昨年の10月12日、NHKで放映されたストリーズ
「ノーナレ 祇園の神さん」をご覧になった方はいらっしゃいますか?
コロナ禍で中止の危機に迫られた京都祇園祭を何らかの形でやらなければいけないという
必死な姿を追ったナレーションなしのドキュメンタリーでした。
主人公は八坂神社石段下の京寿司「いづ重」の大将・北村典夫氏。
これを見て目頭が熱くなるほど感動し、こんな事は過去にない祇園祭を
一度目に焼きつけたいと思い、京都祇園祭前祭(さきまつり)に行ってきました。
今回は前祭山鉾建てから旅のスタートです。
京都駅を降りるとコンコースに祇園祭ミニチュア鉾と提灯の展示がしてあったのを発見。
この主催者はJR西日本と京都駅ビル開発(株)だ。
ここで祇園祭山鉾行事の歴史について記してみましょう。
八坂神社の祭礼である祇園祭は疫神怨霊を鎮める祇園御霊会(ごりょうえ)が起源で、
貞観11年(869年)全国的に疫病が流行した時、その退散を祈願して、
長さ6メートルほどの矛を当時の国の数にちなみ66本立て、
牛頭天王(ごずてんのう)を祀ったのが始まりと言われている。
しかし、その後の山鉾巡行の歴史は受難と復興の歴史でもあった。
応仁・文明の乱(1467年~1477年)では京都の町とともに山鉾もほとんど焼き尽くされてしまった。
乱後23年を経た明応9年(1500年)、町衆が力を合わせて山鉾を再興させ、
「祇園社記」によれば前祭(さきまつり)26基、後祭(あとまつり)10基の山鉾が巡行を行ったとされており、
これが現在の山鉾行事・山鉾巡行の基礎とされている。
京都三大祭りの一つ、祇園祭の最大の見どころ「山鉾巡行」は
新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、去年に続き中止となった。
しかし、今年は山鉾の組み立て技術を継承するために行うとの事。
行事日程は7月1日の吉符入りから始まり10日~14日まで前祭山鉾建て、
14日から16日まで前祭宵山、そして本来は17日に前祭山鉾巡行が行われる予定で、
7月31日まで1ヶ月間、熱い祭が続く。
それでは四条通りにある月鉾からアトランダムに歩きながら見つけた山鉾を紹介しましょう。
月鉾は夜と水徳の神であったこの月誌尊に因んだ鉾で、
鉾頭に新月型をつけていることから、この名で呼ばれている。
この鉾頭は全山鉾中最古の銘が見られる。
稚児人形は「於兎丸(おとまる)」といい、現代的な容貌で
明治45年五代目伊藤久重作であり、その前年までは生稚児が乗っていた。
真木のなかほどに月読尊をまつり、屋根裏の草花図は円山応拳の筆、
胴懸にはインドやトルコの絨毯を用いている。
当日は至る所でマスメディアの人達が取材に来ており、
違った意味で注目されていることが伝わってくる。
これが技術の伝承が必要な部分。
鉾の組み立ては釘一本使わず、縄のみで組み立てられている。
車輌の組み立ても技術が必要らしい。
尚、山鉾の組み立てはすべてはっきり分業化され、巡行の日も役割りが決められている。
各山鉾にはこのような文化財的価値のある絨毯で飾られている。
現地に来てはっきりわかったことだが、各鉾には専属の町会所があり、
そこからはしご的廊下で結ばれている。
各山鉾には屋台が出ており、ここで厄除ちまき、うちわ、扇子、手拭、お願い袋、
バンダナ、マスクなど各山鉾のオリジナルグッズが売られている。
次は四条通りを東に向かっていくと函谷鉾(かんこほこ)の提灯ゲートに出る。
四条通りはすっかりお祭りモードになっていた。
函谷鉾は「くじ取らず」で毎年全体では5番目、鉾では長刀に次いで2番目に行く。
孟嘗君という中国の人物が函谷関で家来に鶏の鳴声をまねさせて
関門を開かせ難を逃れたという故事に因んだ鉾。
鉾頭の三日月と山は夜中の山並みを表し、真木の上端には孟嘗君、
その下に雌雄の鶏が祀られている。
重要文化財である旧前懸は旧約聖書創世記の場面を描いた16世紀末の毛綴で。
宵山の期間は町家にて展示している。
こちらの屋台は車道てんとをにテントを立てた大きい店だ。
ここにはあのコンチキチンの音色で有名な祇園囃子のCDが3,000円で売られている。
又、手拭の種類は多い。
この鉾の屋根裏のしつらえといい、又水引、胴懸絨毯など、
まさに動く美術館と言われるに相応しい装飾品で埋め尽くされている。
ここの町会所は函谷鉾ビルといってそのものズバリ。
地下1階と2階は(財)函谷鉾保存会が入っていて、
こんな所にも祇園祭の歴史のすごさ、深みを感じてしまった。
このお祭りは知れば知るほどすごい。
四条の大通りから路地の室町通りに入るとそこに鶏鉾がある。
天下がよく治まり、訴訟用の太鼓に苔が生え、
鶏が宿ったという中国の故事の心をうつしたものといわれている。
鉾頭の三角形の中の円形は鶏卵が太鼓の中にある意味をあらわすといわれている。
真木の天王座は船形で海上の守護神である住吉明神が祀られている。
こちらの鶏鉾の町会所も鶏鉾ビルというズバリのビルの中にある。
