goo blog サービス終了のお知らせ 

スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

映画 Fukushima 50

2020-03-17 06:33:53 | 地震

3月6日(金)から公開になった松竹製作の映画

「Fukushima50(フクシマ フィフティ)」を見て来た。

あれから丁度9年、2011年3月11日午後2時46分

東日本を襲った大地震と巨大津波が起きた日から時が過ぎた。

この映画は日本中、いや世界中を震撼させた

福島第一原発の知られざる真実の物語を映画化したものである。

原作は2015年7月10日付でブログアップした

ジャーナリスト・ノンフィクション作家の門田隆将氏が書いた

「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の500日」。

(是非もう一度このブログを読んで下さい)

私が門田氏の講演を聞いた内容がほとんど忠実に映画化されていた。

そこに総理官邸の動きと駐日アメリカ大使館、在日米軍

そして地元富岡町の住民たちが織りなすことにより、

よりすさまじいストーリーに仕上がっていた。

舞台の福島第一原発はたぶんセットでCGを駆使したのだろうが、

まるで現地でロケをしたような迫力。思わず2年前に

福島第一原発を視察に行った時に目に焼き付いた風景とダブって

臨場感のあるすごい迫力で迫って来た。

(2018年10月30日付ブログ 福島第一原発視察を是非参照して下さい。)

映画『Fukushima 50』(フクシマフィフティ)予告編

映画『Fukushima 50』(フクシマフィフティ)、3月6日(金)公開。 2011年3月11日午後2時46分、東日本大震災が発生。福島第...

YouTube

 

 

吉田昌郎1F所長(本部長)役には渡辺謙が、

伊崎利夫中央制御室第1・2号機の当直長役には佐藤浩市がそれぞれ演じた。

物語は東京電力福島第一原子力発電所で

原子炉の暴走を止めるために奮闘した作業員らの姿を描いたストーリーで

ほとんどの日本人がおそらく知らない真実の緊迫の状況が続くとともに

人間とは何なのか?日本人とは何なのか?

家族とは何なのか?ふるさととは何なのか?原発とは何なのか?組織とは何なのか?

映画に入り込むことによって色々なことが自分に問いかけてくる。

途中から今迄のブログのバックグラウンドもあって

最後まで涙が止まらなくなってしまいました。

あの大惨事から9年が経って現在日本だけでなく世界中が

新型コロナウイルスへの不安、不気味さに翻弄されている中で

この映画は多くの教訓を教えてくれる。

製作した若松監督も「作業員の人間模様を描いて

日本人とは何かを表現した。多くの日本人に見てほしい。」と言っている。

今日この様に居られるのも(最悪東日本5000万人の人々避難せざるを得ない状況が想定された)

