スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

和風ジャージャー麺 ~その14~

2021-10-30 06:25:44 | 料理

今回は読売新聞「おいしい」で掲載された日本料理店「日本橋ゆかり」の

三代目、野永喜三夫の第2弾「山椒香る和風ジャージャー麵」です。

これがその完成品です。

本来は夏向きの料理ですが、渋沢栄一シリーズに時間を費やしたので、

秋口アップになってしまいました。

(材料 4人分)

冷凍うどん4玉、豚ひき肉300g、キュウリ1本、長ネギ70g、ミョウガ4個、ショウガ20g、

テンメンジャン50g、トウバンジャン10g、片栗粉 大さじ2杯、

和風顆粒だし3g、粉山椒 小さじ1/2杯、ゴマ油 大さじ1杯

それでは料理スタート!

まず各材料の仕込み。

ミョウガを輪切りにする。

うどんとキュウリとは対照的な円形にすることで見た目にアクセントが出る。

目でも味わうと言われる姿を重視する日本料理らしい工夫だ。

キュウリは両端を切り落とし、縦半分に切ってから長さを3等分にして千切りにする。

うどんよりやや細いくらいの太さに切ると食べた時のサクサクした食感が心地よい。

量は多めの方が良いかも。

長ネギは根を切り落としてみじん切りにする。

長ネギは白い部分だけでなく、緑の部分も入れる。

緑の部分を細かく刻むと食べやすくなるし、香りもいい。

緑色が肉みそのアクセントにもなる。

あっ、いけない、ショウガを撮り忘れた。

ショウガは皮を剥いて粗みじん切りにする。

右側がトウバンジャン、左側がテンメンジャン。

トウバンジャン(豆板醬)は辛みの強い味噌で、

そら豆に大豆やごま油、唐辛子の塩漬けなどを加えた発酵調味料だ。

一方テンメンジャン(甜麵醬)は良質の赤みそをベースに、

そら豆みその豊かなコクと一番しぼりごま油の豊かな香りを生かして作った本格中華甘みそだ。

フライパンに砂糖大さじ3~4杯と水200cc、

テンメンジャン、トウバンジャン(少なめ)、片栗粉を入れ、混ぜて溶かす。

豚ひき肉とネギ、ショウガ、しょうゆ大さじ2杯を加えて火にかけ、和風顆粒だしを入れる。

沸いたら中火で5分ほど煮詰める。

煮詰まってきたら混ぜて火を止める。

ここで粉山椒とゴマ油を入れる。

味の決め手となる粉山椒を入れるのは火を止めた後。

山椒は熱を加えることで香りが立つが、加熱しすぎると香りが抜けてしまうからだ。

常温まで冷ましてから冷蔵庫で冷やす。

今回使用したうどんは最近オープンした「所沢よっとこ」(後日アップする予定)で買った

武蔵野うどん 2人前 218円。

肉汁うどんが今評判のうどんだ。

これを10分ゆでる。

いよいよ仕上げ段階。

氷水でよく締めたうどんを皿に盛る。

うどんの上に千切りにしたキュウリをのせる。

目にも食感にもアクセントになる具材がキュウリだ。

さらにその上に肉みそをかけ、最後に独特のえぐみがある

日本らしい薬味としてミョウガをかけて完成でーす。

肉みそとうどんをよく混ぜてから食べる。

白いうどんを染めた肉みそは最初は粉山椒の真っすぐな辛さを感じ、

食べ進めるうちにテンメンジャンとトウバンジャンの甘辛さに変わったかと思うと、

すぐに辛さと甘辛さが交互に感じられるようになるほど絶妙なバランスがある。

そして粉山椒の力強さが伝わってくる。

先ほど紹介した野本喜三夫さんが日本料理の魅力として挙げるのは、

みそや漬物、日本酒などの「発酵」、干しシイタケや煮干しなどの「乾物」、

梅干しなどの「酸味」のバランスの良さだ。

「先人が残してくれた日本料理の良さを世界に発信したい」と意気込む。

 

 


浦和エリア旨い店シリーズ ~番外編362~

2021-10-28 06:14:06 | 食~番外編(都内)

