鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.12月取材旅行「前小屋~深谷~大麻生」 その1

2013-12-23 06:36:35 | Weblog

 まず出発点としたのは、かつての前小屋(まえごや)村があった地点で、現在の利根川の南側にあたる地点でした。

 前小屋天神社があったところは、現在の太田市前小屋町(まえごやちょう)の菅原神社の近くで(おそらくそれよりも北東側)、当時、利根川はその北側を流れていました(現在の早川がその流れの名残りと思われる)。

 したがって崋山・岡田東塢(とうう)・高木梧庵が、金井烏洲(うじゅう)の案内で高島村の伊丹家へ向かった時、利根川は渡ることなしに、陸路、伊丹家へ至ったはずです。

 さて、現在は、かつての前小屋村は利根川によって南北2つに分断されており、太田市の前小屋町は「北前小屋」、そして深谷市前小屋は「南前小屋」とも呼ばれています。

 かつて「南前小屋」は群馬県に所属し、南前小屋の児童たちは利根川の渡しを使って尾島小学校に通っていました(渡し舟から上がるところは、現在の菅原神社の南側であったという)が、現在は「南前小屋」は深谷市に編入され、学校も深谷市の明戸(あけと)小学校に通っています。

 深谷市前小屋(まえごや)はかつて訪れたことがあります。

 新上武大橋を渡って左折し、小山川橋で小山川を渡って前小屋へと入りました。

 前小屋の土手(堤防)からは北側に利根川の流れと上州の山々を見晴るかすことができました。

 そこには天神社もありました(小山川橋を渡った北詰右手)が、それはかつて前小屋村にあった天神社を、前小屋村が分断された時に分けたものと思われ、それが前小屋地区にある唯一の寺社でした。

 もちろん、その天神社が崋山らが訪れた前小屋天神社ではありません。

 崋山は、書画会が開かれた前小屋天神社の絵(スケッチ)を残しています。

 岡田幸夫さんの『崋山と歩く桐生と周辺の旅』においては、P88に出てきます。

 鳥居を潜ると参道が延びており、鎮守の森もよく繁っています。

 その参道の突き当りに天神社が描かれています。

 鳥居の周辺には多数の人々が描かれていますが、二本差しの人物が二人描かれているから、この二人は崋山と丹南藩五十部(よべ)村代官である岡田東塢であるかも知れない。

 書画会に参加するためにはるばるとやってきた人たちです。

 崋山によれは、この日は西風が強く、浅間山や妙義山あたりの風下とあって吹く風はものすごく、壁や柱に掛けた屏風や絵などが空高く舞い上がるほどでした。

 このあたりは、「赤城おろし」の北風も強かったけれども、浅間山や妙義山のある西方向からの風(西風)も強い土地であったことがわかります。

 さて、崋山は桐生から前小屋村までの道は知っている。

 前小屋村から中山道深谷宿までの道は知らない。

 天保2年(1831年)11月7日(旧暦)の午後、前小屋の渡しで利根川を渡り、前小屋村を懐かしく通り過ぎた崋山と高木梧庵は、そこから深谷宿へと向かいました。

 その前小屋村を崋山らが通過した道は、現在は利根川が流れていることにより失われてしまっています。

 私は地図上で、深谷市石塚と深谷市江原(えばら)の境界あたりからまず南下していったであろうと考え、そのあたりからまず出発し、藤野木(ふじのき)あたりで県道127号線へと入り、深谷市街へと向かうことにしました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『渡邊崋山と(訪瓺録)三ヶ尻』嶋野義智講演録「武人と文人とに生きた崋山」(熊谷市立図書館)

・「渡辺崋山の調査協力者『三ヶ尻村黒田平蔵』考察」馬場國夫(『熊谷市郷土文化会誌 第64号』所収

・『金井烏洲』しの木弘明(群馬県文化事業振興会)

・『崋山と歩く桐生と周辺の旅』渡辺崋山と歩く会(代表 岡田幸夫)

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)



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