9年前に福島第一原発の作業員たちが決死の作業を行い、

最後は神がかり的にこの国を救ったという事実を知るべきであると思います。

是非皆さん「Fukushima50」を見て下さい。


福島第一原発視察

2018-10-30 05:34:13 | 地震

今回の研修の最大の目玉、福島第一原発の視察に行って来た。

東電のイメージアップ戦略の為か予想以上に現場の

ど真ん中まで視察ができ、正直ビックリした。

その反面セキュリーティーの厳しさに大変驚いた。

宿泊先から福島原発のある大熊町、双葉町に近づいてくると

風景が一変してくる。田畑は荒れて草がボウボウと伸び放題。

そしてその地に太陽光パネルの設置が目についてくる。

きっとこれは苦肉の策の生活の知恵かもしれない。

さらに進んでいくと他では見られない標識、施設などが現れてくる。

原子力災害現場対策本部が設置した帰還困難区域の看板。

ここからは普通の土地ではない、全く異なった特殊なエリアに入って来た。

これを見て何か心の中に身構えるものを感じた。

ここは福島原発から少し離れた所、富岡町にある旧富岡エネルギー館。

今は原発廃炉へのPR施設東京電力廃炉資料館となっている。

この建物の意匠を見ると深刻なテーマの資料館として

違和感を感じてしまう。確かこの建物はエジソンなど

電気関係の偉人3名の自宅を模して建築したと言っていた。

これを見るといかにも平和で原発よる潤っていた時代の町が蘇ってくる。

原発視察の前に東京電力の担当の方から原発事故について

そして廃炉へ向けての現状説明などがあった。

説明の冒頭、「皆様には大変なご迷惑、ご心配をかけて誠に申し訳ありませんでした。」

と深々と頭を下げ我々に謝ったことが痛々しく感じた。

昨年4月からここ富岡町は避難解除が行なわれ、

この視察に月1000人もの人が来ると言っていた。

資料館での説明が終わり、大熊町を通って、福島第一原発へ。

道中、この道は事故前はロードサイド店で賑わった

町の中心の通りだったのだろうが、ご覧の様に

7年前の3月11日地震のあったまま痛々しく放置された店舗が続いていた。

現在でも大熊町、双葉町は人が住んでいない。

住宅の玄関には各戸バリケードでガードされ異様な風景だ。

全くのゴーストタウンで人の居ない街とはこんなにも

恐怖感すら抱いていしまうものに成ってしまうのか。

途中にこの様な除染土の保管地に遭遇する。この黒い袋の中には

放射能で汚染された土が入っていると思うとこの先この土は

どう処分されていくのか不安に成る。

東電の方がバスの中で道中の説明をしてくれたが、

絶えず放射線量の話、全体的には人体に危険な線量は無いが、

場所場所で放射能ホットスポットがあり線量計が大きく振れる。

その為に東電の社員の方々が手を挙げて指す。

彼らにとってはこれが毎日の日常だろうが、これは異様な光景に見えてしまう。

厳重な管理体制の中、福島第一原発構内に入った。

ここからは一切カメラ、スマホでの撮影は厳禁。

これは日本の国家安全保障上からだそうだ。外国の専門家から見れば、

現在の福島原発がどんなことになっているのか

写真一枚で国の安全保障まで係わってしまうということらしい。

この写真は後日東電さんからのメール配信されて来たものを使っております。

原発内に入るには各人線量計を受け取る必要がある。

それ以前には見学の数日前までに身分証明する書類の提出が求められた。

線量計取得まで予想以上の厳しいチェックを受けた。

飛行場の出国手続きの3倍位厳しいものであった。

これは第1にはテロ対策だそうだ。本当に緊張した。

これは汚染水を浄化する多核種除去設備。震災後、

廃炉に向けていくつもの建物が建てられた。東電の職員1000人が

廃炉作業の拠点として執務やミーティングの場として活用する新事務本館。

約1200人が利用可能な食堂や休憩スペースになる大型休憩所。

食事はJビレッジの給食センターから運ばれてくるそうだ。

震災直後、急遽集めた応急のタンク。そして汚染水から

放射性物質や塩分を除去する設備で浄化処理を終えた水を

保管する約800基のタンクが原発の周りに林立している。

1基あたり約1000トン貯蔵できる巨大なタンクだ。

まだ水素爆発で鉄骨がむき出しになったままの1号機。

使用済燃料プール内からの燃料取り出しに向け飛散防止対策を

徹底しながらガレキの撤去を開始している。

事故防止の3大原則。①止める ②冷す ③閉じ込めるのうち

①は成功したが、③ができなった。今さらタラレバになるがすべて

電気に頼っていたが他の方法でやっていたらと

東電の職員が悲しそうにつぶやいていた。

よく映像で出てくる煙突。これも解体の予定だが、

全て放射能で汚染しているため簡単にできないとの事。

 

廃炉作業が終了するのに約30~40年は要する。

費用も約8兆円がかかるとの事でした。

ガレキの撤去や除染、遮蔽を終え、ドーム屋根など燃料取り出し用の

設備の設置作業が勧められている3号機。年内には使用済み核燃料を

取り出す予定で一番廃炉に向けて作業が進んでいる。

原子炉建屋の壁には約15Mの津波が押し寄せてきた跡が生々しく残っている。

この津波により電源が水没し非常用の電気が失われ、水素爆発が起きてしまった。

燃料は共用プールなどに移送し、安全に貯蔵管理された4号機。

これによって4号機は核燃料による原発の危険はなくなった。

まだ爆発したまま痛々しく残された原発建屋の一部。

構内は除染や敷地舗装などにより放射線量が低減し

構内の約95%のエリアで一般作業服等での作業が可能となった。

汚染水の発生を無くす、あるいは汚染源に水を近づけない為の

陸側遮水壁(凍土壁)の装置。「近づけない」「漏らさない」

「取り除く」の3つが汚染水処理の基本方針だ。

現在、爆発の危険性は無いが線量が一番高い2号機。

今後は燃料などの取り出しに向け、建屋上部を全面的に解体する予定だ。

まずは建屋の側面から内部の調査を開始する。

 

 