根ぎし芋坂 羽二重団子

東京都荒川区東日暮里5-54-3

TEL 03-3891-2924

年中無休

https://habutae.jp/

最後の将軍・徳川慶喜と埼玉が生んだ偉人・渋沢栄一の墓参を終え、

谷中墓地を線路沿いに歩き、鉄道の陸橋を渡り、路地を歩くと

この由緒ある「羽二重団子」さんに偶然出た。

ちょうど喉も渇き、お茶でもしたいと思っていたところの出会いであった。

店の前の通り沿いに立派な「団子の由来」看板が目に付いた。

それによると「文政二年、初代庄五郎が芋坂に「藤の木茶屋」を開業し、

街道往来の人々に団子を供したのが始まり。

この団子がきめが細かくて羽二重のようだと称され、そのまま菓子名になった。」

当店はビルの1階(たぶん自社ビル)にあり、

その歴史を感じさせる重厚な空気が流れ、とても落ち着いた造りになっている。

茶席もゆったりと配置され、ゆったりとして気持ちが良い。

ここは創業以来、今も江戸の風味と面影を承け継いでいる。

羽二重団子さんは、ここ本店以外に駅前日暮里店、HABUTAE CAFÉ、

エキュート日暮里店、西日暮里駅売店がある。

これがお品書。

このメニューをじっくり見ると改めて当店の歴史がわかる。

それは文豪が好んだ一皿セットだ。

子規セット(煎茶付) 焼1本、餡3本 1,232円。

正岡子規随筆「仰臥漫録」において

「あん付3本、焼き1本を食う(これにつき悶着あり)」と記されています。

漱石セット(煎茶付) 焼1本、漱石もなか1個 693円。

「・・・芋坂へ行って団子を食いましょうか・・・」

夏目漱石著「吾輩は猫である」

漱石もなかの中にはしづくあんが3粒入っています。

天心セット 焼2本、冷酒グラス 1,320円。

岡倉天心長男・岡倉一雄氏の随筆に

「芋坂の団子屋で、陶然として帰るを忘れていた」

というエピソードが語られている。

他にも軽食・藤稲荷セット 1,320円もある。

これは人形町・志乃多寿司総本店の稲荷や巻物のセットだ。

ソフトドリンクも団子屋らしくて良い。

ゆずドリンク、しょうがドリンク。

その中で抹茶セットをお願いした。

ミニ焼・ミニ餡 770円(税込)。

因みにお好みで希望の本数を召し上がれる。

どちらも1本165円(税込)。

羽二重団子はその光沢と粘りとシコシコした歯ざわりが身上、

よく吟味した米の粉を搗抜いて丸めて扁たく串に刺す。

へんに辛くなく、甘くなく、上品な味で歴史で磨かれた団子といった感じ。

これではいくつもお腹に入ってしまう。

看板商品の羽二重団子以外に、しずくあん、プティもなか、あずき羹、

ぜんざい、かのこ羹栗入り、米餡などが販売されている。

抹茶をゆっくり楽しんでいる間も、何人も買いに来る人がいた。

店内の一角には羽二重団子の歴史展示コーナーがある。

現在の当主は6代目、社是は「原点回帰」と「未来進化」のらせん的発展とか。

素晴らしい。

前述もしたが、夏目漱石、正岡子規、岡倉天心以外にも

泉鏡花の「松の葉」短編、田山花袋の「東京の近郊」、

司馬遼太郎の「坂の上の雲」等の作品にも当店は描かれている。

壁の一角には「東都のれん會」なる額が飾られていた。

この会は江戸の昔より明治初年にかけて創業された

百年以上の伝統を有する古いのれんの店の集まりだ。

「江戸・東京で3代、100年以上、同業で継続し、現在も盛業」が条件で54店舗加盟している。

 

 

 


谷中墓地

2021-10-27 06:19:19 | ご近所情報

JR日暮里駅から徒歩6分のところにある谷中墓地(旧称)は

東京都台東区谷中7丁目にある都立の霊園です。

面積は約10ha、およそ7,000基のお墓があります。

開園は明治7年(1874年)9月1日。

谷中墓地と称される区域には天王寺墓地と寛永寺墓地も含まれている。

墓地の通りには大木に育った桜並木から成り、桜の季節には花見客で賑わう。

特に中央園路は通称「さくら通り」とも呼ばれ、

園路を覆う桜の枝に花が咲くとまるで桜のトンネルのようになるという。

谷中墓地にはこのような古色蒼然とした墓が点在して多く見られる。

ここには徳川家御三卿、即ち田安徳川家、一橋徳川家、清水徳川家の墓地がある。

この2つの墓石にも徳川の家紋・三ツ葉葵があり、

徳川家の墓と思われるが、誰のだかわからない。

こちらは前述の御三卿の一つ、一橋徳川家の墓群。

一橋家は江戸幕府8代将軍・吉宗の四男宗尹を家祖とし、

徳川将軍家に後嗣がないときは御三家の他の2家とともに後嗣を出す資格を有した。

家名の由来となった屋敷、一橋邸は江戸城一橋門内、

現在の千代田区大手町1丁目4番地付近にあった。

一橋家は独立した別個の家ではなく、将軍家(徳川宗家)の家族として認識されていた。

この鳥居があるお墓は明治大学創立者・岸本辰雄法学博士の墓だ。

氏は鳥取藩の出身で明治9年に選ばれてパリ大学に留学。

帰国後、明治14年に宮城浩蔵、矢代操とともに明治大学の前身・明治法律学校を創立した。

俳優、声優、歌手、コメディアン、元NHKアナウンサーの森繫久彌氏のお墓。

氏は大正2年5月4日生まれで早稲田大学卒。

ミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」、映画「社長シリーズ」などで活躍。

平成21年11月10日、96歳で没。

国民栄誉賞、文化勲章を受章した。

日本画家・杉山寧のお墓。

文化功労者、文化勲章を受章。

作家・三島由紀夫の岳父。

徳川慶喜墓所前の通り。

谷中墓地には前述したさくら通りという大きな通り以外に、

ぎんなん通り、ひょうたん横丁など、かわいらしい通り名が付けられている。

谷中基地にはブロック毎に番地があるので、比較的わかりやすい。

ここの霊園事務所では「谷中霊園案内図」が無料でいただけるらしい。

地図と著名人墓碑の一覧が載っているので便利だとか。

この霊園事務所前にも古い墓石が並んだ一群があり、

とても気になって事務所の方に尋ねたところ、

幕末の老中・備後福山藩主・阿部正弘と歴代の藩主(初代から10代まで)の墓所だとか。

谷中墓地の鉄道近くの御隠殿坂付近。

今回、渋沢栄一と徳川慶喜の足跡を訪ねて王子飛鳥山からここ谷中墓地に来て、

改めてその時代に思いを馳せることができたが、

墓マイラーとして谷中墓地に眠っている

300名ともいわれている著名人のお墓も巡ろうと思った。

しかし、かなりの疲労でそれは次回へとした。

ここで参考に谷中墓地に眠っている著名な方々を記してみます。

鳩山一郎一族、三木武吉、横山大観、佐々木信綱、横綱・柏戸剛、

宮城道雄、穂積重樹、重遠(渋沢栄一関係)、長谷川一夫、川上音二郎、鏑木清方、

そして伊達宗城(宇和島藩主)ほか、多くの各藩主。

御隠殿坂をさらに下っていくとJR京浜東北線、高崎線、宇都宮線、山手線の線路に出る。

その一帯はなぜかクリスチャンのお墓が多い。

この辺りは電車からよく見えるところだ。

遠くに見えるのが東京スカイツリー。

蛇足だが、谷中墓地の入口の所に時代の先端を行っている自動販売機を発見。

なんと新型コロナウイルスPCR検査キットだ。

新価格で4,800円だ。

売り主はレイクタウンたけのこ耳鼻咽喉科と書かれている。

なぜこんな所にこんなものが?

