知りませんが、このオジサンはおそらくもっとも「まとも」なオジサンで、この人の話はタメになります。近年著作が多くて秀逸な日本人論である『日本辺境論』や、『街場の中国論』『街場のアメリカ論』『ためらいの倫理学』『下流思考:学ばない子どもたち、働かない若者たち』(2009年)などがあります。
 ブログも充実しているので、読むといいよ。この人の文章も「頭よくなった気になる」病を発生させる中毒性の強いものです。
日本辺境論 (新潮新書)
内田樹
新潮社



・E.トッド『帝国以後:アメリカ・システムの崩壊』(藤原書店、2003年)

 フランスの人口学者によるアメリカ社会・世界戦略に対する批判の書。トッドは「文明の衝突」ならぬ「文明の接近」の可能性を人口動態というソリッドなデータに基づく形で提示した、すごい人。70年代くらいの時でも、あるデータに依拠してソ連崩壊を示唆。すごい人なんですよ。50歳くらいでまだ若い。歯に衣着せぬ感じでボロカスにアメリカをけなすあたりが、もはや爽やか。この人の命題は目から鱗でしたが、それは読んでのお楽しみ。
帝国以後 〔アメリカ・システムの崩壊〕
E.トッド
藤原書店


★あと、アメリカの人文系大学は学生が政治哲学に関する基礎的な教養をもっていることを前提にしているフシがあります。「ブラトン的には~」とか「アリストテレスなら~」みたいな。
 なので、日本語で参照できる解説書みたいなものがあると、心強いです。
 それと、西洋史の概要的なものを押さえておくとよいので、高校レベルの教科書が一冊あるといいです。

●アメリカ文学に親しんでおくのは、結構大切かなぁと思います。思いつくままにいくつか古典をあげてみます。
 マーク・トゥエイン『ハックルベリーフィンの冒険』
 ステインベック『怒りの葡萄』
 サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』
 ブコウスキー『町で一番の美女』(短編集)
 ヘミングウェイ『何を見ても何かを思い出す』(短編集)

 どう考えても、上のリストは男くさい世界を描いたものがおおいね。好みの問題だけど、偏っていると思います。これはもうどうしようもない。

●なんといっても映画だね
 映画も完全に趣味の世界なので、押し付けるのはダメなのですが、「なんだかんだでアメリカってやりよるな」と思わせるような映画を中心に選んでみました。参考にしてみてください。どれもエンターテイメント映画ですが、学問的にも重要なテーマが伏流する名作を、知っている範囲で、新しい作品を中心に思いつくままに羅列してみました。
 『ダークナイト』(2008、監督クリストファー・ノーラン)…信頼/不信の政治学/権力の両義性
 『グラン・トリノ』(2008、監督クリント・イーストウッド)…復讐の政治学 / 「多文化共生」
 『ゾディアック』(2007、監督デビッド・フィンチャー)…複雑社会における「不気味な他者」
 『ファイトクラブ』(1999、監督デビッド・フィンチャー)…消費社会論 / 存在の不確かさ
 『パリス・テキサス』(1984、監督ヴィム・ベンダース)
 『ダウン・バイ・ロー』(1986、監督ジム・ジャームッシュ)

 もっとたくさんすぐれた映画はあるので、いろいろ見たらいいと思います。アカデミー賞を受賞した作品などには、さすがに優れた映画が多いね。

書評『芸術闘争論』村上隆:四畳半でもトレンディでもなく

2011-01-24 17:08:00 | 書評
 「四畳半でもトレンディでもなく」という書き出しを思いついてメモを取り、うまく続きが書けなくて放っておいたことがあります。そのフレーズを、昨日、村上隆さんの『芸術闘争論』を読んで思い出しました。

