律宗総本山唐招提寺の境内略図
創建は759年、受戒を行うため唐より来日した鑑真和上により
戒律の専修道場として開かれた。戒律とは
仏教信者が守らなければならない道徳や規範のことを指す。
唐招提寺は他の南都の大寺とは違い、天皇に建てられた官寺では無く、
鑑真の私寺であったが、朝廷の保護を受けていた。
鑑真が開いた時の唐招提寺は僧坊と講堂しかなく仏法を学ぶだけの寺だった。
南大門を入り参道の玉砂利を踏みしめて進むと、誰もが眼前に
迫る金堂の威容さに圧倒される。この金堂は国宝で奈良時代
(8世紀後半)に建てられた豊かな量感と簡単な美しさを
兼ね備えた天平様式の建物だ。
正面に並ぶ8本のエンタシス列柱の吹き放ちは、遠くギリシャの
神殿建築技法がシルクロードを超え、日本まで伝来したかのように感じさせる。
金堂内陣には盧舎那仏を中央に巨大な三尊(国宝)が居並び、
厳粛な空間を生み出している。他に数多くの国宝に指定された
仏像が展示されている。創建以来の天平金堂と内陣の九尊が織り成す
曼茶羅世界は参拝者を魅了せずにはおかないでしょう。
講堂も国宝で奈良時代(8世紀後半)に建てられた。鑑真和上が
当寺を開創するにあたり平城宮東朝集殿を朝廷より賜り
移築したもので、平城宮唯一の宮殿建築の遺構だ。
金堂と講堂の間には鐘楼、鼓楼があり、隣りには東室、礼堂がある。
鼓楼は国宝で鎌倉時代(元和元年1240年)に建てられた
瀟洒な重層の建物で本来は経楼と見られたが、鎌倉時代に
再建されたのち鼓楼と呼称された。鐘楼は当初の建物は残っていないが
梵鐘(重文)は平安初期の数少ない遺例で貴重なものだ。
11月初め古都奈良、唐招提寺の講堂裏から鑑真和上御廟への
自然の光景はことの他美しかった。
鑑真和上は688年に中国揚州で誕生。14才の時、揚州の大雲寺で
出家した。21才で長安実際寺の戒壇で弘景師に授戒を受けた後
揚州大名寺で広く戒律を講義し、長安・洛陽に並ぶ者のない律匠と
称えられた。742年に日本から熱心な招きに応じ渡日を決意したが
5度の失敗を重ね盲目の身となった。しかし、和上の意思は堅く、
753年12月。6度目の航海で遂に来朝を果たした。
古都奈良の土塀はやや朽ち掛け時代を感じさせて良い。
京都と違って田舎の香りが、土のにおいがする。
宝蔵・経蔵、とも国宝。礼堂の東側に並んで建つ校舎様式の建物で
北に位置し一回り大きい方が宝蔵。南にある小さいほうの経蔵は
唐招提寺が創建されるより前にあった新田部新王邸の
米倉を改造したものといわれ、日本最古の校舎です。
JRが京都のキャンペーンをしているように、近鉄も奈良大和路の
キャンペーン「日本に、奈良があるしあわせ」を唐招提寺を使ってやっていた。