![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/b7/5fdeebbe6d2355e2b586b9c96c02d5b9.jpg)
『美空ひばり』に紹介されている音丸の記憶をまとめてみると、そのバス事故は次のようなものでした。
大杉の駅に近付いて坂道を下っていく時、バスの運転手がちょっとわき見をしていたところ、目の前にトラックが現れて、運転手は慌ててハンドルを切ったものの間に合わず、バスはトラックとぶつかってしまいました。バスはそのはずみで、左手の崖に横倒しになって落ちかかりましたが、木に引っ掛かって危うく崖下に落下せずにすみました。
女の車掌さんは、バスの中から救い出した時にはすでに死んでいました。バスの一番後ろに座っていた和枝(美空ひばり)は、血だらけになって倒れていました。 2人は近くの民家に運ばれ、その土間に寝かされて莚(むしろ)が掛けられようとした時、和枝の母(喜美枝)が、「まだ死んでいない!」と叫んで和枝の莚をはねのけました。
和枝は、2週間くらい高知の病院で治療を受け、それから横浜に帰っていきました。
以上が座長の音丸の記憶のあらまし。
意識をなくした美空ひばりが、母喜美枝から聞いた話は次のようなものでした。
列車の時刻に間に合わせるべく、スピードを上げて走っていたバスは雨上がりの道でスリップして転覆。崖下に落ちかかりましたが、バスのバンパーが桜の木の切り株にひっかかって、あやうく落下は免れました。
バスの車体は十分の三ぐらいは地面の上に残っていたが、十分の七は空中に浮いていたという。
バスの後部に手すりにしがみついて座っていたが、転覆と同時に乗客の下敷きとなり胸を強く打ちました。もがいたはずみで割れた窓ガラスの破片で手を大きく切り、右手首からは多量の出血をしていました。
バスからひっぱり出された時には、もう瞳孔が開いた状態であったという。
重傷であったのは「わたし」と車掌さん。車掌さんは駅が近付いてきていたためドアを開けてタラップに立っていたために致命傷を負いました。
バス事故と負傷者がいる知らせは、たまたまその町に軍医上がりの医者がいて、その医者が往診に出かけようとして自転車を前に一服しているところに届きました。その医者が自転車に乗って現場近くの、2人が寝かされている民家に駆けつけたのです。もし、その医者が往診に出かけてしまっていた後であったなら、助からなかったに違いない。
自転車で駆けつけた軍医上がりの医者は、心臓に直接、太い注射をするとともに人工呼吸を施しました。女性の車掌さんの方は、耳から血が流れ出ていてすでに亡くなっていました。
応急措置が取られた後、あとで右手首の切り傷は縫われました。母の看病は1週間ほど続いたそうです。
その後遺症か、右手の小指だけは今でもうまく曲がらない。
以上が、『ひばり自伝』のバス事故の部分の要約。
二つの記述を総合すると、以下のようなあらましになる。
大杉駅に急いでいたバスは、雨上がりの坂道で、いきなり目の前に現れたトラックとぶつかってしまい、そのはずみで横倒しになり、道から崖下に落ちかかりました。しかしバンパーが桜の木の切り株に引っ掛かり、崖に乗り出した状態でかろうじて落下を免れました。
しかしドアを開けてタラップに出ていた女性の車掌は体を強く打ってほぼ即死状態。バスの後部に座っていた美空ひばりは、バスが横倒しになった時に乗客の下敷きとなり、もがいた拍子に割れた窓ガラスの破片で右手首を切り、大量に出血。
バスから引き出された2人は、近くの民家の土間に寝かされ、瞳孔が開いて仮死状態の美空和枝(ひばり)の方は、自転車で駆けつけてきた軍医上がりの医者に応急措置を受けました。
その後、美空ひばりは高知の病院で切り傷の縫合手術を受け、1週間ほど病院生活を送った後に、母とともに横浜へ戻りました。
竹中労の『美空ひばり』には、この事故で負傷して帰って来たひばりに、父増吉が、「それ見たことか」と歌手になる夢に反対する場面が出てきます。しかしひばりは、父の反対に抗(あがら)って泣き止まない。そのひばりの姿に父は、「じゃ、勝手にしな」と諦めたというのです。
その後に、次のような美空ひばりの述懐が紹介されています。
