鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.6月取材旅行「新宿~四谷~有楽町」 その6

2010-06-20 05:27:50 | Weblog
『F.ベアト幕末日本写真集』の幕末の江戸の写真を見ていて、気になる一枚が出てきました。それは、P102の「肥前屋敷」という写真。この写真手前には堀があり、中央やや右側には石垣の中央から水が簾(すだれ)のように流れ落ちています。右端にはおよそ13段ほどの高い石垣があります。その石垣の左手向こうには森があって、しかとはわからないが広い堀の水面のようなものが広がっています。左側にはやや上へ上がっていく坂道があり、その左手に武家屋敷の長屋塀(2階建て)が三つの段になって連なっています。この長屋塀のある建物が「肥前屋敷」だということなのでしょうが、『復元江戸情報地図』を見ても、その地形に該当する「肥前屋敷」は見当たりません。しかしこの写真を見て脳裡にひらめいたのは、広重の『名所江戸百景』の「虎の門外あふひ坂」の絵。堰(せき)とその両側の石垣、その左側の上へとゆるやかにせりあがっていく坂道、その左側の武家屋敷の長屋塀…と、見事に一致しています。もしベアトの写真に写る坂道が「あふひ坂」すなわち「葵坂」であるとすると、真ん中の堰の向こうは「溜池」ということになり、左手に見える長屋塀は、前に見た通り上総一宮藩加納備中守の中屋敷ということになる。つまり「肥前屋敷」ではない。しかしその上総一宮藩の中屋敷の南隣には肥前佐賀藩松平(鍋島)肥前守の中屋敷が広がっていたのです。肥前藩の各屋敷周辺の地理を調べてみても、近くにこのような堀や石垣、そして堰があるところは、この中屋敷以外にありません。となると、やはりこの写真は、広重と同じく、「虎の門外あふひ坂」すなわち「葵坂」とその右手にあった堀と堰を写したものではないか。日向延岡藩の内藤能登守の屋敷地から写せたはずはないから、この写真を、ベアトは広重と同じく、讃岐丸亀藩京極佐渡守の屋敷の門前から(広重の地点よりやや虎御門寄り)、右手の堀に飛び出している石垣を写しこまないようにして、堰や葵坂、およびその坂左手の武家屋敷を写したものと推測することができます。ただ水が滝になって流れ落ちているところが堀の水面と平行ではなく、やや左下に傾いているところが広重の絵と異なるところです。外堀の石垣が飛び出ているところはこのベアトの写真には写っていませんが、それがもし写されていたとしたら、その石垣は歩道橋を渡って下ったところに露出していたあの石垣ということになる。 . . . 本文を読む