谷中墓地から帰路・日暮里駅へ向かう途中、都内の大動脈の鉄道を渡る歩道橋に、

ご覧のように多くの鉄道マニアのカメラマンがカメラを構えていた。

たぶんこの日、この時間に彼らにとって貴重な電車が通るのを待ち構えているのだろう。


徳川慶喜の足跡と渋沢栄一

2021-10-26 06:17:55 | 旅 ~東京

今日のブログが渋沢栄一の足跡を追った旅の最後になります。(とりあえず)

この旅で渋沢栄一を追っていくと

最後の将軍・徳川慶喜との関係、絆は想像を超えるものと改めて感じた。

その最たるものを今回ご紹介いたしましょう。

徳川慶喜終焉の地が、ここ文京区小日向の地(昔は第六天町といった)

だということを最近TVで知り訪ねてみた。

現在は国際仏教大学院大学の敷地になっている。

ご覧のように南東側の正門の所に「徳川慶喜公屋敷跡」の標柱がある。

敷地右手の坂を150mくらい上がった北門の所には「徳川慶喜終焉の地」の

説明板が立っているそうだが、残念ながら知らなかったので行かなかった。

そこには今でも屋敷大銀杏があるそうだ。

慶喜は大正2年(1913年)急性肺炎のため、この地で没した。

享年76歳。

ここには12年間住んだという。

因みにここに移る前は中仙道に面した巣鴨に住んでいた。

しかしここに豊島線目白-田端間(現在のJR山手線)が敷設されたため、

騒音を嫌って引越されたという。

ここには約4年間居住した。

この鉄道建設には渋沢栄一が深く係わっていたとは歴史の皮肉といえる。

これは小日向周辺の案内地図。

この前の巻石通りの所には江戸で最初に造られた神田上水が通っていた。

ここ高源山随自意院本性寺は東本願寺の末寺で

真宗大谷派に属し夏目漱石(金之助)の菩提時である。

夏目家は代々江戸の名主をつとめた。

明治14年に母、20年に長兄、次兄が本寺に葬られ、漱石もしばしば小日向を訪れた。

ここは徳川慶喜とその一族、一橋家のお墓がある谷中霊園。

そしてここには慶喜に最後まで心の中で仕え続けた

渋沢栄一とその家族のお墓もある。

この一枚は谷中霊園の桜通り。

ここを右に入ると渋沢栄一の墓地、左に入ると徳川慶喜の墓地がある。

こちらが德川慶喜公のご家族の墓所。

左側の墓所は公家出身の妻・美賀君。

そして一族の方々の墓。

大河ドラマ「青天を衝け」の影響であろうか、次から次へと墓参りに来られる人がいた。

従一位 勲一等 公爵 德川慶喜公の墓。

慶喜公の遺言により、葬儀は仏式ではなく神式で執り行われた。

これは明治天皇に対する感謝の表れと言われている。

この慶喜公の墓地に辿り着く前に、俗に言う「墓マイラー」

(有名人の墓を尋ね歩く人のこと)らしい2人の年配男性に

いかにも古い大きなお墓の前(この写真実はここは一橋家のお墓)で質問を受けた。

「ここは宇和島藩の藩主・伊達宗城のお墓でしょうか?」

スミダマンも墓マイラーの端くれだが、わからなかったので

「どうなんでしょうか?」と曖昧な返事をして別れた。

そうしたらしばらくして、もう1人の男性を連れてまた慶喜公の墓の前で会ってしまった。

実はこの男性がすごい方で(おそらく谷中墓地のガイドさんか?)

ここから知らない話、ビックリな話を約30分以上聞くことができた。

それは「この説明板のほとんどの事は皆知っている。

重要なのは真ん中あたりに書かれている4行ほどの内容です。」と言う。

それは「明治31年(1898年)には大政奉還以来30年ぶりに明治天皇に謁見しています。

明治35年(1902年)には公爵を受爵。

徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許され・・・」

この事が慶喜公の墓所がここにあることの理由ですと。

それでは何かの縁ですからご説明しましょうと言って鞄からこの写真集を取り出した。

本来将軍家は、ここ上野の寛永寺か芝の増上寺に埋葬されます。

しかし最後の将軍、言い方を変えれば徳川250年の歴史を大政奉還という形で

幕を閉じた慶喜には窺い知れない深い深い思いがあった。

それをせめて慶喜の子孫だけでも知ってもらいたいという

遺言みたいな気持ちでこの地を選んだ。

その背景には徳川宗家の16代を継いだ徳川家達から徳川慶喜宛の書簡が昨年発見された。

その書簡には慶喜に静岡から東京に3つの条件付で戻ってくるようにとの趣旨であった。

その最大の理由は宗家の財政的負担問題。

慶喜は家達との同居を除き2つの条件はのんで東京に来た。

慶喜と家達とは明治に入って一種の権力闘争が続いていた。

ここで渋沢栄一が時の桂太郎内閣に働きかけて従一位勲一等公爵の地位を獲得した。

このことは大きな意味があって宗家・家達よりワンランク上の立場になった。

明治天皇に謁見する時は慶喜は家達の1歩前に立つことができるということだ。

そして大正2年薨去した折、渋沢栄一が葬儀委員長になり、

寛永寺側と激しい交渉をした。

葬儀は寛永寺横に空いていた土地(今の上野中学の所)に急遽神社を造り、

そこで神式で葬儀を執り行ったという。

これは渋沢が寛永寺の総代を務めていた為、成せた技という。

上の写真はその時の神式の葬儀風景。

大正2年(1913年)11月30日、自宅の小日向邸を13時に出棺して

竹早町、伝通院前、本郷三丁目、元富士前、岩崎邸、

上野広小路、上野公園内を通って寛永寺内斎場に歩いて到着。

埋棺終了は22時ごろになったという。

慶喜は波乱万丈の人生を最終的に天皇家に捧げたと言ってよい。

これによって日本の内戦大混乱は避けられた。

もう一枚は慶喜がもっとも幸せだった時期、

明治35年(1902年)公爵受爵の年の一族との写真だ。

やはり谷中墓地にある(乙11号1側)渋沢家の墓所。

ここには栄一の孫・敬三ご夫婦の墓もある。

敬三は第16代日本銀行総裁、弊原内閣での大蔵大臣も務めた。

他に文化放送会長、KDD社長・会長、日本モンキーセンター会長も歴任。

昭和38年(1963年)67歳で没。

そして江戸時代末期に農民から武士に取り立てられ、

明治・大正・昭和期にかけて活躍した日本の実業家で、近代日本資本主義の指導者。

正二位 勲一等 子爵 渋沢栄一翁のお墓。

雅号は青淵。

天保11年(1840年)2月13日、日本武蔵国榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深谷市血洗島)生まれ、

