ジャック・デリダ『嘘の歴史 序説』(未來社、講演1997年)を読む。
嘘とは?嘘の歴史性とは?
もちろんここで、デリダは歴史修正主義を告発しているわけだが、ことはそう単純ではない。隙も許されぬほど厳格な真実性を求めたカント、社会的存在としての振る舞いを体現したようなアーレントを引用しながら、デリダの思索は、「真実」がそこにあるかのような前提を取り払う。
嘘をつこうとして発する嘘こそが嘘。政治の場においては、伝統的にそれが特権的な領域となってきた。そういった歴史修正主義に対し、テッサ・モーリス=スズキは、歴史とは「過去への連累」であり、「真摯さ」をもって対峙し、各々が抱え持つべきものだと説いた(『過去は死なない』)。
しかし、ここにも落とし穴がある。視るべき対象としては、支配側からの一方向のベクトルだけではなく、逆方向のベクトルもあるということだ。反体制の者やリベラルの者が、「かれは歴史修正主義に対して沈黙していた」と正義感によって決めつけられるとしたら、それも嘘なのではないか、というわけである。ここでデリダはアーレントを引用し、自己への嘘、自己への欺瞞という考えを提示する。アーレントもそれにより苛烈な批判の対象となった。そしてまた、それらにも属さない反ー真理がある。
重要な指摘が書かれている。
反―真理をそれと認識せずに体現してしまった善意の者が、「語る前に知っていることすべてを知ろうとしなかったのは、彼が結論に達することを急いでいたから」ということ(65頁)。
「事象そのものの人工的なアーカイヴの抽出、選別、編集、画面構成、代替」によって、「『情報を知らせる』ために『歪曲をおこないます』」という操作、その限界を見出すためのメタ解釈。(84頁)
SNSや運動の言説においても、怒りに集中させたようなものが「ウケる」。それが如何に正当なものであっても、そこには「『情報を知らせる』ために『歪曲をおこないます』」という操作が見出されるのではないか。
●参照
ジャック・デリダ『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』(2006年)
ジャック・デリダ『言葉にのって』(1999年)
ジャック・デリダ『アデュー エマニュエル・レヴィナスへ』(1997年)
ジャック・デリダ『死を与える』(1992年)
高橋哲哉『デリダ』(1998年)
ガヤトリ・C・スピヴァク『デリダ論』(1974年)
ジャック・デリダ『声と現象』(1967年)