鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

馬場孤蝶の『明治の東京』に見る明治東京の景観 その2

2010-06-28 07:26:52 | Weblog
馬場孤蝶が、兄辰猪の親友であった中江兆民と会ったことがあることについては、かつてこのブログで触れたことがあります(2009.5.2「馬場孤蝶と夏目漱石、そして中江兆民」)。孤蝶は明治11年(9歳)に父母とともに上京し、明治24年に明治学院を卒業して後、高知の共立学校に英語教師として赴任し、翌々年に帰京して日本中学校に勤めています。そして明治28年には滋賀県の彦根中学校に勤め、明治30年に浦和中学校教師から日本銀行の文書課員に転じています。馬場辰猪がフィラデルフィアで亡くなったのは、明治21年11月1日のこと。このような経歴を見てみると、孤蝶が兆民に会って話をしたのは、明治26年以後のことだと思われます(兆民は明治25年1月に戸籍を大阪から東京市小石川区小日向武島町に移し、明治26年以後、東京や大阪などを金策で転々としています)。注目されるのは兆民が明治29年(1896年)の11月3日に「馬場辰猪八年忌」に出席していること。孤蝶が兆民に初めて会ったのは、この頃かも知れない。とすると、その時、孤蝶は27歳で、兆民は49歳。孤蝶はその兆民の態度や話し振りに、「ウィットとしての風趣」、「飄逸(ひょういつ)とでも云ったような趣」を看取したのですが、それは彼の親友であった斎藤緑雨や、初めて会った頃の夏目漱石に共通するものでした。孤蝶は、夏目漱石に電車の中で会った時の会話を思い出して、斎藤緑雨や中江兆民のことを想起したのですが、孤蝶が夏目漱石と初めて会ったのは、明治40年(1907年)の冬頃、丸山福山町四番地の森田草平宅、すなわち樋口一葉が晩年を過ごした家においてでした。その時の漱石の態度や話し振りに、孤蝶は、すでに亡くなっている斎藤緑雨や中江兆民に共通するものを感じ取っていたのです。孤蝶が電車の中で会った漱石は、おそらく晩年の漱石で、大正時代に入ってからのこと。四十半ばほどでしょうか。外堀線の路面電車(東京市電)の車内でした。漱石は口髭と両鬢(びん)のところがすでに白くなっており、それ以外はまだ黒いものの、帽子を被るとその両鬢と口髭の白さが目立ちました。孤蝶は、市ヶ谷田町や市ヶ谷本村町に居住していたことがありますから、市ヶ谷から乗った外堀線の中で、漱石と出会ったのかも知れない。 . . . 本文を読む