昭和6年(1931年)11月11日、満91歳没。

お墓は栄一の人生を変えた徳川慶喜の墓所に向かって立っている。

まさに青天を衝いた人生であった。

 


浦和エリア旨い店シリーズ ~番外編361~

2021-10-25 06:26:50 | 食~番外編(県外)

天丼 あなごめし 関宿屋

千葉県松戸市本町7-2

TEL 047-361-0234

定休日 火曜日

https://www.sekiyadoya.com/

松戸の市街地の真ん中、旧水戸街道に面して明治38年、この地で蕎麦屋さんとして開店した。

元々は明治元年頃、流山で蕎麦屋として始まり、その後松戸に移転した。

当店の近くには姉妹店として、そば処「関やど」「せきやど治平鮨」がある。

ちょっと年季の入った落ち着いた雰囲気の

昭和の香りがする食事処といった感じの店内だ。

大きく2つのコーナーに分かれ、1つのコーナーの壁部分の飾り棚には

陶器とガラス器の器がコレクションのように並べられている。

奥には宴会用の座敷も用意されているようだ。

ちょっと失礼。

のれんの下から厨房の中をのぞいてしまいました。

こちらがお昼の天丼・うどんメニューとセットメニュー。

当店の売りは穴子と天婦羅のようだ。

壁には写真付きで季節のおつまみ単品メニューが貼られていた。

ここにも穴子煮こごり(1,100円)、穴ざく(酢の物・1,100円)、

甘えびや浅利のかき揚げ、生ガキや、

珍しいところでかきの天ぷらなどが並んでいる。

これが穴子めしセット(税込1,485円)。

穴子が当店の名物とあって見るからに美味しそう。

食感がサクッとしていて、一味も二味も違う。

これは高級な穴子だと断言できる逸品だ。

その上、穴子の煮こごり、穴子の湯葉巻きなど

当店ならではの添え物が付いている。

これがまたすごいんだナー。

デザートもゆず味の凝ったもの。

当店は松戸では代表的な料理店にちがいない。

上天丼(税込1,430円)。

相方曰く、見た目は普通の天丼だが、味は全く違う。

すごく美味しい。

具も帆立など珍しいものから当店売りの穴子など、

多彩な食材がびっしり入っている。

天丼もハイレベルの逸品だそうだ。

歴史を誇る当店の昭和10年頃の写真。

昭和初期を過ごした人が1人写っていて、

人から人へ引き継がれる、時の重みをこの写真は伝えている。

 


戸定邸(徳川昭武別邸)

2021-10-23 06:49:02 | 建物

http://www.city.matsudo.chiba.jp/index.html

明治維新により徳川家は権力の座を離れました。

明治以降の近代徳川家の住まいと庭園が一般公開されている唯一の場所が

ここ松戸市内にある戸定ヶ丘歴史公園です。

江戸幕府最後の将軍・德川慶喜(1837-1913)の弟・昭武(1853-1910)は

明治18年4月に戸定邸を建設し明治24年末に庭園の整備を終えました。

かつて7万㎡を超えていた敷地の約3分の1が現在、戸定ヶ丘歴史公園となっている。

園内には戸定邸(とじょうてい)を公開している

戸定歴史館やお茶室の松雲亭などがある。

茅葺の立派な門を入るとこんもり茂った緑あふれる林を通っていく。

ここはとても整備された歴史公園でとても気持ちが良い。

良い気が流れているのがわかる。

このスロープを登った左側に戸定歴史館がある。

戸定邸と庭園の公開や徳川昭武の遺品を中心とする

松戸徳川家伝来品、德川慶喜家伝来品、

1867年パリ万国博覧会関係資料の展示を行っている。

この日は数ヶ月に一度の展示替えのため残念ながら休館していた。

公園内のポイントポイントには、ひなげしの小径と称して、

このような歌碑が設置されていた。

この歌、与謝野晶子の歌で

「しもふさの 松戸におほく 楽みて少なく 愁ふ花のかたはら」

国指定重要文化財の戸定邸の玄関。

ススキの葉より風情を醸し出していた。

この戸定邸は明治時代の徳川家の住まいがほぼ完全に残る唯一の建物で、

純和風木造平屋一部二階建てだ。

造ったのは徳川昭武で1884年4月に座敷開きを行った。

その後増築を経て、現在は9棟が廊下で結ばれ部屋数は23を数える。

基本的には江戸時代の大名屋敷の系譜上にありながら、

徳川家が権力の座を離れたため、生活様式が大きく変化し、

規模は著しく縮小している。

玄関棟の受付の所にはまだ青年時代の徳川昭武の等身大の写真が置いてあった。

徳川昭武(1853年10月26日~1910年7月3日)は水戸藩主・斉昭の18男、

兄の慶喜は13歳の昭武を将軍家へ迎え、将軍候補の身分を与えて、

1867年パリ万国博覧会へ将軍大名として派遣した。

これはフランスとの連携で幕府の窮地を打開するためだった。

明治維新による帰国後、最後の水戸藩主となったが、結局は幻の将軍となった。

29歳の時、隠居。

華やかさを求めず、実質を重んじた彼の生涯は、

その美学が投撮された建物や庭園趣味であった写真などの文化財を残した。

これが戸定邸の平面図。

玄関棟、内蔵棟、表座敷棟、中座敷棟、奥座敷棟、離座敷棟、

湯殿棟、台所棟、使者の間棟になっている。

一部非公開の所もある。

玄関棟と表座敷棟の間の内蔵棟には扉と扉枠が頑丈なモルタルでできた蔵があり、

中に徳川家の紋である三ツ葉葵が付いた長持が保管されていた。

内蔵棟から表座敷棟へ向かう長い廊下。

ガラス戸の右側は中庭になっている。

平成15年3月31日、その当時の皇后さまが松戸市戸定歴史館に行啓された時の写真。

中庭の先には非公開の2階建ての台所棟がひときわ目立って見えた。

この建物にはシティガイドというボランティアのガイドさんがいる。

今回たまたま男性の年配者のガイドさんと

この女性のガイドさん2人の話を聞くことができた。

特にこの女性の説明は素晴らしく、前は学校の教師でもされたのですか?