この日は日夜廃炉に向けて平日平均4260人の作業員が線量計を

身に付けて働いている。ピーク時は一日7000人もの人が

作業をおこなっていたそうだ。その内60% の人が地元の人を

雇用しているとか。この視察は所要時間約50分。一歩間違えれば

世界を震撼させるまさにその現場に居たという緊張感いっぱいの研修であった。


人と防災未来センター

2018-05-08 06:47:34 | 地震

1995年(平成7年)1月17日午前5時46分。

兵庫県淡路島北部を震源とするマグニチュード7.3の地震が発生した。

高齢化が進む大都市を直撃し6400人を超える人命が

失われるなど、甚大な被害をもたらした。

西館の壁には大きく地震発生の年月日時間が

人々の記憶から消え無い様に記されている。

そして衝撃的に未来の予測南海トラフ巨大地震の最大津波高想定、

高知県黒潮町の34.4mの表示がされていた。

これを見るととても信じられない高さの所を指していてショックだ。

人と防災未来センターは、この阪神・淡路大震災の経験と

教訓を継承し、防災・減災の実現の為に必要な情報を発信する施設だ。

このセンターは西館、東館があり2階で連絡通路に繋がっている。

大震災慰霊のこのモニュメント1995年1月17日の

大震災が起こった時刻5:46を示す時計の角度を表している。

入口からまず4階の震災追体験フロアに上がる。

最初に、1.17シアターで「5:46の衝撃」という上映時間7分の

映像を見て地震破壊のすさまじさを大型映像と音響で体験する。

次に震災直後のまち並みをジオラマ模型でリアルに再現した

コーナーを通り、大震災ホールで15分間の復興に至るまでの

まちと人が直面する課題とともにドラマで紹介する

「このまちで生きる」を見て3Fへ。

3Fは震災の記憶フロア。震災関係資料を

提供者の体験談と共に展示している。

この写真を見ると23年前の震災のショッキングな光景を思い出す。

特に高速道路のピアが倒れたニュースを見た時は

建設関係の仕事をやっていた私の想定の中に

無いことだったので衝撃が走った。

復興への道と称して、人の暮らしやまち並みの復興過程が

一目でわかるジオラマ模型が展示してあり、

その時々の市民のインタビューが流れていた。

震災後23年の時間が経過したが、ご覧の様に

ものすごい数の震災モニュメントが、震災の経験を

風化させない様、残されている。

被災したわがまちの光景。記録写真でたどる阪神・淡路大震災。

ポートタワーの所の岸壁の遺構は今でも

そのままの状態で一部残されている。

減災グッズの備えとして災害時に役立つグッズを

紹介しているコーナー。東日本大震災の時は

震災グッズの関心が高かったが確かに7年という時間の

経過と供にその意識もだいぶ薄れてきた。

天災は忘れた頃にやって来る。まさにその通りでこの日に

もらった「減災グッズを備えようチェックリスト」は大事にしようと思う。

防災・減災ワークショップ。実験やゲームを通して

防災・減災に関する実践的な知識を学習するコーナー。

丁度耐震、免震の実験をしていて建築関係者として見させてもらった。

皆さんも旅行に行くと気が付くと思いますが、エスカレーターは

関東は左側に立ち、関西は右側に立つ。

まさに一人だけのエスカレーターをみて再度確認してしまった。

私の記憶ではこの現象の分岐地は

豊橋あたりであったと思う。その理由はちょっと調べてみたが

諸説あり、本当の理由は今の所分からない。


平成28年度さいたま総合防災訓練

2016-09-08 07:21:21 | 地震

今年度の防災訓練が9月1日(木)の防災の日に

さいたま新都心周辺の三菱マテリアル㈱隣接地に於いて開催された。

今年はこのさいたま市の会場が第37回九都県市

合同防災訓練の中央会場と成った。

最寄りの駅は「さいたま新都心駅」。ここから歩いて約4~5分の所。

これから開発が進み大きく変わろうとしているエリアだ。

