啄木が最初の上京をしたのは明治32年(1899年)の13歳の時。夏季休暇を利用して、姉とらの夫山本千三郎のもとに約一ヶ月間滞在しました。2回目の上京が明治35年(1902年)の10月末(16歳)。初めて新詩社の会合に出席し、また与謝野鉄幹・晶子夫妻を訪問したりしましたが、病を得て、翌年2月に父に伴われて帰郷。3回目の上京が明治39年(1906年)の6月(20歳)。父の宝徳寺復帰運動を兼ねての上京で、夏目漱石や島崎藤村らの小説から強い刺激を受け、帰郷してから小説を書き始めるようになりました。そして4度目が明治41年(1908年)の4月28日(22歳)。こうやってみてくると、啄木は厳密には4回上京したということになる。そしてこの4回目の時、啄木は朝日新聞社に校正係としての職を得、家族を呼び寄せて、そして貧窮と病気(肺結核)のうちに亡くなります(明治45年4月13日・26歳)。啄木が死ぬ2年前には長男真一が生まれて間もなく死に、そして母かつも1ヶ月前に亡くなっています(肺結核)。さて、私が興味・関心のあることがらは、啄木が東京でどういう人々と出会い、またどういった光景や景観(景色)に出会ったかということですが、特に興味あることは東京の風景のうち路面電車です。東京市街に営業用として初めて電車が走ったのは明治36年(1903年)。2回目の上京まではまだ走っておらず、3回目の上京の時にはすでに走っています。そしてもっぱら路面電車を利用するようになったのが4回目の上京の時。「東京鉄道」一社時代から「東京市電」に移っていく時でした(「東京市電」になったのは明治44年)。一葉(明治29年没)や兆民(明治34年)の時代はまだ東京市街を路面電車は走っておらず、通りには人力車や馬車や馬車鉄道(ごく一部)が走っているばかりでした。ところが啄木になると、第3回目の上京の時には東京市内を路面電車が走り、そして第4回目の時には通勤を始めとする移動の手段として路面電車をもっぱら利用するようになっています。啄木は、路面電車が走る前の東京を知っており、そして路面電車が縦横に走る東京を知っているのです。啄木が貴重なのは、その日記を通して、どこからどこまで路面電車を利用したかがわかること。この路面電車の普及によって、東京の景観も、人々の暮らしぶりも、大きく変化したのではないかと私は思っています。 . . . 本文を読む