と聞いたところ、全くの主婦ですとのこと。

本当にこの建物に誇りを感じ歴史が好きなのだナーと感心した。

因みに慶喜、昭武兄弟の年齢差は16歳も離れている。

広い広い表座敷から建物のこと、庭園のことなどの説明を男性ガイドさんから聞く。

特に昭武は芝生の庭と建物との調和に心血を注いだ。

洋風技法による芝生面は我が国現存最古で、

樹木の木立を重要景観に取り入れる手法は類例がないという。

部屋の欄間に彫られているのは二ツ葉葵。

そして釘隠しには四ツ葉葵を使用している。

これは徳川宗家の三ツ葉葵を意識して

1歩謙虚な気持ちを葵の紋でも表しているとのこと。

表座敷の床の間には德川慶喜所用の甲冑を模したものを飾っている。

庭の西側には理由は忘れたが桐の木を植栽したとか。

2ヶ所のこの木は何か他とは違う空間を作っていた。

ここは表座敷の裏の生活の場。

大正10年以降に増築した部分で昭武孫夫婦は新婚生活時代に朝の洗面所として使っていた。

大きな部屋の廊下に1本の洗い杉丸太が使われていてすごく立派だ。

こちらは中座敷棟(衣装の間と化粧の間)、そして奥座敷棟(八重の間)。

こちらの丸窓はとても印象的だ。

湯殿棟の浴室。

この浴槽は昭和初期のもので昭武の時代のものではない。

この部屋は「使者の間」。

昭武にとって他の華族家や皇族との交際は重要な位置を占めていた。

使者の間は他家からの使者の接遇や賓客の御供のために使われた。

賓客は玄関から、使者や御供は玄関の南にある内玄関を利用した。

この部屋の欄間のデザインはコウモリだ。

大河ドラマ「青天を衝け」での徳川昭武の役を演じた俳優・板垣李光人さんが

戸定邸・庭園を訪問した時の写真。

戸定邸の脇沿いからのスナップ。

途中から本当に広々とした東屋庭園に出る。

松戸市は平成25年にこの土地を買い戻し、平成28年から2年をかけて復元工事を行った。

松木立ちの中に建つ東屋は高さを実感させる崖沿いに建ち、

ここからは松戸の街並みはもちろん、江戸川、

そして晴れた日には富士山の絶景を楽しむことができる。

それにしても松戸がこれほど起状のある街とは知らなかった。

改めて変化に富んだ素敵な街だと認識した。

こちらはお茶室の松雲亭。

ゆったりと戸定ヶ丘歴史公園を堪能して園を出ると、

素朴だが味のある戸定売店がスミダマンを待っていた。

ここは千葉県各地、松戸、そして交流のある鳥取県の名産(ex.らっきょう)から

お勧めの品を厳選して販売している。

当店が出すコーヒーは渋沢栄一がパリ万博視察の旅程で

出会ったコーヒーをサザコーヒーが再現。

このコーヒーを幕末から維新の時代にタイムスリップして味わうことができる。

歴史と出会う小さな旅は本当に至福の旅、贅沢な旅だ。

 

 


浦和エリア旨い店シリーズ ~番外編360~

2021-10-22 06:21:00 | 食~番外編(都内)

おでん 平澤かまぼこ 王子駅前店

東京都北区岸町1-1-10 NUビル1F

TEL 03-5924-3773

定休日 祝日

https://odendane.com/hirasawa/

王子駅北口から徒歩1分、ほぼ駅前のところにある、おでんの立呑み屋さん。

平成11年(1991年)にオープンした王子駅前店。

本店は昭和37年(1962年)に北区神谷で創業したかまぼこメーカーだ。

写真の右側にチラッと写っている「らーめんえんや」は

2016-8-8付、番外編114でアップした店だ。

これが店内の様子。

立呑みでカウンター席のみ。

7~8人くらいで密状態に。

10人も入ったらおしくらまんじゅうでクラスターの危険ありだ。

ここは下町の雰囲気に満ちてワイワイ言いながら

美味しいおでんとお酒を飲みたい人に最高の所のようだ。

帰りがけにチェックのシャツを着たおじさんが話しかけてきた。

「ここ旨いでしょう!

近くに住んでいるんでしょっちゅう来ているんですヨ。」

帰りがけで良かった。

ここに来るまでかなり歩いたので立呑みはちょっときつかったので。

当店はかまぼこの製造元直営なだけに他店にないオリジナルの種が多いとか。

いくつかのセールスポイントがあるようだが、

だしは工場で作り、店頭で薄めて鍋に継ぎ足す。

だしのベースは煮干しと昔から変わらないこだわりの調味料。

そこに30種類ものおでんダネから滲み出る旨味が加わって

なんとも言えない奥の深い味になるとか。

また、季節によって塩気も調整するらしい。

おでん種は100円が6種、150円が3種、200円が10種、250円が6種で全部で25種。

それ以外に鳥皮煮込み350円、蒲鉾源氏巻などがある。

また、伝統の手造りさつま揚げ、手取り半ぺんが気になるメニューだ。

カウンターとメニュー看板の間にはコロナ感染防止の為のビニール帯が全面掛けられ、

店員とのやりとりも聞きづらかった。

これが第1回戦で頼んだおでんと生ビール。

大根(100円)と半ぺん(150円)とやさいつみれ(200円)。

スミダマンにとっておでんで大根は必須。

ここのは出汁のせいか全体的に白っぽい。

半ぺんは当店の売りの1つで2種類のサメのすり身肉に対して

10%の大和芋、卵白を混ぜ2時間かけて手作りするそうだ。

ふんわりした食感で水に浮くほど軽いため、浮き半ぺんと呼ばれるとか。

お腹の具合と相談しながら一品一品追加していく。

当店の会計システムはその都度精算していく方式だ。

昆布(100円)とウインナー巻(200円)。

そして、うずら巻(200円)で終了。

 