合同防災訓練だけにさいたま市周辺の市町村も大勢参加していた。

前に歩いているのは川口市消防だ。

参加協力機関はなんと137機関に達している。

これが会場の案内図。テーマは「みんなのまちはみんなで守ろう。」

たのしく学んで、いざというときやくだてようという企画が広い会場内に沢山用意されていた。

東日本大震災以降、自然災害の救援活動は自衛隊に負う所が大きいイメージが強くなった。

後ろに見える2棟のビルがさいたま新都心合同庁舎。

ここに入っている国土交通省関東地方整備局が本訓練の中心的機関に成っている。

至近では茨城県常総市の水害に派遣された自衛隊の記録写真が展示されたあった。

さいたま市には陸上自衛隊大宮駐屯地 第32普通科連隊が

駐屯しており、その第1中隊の活動も報告してあった。

その自衛隊とさいたま市水道局が合同で給水訓練をしている所。

この高く足場が組まれたあたりが運営本部。ここでTV中継され、

広い訓練場全体に情報を提供している。

この足場の隣りには映像、音声等を中央コントロールしているテント。

防災訓練がスタートして暫くしたら自衛隊のこのヘリコプターで

安倍晋三総理が降りてきた。翌日の新聞、TV等でこのことが報道されていた。

炊き出し訓練エリアでは朝7:00から炊き出しが始まっていた。

作っているのはカレーライス。400人分を配布した。

消火器、スタンドパイプによる初期消火訓練体験しながら

学ぶことができる参加型の訓練だ。

カーテンの中がどうなっているのか分からないが多くの部屋を作った

救出訓練用建物。

学生を中心に実施していたAED体験。

室内で倒れた家具等に挟まった人を救出する訓練。

黒い人形さんがやけに生々しかった。

起震車で地震の揺れなど自然災害の怖さを小学生などが実際に体験していた。

 

 

 

これ以外にも震災体験ウォークスルー(震災が起こったときの

状況を歩いて見て考えるコーナー)特殊車輌、啓発、防火服着用エリア。

防災ボランティアセンター訓練エリア。ライフライン応急復旧訓練エリア

防災体験エリア。そして動物戦隊ジュウオウジャーのショーが行われる

ステージショーエリアなど多彩な会場となっていた。


耐震診断

2015-10-11 05:49:44 | 地震

耐震診断とは、既存の構造的強度を調べ、想定される地震に対する安全性や

受ける被害の強度の程度を調査することです。

日本の耐震基準は関東大震災の次の年(大正13年)に世界に

先駆けて施行されました

そして、昭和56年に建築基準法の大幅な改正があり

5月31日以前に建てられた建築物の耐震化を進める為

新耐震基準を設けました

旧耐震・・・・・震度5程度の地震に耐えられる

新耐震・・・・・・震度6強以上の地震でも倒れない

現況建物で破壊検査を行う。コア抜きをして

テストピースを採取し、コンクリートの圧縮試験を行うと同時に構造計算を行い

有識者による耐震性判定会で検討する。

さいたま市では昭和56年5月31日以前に建てられた建築物の

耐震化を支援する為に特定建築物等耐震助成制度を設けています

耐震診断に関しては事務所、店舗、老人ホーム、病院など

一定規模以上の多数の者が利用する建築物について

費用の2/3(建築物の規模によって上限がある)

最大1棟で300万円まで補助金が出ます。

 

関心のある方は当社HP「スミダの耐震診断・設計・工事」を

ご覧になってください。

当ブログ、トップページの左端一番下のブックマーク

をクリックするとアクセスできます。


震災復興支援少年サッカー大会

2015-03-23 07:39:39 | 地震

昨年10月子供達の心の支援ということで、浦和からサッカー少年団

2チームを引率して、震災被災地へ訪問した返礼で、

今回宮城県と石川県の少年サッカー団をサッカーの聖地「埼玉スタジアム2002」に

ご招待した。(2014-11-26付ブログ参照)

