Sightsong

自縄自縛日記

ドン・モイエ+アリ・ブラウン『live at the progressive arts center』、レスター・ボウイ

2009-12-11 00:38:03 | アヴァンギャルド・ジャズ

シカゴのサックス奏者アリ・ブラウンが、エルヴィン・ジョーンズ・ジャズ・マシーンの一員として来日して吹くのを、90年代のいつだったかに新宿ピットインで観た。そのころ名物だったエルヴィンの妻ケイコ・ジョーンズによる長い長いMCでも、「スティーヴ・グロスマンとかデイヴ・リーブマンとか物足りないから、シカゴからアリ・ブラウンを呼んだのです」と大袈裟に話したのには苦笑したのだったが、アリ・ブラウンの味のある音は気に入ってしまった。

同じシカゴ人脈で固めたアルバム、ファマドゥ・ドン・モイエ+アリ・ブラウン『live at the progressive arts center』(FRAME、1981年)は、後日、中古レコードを見つけて入手したものだ。

何しろ、ホレス・シルヴァーの名曲「Peace」を演奏している。とは言いながら、アリ・ブラウンの演奏の特徴をこれと言って説明できない。ストレートでケレン味がなくて、味があって、決して名演の類ではなくても、A面、B面と聴き終わったあとに、またA面をかけてしまうような妙な魅力がある。

録音はさほど良くはないが、ライヴの臨場感はある。たぶんドン・モイエはとびきり楽しそうに太鼓を叩いているんだろうな、なんて思わされる。

そう思ってしまうのは、1997年ころに、レスター・ボウイ・ブラス・ファンタジーの一員として暴れまくるドン・モイエの姿を観てしまったからに違いない。スティックをくわえてたたき続けるモイエは存在感に溢れていた。もっとも、みんな存在感があった。チューバでブウォ、ブウォと音楽をドライヴするボブ・スチュワートは、レスター・ボウイに「He never stops!」なんて紹介されていたし、ボウイはひたすら芸達者だった。ライヴの時間中とても愉快だった。

そのとき、ビリー・ホリデイの「Strange Fruit」を演奏したと記憶しているが、ブラス・ファンタジーのアルバム『Serious Fan』(DIW、1989年)にも収録されている。しかし、それよりも個人的な目玉は、ジェームス・ブラウンの「Papa's Got A Brand New Bag」であり、ローランド・カークの「Inflated Tear」なのである。これほど悦楽的なものはあまりない。

当時のブルーノート東京は、音楽家たちに近づいて話をしやすい構造になっていた(もう何年あのブルジョアなハコに行っていないのだろう)。だが、ボウイは早々に楽屋にこもり、モイエが楽しげにCDを即売していた。ボウイのサインも欲しいんだけど、と言うと、偉いモイエは下っ端に命じて、楽屋のボウイにサインを書かせに走らせたのだった。ボウイはもう鬼籍に入っている。ますます大事なCDになってしまった。


江戸川乱歩『十字路』と井上梅次『死の十字路』

2009-12-08 00:43:01 | 思想・文学

たまに江戸川乱歩を読むと、あまりのキッチュな感覚と、夕焼けの懐かしさと、活劇性と、それから隠しようもない変態性とにたじろいでしまう。光文社文庫の『江戸川乱歩全集』第19巻、『十字路』におさめられた作品についてみても、『防空壕』はどう見てもエログロ小説であるし、『魔法博士』、『黄金豹』、『天空の魔人』は、幼少時にポプラ社の少年向けシリーズで読んだままの、まがまがしく、ケレン味たっぷりの活劇小説である。

ただ、表題作の『十字路』はちょっと性質を異にしている。私の記憶が確かならば、ポプラ社の小説では、巻頭に、「これはもともと大人向けの小説です」などと、ものものしく謳ってあった。その「オトナ版」である。

1回の不可避の殺人を犯してしまった男が、その死体を隠そうとするために、まったく関係のない死体をも遺棄する破目となり、男の犯罪を追及する探偵さえも殺してしまう。追いつめられた人間の心理と偶然とを組み合わせた面白いプロットではあるが、上のような乱歩の魅力には欠ける。

それというのも、このトリックやストーリーは渡辺剣次という作家が考え、乱歩が小説として仕立て上げたものだからだ。ハードスケジュールゆえ、出版社の要請に応えるために仕方ないことであったという。

