鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.7月取材旅行「日比谷~本郷三丁目~団子坂上」 その5

2009-07-22 06:01:50 | Weblog
 この靖国通りと交わる「須田町」交差点から万世橋のあたりは、関東大震災前と後とではかなり変貌しているようです。

 中央線(3)万世橋ガードを潜ったのは11:12。

 このあたりには明治5年(1872年)までは筋違門(すじかいもん)があったというのだから驚きます。

 この筋違門を撤去した際の石垣を利用して造ったのが初代万世橋(まるで長崎の眼鏡橋を思わせるような二連アーチの石橋)でした。明治30年前半の東京の街の様子を描いたのが山本松谷の絵ですが、先ほど触れた万世橋界隈の絵は、今の秋葉原電気街の上空から見た当時の東京の光景。絵の右下の方向が上野・浅草方面で、左斜め横が日本橋方面。ここが、路面電車の軌道の敷設や、甲武鉄道のターミナル駅(万世橋駅)の建設、あるいは広瀬中佐の銅像の建設などにより、わずかの間にどんどん街並みを変えていったのです。

 「万世橋」交差点から右側歩道から左側歩道へ移りました。

 左手にあったのが、「国土交通省関東地方整備局東京国道事務所万世橋出張所」。その右隣にあった案内板によると、国道17号線が旧中山道。「万世橋」交差点で左折するとそれが国道17号線。

 その「万世橋」交差点から秋葉原電気街に入っていきました。土曜日ということもあって、歩道はたいへんな人の波。

 高架を潜って左手にあったのが住友不動産秋葉原ビル。ここで左折すれば神田明神下に至りますが、今回はここをそのまま直進。

 明治30年代から明治40年代前半にかけて、神田三丁目12~13の間は、左手が神田旅籠町でした。また神田五軒町というのもありましたが、ここには天ぷらの名店や寄席などが出来ていて、大いに賑わったところであるという。明治44年(1911年)、「神田」が外れて、ただの「五軒町」となりました。

 上野三丁目のところで「中央通り」はやや右折(黒門児童遊園前)。

 左手に御和菓子舗うさぎ屋があって、買い物客で賑わっていました。

 右手に見えてきたのが上野松坂屋。

 「上野広小路」交差点は「春日通り」と交差しています。

 この「上野広小路」交差点で左折しました(11:52)。

 つまり「春日通り」に入ったわけですが、この「春日通り」というのは、先の万世橋出張所右横の案内板によると、墨田区横川─隅田川─上野広小路─本郷三丁目─春日─東池袋─川越街道へと続く通り。「春日通り」の「春日」とは、三代将軍家光の乳母であった「春日局」に由来しています。

 左折すると、すぐに「旧町名案内 旧湯島同朋(どうぼう)町」にぶつかりました。もともとは「湯島天神下同朋町」であったのが明治44年(1911年)に「湯島同朋町」となり、それが昭和40年(1965年)まで続いたという。

 「天神下」交差点で右折、横断歩道を渡ってからすぐに左折すると、そこに「旧岩崎庭園→140m」の案内標示。

 ここはまだ訪れたことがありません。ということで、せっかくなので足を向けてみることにしました。


 続く


○参考文献
・『東京市電名所図絵』林順信(JTBキャンブックス/JTB)
・『江戸東京物語 都心篇』新潮社編(新潮文庫/新潮社)
・『百年前の東京絵図』山本松谷画/山本駿次郎編(小学館文庫/小学館)


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