鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.7月取材旅行「日比谷~本郷三丁目~団子坂上」 その3

2009-07-20 06:00:50 | Weblog
 「銀座京橋」のガイドパネルによると、この京橋川に初めて橋(木造)が架けられたのは慶長年間のこと。そして石造りのアーチ橋が架けられたのは明治8年(1875年)。橋の長さは11間(約19.8m)、幅は8間(約14.4m)。この石造りのアーチ橋が、明治34年(1901年)には橋長・橋幅ともに10間(約18m)の鉄橋になりました。

 ガイドパネルには、広重の『名所江戸百景』のうち「京橋竹がし」が掲載されていますが、京橋から白魚橋の間(京橋川の北東沿岸)には「竹河岸」というものがあって、その風景を広重が描いたもの。竹には、内房地方から高瀬舟に載せて京橋川に入ってきたものや、上州地方から筏(いかだ)に組んで送られてきたものが多かったらしい。この河岸には、それらの地方から入ってきた竹を商う竹問屋が軒を並べていました。

 この「京橋」のガイドパネルに目を通した後、大通り(「中央通り」=旧東海道)を新橋方面に向かって歩き始めました(8:38)。

 この「銀座通り」(旧東海道の通り)はすでに歩いたことがある(2007.4月取材旅行)。ちょうど歩行者天国で、車の通っていない銀座通りを、多くの人が歩いたりたむろしている中を、気持ちよく闊歩(かっぽ)した思い出があります。

 しかしその時は、啄木がこの通りを路面電車に乗って通勤していたことはまったく頭にありませんでした。路面電車が通りの真ん中を走っていたことは知っていましたが。

 前回と違って歩行者天国にはなっていないので、右側の歩道を歩いていきました。前回とは逆方向に歩いていることになる。

 啄木の出勤は朝ではなく、午後からでよい。下宿で昼飯を食べてから出掛けることが可能でした。しかも退社は午後5時とか6時とかいった塩梅(あんばい)で、勤務時間は夜勤を除けばおよそ5時間前後。それで月給25円というのだから、比較的割のよい仕事であったと思われる。しかしその収入も、今まで蓄積してきた借金の支払いもあって、彼の生活をゆとりあるものにするものではけしてなかったことが、彼の日記を見ていくとよくわかります。

 啄木は、正午前後に本郷三丁目から数寄屋橋へ向かい、夕暮れ時の銀座通りを眺めながら本郷三丁目へ向かったのです。

 右手に「京橋の親柱」があり、その写真を撮ったのは8:41。土曜日の朝ということもあって、歩道を歩く人はまだまばら。

 銀座一丁目→銀座二丁目→銀座三丁目を経て銀座四丁目へ。左に三越(銀座店)、右には木村屋総本店があって、「おかげさまで創業百四十年」とある。まだ店は開いておらず、開店準備中。

 東京メトロ銀座駅があって右手は和光。

 かつて路面電車が走っていたところは地下鉄が走っているのです。

 「銀座四丁目」交差点は「晴海通り」と交わる。ここを右折すれば、数寄屋橋を経て日比谷や桜田門に至り、左折すれば築地や月島方面に至る。横浜港→横浜駅→新橋駅と来た場合、この銀座通りを進み、この銀座四丁目の四つ角で左折すれば、しばらくして皇居や官庁街に至り、右折すればしばらくして築地の居留地に至るということを考えると、この銀座四丁目の交差点はかなり重要なポイントであったことがわかります。

 ここの交差点のやや新橋寄りにあった路面電車の停留場が「銀座尾張町」。啄木の時代、銀座四丁目はありましたが、銀座五丁目~八丁目まではありませんでした。五丁目から八丁目までが生まれたのは昭和5年(1930年)のことであったようです。したがって「銀座七丁目」という路面電車の停車場はなかったことになります。

 銀座五丁目→銀座六丁目を経て「銀座六丁目」交差点へ。この交差点は「交詢社通り」と交わるところ。ここを右折して200mほど行けば東京朝日新聞社の跡地にある「朝日ビルディング」に至ります。

 銀座七丁目のところで横断歩道を渡って左側の歩道へ移り、そこから今度は道を戻ることにしました(8:55)。

 銀座五丁目の松坂屋の前の歩道で「商法講習所」と記された石碑を見つけました。この商法講習所は一橋大学の前身で、明治8年(1875年)のこの地に設立されました。昭和50年(1975年)9月24日に、創立「百年記念」としてこの碑が設けられたことを知りました。

 その時、鐘の音が鳴り響いてきました。時間を確認するとちょうど9:00。この鐘の音は、あの「和光」の時計台の鐘の音でしょうか?