金沢市から金沢南ジュニアサッカークラブと関係者が埼スタに到着。

朝6:30に出発 13:30に到着 実に7時間の長旅だったが皆元気にバスを降りた。

到着早々、キャプテンからお礼のスピーチ。

スポーツ少年は実に爽やかだ。

続いて震災被災地から角田横倉FCサッカー団と津波の被害が

甚大だった名取閖上サッカースポーツ少年団、関係者が到着。

こちらは9:30に現地を出発して14:00に着いた。

J1リーグ浦和レッズvsモンテディオ山形戦観戦後

地元3チームとの交流歓迎会に臨んだ。

総勢約200名の大交流会の風景。

各チーム固まらずバラバラに着席して少年達は夕食を取った。

少年達はすぐ打解けて大いに盛り上がったテーブルもあった。

急遽かけつけてくれた、元日本代表、元浦和レッズGKの都築龍太氏が

激励のスピーチをしてくれた。

現役を引退したとはいえ、元アスリートは近くで見ると

体が引き締まっていて、やはり格好いい。

地元、浦和木崎サッカースポーツ少年団、北浦和サッカースポーツ少年団

浦和仲町サッカースポーツ少年団と招待した3チームの

キャプテンが明日の健闘を誓って握手をした。

明日、全チームに渡される浦和レッズ選手のサイン入のサッカーボール。

きっと思い出の記念に成るだろう。

翌日の開会式の風景。グランドは埼スタと同じ芝の第3グランド。

参加した6チームの選手達。小学校5~6年生のチーム。

皆ちょっと緊張した面持ちだった。

礼もスポーツマンらしくピシッとしていて、気持ちがいい。

試合前のウォーミングアップ光景。

監督からの厳しい指示で皆キビキビしてヤル気満々だ。

対戦の組合せ。リーグ戦の予選と決勝トーナメントの方式。

いよいよ初戦のスタート。レフリーも本格的だ。

円陣を組んで気合を入れる。このチームは何を言っているか分からなかったが

結構長い事、気合を入れていた。

各選手の真剣なプレー振り。かなりの技術を持っている子供も多勢いた。

Jリーガーを目指している子供達もいることだろう。

前日Jリーグが行われたスタジアムの隣りでプレーできるとは幸せなことだ。

このグランドでは日本代表チームが良く合宿をしている由緒あるグランドだ。

子供とはいえ、控えのベンチにいる背中からは何か伝わるものがある。

NHKさいたま放送局長がこの大会の趣旨に大いに賛同してくれて

当日取材に来てくれた。そして3月15日(日)のお昼の

ニュースで約2分間位、報道をしてくれた。これでロータリー活動の

公共的イメージアップが多いに図られたことだろう。

試合の結果、浦和木崎サッカースポーツ少年団が昨年に続いて連続優勝。

2位、3位も浦和のチームだった。改めてサッカーの街浦和のレベルを証明した。

しかし、他のチームはそれ以上に何かを握んで互々に故郷に

帰ったことだろう。そう願わないわけにはいかなかった。

表彰式。各チームに表彰状、トロフィー、記念品が渡された。

そして浦和レッズの関係者から総評があり、記念のボールが渡された。

今回の大会では浦和レッズさんに大変ご協力をいただき

本当にありがとうございました。

試合を終えて少年達全員との記念写真撮影。気のせいが皆

満足感に溢れた顔をしていたのが印象的であった。

改めてロータリーの超我の奉仕の素晴らしさを感じないわけにはいかなかった。

翌日、大々的に報道された埼玉新聞の記事。

「被災の子招き サッカー交流」

「忘れない」 「感動した」

記事によると名取閖上少年団の監督は津波で亡くなったとか。

2ケ月は何もできなかったが、「やっぱり子どもだちにサッカーをさせたい」と

3ヵ月後に民間会社のグランドを借りて、練習を再開したとの事。

私も震災の年の6月に閖上小学校に行ったが(2011-6-27付ブログ参照)

