ジャック・デリダ『歓待について』(ちくま学芸文庫、原著1997年)を読む。1996年の講義の記録である。
歓待とは、異邦人を招き入れるとは、どういうことか。歓待される異邦人は無縁者ではないのか。歓待する側は、自身がなにものだという基盤があることが前提となっているのではないのか。
デリダの思想はそこを起点にする。異邦人が何ものだということを問う。冨山一郎『流着の思想』は、絶えず名を所与のものとして呼ばれることの暴力を、沖縄からの視線として書いた。あるいは今年の台風19号において、ホームレスの身分が明確でないために受入を、歓待を、拒否した台東区のことを想起させられる。
さらには、言語を自分たちのものへと翻訳するよう迫ることもまた、暴力であるとする。ここでデリダは母語を人間の根源的なアイデンティティとみなすハンナ・アーレントを批判している。確かに歓待の無条件性を文字通り受けとめようとする点でエマニュアル・レヴィナスと通じるものが大きい。
このような暴力と掟は、政治的空間と個人的空間との境界、公的なものと公的でないものとの境界においてあらわれ、それをかき乱す。それゆえに公の優先ばかりを謳う言説は暴力に直結する。
「絶対的で誇張的で無条件な歓待とは、言葉を停止すること、ある限定された言葉を、さらには他者への呼びかけを停止することにあるのではないか。つまり他者に対して、あなたは誰だ、名前は何だ、どこから来たのだ、などと尋ねたいという誘惑は抑えなければならないのではないか。さもないと歓待には限定が加えられ、権利と義務に縛り付けられ、そこに閉じ込められてしまうのではないだろうか。こうして歓待は、円環の経済=配分法則に閉じ込められてしまうのではないか、とわたしたちは問うてきたのです。つねにジレンマが狙っています。」
●参照
ジャック・デリダ『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』(2006年)
ジャック・デリダ『言葉にのって』(1999年)
ジャック・デリダ『アデュー エマニュエル・レヴィナスへ』(1997年)
ジャック・デリダ『嘘の歴史 序説』(講演1997年)
ジャック・デリダ『死を与える』(1992年)
高橋哲哉『デリダ』(1998年)
ガヤトリ・C・スピヴァク『デリダ論』(1974年)
ジャック・デリダ『声と現象』(1967年)
フランソワ・キュセ『How the World Swung to the Right』(2016年)