 

 

 


飛鳥山公園

2021-10-21 05:57:29 | 自然

京浜東北線・王子駅のホームから飛鳥山方面を撮る。

山の右側に見えるのが飛鳥山公園モノレールのスロープカー。

王子駅・中央口改札を出るともうそこはNHK大河ドラマ「青天を衝け」の世界。

王子飛鳥山は渋沢翁のテーマパークだ。

各メインの役のアニメイラストがかっこよく迎えてくれる。

これが今、脚光を浴びている飛鳥山公園の案内図。

この公園に渋沢翁に関連する施設は7つもある。

飛鳥山公園に登るのにスロープカーを利用しようと

乗り口に行ったところ10:00から運転開始とのこと。

約30分も早く着いてしまった為、この登り坂を歩くことになってしまった。

登り道の道中にはずーっと大河ドラマ館ののぼり旗が立ち、

この山は「青天を衝け」のお祭り一色といった感じだ。

平成21年(2009年)に開通した飛鳥山公園モノレールのスロープカー。

愛称をアスカルゴと言うらしい。

あのエスカルゴとアスカ山と重ねて付けたのではないかと勝手に想像してしまった。

以前、よく電車からこの乗り物を見て、

なんでこんなオモチャみたいなものを作ったのだろうと思ったが、

確かに来てみると王子駅から飛鳥山に登るには

年配者にはちょっと無理かもしれないと痛感した。

最後の2枚の写真を見てもらうとわかると思いますが、

山頂から見る眼下の風景は絶景でありました。

真下に走っているのが唯一残った都電であります。

王子駅の上には北陸新幹線の雄姿も見えます。

飛鳥山という小高い丘は都内では港区の愛宕山(25.7m)の次に高い25.4mあり、

よく考えたらここだけがこんもりした丘で

都内では珍しい地形かもしれない。

飛鳥山公園は現在北区立の公園で面積は7万3,000㎥(約2万2,000坪ほど)もある。

江戸享保期に8代将軍・徳川吉宗が享保の改革の一環として

整備、造成を行い、1720年から翌年にかけて1,270本の桜を植えられた。

それにより都内でも指折りの桜の名所の1つになった。

当公園は明治6年(1873年)、上野公園、芝公園、浅草公園、深川公園とともに

日本最初の公園の1つに指定された。

現在の飛鳥山公園は博物館、庭園、野外ステージ、児童公園、噴水などの設備が整えられ、

本当に素晴らしい公園になったと久し振りに探索をして感じた。

飛鳥山公園内には、ご覧のように多くの石碑、像などある。

2枚目の写真は桜の賦の碑で明治14年(1881年)に建立された。

佐久間象山の書いた「桜賦」を、門弟・勝海舟の意で碑にしたものとか。

3枚目の写真は飛鳥山碑といって元文2年(1881年)に建立、

飛鳥山の由来を記したものであまりに難解な漢文であるため、

江戸時代は読めない碑として知られた。

公園の真ん中あたりには子供が喜びそうな児童公園がある。

センターにすべり台ができるお城のようなもの。

大きな象と小さな動物達、都心では貴重な野外で親子が触れあえる場所だ。

この児童公園を囲むように都電6080と蒸気機関車D51が展示されていた。

この都電は昭和53年4月まで飛鳥山公園脇の荒川線を走っていた車両だ。

この6000型は戦後はじめての新造車で昭和42年に製造されたもの。

一方のD51(デコイチ)は昭和18年の製造で

昭和47年に廃車になるまで1,942,471.3km走ったそうだ。

運転席に上がるとすごい迫力があった。

大河ドラマ館(北区飛鳥山博物館)と渋沢史料館の間にあるこの像は

長崎の平和祈念像を作った北村西望氏の作品で「平和の女神像」。

この像は日本と中国の国交正常化を記念して

人類の理想である平和と幸福を願って1974年に建立された。

平成10年(1998年)に開館した「紙の博物館」。

ここは世界でも有数の紙専門博物館で、

日本最初の洋紙工場だった旧王子製紙の収蔵資料を引き継ぎ、

1950年に製紙記念館として設立され、この地に移転してきた。

児童公園隣りから南に広がる旧渋沢庭園の一角には、

このようにテントを張り、ミニキャンプ(?)を楽しんでいる人々がいた。

一方、当公園は絶好の犬の散歩場所。

たまたま同じ柴犬を連れた男性達がしばらく立ち止まって

犬同士がにらめっこしていた姿が絵になっていた。

こちらでは中国風の組手(カンフー?)の練習を熱心に続けていた男性同士をパチリ。

広い公園の中では様々な時を過ごしている人達が休日を楽しんでいた。

ランチを終えて明治通りから飛鳥山を眺めた1枚。

正面に見える和風の建物は飛鳥山交番。

桜の季節はここからの眺めはさぞ素晴らしいことでしょう。

それにしても空の電線と道路の線路、気になりませんか?

答えは都電が走っているからです。

都内で唯一残った都電荒川線(東京さくらトラム)は三ノ輪橋から早稲田まで。

ここ本郷通りから右に迂回して専用線路へ。

このグッドポイントで写真を撮ろうと

カメラマンがずーっとここの場所で待ち構えていた。

それにしてもこの車両のラッピングはすごいですネー。

「青天を衝け」です。

 

 


青淵文庫と晩香廬

2021-10-20 06:07:00 | 建物

この青淵文庫(せいえんぶんこ)は渋沢栄一の80歳のお祝いと、

男爵から子爵に昇格した祝いを兼ねて竜門社(公益財団法人 渋沢栄一記念財団の前身)が

寄贈した煉瓦及び鉄筋コンクリート造の建物です。

1925年(大正14年)の竣工で、栄一の書庫として、また接客の場としても使用されました。

文庫前の庭も芝生の広々とした庭で

周囲の樹々の中で素晴らしい空間を造っています。

(晴れた日と曇りの日、2回行ったので写真も2タイプのものがあるので悪しからず)