その時の悲惨さを思い浮かべ、これからもできることを続けようと改めて思った。


阿武隈ゾーン震災支援事業

2014-11-26 08:11:21 | 地震

浦和東ロータリークラブが継続して行なっている震災地の支援事業の第3弾。

宮城県阿武隈地区へのサッカー交流・植樹活動に参加してまいりました。

当日は素晴らしい晴天に恵まれ、実りの多い時を過ごすことができました。

ここは岩沼震災遺構記念植樹を行なった近くにできた「千年希望の丘」の1号丘。

高さは11M。この地を襲った8Mの津波よりちょっと高い避難丘として

いざという時に使われる。このような丘を15基造られるとの事。

慰霊式の会場に多くの人が集合

この式典には参加した7RCののぼりがはためいている。

「一つ心に」の短いフレーズが心を打つ。

公園の真ん中に立つ慰霊碑。この塔の天辺まで津波が来たそうだ。

「思いを未来へ」人と人が大切に支えている塔の中心の鐘には

鎮魂と記憶、そして希望の意味が込められ、慰霊碑の向こう側の景色が

見える未来へ、そして希望へとつながるメッセージを表現している。

参加者が慰霊塔に献花し全員で黙祷をし、犠牲者に思いを馳せた。

犠牲者の氏名を刻んだ刻銘碑 ここ岩沼市では183名の方が亡くなった。

2011.12-13掲載した岩沼警察署の6名の殉職者の名前も刻まれており

新ためてあの大震災の悲惨さを思い起こさずにはいられなかった。

岩沼市教育長のご挨拶。

この地からすぐそばにある仙台空港。空港に来た津波の映像を思い出してしまう。

各代表者が植樹をしている所を見守っている7クラブのロータリアンと

浦和から来た2チームそして地元のサッカー少年団の皆さん。

最初に支援した相野釜組合のメロン農家の皆さんも駆けつけてくれた。うれしい事だ。

岩沼市建設部長さんからこの植樹についての詳細な説明がありました。

なぜ植樹なのか?ということをはじめ、そうなんだという話が聞けますので

読者の皆さん是非ここをクリックして下さい。

この場所では小泉進次郎政務官。村井嘉浩宮城県知事、五百簱頭真東日本

大震災復興構想会議議長らも植樹されたとの事。

この土の下には7割程ガレキが埋まっており、被災者の思いが入っている。

2号希望の丘の頂上にあった周辺の案内図

この辺りは民家がいっぱい建っていたが、ご覧の通り今は何も無くない

先には海と一部松並木が見えるのみだ。

千年希望の丘プロジェクトの説明看板。

希望の丘の頂上から植樹式会場へ向かう子供たちとロータリアン。

一班3名で植樹した7本の苗木。

植樹をしている全景

地元岩沼サッカー少年団の子供、金沢西RCメンバーと私と3人で植えた。

スコップでちょっと掘ると下からガレキが出てきて、なんとも言えない気持ちになった。

私達が植えたNo.4いつか機会があったら建設部長さんの話の様に又来てみたい。

その為この写真を記録として残しておきます。

植樹に使った軍手とシャベル。単なる道具に見えない。参加した

互々の思いがここに積まれているようだ。

仙台空港を出た所に建立された「カリヨンの鐘」2520地区

阿武隈ゾーン(名取、岩沼、亘理、角田、丸森の5RCクラブ)の

ロータリアンが何かをしなければならないという使命感で大震災の丁度2年後

2013年3月11日に全国RCの協力のもと完成した。

サッカー少年団の子供たちも興味深げにハンドルを叩いていた。

被災された方々の鎮魂と不忘、後世への教訓の意がこの鐘に込められている。

各音には「敢然の鐘」「人道の鐘」「道標の鐘」「支援の鐘」「安寧の鐘」

「感謝の鐘」「復興の鐘」「鎮魂の鐘」「復旧の鐘」「実践の鐘」などと命名されている。

時の国際ロータリー田中作次会長(八潮RC)の字で「一つ心に」

名取RC「一つ心にの鐘」ボランティア演奏グループの増田音楽教室の皆さんが

5曲演奏をしてくれた。この動画は「見上げてごらん夜の星を」

この鐘の音を聞いているうちにジーンとくるものがあった。

地元のロータリアンの方には涙ぐむ人もいた。色々な思いが去来したのだろう。

音楽の力はすごいと感じた。

この鐘の裏の仕組。大事に使ってもらいたいものだ。

 

仙台空港の外壁に表示されていた津波の高さ

その日の夜、仙南シンケンファクトリー(角田市)で行われた浦和からの

少年サッカー団と地元の少年サッカー団の交流会。最初はなんとなくぎこちなかったが

子供は打ち解けるのが早い。

浦和、木崎チーム、大東チーム、地元チームのサッカー団代表が明日の抱負を語った。

少年団に用意された夕食。勝カレーだ。

地元角田市の大友市長も大歓迎してくれた。

翌日も素晴らしい晴天。少年サッカー交流大会が角田市陸上競技場で行われた。

参加チームは6チーム。素晴らしい芝のグランドだった。

協議開始前のセレモニー。この日も角田市長が来てくれた。

多くの父兄も参加。この中で、1チームだけ弱小チームがあった。

亘理町と交流の深い福島県浜通りの最北端にある新地町のサッカー少年団。

今も多くの子供達が仮設などで不自由な生活をしている町の子供達です。

ここのチームの家族が最も多く参加していて何よりもサッカー交流を

喜んでくれました。この話を聞いて心の支援ができて本当によかったと

ロータリーメンバーは感じた次第です。

少年たちの真剣なプレーとキックオフの円陣

そして終了の礼。スポーツはやはり素晴らしい

このサッカーボールは何かを語っているようだ。

この日のスタジアムの紅葉は殊の外、美しかった

この横断幕をつけて浦和からバス2台で来た

この事業を成し遂げる為、浦和東RC会員全員で

古新聞、古雑誌などのリサイクル品を回収し

「被災地の子供たちに心の支援を」する為資金集めを

汗を流して半年間実施した

そして、今度は来年3月に宮城県と金沢市の少年サッカー団を

招いてサッカーの聖地

「埼玉スタジアム2002」で行われる予定の

Jリーグ開幕戦に、地元浦和の少年サッカー団と

心のサッカー交流大会実施を予定している。

 


松沢幸一元キリンビール社長

2014-09-25 08:05:44 | 地震

「東日本大震災に思うこと」というテーマで松沢幸一元キリンビール社長の話を聞いた

氏は群馬県出身で北海道大学修士課程終了後、キリンビールに入社。

主に技術畑を歩み

2011.3,11の東日本大地震時に社長だった

現在、浦和に在住です。

氏が社長在任中、9年ぶりにシェアトップを奪回(2009年)