ついでに、録画しておいた映画『死の十字路』(井上梅次、1956年)を観る。小説発表の翌年の映画化である。主演は三國連太郎と新珠美千代。細かな心理描写ができないのは仕方がないとしても、三國の顔の力がそれをカバーしている。舞台セットのような雰囲気で、ちょっとヒッチコックを思わせる。ラストシーンが小説と違って救いがないが、映画の出来もかなり良いのではないか。

それでも、乱歩の魅力はキッチュ性と活劇性と夕暮れの懐かしさと変態性である。明智小五郎と怪人二十面相との対決には年がいなくドキドキする。

「老人は「アッ」と叫んで、ふせごうとしましたが、もうまにあいません。かつらと、つけひげの下からあらわれたのは、若々しい男の顔でした。
 「やっぱり、そうだ。きみはいくつ顔をもっているかしらないが、この顔にも見おぼえがある。きみのような変装の名人、きみのような空中曲芸の達人、そして黄金豹という思いきった手段を考えだすやつ。そんなやつは、日本にひとりしかいない。ウフフフ、おい、二十面相! しばらくだったなあ」
 ああ、二十面相! この奇怪な犯罪は、あの怪人二十面相のたくらんだものだったのです。
 「小林君、呼ぶこだッ」」
 (『黄金豹』)


金城実『沖縄を彫る』

2009-12-07 02:16:47 | 沖縄

金城実は、沖縄県読谷村の「残波大獅子」や、チビチリガマ横の「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」を製作した彫刻家である。『沖縄を彫る』(現代書館、1987年)は、それらを完成させるまでの道のりを記したものであり、氏の彫刻家としての破天荒さと、沖縄史に対する誠実さが実感できるものとなっている。なお、最近作は、100m彫刻として展示された「戦争と平和」だが、これはまだ目の当りにする機会がない。

この彫刻家本人も、チビチリガマにおける「集団自決」(強制集団死)を知ったのは、1983年に初対面の知花昌一に聞かされてのことだという。既に渡嘉敷島などでの「集団自決」を知ってはいたが、読谷村でもこうした史実があったことについて、「内心えらいことを聞いてしまったと思った」と振り返っている。

「えらいこと」であるから、彫刻家は簡単には作品を製作しない。経験者ひとりひとりの心をえぐるような性質を持つものにしかなり得ないため、限られた人間との合意だけであとは製作者としてのスタンスを取る、といったことはしていない。そのために、別の場所で作った作品を寄贈するという方法は取らず、現地で、住民の方々と一緒に作るわけである。この、極めて稀に違いない製作風景は、ドキュメンタリー『ゆんたんざ沖縄』(西山正啓、1987年)に収められている。(先週末、読谷村で上映会が行われている >> リンク

この彫刻が、平和を願うという目的を掲げて設置されているモニュメントとどう違うのか、金城実の考えははっきりしている。

「ただ反戦なき平和、例えば、今、日の丸、君が代を押し付けている教育現場でのことに無関心でいて、その碑文などがやたら用いられてぼろぼろになった無気力の平和に、何か内実があるように思い込んでしまうわれわれの民衆感情が危ういと言っているのですよ。」

「ある意味では、みんなで渡れば何とやらで、無批判的に抱いている共同の幻想にひきずり込まれるだけで、奥深くかくされている真の平和をさぐる活力も、その辺で阻害されてしまうということになりはしないかということです。」

ところで、本書や『ゆんたんざ沖縄』で提示された「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」だが、その直後、心ない者たちの手によって破壊されている。ただ、モノは破壊されてもプロセスはこのように残っている。

彫刻家としての破天荒さという点について言えば、デッサンをろくにとらずに製作を行うことは置いておいても、やたらおかしい話がある。氏は33歳になって彫刻を志し、造形の勉強のため、銭湯に通う。そこで、老人たちの裸を造形の眼でじっと見つめ続けるのである。そのため、「あぶない奴がいる」という噂までたったのだという。


