鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

ジョルジュ・ビゴーという人 その最終回

2010-05-03 06:08:52 | Weblog
 ワーグマンとビゴーがお互いに意識し合っていたことを具体的に示す事例は、ワーグマン側からとしては、明治15年(1882年)7月刊の『ジャパン・パンチ』に、ビゴーを諷刺する漫画を描いたというのがある。明治15年7月といえば、ビゴーが来日して半年ばかり経った頃。まだビゴーは日本での就職先が決まらず、横浜に滞在していた頃のこと。来日前はまったく知らなかったビゴーという青年画家を、早くもワーグマンが意識している一つの事例です。

 二つ目の具体例。明治20年(1887年)2月15日、ビゴーは諷刺漫画雑誌『トバエ』を横浜で発刊していますが、その3月にワーグマンは『ジャパン・パンチ』最終号を発行。この号においてワーグマンは、『トバエ』とその発行者であるビゴーに対して、次のような賛辞を書いているという。

 「我々は『トバエ』に対して、うやうやしく賞賛のお辞儀をいたします。彼(ビゴーのこと)は優秀な男であり、卓越した力を持っており、少し辛辣なところがあります。日本人が『トバエ』を買うとしたら、月に五百ドルの値打ちはあるでしょう。それは我々の月商に匹敵する額です。」

 これはワーグマンが、諷刺漫画雑誌としての『トバエ』の価値を認め、その発行者であるビゴーの諷刺漫画家としての力量を認めた(その力量に兜を脱いだ)ということであり、この3月に『ジャパン・パンチ』を廃刊しているということは、『ジャパン・パンチ』の後継として『トバエ』を認めたということでもある。

 では、ビゴー側からの具体例はどうか。ビゴーは、明治20年4月15日の『トバエ』5号に、“ミスター・パンチに別れを告げるムッシュー・ピエロ”の漫画を掲載していますが、「ミスター・パンチ」とはワーグマンのことで、「ムッシュー・ピエロ」とはビゴー自身のこと。ビゴーが『ジャパン・パンチ』やその発行者であるワーグマンを意識していたことは、このことから言ってもまず間違いない。

 当時ワーグマンは55歳。日本滞在はなんと27年を数える。かたやビゴーは27歳。日本滞在はわずかに5年。

 ビゴーにとってワーグマンは日本に滞在する西洋人画家として大先輩の一人であったでしょう。

 いかし画家としての才能・力量としては、おそらくビゴーは、大先輩のワーグマンより自分の方が格段に勝っているということを、かなり早い段階から認識していたと思われます。

 ワーグマンの絵の修業については、「一八五二年20歳のときにパリへ赴いて絵の勉強をした─というだけで、詳細については不明である」(『ワーグマン日本素描集』所収「ワーグマン小伝」〔酒井忠康〕)という。

 一方ビゴーの方はというと、パリの美術学校(「エコール・デ・ボザール」)に入学してカロリュス・デュランやジャン・レオン・ジェロームらに学ぶとともに、校外では日本美術愛好の版画家たちとも交流をしています。来日前の1881年にはエミール・ゾラの『ナナ』(マルポン・エ・フラマリオン社刊)に挿絵17点を描いてるなど、その画家として力量は確かなものがありました。

 両者の『日本素描集』を見比べてみても、そのスケッチ力の差は、素人が見ても歴然たるものがある。ワーグマンのそれには描かれている人物一人一人の個性が十分に見えないが、ビゴーのそれには一人一人の個性が滲み出ているのです。ワーグマンの絵からは会話は見えてこないが、ビゴーの絵からは会話が見えてくるのです。これは一人一人が個性的に描かれているからです。

 たとえば一例を挙げてみましょう。

 『日本素描集』のP87に掲載されている「オー可愛い、可愛い アーよかった、忘れない……」というビゴーの絵は、影絵漫画ですが、その影絵からも男と女の会話が聞き取れるほどにきわめてリアルです。女の体の線や姿勢、男の口元などがしっかりと描かれているからです。女の方が真剣なのに、男の方はあくまでも遊びのようにも見える。

 ワーグマンの『日本素描集』P41の絵は、ふとんにくるまった女性をスケッチしたものだが、そこには別に何の物語もない。しかしビゴーの『日本素描集』P145の「当番の女中」の寝姿には、日頃の仕事の疲れに思わず寝込んでしまった女中の物語が見えて来ます。着物姿のままうつぶせになっている姿、そして着物の裾が乱れて足袋を履いた素足がのぞいてることが、その絵を観ているものに、その女中の日常の物語を想起させるのです。

 力量は、ビゴーの方が上であるのは明らかです。

 『明治の面影・フランス人画家ビゴーの世界』の表紙には、カラー石版の「日本の子供の遊び」という絵が掲げられていますが、これほど当時の日本の子どもたちの遊ぶ姿を生き生きと捉えた絵を私はほかには思い出せません。着ているもの、履いているもの、その色合い、そして髪型や被っているものが丁寧に描き分けられ、さらに遊びに興ずる子どもたち一人一人の表情まで描き分けられている。会話が聞こえて来る絵というのは、たとえばこういう絵を言うのでしょう。

 この絵を見ていると、樋口一葉の『たけくらべ』の世界が髣髴と浮かび上がってくるような気が、私にはしてきます。

 『ビゴーの世界』のP15~16に載っている「石版・手彩色」の「メニュー」シリーズも魅力的です。横浜居留地のホテルに納めたもので、好評であったらしく30種ほど出されたと解説にあります。ビゴーの帰国後も、別れた日本人女性が手彩色をして納めていたという話もある、とありますが、この「別れた日本人女性」がビゴーの妻であった佐野マスか、それ以外の女性かははっきりとはしていないようですが、私はその女性は佐野マスであったと考えたい。

 この「メニュー」シリーズは、現代でも絵葉書として売れるような美しさとデザイン性と、そして物語性をもっています。

 ビゴーは来日して多くの日本人と接触していく中で、外国人から見た日本人の珍妙さや奇怪さに驚いていくとともに、やがて日本人の庶民たち、中でも底辺の生活を支える健気な女性たちの姿に魅力を感じていったように思われます。

 しかし一方で、江戸の面影を残した庶民たちの姿は、自由民権運動の高揚期から日清戦争の勝利を経て、中央集権体制の強まりとともに微妙に変化していきます。

 この愛すべき庶民たちの生きる日本という国は、今後どのような方向に進んで行くのか。

 フランス人としてのビゴーは、そのことに深い関心と憂慮を抱いていくことになります。

 彼が、珍奇な日本人を見つめる眼には、外国人としてのクールで鋭い視線だけでなく、そこには日本人と同化してしまうような共感と愛情がある。

 であったからこそ、パリ近郊で余生を送ったビゴーは、近所の村人たちから「日本人」と呼ばれるほどの、日本にいた時と同じような生活スタイルを保ち続けていたのです。

 そのビゴーが数ある絵の中でも、兆民の肖像画だけを「白い上等の厚紙」に「装幀」し、「額に収め」ていたという事実(『中江兆民評伝』P116)は、私にはたいへん興味のあることがらです。


 終わり


○参考文献
・『ワーグマン素描集』清水勲編(岩波文庫)
・『ビゴー日本素描集』清水勲編(岩波文庫)
・『明治の面影・フランス人画家ビゴーの世界』清水勲編著(山川出版社)
・『中江兆民評伝』松永昌三(岩波書店)


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