この建物の外壁には月出石(伊豆天城産の白色安山岩)を貼り、

列柱を持つ中央開口部には色付けした陶板が用いられている。

ステンドグラスは渋沢家の家紋「違い柏」と竜門社を示す竜をデザインしたという。

このように青淵文庫は色鮮やかな壁面で構成されていて見る人の目を引き留める。

文庫の中に入ると1階は閲覧室、記念品陳列室等があり、

2階は書庫になっているようだが、上には行けない。

内部の造りも外部に負けない重厚で上品な空気が流れていた。

特に奥の部屋のステンドグラスと陶板のコラボは素晴らしい。

ここも事前予約制の為、来館者がほとんどいなく、ゆっくりと見学することができた。

館内には栄一等身大の写真が貼られ、自己紹介のようなコメントがあった。

それによると雅号の「青淵(せいえん)」とは従兄で学問の師匠でもある尾高惇忠が名付けた。

食事は好き嫌いなく何でも食べた。

晩年はオートミールを毎日食べた。

煙草は病気を患ってやめ、酒はフランス帰国後は少し飲んだが、その後は全く飲まなくなった。

趣味は読書。

また、書を書くことは非常に多い。

性格は温和で「怒ということを忘れられたのでは無いか」と評されることもある。

もう一つ壁に面白いものを発見。

大正13年10月16日(木)の栄一の予定表が貼り出されていた。

朝8時から来客、以後は午後2時まで6人の方と会う。

午後4時から奉賛会の役員会、午後6時から宮様とご面談(略服で)

栄一本人が「書」を書くことが多いと言った通り、さまざまな所で栄一の書をみることがある。

ここにも2本の掛軸が下っていた。

そしてさらに、ここにも渋沢栄一の胸像があった。

どれも微妙に顔が違う。

この胸像も然りだ。

こちらの部屋では壁に栄一の言葉フレーズを映写していた。

庭の片隅にレンガ造の露台基礎と露台下より出土した「まぐさ」の建築資料。

晴れの日の青淵文庫。(国の重要文化財)

この建物の設計は以前紹介した深谷の誠之堂、次に紹介する晩香廬を設計した田辺淳吉氏。

氏は清水組(現在の清水建設)から独立してこの建物を設計した。

しかも最晩年の作品(47歳 没)

この建物は栄一への尊敬と祝意がデザインに盛り込まれている。

この晩香廬(ばんこうろ)は渋沢栄一の喜寿を祝って現在の清水建設(株)が贈った洋風茶室だ。

1917年(大正6年)の竣工で国の重要文化財に指定されている。

この建物は内外の賓客を迎えるレセプション・ルームとして使用された。

この建物も前述した田辺淳吉が設計した。

丈夫な栗材を用いて丹念に作られ、暖炉、薪入れ、火鉢などの調度品、

机、椅子などの家具にも設計者の細やかな心遣いが見られる。

旧渋沢庭園の一角にさりげなく渋沢栄一の銅像が立っていた。

「オッ、ここにもか!」と思うほど、今まで渋沢栄一の銅像、胸像を見てきた。

こんなに多くの銅像がある偉人も珍しいのではないでしょうか。

旧渋沢庭園の中には兜稲荷社跡もある。

日本橋兜町の第一銀行構内にあった洋風の珍しい社だ。

1897年(明治30年)の第一銀行改築時に現在地に移築された。

渋沢✕北区 飛鳥山おみやげ館。

このショップは渋沢栄一グッズ一色。

よくぞここまでグッズを開発したものだと感心してしまう。

隣りの自販機まで栄チャンデザインになっている。

「青天を衝け」のメイン登場人物をアニメ化すると全くイメージが変わってしまう。

アニメの力、恐るべし!

 