 『芸術闘争論』は極めて密度の高い書籍でした。最初から最後までクールなロジックと迸る情熱が一体となり、強いテンションが維持されています。
 正直に書くと、ちょっと泣きそうになったくらいです。
 この本に教えてもらった新しい知識と視点、それらを手に入れた爽快感。村上さんの明確で強烈な「伝える」という意志。
 この伝える意志は赤裸々すぎる程にビビットなものです。
 自分は伝えねばならないことを持っていて、それをなるべく効率的になるべく正確になるべく分かりやすく伝えたい、という意図がはっきり分かります。高々1890円しか払っていないのにこんなことをこんな熱心に教えてもらって良いのだろうか、と申し訳ないような気分すらしてしまいます。

 そして、何かのお返しをしたいという気持ちが点火されます。
 お返しは村上隆さん本人に返すのではなく、受け取ったバトンを誰かにパスする行為に転化されるでしょう。できれば自前の何かを添加して受け取ったものを誰かに渡すこと。
 僕が受け取ったものを自分なりの出力に変えるには膨大な試行錯誤と時間が必要で、取り敢えず今は生のままであっても誰かに届けたいとこれを書いています。

 『芸術闘争論』は上にも書いたように、言うべきことだけを書いた本です。全部が要点なので、「中でもこれがポイントだと思う」ということを言うつもりはありません。ここでは、要点に触れるという意味合いではなしに、僕がしばらく考えていた「貧乏」というものに村上さんも触れていらっしゃったので、それについて書きたいと思います。

 村上さんは歴史を引いた上で「芸術=貧乏」というのが日本にインストールされている、ということを仰っています。
 貧乏が正義だと、あるいはお金に対する嫌悪感が僕達の心に埋め込まれていると。

 僕は今31歳ですが、20代の後半までこの事に気付きませんでした。
 冒頭に上げた「四畳半でもなくトレンディでもなく」という言葉に落とし込むことができたのはせいぜいここ1,2年のことです。

 僕は所謂”芸術家”ではありません。物理学を中心に、小説を書いたり何かを発明したりデザインしたりしてやっていきたいな、それってもしかすると包括的な名を付けるなら芸術家ということになるのかもしれないな、と思っているような人間です。

 今書いた芸術家というのは、村上さんの言っておられる「西洋式のART」とは関係なく僕がイメージとして持っているものです。芸術というのが一体何なのか考えるのが辛くなって、僕は1,2年間「芸術」という単語を使わないようにしていました。ヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』を「語りえぬものについては沈黙せねばならない」と括ったように、僕も沈黙で抑えこもうとしたわけです。

 ただ、黙っているだけでは「芸術」とは無縁なだけの人間なので、黙っていくつかの物を作ってみました。そうすると僕の作りたいものは「綺麗な物でちょっとびっくりして楽しんで貰いたい」ということでしかなく、あまり芸術とは関係ないように思えました。

 京都の出町柳には賀茂川と高野川が合流して鴨川になるデルタ状の公園があります。映画パッチギのクライマックスで決闘シーンに使われた場所です。海や湖のない京都にとって、川に囲まれた公園というのは水に近い貴重なポイントです。さらに、この公園は京都市北部における重要交通拠点、京阪出町柳駅のすぐ前に位置していて人通りも多い。
 ところが、この公園にはほとんど灯りすらなく、夜は真っ暗です。

 僕はそこに5x5x5メートルの大きなキューブ型照明を置けば、道行く人々が「わあ、綺麗」と思ってくれるのではないかと思い、そのようなものを作ってみました。
 京都がハレの日になる真夏は7月15日、祇園祭の夜に実行したことが裏目に出たのか「ここに建造物を作るのは違法」だと、僕達は部品を組み立てている時に消防局に取り押さえられてしまいます。
 主な計画や作業は友人と二人で何日も徹夜して行い、僕達はそれなりに真剣だったので、撤収を手伝ってくれた友人達が帰った朝方、僕達2人はヤケを起こして残骸を徹底的に破壊してしまいました。
 2000ワットの発電機に繋いでいた数十個の電球からなる強力な光源は、名前も知らない夏の夜の虫達を誘惑して高熱で焼き殺し、死骸の山を築いていました。無為に殺してしまった虫たちと手伝ってくれた友人達に対する申し訳なさがギュッと胃袋を押し付け、圧倒的な体力の消耗と無力感を感じながら、白み始めた夏の早朝、とぼとぼとアパートに帰ったのを今でも良く覚えています。