キリンフリーの大ヒット、一番搾りのリニューアルに成功している

氏の大事にしていること。そして好きなリーダー・人物

さすが北大卒、「少年よ大志を抱け」のクラーク博士。

そして、ふるさとの近く埼玉深谷出身

「片手に論語、片手に算盤」の渋沢栄一を掲げている。

又、現場主義を強調していた。

キリンビールはサッカー日本代表の大スポンサー。

社長時代は岡田ジャパンからザッケローニジャパンの時期。

又、佐々木なでしこジャパンに立ち会えて本当によかったと言っていた

氏はサッカーが大好きで、会社経営はサッカーと同じだと何度も話していた

いい会社とは?よい組織とは?

「一人一人がしっかりしている。一人一人が考えている

そして自分自身がベストを尽くす、周りの人を生かす

一人一人の力を付け、よくコミニケーションを図る、

よくワークする。まさにサッカーと同じだ」

2011.3.11大地震の震源地が東北地方と聞いた時、仙台工場は

やられたかなと直感したと言う。

仙台工場は写真の様に1983年仙台港から100mの所に建てられた

震災翌日の地元紙「河北新報」の一面記事

右側の写真が共同通信社のスクープ写真

下はそのアップで400tタンク3本が倒壊した

白く見えるのがビールの泡

右上の事務所屋上には481名(うち128名は社外)が避難

翌日、自衛隊のトラックで全員救出された

10分後に工場内に津波がきた、工場長の素晴らしいリーダーシップで

全員、屋上に避難

もし帰宅を許したら犠牲者が出たはずだ。近くの産業道路では

200人~300人車の中で亡くなった

地震発生から時間刻みでの対応記録。

2時間半後には現地対策本部が設置されている。

津波が引いた後の工場内の写真。

6月に私も現地に行ったが、道路に残された傷のすごさを思い出した

参照2011-6-27付ブログ(4枚目の写真キリンビールの前)

3月末から社長が現地へ。上の写真の右側から2番目が松沢社長

88年間仙台で操業していたキリンビールももうだめだろうと地元でささやかれはじめてきたので

メッセージを出さなくてはと4月7日、仙台工場存続の記者会見を行った

トヨタ、日本製紙も現地継続を表明した

そして5月11日に全員出勤命令を出した

4月29日河北新報に出した復興決意広告

被災地の皆さんとキリンビールはもう一度

立ち上がるとメッセージを発信したことは

宮城県民に希望を与え、感動を呼んだ。

この広告を4回出したことにより

2012年9月、日本新聞協会から新聞広告大賞を受賞した。

がんばっぺ仙台工場。5月12日の決起集会

松沢社長の感謝のメッセージ

復旧までの歩み。復旧まで7ヶ月間を要し60数億円の費用がかかった

11月2日の出荷式には村井知事、奥山市長も出席してくれた

特に高圧ケーブルを引き直すのに知事の後押しには

感謝していると言っていた

東日本大震災からの教訓

ここに書かれてあることは大変な体験をした方々から

私達へのメッセージだと思う。

そして松沢元社長からあらゆる組織のリーダーへのメッセージ

キリンビールは今でも、農業、水産業

そしてサッカーを通じて子供達へも

(サッカー教室8万人、日本代表長谷部選手、香川選手らも参加)

支援を続けている。

 


石巻震災被災地視察

2013-12-23 11:32:21 | 地震

百聞は一見に如かず。大震災が起きて約1000日が

経過したが、社員に現地を見て何かを感じてほしくて、忘年会も

兼ねて、仙台、石巻に行って来た。

石巻市内随所にこのような看板があり、地元の復興に

対する思いがひしひしと伝わってくる。

今回地元に震災の体験を風化させてはいけない

という語り部のグループがあることを知り、お願いした。

そのプレゼンテーションの会場。ボーリング場の空いた

一角を借りているようだ。

その語り部の会 一般社団法人 みらいサポート石巻の

  渉外広報室の藤間さん。被災地の惨状を

忘れないでほしいという思いが私達の胸に迫ってきた。

改めて、人の心に震災、津波が大きな傷跡を深く残していることを感じた。

TVで以前見たことのある映像を改めて現地で見た。

このビデオを撮った建物の所も行ったが

あのロケーションであの津波が来たのかとその恐ろしさを

実感した。

今回語り部をしてくれた燃料店経営者の須賀さん。

地震に遭ったのは門脇南浜(今回市内最大の被災地)