渋沢史料館

2021-10-19 06:12:41 | 建物

https://www.shibusawa.or.jp/museum/

王子飛鳥山公園内にあるこの史料館は渋沢栄一の活動を

広く紹介する博物館として1982年(昭和57年)に開館した。

ここはかつて栄一が住んでいた旧渋沢邸跡で

公益財団法人 渋沢栄一記念財団が運営をしている。

まさにここは渋沢栄一に会える場所だ。

入り口横には渋沢栄一の珍しい石像があった。

この像の顔はあまり栄一に似ていないような気がする。

それにしても渋沢栄一の銅像、レリーフの数が多いのにはビックリだ。

それだけ人々に慕われている証だろう。

当館のある意味すごいのはウェブサイトによる事前予約制をとっていることだ。

いきなりの当日入館はできない。

この為、飛鳥山には続けて2回も来てしまった。

ブログテーマによってはこの2日分の写真を掲載しているので悪しからず。

因みに事前予約を取ると当館以外に青淵文庫・晩香蘆の入館もセットになっている。

入館すると早速、青淵渋沢栄一の胸像とご対面。

今日も渋沢翁を学ばせていただきます。

1階には映像のコーナーがあり、事前予約制の恩恵を受け、

この部屋を独占してしまった。

上映スケジュールは「ひ孫が語る渋沢栄一」「ご来館のみなさまへ」

「施設紹介」の3本を10分毎に流していた。

この方が栄一のひ孫の渋沢雅英さん。

現在96歳でカクシャクとお話をされていた。

栄一に抱かれているのが雅英さん。

生前の栄一は全く記憶にないが、栄一の葬儀の模様は覚えている。

数十台の車が続き、沿道には2万人の国民が参列していた。

栄一の位牌を持っているのが雅英さんの父・渋沢敬三氏。

氏は第16代日本銀行総裁・幣原内閣の大蔵大臣を務めた。

2階の展示室では渋沢栄一の幼い時代から91歳で亡くなるまでの1年ごとの出来事を

写真と資料を中心にとても丁寧でコンパクトにまとめて展示され、

わかりやすく中身が非常に濃い内容であった。

大変興味のある渋沢家の家系図。

今までも深谷市や大河ドラマで知る機会が増えたが、

改めてしみじみ見ると中の家・渋沢家は前の家から始まり、東の家に分かれ、

そこから古新宅、新屋敷が生まれ、尾高家と縁威になり、

そして栄一の時代になり写真に出ている子供、孫達が出てくる。

この家系は六代に渡るものだ。

栄一が若い時に過ごした深谷・血洗島の中の家。

尾高惇忠の生家など、みな訪ねたところで、写真を見るとより臨場感を感じてしまう。

嘉永4年、神道無念流剣術を学ぶ栄一等の試合記録。

4月12日・尾高新五郎(惇忠)、渋沢喜作、大川平兵衛(川越藩・剣術師範)、

渋沢新三郎(4代目・宗助)らとともに試合を行ったことがみえる。

栄治郎が栄一。

栄一21歳から25歳までのコーナー。

江戸へ出て学ぶ。

高崎城乗っ取り計画と中止、京都へ。

一橋家家臣となる。

「青天を衝け」で京都まで一緒に栄一と行動を共にし、

一橋慶喜に仕え、運命の分かれ前、栄一はパリへ。

そしてこの喜作は彰義隊の頭取になり箱館で榎本武場、土方歳三とともに官軍と戦い、

明治に入って実業界に転じた渋沢喜作。

右側の川村恵十郎も栄一にとって運命を変えた人。

文久3年9月、一橋家より内命を受け人材募集活動をする中で栄一と喜作と出会い、

慶喜側近の平岡円四郎に紹介、栄一らが一橋家に仕官するきっかけを作った人。

左側は浦賀奉行支配組頭時代の黒川嘉兵衛。

渋沢栄一熟年期以降の写真集。

栄一の写真は相当多く残されている。

動画映像も多くあり、動乱の幕末を過ごしてきた人とは思えない。

栄一26歳から33歳のコーナー。

26歳の前でしゃがんでいる男性は、ことのほか熱心で、

一つの年齢にずっと立ち止まって動かない。

この人も渋沢栄一にハマった方なのだろう。

福井藩主・松平春嶽、土佐藩主・山内容堂、薩摩藩主・島津斉彬とともに

「四賢候」と謳われた、宇和島藩主・伊達宗城と、

大河ドラマ「青天を衝け」でも栄一の上司となる

大蔵省改正掛・民部大輔兼大蔵大輔の大隈重信(早稲田大学創立者)。

小さくてわかりにくいが大蔵省時代の渋沢栄一。

この写真は初めて見た。

渋沢栄一と三井組の人々。

前列右より2人目が栄一で、左には三井高福、右には三野村(イッセー尾形役)。

第一国立銀行第2代頭取の佐々木勇之助と渋沢家秘書役の芝崎確次郎。

振武軍として飯能戦争を戦った。

栄一43歳から48歳まで。

この資料を見ているとまさに脂の乗っている時代。

セメント、鉄道、ガス、紡績、レンガ、ビールなど名だたる企業を設立した時代。

明治16年、工務省工作局長の大鳥圭介が栄一に宛てた書簡。

深川セメント工場を浅野総一郎に貸下げることを決定した感謝の意を伝えている。

先日ブログアップした日本煉瓦製造会社の資料。

秩父セメントの設立者・諸井恒平の写真と書類。

(書類の中の諸井の印鑑の朱肉の色がなんと生々しいことか)

明治26年、日本郵船(株)の臨時総会が栄一の尽力で

無事終了したことに対する岩崎弥之助の書簡。

男爵を授けられ、大礼服を着用して皇居に参内した渋沢栄一。

パリで撮ったシルクハット姿の栄一に比べて

この写真は立派で絵になっている(偉そうで失礼しました。)

埼玉県河原井村(久喜市)出身の林学学者・本多静六(日比谷公園、明治神宮外苑などを設計)。

氏からの依頼で埼玉県出身学生のための育栄組織「埼玉学生誘掖会」

創立に尽力し、会頭となった。

栄一と徳川慶喜の師弟関係はものすごい。

この具体的な内容は後日、「慶喜の足跡の旅」ブログで詳しくアップしたいと思います。

栄一は古希を機会に多くの企業や団体の役職・役員を辞任。

大正5年には数え年で喜寿を迎えたことから、

すべてを後進に譲り、実業界から引退した。

以後栄一は社会公共事業に専念することを決意した。

80歳を過ぎ子爵となったが、栄一は自身の活動を止めることなく、

社会事業家として協力や支援を惜しまなかった。

そして生涯の使命として日米問題に取り組んだ。

渋沢史料館

昭和5年5月30日、米国大使の臨席を得て

アメリカグラント将軍植樹記念碑の除幕式の時の映画。

亡くなる前年の渋沢栄一の映像としては貴重だ。

この時(2021年9月25日から2022年1月30日)は企画展として

「渋沢栄一から妻・千代への手紙」展が行われていた。

これを見ると栄一は実に筆まめで多くの手紙を妻・千代に出していたのがわかる。

こちらが栄一の妻・千代の写真。

大河ドラマでは橋本愛が演じている。

千代は栄一のいとこで尾高惇忠の妹。

明治25年、コレラにより42歳で亡くなった。

それにしてもこの大量の手紙を千代は大事に保管していたのだろう。

この書簡は慶応3年5月15日、無事にパリに到着したことなどを記している。

手紙本体とその原文を起こしたもの、

そして抄訳したものの3セットが数多く展示されていた。

もう1つ、明治2年6月20日の書簡を紹介しましょう。

「東京出張中に書き送ったもの。土産物の購入などの近況報告のほか、

徳川昭武に面会して帷子白絣と羽二重を頂戴したことなどを述べている。」

それ以外にも興味深いことが書かれていますが、

この抄訳は読めそうなので是非ご一読ください。

とにかくかなりの量の手紙が紹介されているので、

もっと読みたい方は2022年1月30日までこの企画が開いていますので

飛鳥山を訪ねてみてください。

それ以外にも娘の歌子さんの目から見た

栄一、千代、家族のエピソードが多く展示されています。

「父・栄一と母・千代の結婚について」「私の母・千代」

「父と母の決心・私の誕生」「父の仕官、母との再会」

「父から母へ贈られた懐剣」「母のお手箱」「父のフランス行き」

「父の写真・母の驚き」「父への送金、母の帯」「静岡での生活」

「東京での新生活」「喜びと悲しみ」「父と母の日常」などです。

この方が栄一と千代の長女・歌子。

明治15年7月14日に母・千代が亡くなった悲しみを心から綴った文章もありました。