 このように、僕はもしも何かを作るとしたら、それはパブリックな場所に露出したものが良いと思っていました。ただ、上記のようなものが「芸術か?」と言われたら、やっぱり「いや、芸術ってわけじゃないんだけど。。。」と口篭ると思います。「ただのイタヅラじゃないか」と言われたらそうかもしれない。
 でも同時に、僕はこれが「ある光」になりうる可能性というのも信じていたわけです。

 現代の物理学者は真空が「何も無い空間」ではないことを知っています。そこでは粒子と反粒子が常に生成し対消滅しています。沸騰して沸き立つ鍋の中みたいにグラグラとダイナミックに真空は動いています。僕達は肉眼でそれを見ることはできない。だけど、最新の観測装置で一つの生成消滅が見えたら、本当にそれを見たら、そしたらその見えたものは「ある光」にならないだろうか。
 僕にとっての「ある光」とはそういうイメージです。
 僕達は限定された枠組みの中で人生を送ります。五感という限定された感覚器官と、脳という限定された思考器官と、80年という限定された生存期間。長い歴史に組み立てられた毎日の生活。その外側にあるものを、微かに光る、一瞬だけでもキラリと光るものでいいから見れたらいいと思う。
 いつの間にか、僕にとって芸術はそういうイメージになっていました。そして、気づけばいつもイメージは言葉に変換されています。

 話は「貧」に戻ります。
 この失敗した巨大照明のときも、他のいくつかの小さな試みのときにも、僕達は「低コスト」であることにこだわっていました。
 現実問題としてお金がなかった、というのは勿論あります。無駄にお金がかかるよりも低コストで抑える方が良いのは、まあ当然だとも言えます。
 でも、それ以上に「お金を掛けないのが良いことだ」という思想がありました。

 「お金を掛けない=良い」に疑問を持ち始めたのは、一緒に動いていた友人が僕よりも遥かにお金にシビアだったからです。僕が「ここにはもう少しコストを掛けたいから、もう少しあれを買おう」というようなことを言っても彼は聞き入れてくれません。「じゃあ僕が払うから」と言っても「そういう問題じゃない」と返してきます。
 そうです、そういう問題じゃないのは僕も分かっていました。
 貧困という正義の問題だったのです。

 ただ、僕はほどほどにしかコストのことを気にしていなかったので、しばしば「部品を買う買わない」では彼と揉めました。ケンカになり、それでも作業はしなくてはならないので、お互いにすべき事は分かっているのを幸いに、無言で険悪なまま作業を進めることもありました。

 「どうして、この人はこんなにお金を使うことを嫌がるのか?」という問いは、そのまま「どうして僕は無条件に低コストが良いと思い込んでいるのか?」と変換されて自分に返ってきました。
 その疑問を抱えたまま暮らしていると、本屋である本が目に留まります。森見登美彦さんの『四畳半神話大系』という本です。

 『四畳半神話大系』というタイトルを見た瞬間に色々なことがばーっと分かりました。
 森見さんは僕と同い年で、同じ京都に住んでいて、本も売れているので勝手な妬みが全くないとは言いません。
 しかし、そういう妬みを抜きにして、僕はこの小説のタイトルは「イヤったらしい」と思ったのです。そう思った瞬間、ガツンとした衝撃があって、僕の貧困を美化してしまう呪いは解けました。イヤったらしいのは僕自身だったのです。僕が彼に妬みを感じていたとしたら、それは年代や地域性のことだけではなく、彼が「貧乏学生礼讃」という僕もある程度理解し礼讃していたものをウリにしていたからでした。

