今回で3回目、最後の青山墓地レポートになった。
(2016-6-3付PARTⅠ、2019-2-24付PARTⅡ(その1)、
2019-2-25付PARTⅡ(その2)を参照してください。)



前回のブログには、「青山墓地は桜の隠れた名所。次回は桜が
咲いている時に行くつもり」と書いたが、そのタイミングが来た。
この日(4月6日土曜日)は絶妙の花見日和、ソメイヨシノは
満開でこの世のものとは思えぬ程美しかった。
青山墓地の真ん中を走るメイン通りの北中央通入口と
東西通りの交差点あたりで撮ったもの。中央通りは両サイドに
桜の木が茂り、桜の花のトンネルに成っていた。

今度は青山陸橋から東京ミッドタウン方面の桜並木


墓地内の脇道に入っても桜並木は続いていた。
これ程桜の木があるとは、咲いてみなければ分からない。
本当に素晴らしい光景だ。


この区道は一方通行で、交通量も少ない。ご覧のように
道路のセンターに出て、モデルらしき女性のミニ撮影会もどきが行なわれていた。

前回アップした巨大な大久保利通公の墓の隣りに
ひっそり隠れているような中村太郎の墓と大久保家・馬の墓。
中村太郎(1852?-1878)は大阪(一説には大井川付近)で
大久保利通と出逢いその人柄を見込まれて従僕として
召し抱えられた。身寄りが無く、中村太郎の名は
大久保公から賜ったものと伝えられている。大久保公の
馭者を務めていたため明治11年5月14日に清水谷
(現在の千代田区紀尾井町)で難に遭い、短い生涯を終えた。
又、遭難時に馬車を牽いていたら馬も命を落とした。
後に、手綱を握った中村と共に大久保公に寄り添うように
この地に眠っている。(2018-6-9付ブログ参照)

前回見つからなかった元外務大臣松岡洋右のお墓。
1880年(明治13年)、山口県で生まれ、アメリカへ留学した
日本の外交官、政治家。満州国では満鉄の総裁となり
その後日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、
日ソ中立条約の締結など、第二次世界大戦前夜の
日本外交の重要な局面に代表的な外交官、外務大臣として関与した。
敗戦後、極東国際軍事裁判の公判中に病死した。
1946年6月27日没(66歳)。墓石を見るとカトリック信者で
洗礼名はヨゼフであった。


外国人墓地を覗くと外国人の方が何人もいて、墓誌などを真剣に見ていた。
東京在住の方なのか、観光客なのか分からないが
熱心に読んでいる姿が妙に印象的だった。
又、大きな紅白の花桃も満開でまさに春爛漫だ。


遠くから見て一際大きい墓石があったので、誰だろうと行ってみたら
今NHKの大河ドラマ「いだてん(韋駄天)」に
登場する三島通庸と妻和歌子のお墓だった。
この様な出会いがあるから、やめられない。
三島通庸は薩摩出身で大久保利通に可愛がられ精忠組のメンバーとして
血なまぐさい幕末を生き抜いてきた本物の志士だ。
明治時代に入り内務官僚として山形、福島、栃木の県令を
務め鬼県令と言われてきた。その後第5代警視総監も務めた。
妻和歌子も薩摩の出身で女西郷と異名を馳せ、
大河ドラマ「いだてん」にも登場している。
長男弥太郎は第8代日本銀行総裁、そして五男の弥彦は
金栗四三とともに日本人初のオリンピック選手、
短距離ランナーとしてストックホルム大会に出場している。
尚小説家の三島由紀夫は親戚にあたる。

そして又々ビックリした出会いがあった。この大きな三島家の墓を
しみじみ見て目を移した時隣り和田家の墓石と墓誌を見たら
昔父親の葬儀等でお世話に成ったさがみ典礼(葬儀社)の
創始者和田昌也氏のお墓を発見。偶然にもこういう再会があるのかと鳥肌がたった。

日本の海軍軍人広瀬武夫中佐のお墓。(1889年-1904年)
日露戦争 旅順港閉塞作戦に参戦、部下の杉野上等兵曹を助けるため、
福井丸に戻り、救命ボートに乗り移ろうとした直後、
頭部にロシア軍の砲弾の直撃を戦死。日本初の軍神となり
出身地の大分県竹田市に広瀬を祀る広瀬神社が創建された。
10数年前、旅でこの神社の前を通ったのを思い出した。
左側の墓は兄勝比呂海軍少将。


