鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

斎藤真一さんの『明治吉原細見記』について その3

2009-07-11 05:38:58 | Weblog
樋口一葉一家が下谷区下谷龍泉寺町368番地に引っ越したのは、明治26年(1893年)の7月20日ですが、その年4月13日に、吉原遊郭では23の楼を焼失する火事がありました。明治24年(1891年)の冬にも61棟の楼が全焼する大火があって、それが明治に入ってから4度目の吉原大火であったという記述があるから、これは明治に入ってから5度目の吉原大火になるのかも知れない。午後7時頃、揚屋町(あげやまち)の貸座敷から出火し、江戸町一丁目、京町一丁目の妓楼を焼いたという。原因は不明。妓楼の数は170軒前後。ということは七分の一ほどの妓楼が焼失したことになる。その後の吉原大火として有名なのは、明治44年(1911年)の4月9日に発生した大火。火事が発生したのは午前10時30分。江戸町二丁目の美華登(みかど)楼から火の手が上がり、その火は吉原各町を焼き尽くして廓外にも及び、下谷龍泉寺町、今戸から山谷まで焦土と化し橋場町まで延焼したという。この吉原大火の様子を撮影したのが、『目で見る台東区の100年』のP55下の写真。どこから写したのかはよくわからないが、屋根の上から撮影されています。これにより、江戸時代から続いてきた旧いしきたりの「遊里」は終わったとされるほどの大火でした。ということは、一葉が大音寺通りに駄菓子屋を構えていた時の吉原遊廓は、まだまだ江戸時代の名残りをとどめる世界であったということになる。しかし一方、吉原遊廓には「文明開化」の影響もいち早く及んでいました。「大店」である京町一丁目の角海老楼に時計台が出来たのが明治17年(1884年)。時刻を告げる鐘の音が吉原一帯に鳴り響くようになりました。『たけくらべ』にも、「角海老が時計の響きもそぞろ哀れの音(ね)を伝えるように成れば…」とあるように、一葉の家にもこの角海老楼の時計台の鐘の音は聞こえてきたに違いない。明治14年(1881年)に設けられた大門の門柱の先にはガス燈が設(しつら)えられていたし、また明治19年(1886年)頃、山田楼では遊女の洋間の部屋にベッドを入れていたという。さらに、ハイカラを誇った稲辨楼でも明治24、5年頃には建物が西洋館となり、やはり遊女の部屋は洋間でベッドが入れられていました。また明治22年(1889年)7月に、吉原病院が「新吉原駆梅院」として造られていますが、これも西洋式の建物であったのです。 . . . 本文を読む