鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013年・夏の取材旅行「宮古~久慈~八戸」   その11

2013-10-16 05:42:03 | Weblog

 「カンパネルラ田野畑」駅前を出発してまもなく、ふたたび右手に海岸が見え、その視界の中に、海に面した白亜の立派な建物が目立って見えました。

 建物の最上階の壁に、「羅賀荘」、「ホテル羅賀荘」とあり、これが吉村昭さんが三陸海岸大津波についての講演をしたホテルであることを知りました。

 4階部分まで津波の被害を受けたということですが、遠目からはその痕跡を残すものはなく、ほぼ復旧工事は完了しているようでした。

 ホテル前の岸壁の広場(駐車場)には多数の乗用車が停まり、さらにその駐車場はバイクのライダーたちで密集していました。

 ライダーたちの集会か何らかの催しが、このホテルであったように思われ、これからホテル前を出発するような様子。

 白亜のホテルの背後には海へと突き出た小高い山があり、その前面は小さな湾になっていて、その湾には小さな突堤もあります。

 この湾は「羅賀漁港」の一部であるのでしょう。

 吉村さんが聞き取りをした、羅賀の中村丹蔵さんの家(標高50メートルほど)がどのあたりであったのか興味関心はありましたが、そのまま国道45号線を走り、陸中野田駅前で車を停めたのが8:22。

 ここはもう久慈市内となります。

 駅舎内に入ってみると、壁には「平成25年3月16日改正」の列車時刻表があり、行先は「久慈」と「田野畑」がありました。

 つまり、三陸鉄道北リアス線は、久慈から南は田野畑まで開通(復旧)していることになります。

 その「田野畑」(カンパネルラたのはた)駅から向こうには、トンネルがあって、そのトンネルの向こうは島越ですが、その島越の集落も橋梁上の観光物産館を兼ねた駅舎であった「カルボナードしまのこし」駅も津波で破壊され、現在はその橋梁も含めて復旧工事中であったことは、先ほど、見た通りでした。

 駅前の観光案内マップを見てみると、三陸鉄道北リアス線は、田野畑からだと、たのはた→ふだい→しらいかいがん→ほりない→のだたまがわ→りくちゅうのだ、と続き、「りくちゅううべ」を経て「くじ」へと至っています。

 この「りくちゅうのだ」駅は、「道の駅のだ」を兼ねている施設でした。

 この駅前で目に付いたのが「野田の牛方像」。

 編み笠をかぶった一人の牛方が、荷を担いだ牛を曳き、その後ろには子牛がついてきています。

 解説には「野田塩ベコの道」とあり、藩政時代から明治にかけて野田浜付近には10ヶ所に塩釜があって、直煮法による製塩が行われていたこと。

 野田地方で製塩された「野田塩」は、鉄などともに牛の背に積まれて運ばれたこと。

 牛方は、一人で7頭のコティ(3才以上の雄牛)を追って、細く険しいベコの道(塩の道)を、北上川流域や、さらには奥羽山脈に分け入り、沢内・鹿角方面までを交易圏として塩の行商をしていたこと。

 などが記されていました。

 「塩ベコの道」とは「塩の道」であり、さらに「鉄の道」であり、さらに「文化交流の道」でもあったのです。

 その「りくちゅうのだ」駅前を出発したのが8:30頃。

 そこから久慈市立図書館へと車を走らせました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『文藝春秋 9月臨時増刊号 吉村昭が伝えたかったこと』(文藝春秋)

・『三陸海岸大津波』吉村昭(文春文庫/文藝春秋)



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