
浦和駅東口と西口の高架下工事用仮囲いに
「浦和みらいギャラリー」と称して「文教ギャラリー」
(東口)とみらいの巨匠ギャラリー(西口)展が始まった
特に東口エリアは旧浦和の主だった所の新旧写真が展示してある
とっても良い企画と思い、全ての
写真をスミダマンのブログでも紹介します。


文教ギャラリー1の全容と市民が立ちまって見ている光景
じっと立ち止まって見入っている人は年配者が多い
きっと若いころの自分に古い写真を通して思いを
馳せているのだろう。
中には親子、祖父母と孫と思われる人が
一生懸命説明している姿はなんともほほ笑ましい
古くから浦和に住んでいる人にとってはここが故郷だ


昭和58年の旧浦和駅東口駅舎とアップが昭和37年の旧浦和駅東口駅前広場
東口は昭和5年に開設され、平成17年に解体されるまで
大きな変化はなかった場所だ
因みに当社は東口開設の2年後に浦和支店を開設した

明治23年と明治42年の旧浦和駅停車場
浦和駅は明治16年の日本鉄道上野~熊谷間の
仮営業開始とともに王子・上尾間の駅として設置された


昭和37年、38年頃浦和駅西口駅舎と駅前広場
駅広の真ん中にあった「平和の像」は、今南浦和駅東口広場にある
とても懐かしいモニュメントだ
そして開業100周年を迎えた昭和58年の浦和駅
下は昭和55年の市街地改造事業。これで伊勢丹、コルソがオープンした

明治22年から現在の浦和ロイヤルパインズホテルの地にあった浦和町庁舎
昭和46年まで使用されていた


昭和9年(下のアップ写真)昭和32年の埼玉県庁舎
明治3年に県庁舎は現在の場所に置かれた
昭和23年、放火により庁舎の大部分が焼け
移転問題がおきた。

昭和33年の浦和市消防本部、消防署
昭和23年、消防組織が警察組織から独立した

昭和33年の旧浦和警察署。犬の鼻の様に
出っ張ったバスが懐かしい


昭和9年頃の旧埼玉会館。皇太子(後の昭和天皇)
の御成婚を記念して大正15年に建築された洋風の公会堂
現在の埼玉会館は前川國男設計により
昭和41年に竣工した。建築的にこの会館は
大変評価の高い建物と言われている。
東京文化会館も前川國男の設計だ。

昭和16年頃の高砂小学校(浦和第一国民学校)
ルーツは明治4年玉蔵院に開かれた浦和郷学校
その後、浦和第壱番小学、浦和尋常高等小学校、そして昭和22年の
教育改革によって高砂小学校になった
校庭の大いちょう、昭和60年当社施工による
高砂門と瓦屋根の白壁の真砂塀はシンボルだ


大正10年頃の県立浦和高等女学院。今は通称
浦和一女と呼ばれて、県内の女子教育の中核を担っている
この周辺は浦和の高級住宅街。この写真を見ると
周りが田んぼでビックリだ

調神社の社名である「調」は「貢」の意であり
貢物を納めるための倉が古代建てられたことに由来すると言われている。
毎年12月12日に行われる「十二日まち」は明治時代から
続く伝統の大歳の市

玉蔵院(2014-10-6付参照)


駅から東仲町商店街を過ぎた所にある
「文教ギャラリー2」
ここも人が立ち止まって懐かしそうに写真を見ていた

昭和27年、昭和39年、昭和49年の旧中山道
浦和宿から浦和町、浦和市の時代を経て
現在の浦和区に至る
昭和48年から始まった歩行者天国が今から思うと懐かしい。


昭和33年頃のさくら草通り。
通りには浦和郵便局があり
一時は郵便局通りと呼ばれていた
昭和56年から市民公募で「さくら草通り」と
命名され歩行者専用道路となった


昭和37年頃の日の出通り。以前は東口大通り
第一ガード通りとも呼ばれていた。
この写真は前地3丁目付近(今でもある渡辺酒店のある交差点)から
浦和駅方面を写したもの
よく見ると三輪自動車が走っている。

昭和40年頃の国道浦和越谷線
浦和家具センターあったナー

昭和56年当時の旭通り
スーパー十字屋、古くから住んでいる人は知っていると思います

大正10年頃の浦和地方裁判所。今は常盤公園に成っている
江戸時代初期は御殿と呼ばれ、徳川家康、秀忠の鷹狩の際の休憩所だった
明治26年、この地に浦和地裁が開設された
赤レンガ門柱跡は当時の名残

昭和42年空から見た浦和競馬場
初開催は昭和23年
よく見ると当社の場所がわかる
藤右衛門川が真ん中に流れているが遊水地はまだない
大型台風が来るとよく洪水になったものだ

昭和57年頃の駒場競技場
昭和42年、埼玉国体の際に整備され
Jリーグ開催を機に改装され
21500人収容の駒場スタジアムとなった。