チビチリガマ Leica M4、Carl Zeiss Biogon ZM 35mmF2、Tri-X、イルフォードマルチグレードIV(光沢)、2号フィルタ

●読谷村
ゆんたく高江、『ゆんたんざ沖縄』
野村岳也・田野多栄一『あけもどろ』
基地景と「まーみなー」
読谷村 登り窯、チビチリガマ
坂手洋二『海の沸点/沖縄ミルクプラントの最后/ピカドン・キジムナー』
沖縄「集団自決」問題(10) 沖縄戦首都圏の会 連続講座第3回(大城将保)
『NHKスペシャル 沖縄 よみがえる戦場 ~読谷村民2500人が語る地上戦~』(2005年)


りんたろう『よなよなペンギン』

2009-12-07 00:48:31 | アート・映画

子どもたちを連れて、りんたろう『よなよなペンギン』(2009年)の試写を観に行く。中野ZEROホールなんて、ベルリン・コンテンポラリー・ジャズ・オーケストラを観て以来だから、もう10年以上ぶりである。それよりも、りんたろうの監督した映画を観に行くのなんて、小学生のときの『銀河鉄道999』(1979年)以来、30年ぶりなのだ。

まずは、気が付いたら、日本でもこんなフルCGのアニメ映画を作っているのだなという寂しげな感想。米ピクサーの『モンスターズ・インク』(2001年)、『ファインディング・ニモ』(2003年)、『Mr. インクレディブル』(2004年)、それから米ブルースカイ・スタジオの『アイス・エイジ』(2001年)などで吃驚させられてからもう随分経つ。そのときは楽しんで観るのだが、手仕事の「ずれ」がないと、すぐに忘れ去ってしまうものである。

その点でこれはどうかというと、よくわからない。ただ、主人公のココの可愛さは印象的だし、着ているペンギンの衣装のフェルトはかなり暖かそうで良く出来ている。森を中心とした街の夜の散歩という設定も嬉しい。途中で挿入される本多俊之のサックスソロはとても良い感じだ。それから、(些細なことだが、)「ペンギン・ストア」として出てくる建物が、カトマンドゥのストゥーパそっくりなので声をあげそうになってしまう。

それにしても、「よな、よな、よな、ペンギン~~~ ゆめ、ゆめ、ゆめ、いっぱい~さ~」という主題歌を劇場内で繰り返し聴かされて、頭にこびりついてしまった。まあ、嫌ではないのだけど。


『人はなぜ歌い、人はなぜ奏でるのか』 金石出に出会う旅

2009-12-06 00:23:38 | アヴァンギャルド・ジャズ

ドキュメンタリー『人はなぜ歌い、人はなぜ奏でるのか/韓国の鼓動と踊る ~オーストラリア人ドラマーの旅』(エマ・フランズ)。以前にNHK BS hiで放送されたものだ。

オーストラリアのジャズ・ドラマーであるサイモン・バーカーは、ある日、キム・ソクチュル(金石出)の音楽を聴いて衝撃を受ける。彼は韓国のシャーマンであり、長い音楽の伝統を持っている。

この音楽を学ぶため、バーカーは韓国へと赴く。韓国では無形文化財に指定された音楽家だが、実際には誰に訊いても、キムのことを知るものはいない。やがてドンウォンという音楽家と出会い、キムが病気のためあまり演奏していないのだと聞かされる。バーカーとドンウォンは、キムに会えるかどうかわからないながら、他の音楽家たちと会いながら、キムのいる釜山へと旅をすることにする。

パンソリの歌い手、ペ・イルドンは、滝の音に負けないよう、山中に住んで7年。毎日、滝のそばに座って練習を続けている。音楽とは、希望と現実との間をつなぐものだと考えている。また、幼少時に神が降りてきて女性シャーマンとなった降神巫、チョン・ソンドク。巫女は息が続く限り歌うから、太鼓には最初しか定型のリズムがなく、即興性があるのだと説くパク・ビョンチョン。忘我の境地で太鼓を叩きまくる女性、ジン・ユリム

出てくる音楽家達が、ことごとくもの凄い迫力を持っている。テクニックを習得することは大前提だと言ってはいるが、まさに息遣いと呼吸のリズム、武道にも通じるようなリラックスした動きから出てくる音は、人間的というよりも霊的に思われる。そして手拍子とともに大勢が高揚していく様子には興奮させられてしまう。

バーカーは、遂にキム・ソクチュルに会えることになる。彼の体調が悪いのは、姉が亡くなったせいであり、その悪影響を取り除く儀式を行うところに立ち会えることになった、のだった。他人向けではない儀式という、極めて珍しい場で、キムも太鼓を叩き、ダブルリードの笛を吹く。老いても迫力のある音を出す姿があった。そしてその3日後、キムは亡くなる。