「私の人生のテーマはそのとき決まりました。歌手になれないなら、自殺しちゃおうと思ったんです。…あの四国の事故で、死んでいたはずの生命がたすかったときに、思ったんです。私の命を救ってくれた、運命みたいなものがあるにちがいないって。私は歌い手になるために生まれてきたんだ。だから神様が、生命を救ってくれたんだって。」
竹中労さんは、
「ひばりの右の手首には、いまでもそのときの傷跡がくっきりと残っている。」
と記しています。
さて、ここで、私が大豊町杉の旧道で出会ったおばさんの話に戻ります。
そのおばさん(N・Aさん)は、バス事故当時は大杉小学校に通っており、事故の知らせを聞いて、小学校から事故現場に駆けつけたという。ケガをしている女の子は、歌の上手い子で、巡業の途中で事故に遭ったということを耳にしたそうです。
事故当日の夜は、この家の隣の旅館に泊まったのだ、とNさんは言われました。今は隣の家は旅館はやっていないが、通りの斜め向かいはその旅館の別館であったとのこと。
それを聞いた私は思わず通りに出て、その家を見てみましたが、たしかに昔は旅館であったかも知れないと思いました。
「九死に一生」を得た美空ひばりは、その後、大杉にふたたびやってきて、毛織物のコートを着た姿で記念写真を撮りましたが、それが美空ひばりの歌碑に埋め込まれている写真であるという。
この撮影場所は、大杉のある八坂神社に旧道から上っていく石段の手前である、とは、その石段の途中で出会った二人のおばあちゃんから聞いたことでした。
では、美空ひばりが再度大杉を訪れたのはいつか、というと、それは昭和27年(1952年)のことで、ひばりが15歳の時。
その時には、ひばりは全国的に有名になっており、高価な「毛織物のコート」を羽織って大杉にやってきました。おそらく「日本一の大杉」を、その時に初めて見上げたのかも知れない。
昭和22年(1947年)9月の大杉でのバス事故は、美空ひばりにとって、「日本一の歌手になる」と覚悟を決める大きなきっかけとなった事件であったということになります。
終わり
○参考文献
・『ひばり自伝』美空ひばり(草思社)
・『美空ひばり』竹中労(朝日文庫)
大杉の駅に近付いて坂道を下っていく時、バスの運転手がちょっとわき見をしていたところ、目の前にトラックが現れて、運転手は慌ててハンドルを切ったものの間に合わず、バスはトラックとぶつかってしまいました。バスはそのはずみで、左手の崖に横倒しになって落ちかかりましたが、木に引っ掛かって危うく崖下に落下せずにすみました。
女の車掌さんは、バスの中から救い出した時にはすでに死んでいました。バスの一番後ろに座っていた和枝(美空ひばり)は、血だらけになって倒れていました。 2人は近くの民家に運ばれ、その土間に寝かされて莚(むしろ)が掛けられようとした時、和枝の母(喜美枝)が、「まだ死んでいない!」と叫んで和枝の莚をはねのけました。
和枝は、2週間くらい高知の病院で治療を受け、それから横浜に帰っていきました。
以上が座長の音丸の記憶のあらまし。
意識をなくした美空ひばりが、母喜美枝から聞いた話は次のようなものでした。
列車の時刻に間に合わせるべく、スピードを上げて走っていたバスは雨上がりの道でスリップして転覆。崖下に落ちかかりましたが、バスのバンパーが桜の木の切り株にひっかかって、あやうく落下は免れました。
バスの車体は十分の三ぐらいは地面の上に残っていたが、十分の七は空中に浮いていたという。
バスの後部に手すりにしがみついて座っていたが、転覆と同時に乗客の下敷きとなり胸を強く打ちました。もがいたはずみで割れた窓ガラスの破片で手を大きく切り、右手首からは多量の出血をしていました。
バスからひっぱり出された時には、もう瞳孔が開いた状態であったという。
重傷であったのは「わたし」と車掌さん。車掌さんは駅が近付いてきていたためドアを開けてタラップに立っていたために致命傷を負いました。
バス事故と負傷者がいる知らせは、たまたまその町に軍医上がりの医者がいて、その医者が往診に出かけようとして自転車を前に一服しているところに届きました。その医者が自転車に乗って現場近くの、2人が寝かされている民家に駆けつけたのです。もし、その医者が往診に出かけてしまっていた後であったなら、助からなかったに違いない。