前懸のペルシャ絨毯、胴懸の草花文様インド絨毯は、近年復元新調されて用いている。
見送は有名な毛綴れで近年の調査によると
トロイの皇子へクルートが妻子に別れを告げる図であるという。
この見送は16世紀頃ベルギーで製作、江戸時代初期に輸入されたものと考えられ、
国の重要文化財に指定されている。
山鉾の古い形態を残す傘鉾のひとつだ。
直径2.6mの大きな綾傘の前に進む6人の稚児と赤熊をかぶり棒を持った者が、
鉦、太鼓、笛に合わせて踊る棒振り囃子が特徴の綾傘鉾。
棒振り踊りでは、独特のお囃子の合わせて疫病退散の踊りを踊る。
傘の上の御神体の鶏は金の卵を片足に持っている。
綾傘鉾の屋台にもオリジナルの手拭、色々なデザインの扇子などが置いてあった。
厄除ちまきは当然だが皆どこも1,000円。
綾傘鉾が置かれているすぐそばに町家会所としての大原神社がある。
このワンセットを見ると町の鎮守様といった感じか。
因みに神社で祀られている牛頭天王(ごずてんのう)は日本における神仏習合の神。
釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされた。
狭い路地の雰囲気に誘われて散策した道は膏楽辻子というが、
出た所に郭巨山の屋台があった。
郭巨山(かっきょやま)は貧困に苦しんだ郭巨が子を捨てようとしたところ
土中から黄金が出てきたという話に因む。
御神体の郭巨は金の釜を発見した驚きの表情で鍬を持ち、
童子は右手に唐団扇、左手に紅白の大輪の牡丹を持つ。
これは放下鉾。
鉾の名は真木のなかほどに放下僧の像をまつることに由来している。
鉾頭は日・月・星の三光が下界を照らす形を示し、洲浜の形に似ているともいう。
洲浜と光苔を表わす2本の棒。
鉾上で稚児舞ができる唯一の操り稚児人形「三光丸」を乗せ、
人形ならではの愛らしい舞が披露される。
懸には花文様のインドやペルシャの絨毯があります。
尚、放下鉾は「くじとらず」で21番目に行きます。
町会所は町屋の2階にあり、鉾に上がるまで急階段を登る。
見事な縄縛り。
これはやはり技術継承が必要なのはよくわかるような気がする。
改めてこれを見るだけで約1150年も続いてきた歴史の重みを感じる。
放下鉾の屋台。
実際に山鉾が辻回しで使った青竹のストラップが売られていた。
各山鉾にはこのようなオリジナル商品が売られているのだろう。
放下鉾がある新町通りの先には赤と黒の印の入った提灯が並んでいるのが見えた。
提灯の上には番傘がさされ、なんとも言えない風情が漂っていた。
この先には後祭で鉾建てされる予定の南観音山がある。
永正年間、京都に大火があったとき、時ならぬ霰が降り、
猛火はたちまち消えましたが、そのとき一寸二分の天神像が降ってきたので、
これを祀ったのが霰天神山(あられてんじんやま)の起こりであると言われている。
実際、これまで一度も火難に遭っておらず、
このことから「日除け天神」とも呼ばれている。
たまたまランチでお世話になった「膳處漢」さんの隣りが霰天神山の屋台になっていた。
京都の路地にはお祭の雰囲気を盛り上げる演出を自然とできる町並みがある。
また烏丸通の大通りに出てきた。
ここにあるのは孟宗山。
この山は筍山ともいい、御神対は病身の母を養う孟宗が、
雪の中で筍を掘り当てた姿をあらわしている。
唐人衣装に笠をつけ、右手に雪をかぶった筍、左手に鍬を肩にかついで立っている。
そのため御神木の松や粽には雪を模した綿が付けられている。
最後に数ある鉾の中でも誰もが知っている長刀鉾(なぎなたぼこ)。
この鉾の鉾頭には疫病邪悪を祓う大長刀をつけているのでこの名で呼ばれている。
古来より「くじとらず」で毎年必ず巡行の先頭に立つ。
又、生稚児が乗るのはこの鉾だけだ。
山鉾巡行のスタートにこの鉾の稚児が刀で縄を切るシーンは
祇園祭といったら必ず映像で映し出される。
鉾の屋根裏の金地著彩百鳥図、破風の彫刻、又、前懸、胴懸、見送には
希少な絨毯(復元・新調品もある)が用いられ、
絢爛豪華で他を圧倒しているような美しさを誇っている。
本鉾の名前の由来になっている長刀は、もとは三条小鍛冶宗近の作が用いられていたが、
現在は大永二年(1511年)三条長吉作の長刀を保存し複製品を鉾頭としている。
さすが長刀鉾の町会所、四条通りの繁華街の中にあり、
人通りもここは満員電車状態の賑わい。
厄除の粽(ちまき)販売もここでは売っておらず、
各自申込んで後日宅配便で配達する方式を取っている。
とにかく人気があるのか、この申込に長蛇の列ができていた。
結局、前祭での山鉾は23基ある内の8基見て歩いた。
町には、特に山鉾のある所にはコンチキチン祇園囃子のCDが流れ、
山鉾巡行は中止になったが、約1150年間その時代その時代の町衆を中心に引き継がれてきた
祇園祭の素晴らしさは充分感じ取ることができた。
元々祇園祭は疫病退散の祈願の為に始まった故、
まさに現在世界中が新型コロナという疫病と闘っている時、
この祭の意義は大きいと痛感した。