 僕は貧乏を礼讃しているかもしれない。
 と、この時やっと気づきました。

 この森見さんの本は売れて、アニメ化もされました。
 つまり、貧乏礼讃は流行っているということです。

 そういえば、貧乏な主人公が貧乏な生活をする物語はたくさんあります。いつの間にか「四畳半でバイトしながら夢を追いかけて」というスタイルが完全に消化されているのです。完全に消化されたというのは、そういう暮らしをしている人が沢山いるということではなく「私は仕送りも十分貰って家賃7万円のバストイレセパレートに住んでいるけれど、でも貧乏でバイトして夢を追っている生活って、なんか憧れるなあ~、私はしないけどw」という人が沢山いるということです。
 「夢」自体がターゲットだった時代から、「夢というターゲットを射抜く為の泥臭い生活」自体がターゲットという時代に完全シフトしたということです。

 「夢追い人」がけして沢山いたのではないように、「夢追い貧乏生活追い人」も社会全体からすればそれほど沢山いるわけではありません。大抵の人が誰かの「夢」を買って鑑賞していたのと同じように、今では多くの人が「夢追い貧乏生活」を買って鑑賞することとなります。映画館へ行ったり、本を買ったりして、貧乏を疑似体験するわけです。利休から”貧乏”を大金で買おうとした秀吉のように、家賃7万円セパレートのエアコンの中でお菓子でも食べながら貧乏物語を読む。これが細分化された現代のトレンドの、少なくとも一角を担っています。

 物語に出てくるのは「売れない」絵描きとかバンドとか作家とか、そういう人々ばかりです。成功物語ではなく、成功しないことの奥ゆかしさ物語です。
 物語には人々を教化する作用があるので、「売れない、貧乏」というトレンドから生まれる物語は「売れない、貧乏」を目指す人達を増産します。
 ここには無限ループが待っていました。「売れる」を目指しても全員が売れるわけではありませんが、「売れない」を目指して売れないことは誰にでも簡単にできるからです。これが「芸術は自由!何でもあり!バカなほどいい!変だったらいい!」というのと結びついて、訳の分からない芸術家ごっこが蔓延しました。

 僕は10年前「芸術に憧れる理系の青年」だったので、芸術好きを気取ってホイホイとギャラリー等に足を運んでいました。そして、あることに気付きました。それは「展覧会を開いている人の友達しか来ない」ということです。さらに、やって来た”友達”は「今度、個展するから」と言ってDMを配っています。そのDMの展覧会にも大体同じような”友達”が来て、またDMを配ります。
 なんという閉塞感だろう、ここではお互いがごっこ遊びの相手をしているだけだ、と思って僕はあまりそういう場所に行かなくなりました。DMの印刷会社と箱を貸しているギャラリーだけが儲けていました。

 貧乏、売れない、ということに求心力を持たせるのは、それが誰にでも簡単に達成可能故に危険なことです。
 僕はそれにほとんどハマっていて気が付いてなかったので、ここで自省を込めて書きますが、「夢追い貧乏生活」がターゲットとなっているというのは、変形したあきらめに他ならないのです。
 これは誰にとっても都合の良い誤魔化しになっています。
 夢追い貧乏生活を営む当人にとっては、「夢」は手に入らなくても既に目的としていた「夢追い貧乏生活」自体は手に入っているので”達成”した「このままでいい」ことになっています。
 鑑賞者は、自分が憧れているものが良く良く考えてみたら今の自分よりもひどい生活なので、実は憧れているものに勝っている!「このままでいい」と思い込むことができます。
 さらに一歩外にいる人達は、ここをネタにしてビジネスができますし、貧乏志向の人達は多くを欲しがらないので競争相手が減って万々歳です。
 これは歩みを止めた、楽なだけの状況だと言えます。

 歴史的な背景も踏まえて、自分がどうしてそれを選びここにいるのかを考えると、もしかしたらぞっとする人もいるかもしれません。ポストモダンを生きているというのに、僕はあまりにも無自覚でした。
 
 もしもトレンディドラマを追いかけていた人々を馬鹿だなと思うのであれば、今僕達は、その反対のような、貧乏というものを追いかけている馬鹿な人々かもしれないのです。

芸術闘争論
幻冬舎


芸術起業論
幻冬舎