鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

『百年前の東京絵図』について その2

2009-07-28 06:41:10 | Weblog
山本松谷(しょうこく)とはどういう人物なのか。あらましは『百年前の東京絵図』の巻末、「山本松谷画業と生涯 知る人ぞ知る幻の画人」という山本駿次郎さんの文で知ることができます。本名は茂三郎。明治3年(1870年)11月9日に高知県後免町(現南国市)に生まれています。父は市蔵、母はいわ子。御一新までは父は土佐藩士であったというから、茂三郎は武家の子であったということになる。7歳の時、高知郊外の種崎村の絵師柳本洞素(やなぎもとどうそ)に入門。この洞素というのは山内(やまのうち)家の御用絵師であったという。明治12年(1879年)には洞素の推挙で、高知市蓮池町の河田小龍の塾に入っています。河田小龍はこの年56歳。「画人としてより、最も進歩的な知識人として土佐藩に登用され、幕末動乱の渦中に東奔西走しながら、坂本竜馬に影響を与えた人として知られる」とありますが、私としては、中浜万次郎(「ジョン万次郎」)の漂流談を『漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)』としてまとめた人物として馴染みがある。この『漂巽紀略』の全文は、その挿画とともに、『中浜万次郎集成』(小学館)の中に収録されています。明治15年(1882年)、小龍は入門3年目の茂三郎に「小斉」の号を与えています。茂三郎は明治22年(1889年)正月、神田駿河台紅梅町河岸にあった南画の巨匠滝和亭(たきわてい)に入門。この滝和亭、若い頃に渡辺崋山や椿椿山(つばきちんざん)に私淑していたというから面白い。雑誌『風俗画報』というのがある。これは、明治22年2月の帝国憲法発布記念として、日本橋区葺屋町の「東陽堂」から発行されたものですが、創刊号以来、「絵で読む新聞」として全国から記事や絵などの投稿が誌面を飾っていました。茂三郎も「早乙女図」という作品を投稿したところ、これに着目したのが編集責任者であった山下重民。茂三郎の「早乙女図」に「記録画の報道性と石版画に対応できる体質」を認めた山下重民は、この茂三郎を招いて「東陽堂」の絵画部員として採用することに。そして明治29年(1896年)の9月には、「松谷画業の本命ともいうべき『新撰東京名所図会』」の第一編が出されることになりました。これから最終巻(明治42年3月)まで10年余の画業が、彼の生涯の画業を代表するものでした。東京の街の賑わいというものを愛情を込め丹念に描き出した稀有の画家でした。 . . . 本文を読む