録画して放ってあったのだが、キム・ソクチュルの貴重な映像であった。観てよかった。

●参照
ユーラシアン・エコーズ、金石出


松下俊文『パチャママの贈りもの』 貨幣経済とコミュニティ

2009-12-04 23:24:24 | 中南米

先日、『パチャママの贈りもの』(松下俊文、2009年)の試写を観た。

映画は、ボリビアのウユニ塩湖と周囲の村々を舞台にしている。一見、美しい地域における貧しいながら誠実な少年の成長物語、といった体裁だ。

もちろん皮肉ではない。特異な風景という意味では、広大な塩湖という映像は圧倒的だった。そこで塩を切り出す仕事を手伝い、学校に通い、友だちと遊ぶ少年の姿は、詩的でさえあると思った。特に、妹が落とした人形を探しに走って行くときの、広い広い中のちっぽけな大事なものを描き出す描写は、とても印象的だ。

しかし、この美しい物語の背後に秘められたメッセージは、さらに奥深く、深刻だ。

少年を連れてキャラバンに旅立った父は、塩と引き換えに食糧を手に入れる。そのような物々交換という経済が、既に不便な山間地でしか成立していないことは、映画のそこかしこで示される。実際に、山の村々で快く食糧や蜂蜜を貰っていた父子だったが、街のバザールでは、オカネがないので何も買わないのだ。さらに、ある飲食店では、タダで何か食べさせてくれと転がり込んできた男が、店主に罵られ、力づくで追い出される。

すなわち、物々交換と貨幣経済、コミュニティのあり方は、経済成長する街と、昔ながらの生活を続けている村々とでは、明らかに全く異なってきているということだ。これはすべて、少年の眼を通じて描かれる。おそらく少年が大人になるころには、さらに変化が進んでいることだろう。そのような危うい時点でいまだ成り立っているコミュニティだからこそ、私たちの眼には儚く美しいものとして映る・・・と言ってしまえば、元も子もない、残酷な「上からの目線」になってしまう。

解決策は示されるわけではない。そんな簡単な問題ではない。しかし、まさに米国流の行き過ぎた新自由主義に対する一石としてこの映画が提示されているのである。そのことは、松下俊文監督が、反帝国主義の映画を作り続けている「ウカマウ集団」のホルヘ・サンヒネス監督の存在を知り、ボリビアに着くとすぐにサンヒネスを訊ねたという逸話でもわかる。

●参照
ウカマウ集団の映画(1) ホルヘ・サンヒネス『落盤』、『コンドルの血』
ウカマウ集団の映画(2) ホルヘ・サンヒネス『第一の敵』
ウカマウ集団の映画(3) ホルヘ・サンヒネス『地下の民』


札幌の書肆吉成

2009-12-03 23:38:23 | 北海道

今日、所用で札幌に行ってきた。折角なので、店舗をオープンしたばかりの書肆吉成まで足を運んだ。ミニコミ誌『アフンルパ通信』を発行しているところであり、以前、ジョナス・メカスに関する記事を読みたくてバックナンバーを取り寄せたことがある。

札幌駅の北、元町駅と北二十四条駅との間あたりにある。今朝雪が少し積もったとかで、街路樹の下にはまだじゃりじゃりになった雪が残っていた。歩くのは好きなタチだが、かなり寒かった。

古本の品揃えはかなり良かった。このような、志のある古本屋に入ると、足が棒のようになる。何冊もあっ欲しいという本があったが、ここは堪えて(笑)、2冊をわがものにした。

ついでに、『アフンルパ通信』の創刊号も購入。吉増剛造が詩を寄稿していて、その原稿用紙が薄い紙に縮小印刷され、帯になっている。吉増のあまりにも独特な、文字がカミキリムシのように蠢いて紙を持つ手を咬みそうな世界、それがミニチュアになって、すぐに破れそうで儚い。つくづく変な詩人である。

吉増剛造が奄美・沖縄を歩く映画、『島ノ唄』(伊藤憲)のパンフレットにも、原稿用紙2枚のコピーを付けてくれていて、これも蜻蛉の羽のようで大事にとってある。かつて、吉増は8ミリ映画について、「脈動を感じます。それはたぶん8ミリのもっているにごり、にじみから来るのでしょう」(『8ミリ映画制作マニュアル2001』、ムエン通信)と表現した。この儚くて同時に強い感覚は好きである。


「光の落葉―奄美、加計呂麻」の原稿(一部)

「アフンルパ」とは、アイヌ世界において、あの世への入口となる凹みだという。死の凹みは生の蠢き、書肆吉成も札幌の凹み?

