鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

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東京の啄木と電車 その最終回

2010-06-13 06:49:14 | Weblog
 明治42年(1909年)の6月16日の朝、啄木は金田一京助とともに上野ステーションに向かい、1時間遅れの夜行列車で上京してきた母カツ、妻節子、娘京子、それに友宮崎郁雨を迎えます。この日の朝のことを記して、「ローマ字日記」は終わります。

 啄木が妻子や母、そして友人たちと、人力車を連ねて到着した「新しい家」は、本郷弓町二丁目十七番地の新井(喜之床)方。その新井家の2階の二間に啄木一家は落ち着くことになりました。

 日記がふたたび始まるのは、明治43年(1910年)の4月1日からのこと。

 それからの、電車に関する部分を見ていきたい。

 4月1日。父一禎(いってい)、妻節子、娘京子の3人と一緒に、電車に乗って浅草へ遊びに行く。観音堂を見てから、池に映った活動写真館のイルミネーションを見て、それから電気館の2階から活動写真を観る。帰宅したらもう11時。帰りの電車では、疲れた京子は眠くて寝ていたかもしれない。

 「池」とは、凌雲閣の前にあった瓢箪池(大池)のこと。「活動写真館」が建ち並んでいたのは浅草六区。観音堂から左へ行くとその瓢箪池はあり、その向こうに「大盛館」「清遊館」「大勝館」といった活動写真館が並び、そのイルミネーションが瓢箪池に映っているのを4人は眺めています。その地点から、瓢箪池の右手には凌雲閣(浅草十二階)が聳(そび)えています。それに登ったかどうか、仲見世では何を買ったのか、といったことは何も書かれていない。

 4月10日の夜。啄木は上野の桜を観るつもりで、母カツ、妻節子、娘京子と4人連れで本郷弓町の新井宅を出たものの、母カツが「動悸がして歩けそうもない」と言い出したため、やむなく本郷三丁目の電車停留所から戻ることに。

 このような家族連れの行楽を、その後も、啄木はしているのではないか。その時は、本郷三丁目から電車に乗ったものと思われる。

 「明治四十三年四月より」の日誌は、4月26日で終わり。

 次は「明治四十四年当用日記」で、1月3日より始まるが、2月4日に啄木は大学病院(東京大学構内の医科大学付属病院)に入院することになる。以後、死ぬまでの1年と2ヶ月間、京橋の滝山町の東京朝日新聞社に出社することはない。

 4月7日の夕方。3月28日に退院した啄木は、土岐善麿と丸谷喜市の3人で、久し振りに電車に乗って浅草へ出掛けています。「米久」という「牛屋」に入りますが、病後の啄木には浅草の雑踏は耐えられるものではなく、すぐに電車に乗り込んで帰宅しています。

 8月7日に、本郷弓町の新井こう宅から小石川久堅町の借家に引っ越す。啄木は、人力車で新居に入って、すぐまた横になっています。

 「千九百十二年日記」。これが啄木の最後の日記。

 1月2日。「新聞によると、三十一日に始めた市内電車の車掌、運転士のストライキが昨日まで続いて、元日の市中はまるで電車の影を見なかつたといふ事である。明治四十五年がストライキの中に来たといふ事は私の興味を惹かないわけに行かなかつた。何だかそれが、保守主義者の好かない事のどんどん日本に起つて来る前兆のやうで、私の頭は久し振りに一志(ひとし)きしり急がしかつた。」

 1月3日。「市中の電車は二日から復旧した。万朝報によると、市民は皆交通の不便を忍んで罷業者に同情してゐる。」

 路面電車の運転士・車掌によるストライキは、12月31日より正月元旦まで二日間にわたって続いたことがわかる。正月2日より電車は復旧したため、新年を迎えた人々は電車に乗って年始回りに出掛けることができるようになりました。

 2月20日で、日誌は終わる。病状はすでにかなり重くなっていました。啄木が息を引き取ったのは、それから2ヶ月もたたない4月13日の午前9時30分のこと。葬儀はその翌々日の15日、浅草の等光寺で営まれました。

 [電車の運転士」については、明治44年の2月16日のところに出てきます。

 「予の右の人が退院してその隣りから胃病病みの電車の運転士が移つた。」

 前日の15日に、啄木は新しい病室に移っていましたが、彼のベッドの右の人がこの日に退院して、そのベッドへ隣りの胃病を病んでいる運転士が移ったということでしょうか。

 2月20日の夜、啄木は「同室の人々と社会主義について」話しています。その話には胃病を病んでいた電車の運転士も加わっていたと思われる。啄木は、その胃病の電車の運転士らとどういう話を交わしたのだろう。

 最後に、『啄木短歌に時代を読む』から、電車に関するところを触れておきたい。

 近藤さんによると、啄木は、夜勤の後は滝山町の東京朝日新聞社を出て、銀座通りにある竹川町停留場で品川方面からやって来る電車に乗り込み、上野広小路で本郷へ向かう電車に乗り換えて、本郷三丁目で電車を下りたという。

 しかし夜勤で遅くなると、上野広小路まで最終電車(赤電車)で帰ってきたものの、本郷方面へ行く電車はすでに走ってはおらず、上野広小路から本郷弓町まで、真夜中の道を人力車に乗って、あるいは歩いて帰るといったこともしばしばでした。

 それをうたった歌に、以下のようなものがある。

 「途中にて乗換の電車なくなりて 泣かうかと思ひき、雨も降りてゐき。」

 さらにもう一首。

 「二晩おきに 夜の一時頃に切通(きりどおし)の坂を上りしも─ 勤めなればかな。」

 「切通」とは、湯島の切り通しのこと。電車通りとなり幅広のゆるやかな坂道になったとは言え、かなりの上り坂が続きます。途中左手には、湯島天神の石垣も続いています。通りにはもう人影はまったくない。電車も往き来しない寂しく暗い坂道を、とぼとぼと一人歩いている啄木。

 夜勤の仕事に疲れた啄木は、

 「途中にてふと気が変(かわ)り、つとめ先を休みて、今日も河岸(かし)をさまよへり。」

 電車に乗ろうとしたものの、途中でふと気が変わって、滝山町の方へは向かわずに「河岸」をさまよったというのです。この「河岸」はいったいどこか。浅草方面へ行く電車に乗ったとすれば、隅田川沿いの河岸であるのかも知れない。隅田川の広い川面を眺めながらさまよい歩きつつ、彼はいったいどういったことを考えていたのだろうか。


 終わり


○参考文献
・『啄木短歌に時代を読む』近藤典彦(吉川弘文館)
・『石川啄木全集 第六巻』(筑摩書房)

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