鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013年・夏の取材旅行「宮古~久慈~八戸」   その12

2013-10-17 05:31:32 | Weblog

 久慈市立図書館に到着したのは9:14。

 ここで目を通したのは、以下の本。

 ①『みちのく街道史』渡辺信夫(河出書房新社)

 ②『久慈市史 第二巻 通史近世』(久慈市史刊行会)

 ③『賢治と岩手を歩く』板谷英紀(岩手日報社)

 あと、読まなかったものの、興味関心を持った本は、『宮沢賢治の旅 イーハトーヴ童話のふるさと』松田司郎(五柳書店)、『菅江真澄の旅』石上玄一郎(岩手日報社)、『南部三閉伊一揆と現代』財団法人民族芸術研究所編(民衆社)、『一揆の奔流 南部三閉伊一揆の民間伝承』佐々木京一(民衆社)。

 『みちのく街道史』では、南部藩の小本(おもと)街道と野田・沼宮内(ぬまくない)街道では、北上山地を越えて特産の鉄と塩が牛の背によって運ばれていたこと、一人の牛方は、五~六頭の牛を牽いて、秋田や越後方面まで赴いた、ということを確認。

 また尾去沢鉱山の銅(御用銅)は、南部牛の背によって野辺地まで運ばれ、そこから西廻り航路で大坂へ積み出されたことを知りました。

 『久慈市史 第二巻』では、慶長19年(1614年)収納の大槌地方の蔵米が、江戸に東廻り航路で回送された記録が残っており、それは常陸那珂湊→北浦→利根川→関宿→江戸川という経路で江戸へ運ばれていたことを知りました。

 東廻り航路の飛躍的発展は、享保年間(1716~36)になってからであるということも知りました。

 南部藩領内(三陸海岸沿岸部も含めて)の蔵米などが、どのような経路で江戸に運ばれたのかも興味あるところです。

 宮沢賢治が、どのような景色を眺めてどういう思いで旅をしたのか、といったことも、かねてから興味・関心のあるところです。

 「南部三閉伊一揆」は田野畑村が主要舞台になる一揆です。これについての理解も深めたい。

 菅江真澄の旅も、かねてから興味・関心がある。趣きのある詳細な絵を、各地各地で多数描いています。旅日記も含めて、実に興味深い。

 長くは滞在できないので、ざっと閲覧して、久慈市立図書館を出たのが10:55。

 途中、「ミニストップ種市中野店」に立ち寄り、お昼の弁当を購入してから、さらに北上し、JR八戸線の「種差海岸駅」前に到着したのが12:11でした。

 私がこの「種差海岸」を目指したのは、先の東日本大震災による大津波被害への関心からではなく、東山魁夷さんの絵からの興味関心からでした。

 東山魁夷さんの絵に「道」という作品があるのですが、その絵が描かれた場所が種差海岸であることから、かねてから種差海岸という地名が脳裡に刻まれていました。

 その種差海岸というところはどういうところであり、海は描かれていないものの、その近くで描かれたというその「道」という作品の、その道はどこにあるのか。

 それを探ってみたいと思っていました。

 駅前の観光案内マップを見てみると、「大須賀海岸」を右手に見て「葦毛崎展望台」へと行く途中に、「東山魁夷『道』記念碑」と記されており、このあたりがあの「道」という作品が描かれた場所であるように思われました。

 そこで、その駅前から海岸方向へと出たのですが、そこには今まで見てきた荒々しい三陸海岸の断崖風景とは対照的な、「牧歌的」とでも表現できそうな海岸美が広がっていました。

 

 続く

 

〇参考文献

・文中記載の本


最新の画像もっと見る

コメントを投稿