 「銀座三丁目」交差点を過ぎると、歩道左手に「道 日本の道100選 銀座通」のパネル。

 「銀座二丁目」交差点を過ぎると「銀座発祥の地 銀座役所跡」の碑。これは前にここを通った時に見た記憶がある。

 銀座一丁目を過ぎ「銀座通り口」交差点を過ぎると、そこが銀座京橋であって、「煉瓦銀座之碑」がありました。

 明治時代、銀座は「煉瓦」または「煉瓦地(れんがじ)」と呼ばれていたということを聞いたことがある。

 明治時代に入るまで、この銀座の地は日本橋に較べるとそれほど繁華な地ではなかったらしい。その地が「煉瓦」ないし「煉瓦地」と呼ばれるような異色な街区として発展するようになったのは、明治に入ってから。直接的なきっかけは明治5年(1872年)の2月26日に発生した大火でした。

 『東京の歴史』(松本四郎)によれば、この日に和田倉門近くの兵部省屋敷からの出火は、北西の風に乗って、今の銀座地区のほとんどを焼き尽くし、三十間堀(さんじっけんぼり)を越えて木挽町(こびきちょう)、そして築地の外国人居留地までも延焼しました。東京での最初の本格的な洋風建築で有名であった築地のホテル館もこの時に焼け落ち、三十四ヶ町の2926戸が全焼。被災者は5万人という大火でした。

 「東京にとって、文明開化の表玄関」とも言える新橋駅での鉄道開業式の7ヶ月前のことでした。

 この大火の直後、煉瓦街の建設方針が打ち出され、そして銀座煉瓦街化の計画については、東京府(府知事は由利公正)・大蔵省(井上馨・渋沢栄一)などのかけひきの末、大蔵省主導のもとに建設工事が開始され、翌年の6月頃には表通りの煉瓦街はほぼ完成を見たようです。

 ついで横町や裏通りの煉瓦街化も始められ、それらの工事が一応の完成を見たのは明治10年(1877年)のことであったらしい。

 道幅は、従来よりも倍以上の15間(約27m)。この通りの両側には歩道が設けられ、そして歩道と車道の間には桜・楓(かえで)・松といった街路樹が植えられ、その歩道に沿って煉瓦造りの建物がおよそ1kmにわたって延々と並んでいました。

 歩道には人が行き交い、車道には人力車や馬車が行き交いました。

 横浜~新橋間の鉄道、新橋ステンションの建物、そしてその新橋から京橋まで延びる「銀座煉瓦街」は、「文明開化」を象徴するものとして、当時の日本人に強いインパクトを与えました。

 ここで思い出されるのは、中江兆民。

 若き日の兆民(篤助)は、フランス留学を命ぜられて明治4年(1871年)11月、岩倉使節団付属の留学生団の一人として横浜に向かいます。兆民が横浜へ向かった経路はわかりませんが、兆民は東海道をすでに歩いたことがあり、とうぜん鍛冶橋にあった土佐藩邸に至るまでのこの新橋~京橋間の東海道のようすも知っていました。

 兆民が2年余のフランス留学を終えて日本に帰ってきたのが明治7年(1874年)6月9日(横浜入港)。

 横浜駅から初めて鉄道に乗って新橋駅までやってきた兆民は、その新橋駅から人力車に乗ったものと思われる。そしてこの銀座煉瓦街を人力車の上から眺めたであろうと思われます。

 サンフランシスコやニューヨーク、そしてパリやマルセイユ、リヨン、それにロンドンなどを見てきた兆民にとって、かつての東海道筋のようすとはまるで変貌してしまったこの通りのようす(銀座煉瓦街)は、どういう感慨をもたらすものであったか。

 私にとって興味ある場面の一つです。


 続く


○参考文献
・『東京市電名所図絵』林順信(JTBキャンブックス/JTB)
・『石川啄木全集 第六巻』(筑摩書房)
・『東京の歴史』松本四郎(岩波ジュニア新書/岩波書店)
・『中江兆民』飛鳥井雅道(吉川弘文館)


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