今回の青山墓地参拝でお会いしたかった一人が司馬遼太郎の
歴史小説「坂の上の雲」の3人の主人公の一人秋山好古氏に
会うことだった。実は過去が過去2回の経験でお墓を捜すのが
意外に大変で今回、花見をかねて知人を誘った。2人で手分けして
何人かの墓を見つけたがその1人がこの秋山好古の墓だった。
墓石を見るとまだ新しく墓誌を見てようやく分かった。
秋山好古陸軍大将は伊予国(現愛媛県松山市)で誕生し
弟の海軍中将真之氏とは秋山兄弟として有名だ。
好古は「日本騎兵の父」と云われた。その後、教育者として
故郷の私立北予中学校(現・愛媛県立松山北高校)の校長を
死去の半年前まで務めた。弟の秋山真之は日露戦争の
日本海海戦で連合艦隊先任参謀として東郷平八郎長官と
勝利に貢献した。「帝国ノ興発此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」
のZ旗信号「本日天気晴天ナレドモ浪高シ」の報告電報を打ったことでも知られている。
尚、坂の上の雲のもう一人の主人公は正岡子規だ。

北里柴三郎(1853年(嘉永5年)~1931年(昭和6年))は
熊本県阿蘇郡小国町で生まれた日本の医学者、細菌学者である。
貴族院議員・従二位・勲一等・男爵・医学博士。
第1回ノーベル生理学・医学賞の最終候補者にも選ばれた。
「日本の細菌学の父」として知られぺスト菌を発見し、破傷風の治療法を
開発するなど感染症医学の発展に貢献した。


青山墓地訪問の3日後にビックニュースが飛び込んできた。5年後に紙幣の
デザインを変えるとの麻生財務大臣の記者会見。その中で1,000円札は
この北里柴三郎の肖像になるとか。これには驚いた。発表後
こちらの墓に墓参りする人が大勢来たに違いない。因みに1万円札は
埼玉県が生んだ偉人渋沢栄一、5,000円札は津田梅子に変わる。

長岡半太郎(1865年(慶応元年)~1950年(昭和25円年))は日本の物理学者。
土星型原子モデルの提唱などの学問的業績を残した。
初代大阪帝国大学総長、帝国学士院院長、第一回文化勲章受賞。本多光太郎、
鈴木梅太郎と共に理系の三太郎と称される。

会津藩士で明治時代の陸軍軍人山川浩(1845年弘化2年―1898年明治31年)。
山川兄弟として有名で、弟山川健次郎は東京帝国大学、京都帝国大学両総長
九州帝国大学の初代総長を務めた。又妹の大山捨松は大山厳の妻だ。

日本の小説家、詩人、ジャーナリストの国木田独歩(明治4年~明治41)の墓。
田山花袋、柳田國男らと知り合い「独歩吟」を発表。
「武蔵野」といった浪漫的な作品の後「春の鳥」「竹の木戸」などの
自然主義文学の先駆とされる。現在も続いている雑誌
「婦人画報」の創建者でもある。

第27代内閣総理大臣を務めた浜口雄幸(明治3年―昭和6年)の墓。
立憲民政党総裁も歴任した。氏は明治生まれで初の内閣総理大臣となった。
その風貌からライオン宰相と呼ばれ、大衆に親しまれた首相であった。
昭和5年11月14日、特急に乗るため、東京駅のホームで
右翼に銃撃されたが一命を取り留めた。


吉田茂内閣総理大臣のお墓も近くにあるということで随分捜したが
とうとう見つからず、近くを散歩していたオバアチャンに聞いた所
わざわざ案内してくれた。このオバアチャンは近所の石屋さんの方で
毎日のように青山墓地を散歩してるとの事。
彼女曰く「吉田さんのお墓は移転しましたヨ」成程それでは分からない。
隣りには元総理大臣、現財務大臣麻生太郎の父母の麻生太賀吉・
和子の墓があった。太賀吉は実業家で麻生セメントのオーナーだ。
妻和子は吉田茂元首相の三女。

このオバアチャンに御木本幸吉のお墓の場所も尋ねた所
親切にも連れて行ってくれた。以前アップした敷地内にあり
墓石も真新しい。たぶん新しく造り替えたのではないか。
以上3回に渡って青山墓地に眠る歴史上の人物。有名人50名を紹介してきた。
時代は幕末から戦後までこの墓地には日本の歴史が
凝縮されており、やはりすごく重いものを感じざるを得ない。
青山墓地は約26haの広さがあり、約12万人の故人が静かに眠っている。
改めてこんなすごい所はそうわ無いとしみじみ思った。