Sightsong

自縄自縛日記

上田信『森と緑の中国史』

2009-12-12 01:22:27 | 中国・台湾

所用で仙台に足を運んだ。「火星の庭」は相変わらず良い古本屋だった。それはともかく、今回新幹線のお供にしたのは、読みかけの、上田信『エコロジカル・ヒストリーの試み 森と緑の中国史』(岩波書店、1999年)だ。つい先日、早稲田の「ブックスルネッサンス」で入手した(ここも良い古本屋)。

中国は沙漠化で苦しんでいる。雨が降らない黄土平原近辺の様子もたいへんなものだ。そのような地域でも、唐突に森林があらわれ、「風水の力」で錐揉みになっている柏の樹などを見ることができる。私はずっと不思議な思いにとらわれている。

本書では、そのような黄土平原でも、かつては緑に覆われていたと見ている。そして、変化の原因は、共存ではなく、囲い込みによって回復可能レベルをこえるまで収奪してしまった文明にあるとしている。春秋時代や周時代、楚時代にまで遡り、詩にうたわれた森林との距離感を探っているのは、非常にユニークである。

中国における森林も、日本においてと同様、一様ではない。東北地方など寒い地域では針葉樹林が幅をきかせ、江南では亜熱帯常緑広葉樹が目立っている。樹種それぞれの特性を見極め、共存しながら利用するのは重要視された技術であった。しかし、異なる植生の地域を跨る権力では、特定の植物の価値は磨耗し、「文化」から「文明」へと移行した。―――この見方は納得できる。このために、トラは死に、神も妖怪も姿を消し、本来必要な闇が拭い去られ、資源として収奪したあとの土地は荒廃し、水循環は磨耗し、二次災害を生むこととなった、というわけだ。勿論、昔話でも人ごとでもない。

著者は、このようなモノカルチャー化を通じた荒廃を、貧困と次のように結び付けている。

「貧困とは何かが欠乏しているという状態なのではなく、自壊する要素を含んだ生活のダイナミクスではないか、ということである。雁北の村々では、食料の欠乏が耕地の拡大をもたらし、耕地の拡大が森林破壊を激化させ、森林破壊が土壌流出の原因となり、そして土壌流出が食料の欠乏を招いていた。こういった様相は、この地の生活が自壊していくシステムであることを示す。生きていく過程のなかに、崩壊という要素をはらんでいるのである。」

そして、この貧困のダイナミクスを断ち切るため、外部からの資金や技術の提供が必要だと説いている。現在まさに、ポスト京都議定書の議論のひとつも、まさに森林劣化・減少への対策として、先進国からの資金提供などが必要だとしているわけである(オカネ中心でうまくいくかという指摘はまた別として)。ただ、日本の林業自体が悪循環のただなかにあり、先進国-途上国と同様に、国内に南北問題を抱えている。


浙江省の森林(シダと倒木)、2008年 Pentax K2DMD、M40mmF2.8、Tri-X、Gekko 3号


浙江省の森林(成長した樹皮の文字)、2008年 Pentax K2DMD、M40mmF2.8、Tri-X、Gekko 3号