Sightsong

自縄自縛日記

ジャック・デリダ『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』

2015-02-20 00:10:57 | 思想・文学

ジャック・デリダ『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』(筑摩書房、原著2006年)を読む。

人間とはなにものか、<私>とはなにか。そのような問いは、<動物>を排除したバウンダリーを設定して発せられてきた。相手を支配しないことは、すなわち、予測不可能を大前提としてヴァルネラブルな顔を晒すことだと説いたエマニュエル・レヴィナスでさえ、思考が及ぶバウンダリーはやはり人間のみ、なのだった。<他者>はどこまでを指すのか、ということである。

このことは、思考する者の世界観や倫理観につながっている。従来の思想家による世界観のもとでは、<動物>は単数形の記号に過ぎないものであった。<動物的>という表現を使うとき、そのことは明らかだ。

デリダによれば、<動物>は、人間が追うものであり、反応はしても応答はせぬ片方向の存在であり(<動物>はコードに基づかない発話はしない)、ラカン的な人間の鏡像である(人間の欲望は、他者の<欲望>である)。してみれば、<動物>は、いかに人間が名前を付けて愛情を注ごうとも、<動物>の側にはなく、あくまで<私>の側にしかいない存在だ。そして、なにものかの存在を利用するとき、倫理が疑われることになる。

(たとえば、善意で特定の民族をコード化するということがレイシズムの一形態であり、また、絶滅危惧種の存在を無闇に社会変革のために使うことが欺瞞でもあることなどを、思い出してみる。)

「動物は偽装することを偽装しない。本物の痕跡とは正しい道筋=行跡を与えるもののことだとすれば、その欺瞞が本物を偽装と思わせることに存するような痕跡を動物がつくることはない、動物はおのれの痕跡を抹消することもない、そうであればそれはすでに、そのものにとって、おのれを能記の主体にすることであろう。」

●参照
ジャック・デリダ『アデュー エマニュエル・レヴィナスへ』(1997年)
ジャック・デリダ『言葉にのって』(1999年)
ジャック・デリダ『死を与える』(1999年)


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