での仕事中、会社に引き返したが渋滞に

巻き込まれるうち、津波が来た。助かったものの

この時飲んだ水が原因か1年後に体調を

崩し入院、現在もリハビリ中との事。

その話の悲惨さ、地獄絵のような話は、体験

した人でしかわからない、凄まじいものだった。

石巻市の被災地状況(2013年9月現在)は

死者3150名、行方不明者447名。浸水面積は

平野部の約30%。東日本大震災で最大の被災地となった。

プレゼンルームに今でも残っている津波の跡。

(テーブルの上の黒い線)

本当に生々しい。

約1400億を投じた、石巻のがれき処理施設。

70年間はかかるだろうといわれたがれき処理も

来年春には完了するとの事。

津波と火災で廃虚になってしまった市立門脇小学校。

地元の人はその姿を見たくないということで現在

仮囲いにされている。市はこの小学校を震災遺構に

する考えだそうだ。因みにこの校庭で震災の

年のNHK紅白歌合戦で長渕剛が歌った。

門脇小の近くに個人で建てた「がんばろう石巻」

「復興するぞ」の遺構。よくTVで放映された場所だ。

この場所には今でも多くの献花がされている。

当社でも献花し社員全員でお線香をあげ

亡くなった方のご冥福を祈った。

ここには6.9Mの津波が来たそうだ。人の身長の

約4倍もある高さだ。改めて、そのすござに鳥肌が立った。

海岸沿いの工場地帯で企業が、何カ所も

再建工事を進めているのも目立った。

支倉常長が慶長18年(1613年)に遣欧出帆した地の

「サンファン館」も津波で大きな被害がでた。

大津波の高さは約6Mもの水位に達し、当施設の屋根まで到達。

厚さ1センチのガラスを打ち破り展示物の全てを

呑み込んで行った。このような状況の中、ドックに係留中の

復興船「サン・フォン・バルティスタ」は港内の海底が

露わになる程度の非常に強い引き波と押し寄せる波に

翻弄され大きく浮き沈みを繰り返しながらも

最後まで踏みとどまることができた。

 


平成25年度 さいたま市総合防災訓練

2013-09-09 08:17:48 | 地震

「参加しよう!命を守るリハーサル」のテーマの下、9月1日(日)

(防災の日)、荒川総合運動公園で、九都県市同時に

開催された。この日はすごい暑い日でした。

本部テント席。今年度の特色は子育て世代を中心とした

若年層が新らたに参加して防災フェアや体験訓練を通じて楽しみながら

学べる総合防災訓練だ。

私たちのさいたま市建設業協会土木委員会が担当した、道路

交通対策訓練(道路啓開訓練)。緊急輸送等の

交通路を確保するため、道路上の事故車両及び瓦礫

の除去活動を行った。

さいたま市建設業協会電気委員会による、避難場所

施設の電気復旧訓練。電気の供給が途絶えた

避難場所に照明の供給を行った。

クールゾーン、ミストコーナー。熱中症を防ぐ為、体を

冷却する、多くの親子が利用していた。

これはグットアイディアだ。

ずらりと並んだ消防車。最後に高層ビル火災消火

訓練で一斉放水を行った。迫力満点。

仮想被災地体験訓練コーナー。なかなか

良くできている。

自衛隊の特殊車両の展示。災害派遣の陸上

自衛隊第32普通科連隊の車両。

炊き出し訓練。自衛隊のこの車両ですぐ炊き

出しができてしまう。(カレー+アルファ米)

地震体験車。震度5.6のすごい揺れ。これを

体験したい人の長蛇の列が続いていた。

大型ブロアー送風体験。燃えている建物内の

煙、熱を強制的に排煙、排熱させる

資機械。フラッシュオーバー(爆発的燃焼

現象)の危険性も大きく下げることだできる。

ゴーグルを着装しての送風体験。子供は

大人の支えが無いと、飛ばされれそうだ。

ここも人気があって長蛇の列。

今年は多くの親子が訓練に参加していた

その人達の為のキャラクターショー。獣電戦隊

キョウリュウジャーステージショー。そしてキャラクターによる

防災啓発。とってもいい企画だと思う。

埼玉県防災航空隊による、高層ビル火災救出訓練。

火災により高層ビル屋上に避難し、逃げ遅れた

要救助者をヘリコプターにより救出。

今回の会場はいままでと違ってものすごく広い

全体を見渡すことができない程だ。

今回の訓練は一般の人にも開放した為約3500名もの

市民が参加した。