鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.6月取材旅行「新宿~四谷~有楽町」 その3

2010-06-16 07:21:07 | Weblog
坂道の高低差(角度)などというものは、実際に現地を歩いてみないとわからないことが多い。地図だけではなかなかそれはわからないもの。弁慶橋から清水谷の交差点にかけて、そしてそこから喰違見附へと上がっていく坂道(紀尾井坂)もそうでした。弁慶橋から右に清水谷公園を見て清水谷に向かっていく通りの左側には、現在は「ホテルニューオオタニ」があり、右側には「赤坂プリンスホテル」や「清水谷公園」などがあります。大久保利通が暗殺された明治11年(1878年)当時には、左側には壬生(みぶ)基修邸、右側には北白川宮能久親王邸がありました。江戸時代においては、左側には近江彦根藩井伊家の中屋敷があり、右側には紀州徳川家の中屋敷がありました。そして清水谷を左折すると、右側にはかつては尾張徳川家の中屋敷。現在は上智大学のキャンパスがある。ゆるやかであった壬生邸と北白川宮邸の間の清水谷に向かう坂道は、清水谷のところで左折して喰違見附方面へと向かうといきなり急坂になる。左手に壬生邸を見て坂道を上がると、そこが江戸城外郭門の一つであった喰違見附となり、そこを濠を両側に見て進んでいけば赤坂の太政官(赤坂仮御所)に至る。つまり「清水谷」のところで坂道は急に傾斜を増し、喰違見附へと向かうのです。参議兼内務卿大久保利通の乗った2頭立ての箱馬車は、午前8時頃に赤坂仮御所に向かって裏霞ヶ関三年町三番地の自邸を出発。大久保は洋装で、フロックコートに山高帽子。御車は中村太郎で、背後には馬丁の小高芳松が乗っている。箱馬車は、赤坂御門前を右折したあと濠を左手に見て進み、そして現在弁慶橋が左手に見える地点で右折して清水谷へと向かいました。紀尾井坂へと急坂を上る地点(清水谷)で、箱馬車のスピードはぐんと落ちる。坂道の両側には排水溝がありました。白兵児帯姿の二人の男が、右手の北白川宮邸の草むらから箱馬車に向かって襲いかかってきたのが8時20分頃。御者の中村太郎は飛び降りようとしたところを肩先から胸にかけて斬られ、ほぼ即死状態。左手(壬生邸)背後の板囲いの辻便所の陰から飛び出してきた4人が、停止した箱馬車に襲い掛かり、箱馬車の左側の扉から出てきた大久保を斬り殺します。大久保の左右の手にはことごとく刀痕があったということは、大久保は、四方から斬りつけられながらも、振り下ろされた刀を両手で必死に防ごうとしていたことがわかります。 . . . 本文を読む