●参照
島尾ミホさんの「アンマー」
仙台の古本屋「火星の庭」


フジ・GF670の販促DVD

2009-12-03 01:15:41 | 写真

量販店でフィルムを買ったついでに、無料で配布していたDVDを貰ってきた。フジが1年くらい前に出した中判カメラ、GF670の販促用のものだ。

さっきウトウトしながら、1時間以上も写真家が喋りつづける映像を観た。フィルムの優位性、レンジファインダーの良さ(ピント合わせ、ストロボ高速同調、ミラーショックのなさ)、それから蛇腹を折りたたんだときのコンパクトさ、などを何度もアピールしていた。なぜか、近所の浦安・猫実をリバーサルで撮影してもいる。

確かに見かけるたびに欲しい欲しいと思う。小さく折りたたんで、出張に持っていけたら最高だろうな。これが発売される前、10万円を切るのではないかという噂があって、なんとしても買うぞと念じていたのだが、蓋を開けてみれば20万円くらい。今でも中古は出回っていないし、とても買えない。それに、同じくらいの値段が付いている、ライカのズミルックス35mmF1.4とどちらかを差し上げますと言われたら、迷いなくズミルックスを掴むだろう(何が言いたいのか)。

でも欲しい。

いま中判のレンジファインダーは、フジのGW680IIIを使っている。GF670はレンズが相当良くなっているという評判だが、実際には、まあ変らないに違いない。GF670が出た影響か、それとも銀塩の人気がじわじわ落ちているためか、GW680IIIやGW690IIIなどのGWシリーズ最終機の中古相場価格が値崩れしている。頑張って入手したオーナーとしては複雑な気分だ。


GW680IIIを一眼レフと並べると「ライカのおばけ」


デボラ・B・ローズ『生命の大地 アボリジニ文化とエコロジー』

2009-12-01 22:10:56 | オーストラリア

デボラ・バード・ローズ『生命の大地 アボリジニ文化とエコロジー』(平凡社、2003年)は、豪州政府の依頼により書かれたものである。このことは、既にアボリジニを先住民としてさまざまな権利を認めている政府のスタンスをあらわしているようだ。なお、翻訳は、故・保苅実が行っている。

ここでは、オーストラリアを収奪し続けた西欧と、アボリジニとの世界観の違いが示されている。それを象徴することばが、アボリジニのいう「カントリー」だ。ローズ曰く、「カントリー」は、人間や社会と分離された「景観(landscape)」とは対照的に位置づけられる。「カントリー」は、逆に、人間と結びついており、生物も、水系も、気象も、相互に依存しあうようなものとして広く理解されているという。そして、「カントリー」におけるすべてのものは意味を持つ。

登場する人物や事象が、ユニットとして独立していない以上、過去の出来事を現在語る「ヒストリー」は、異なるものにならざるを得ないことは、そこから想像できるところだ。

そうなると、西欧の狭い意味での人間中心主義は相対化されなければならない。象徴するような言葉として、「増殖儀礼(increase rituals)」またはバード流に「維持儀礼(maintenance rituals)」という儀式がある。ある特定の生物種を再生・増殖するのに行われるものだ。

この儀礼は、歌や踊り、ボディペインティングなどのパフォーマンスによって行われるようだ。背景には、すべてをすべてのまま活かし、「カントリー」を大切にしようという考えがある。翻訳の故・保苅実は、こういったアボリジニの行動は、人間と自然環境が互いを維持して、エコロジカルなつながり(それも、オーストラリアのエコシステムに適合した形で)についての倫理を構成するものだと指摘している。

人間活動の介入が自然環境にどのような影響を与えるか評価することが「環境アセスメント」だとすれば、そもそも、それが孕む人間と自然環境との関係のバランスを欠いていることになる。「増殖儀礼」という考え方はとても重要な要素を含んでいるのではないか。

●参照
支配のためでない、パラレルな歴史観 保苅実『ラディカル・オーラル・ヒストリー』