自転車で駆けつけた軍医上がりの医者は、心臓に直接、太い注射をするとともに人工呼吸を施しました。女性の車掌さんの方は、耳から血が流れ出ていてすでに亡くなっていました。
応急措置が取られた後、あとで右手首の切り傷は縫われました。母の看病は1週間ほど続いたそうです。
その後遺症か、右手の小指だけは今でもうまく曲がらない。
以上が、『ひばり自伝』のバス事故の部分の要約。
二つの記述を総合すると、以下のようなあらましになる。
大杉駅に急いでいたバスは、雨上がりの坂道で、いきなり目の前に現れたトラックとぶつかってしまい、そのはずみで横倒しになり、道から崖下に落ちかかりました。しかしバンパーが桜の木の切り株に引っ掛かり、崖に乗り出した状態でかろうじて落下を免れました。
しかしドアを開けてタラップに出ていた女性の車掌は体を強く打ってほぼ即死状態。バスの後部に座っていた美空ひばりは、バスが横倒しになった時に乗客の下敷きとなり、もがいた拍子に割れた窓ガラスの破片で右手首を切り、大量に出血。
バスから引き出された2人は、近くの民家の土間に寝かされ、瞳孔が開いて仮死状態の美空和枝(ひばり)の方は、自転車で駆けつけてきた軍医上がりの医者に応急措置を受けました。
その後、美空ひばりは高知の病院で切り傷の縫合手術を受け、1週間ほど病院生活を送った後に、母とともに横浜へ戻りました。
竹中労の『美空ひばり』には、この事故で負傷して帰って来たひばりに、父増吉が、「それ見たことか」と歌手になる夢に反対する場面が出てきます。しかしひばりは、父の反対に抗(あがら)って泣き止まない。そのひばりの姿に父は、「じゃ、勝手にしな」と諦めたというのです。
その後に、次のような美空ひばりの述懐が紹介されています。
「私の人生のテーマはそのとき決まりました。歌手になれないなら、自殺しちゃおうと思ったんです。…あの四国の事故で、死んでいたはずの生命がたすかったときに、思ったんです。私の命を救ってくれた、運命みたいなものがあるにちがいないって。私は歌い手になるために生まれてきたんだ。だから神様が、生命を救ってくれたんだって。」
竹中労さんは、
「ひばりの右の手首には、いまでもそのときの傷跡がくっきりと残っている。」
と記しています。
さて、ここで、私が大豊町杉の旧道で出会ったおばさんの話に戻ります。
そのおばさん(N・Aさん)は、バス事故当時は大杉小学校に通っており、事故の知らせを聞いて、小学校から事故現場に駆けつけたという。ケガをしている女の子は、歌の上手い子で、巡業の途中で事故に遭ったということを耳にしたそうです。
事故当日の夜は、この家の隣の旅館に泊まったのだ、とNさんは言われました。今は隣の家は旅館はやっていないが、通りの斜め向かいはその旅館の別館であったとのこと。
それを聞いた私は思わず通りに出て、その家を見てみましたが、たしかに昔は旅館であったかも知れないと思いました。
「九死に一生」を得た美空ひばりは、その後、大杉にふたたびやってきて、毛織物のコートを着た姿で記念写真を撮りましたが、それが美空ひばりの歌碑に埋め込まれている写真であるという。
この撮影場所は、大杉のある八坂神社に旧道から上っていく石段の手前である、とは、その石段の途中で出会った二人のおばあちゃんから聞いたことでした。
では、美空ひばりが再度大杉を訪れたのはいつか、というと、それは昭和27年(1952年)のことで、ひばりが15歳の時。
その時には、ひばりは全国的に有名になっており、高価な「毛織物のコート」を羽織って大杉にやってきました。おそらく「日本一の大杉」を、その時に初めて見上げたのかも知れない。
昭和22年(1947年)9月の大杉でのバス事故は、美空ひばりにとって、「日本一の歌手になる」と覚悟を決める大きなきっかけとなった事件であったということになります。
終わり
○参考文献
・『ひばり自伝』美空ひばり(草思社)
・『美空ひばり』竹中労(朝日文庫)
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