鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013年・夏の取材旅行「宮古~久慈~八戸」   その9

2013-10-13 06:18:14 | Weblog

 車から下りて、その2棟のプレハブ平屋の建物に近寄ってみると、それぞれの出入り口であるガラス戸の間隔は狭く、人が住んでいるような気配はありませんでした。

 島越(しまのこし)の住民用の、漁業用資材倉庫ではないかと思われました。

 そのプレハブや防潮堤を右手に見て道路を進んで行くと、防潮堤が途切れ、島越の海が見えました。

 その手前には、「災害復旧工事中」と記された立て看板が4枚並んでいました。

 その看板には、「島の越漁港災害復旧 (23災県第571号南第3防波堤)工事  区間 下閉伊郡田野畑村島越地先  期間 平成24年10月18日~平成25年12月20日」と記してあり、また「発注者」は、「岩手県沿岸広域振興局水産部」となっていました。

 つまりここから見える海岸部は、「島の越漁港」であり、また見える防波堤はその「南第3防波堤」であったのです。

 防波堤の上にはテトラポットのようなものが並び、また工事用の巨大なショベルカーやクレーンの姿がその防波堤の手前に見えました。

 さらに進んで行くと、右手には災害復旧用の土砂を高々と積み上げた大きな土盛りがあって、漁港の内側にあったと思われる浜辺は全くその姿を失っています。

 さらに進んでいくと、左手に、山の斜面を上がっていく鉄パイプ簡易手すり付きの津波対策用避難通路らしい道があったので、それを登って行くと、その避難通路の行き止まりのようなところから、その裏側の鉄道復旧工事現場が見えました。

 向こうの山にはその鉄道のトンネルの出入り口があり、手前にはコンクリート製の橋脚らしきものも見えます。

 その鉄道は寸断されており、従って線路はつながっていないし、線路自体もありません。

 この鉄道は、もちろん「三陸鉄道北リアス線」であるでしょう。

 そこから坂道(津波避難通路)を戻って、その鉄道復旧現場の方へと近寄ってみると、看板があって貼り紙が掲示されていました。

 その貼り紙には、「工作物の改築(土地の占用)許可標識」とあり、「河川名」として「二級河川 松前川水系 松前川」と記され、「工作物の名称又は種類」として、「松前川鉄道橋梁」と記されていました。

 また「工作物の構造又は能力」として、「2径閘門型カルバート(RC造)」、「許可を受けた者」として、「三陸鉄道株式会社」などといったことも記されていました。

 つまりこの工事現場は、三陸鉄道北リアス線の松前川鉄道橋梁建設工事現場であるということになります。

 おそらく先の大津波によって、この三陸鉄道北リアス線の松前川鉄道橋梁は破壊され、鉄道はそれによって寸断されてしまったのであり、その復旧のための工事が現在行われているということであるのでしょう。

 その看板の近くに見掛けたのは、白いコンクリートの壁に横長の黒い長方形の碑が組み込まれた記念碑のようなものであり、近寄ってみると、それは宮沢賢治の「発動機船 第二」という詩の全文が刻まれたものでした。

 最後のところには、次のような解説文も付されていました。

 「この詩は 大正十四年(一九二五年)一月七日 三陸地方を訪れた宮沢賢治が 貨客船羅賀丸で この地から宮古に向かった時の三つの作品の内の一篇です 五十行の作品ですが宮沢清六氏のご承諾をえて 一部を省略しました <発動船一>は田野畑駅の東側に <発動船三>は田野畑駅に詩碑があります」

 この宮沢賢治の記念碑は、やや上端に傷を受けているものの、ほとんど無傷の状態で残っています。

 またそれには「駅名<カルボナード・島越>の由来」と記された碑文も組み込まれていました。

 三陸鉄道の「カルボナード・島越」駅は、この近くにあったはずですが、その姿はどこにもありません。

 この駅名は、碑文によると、やはり宮沢賢治に因んだもので、その童話「グスコーブドリの伝記」の中の火山島の名前に由来するのだとのこと。

 この記念碑は、宮沢賢治生誕百年を記念して、平成九年三月吉日に建てられたものであることも、この駅名の由来の碑文で知りました。

 私はそこから、右手の海岸にあるはずの島越海水浴場を探しながら歩きましたが、そのおそらく吉村昭さん一家が利用したであろう海水浴場は、その姿をすっかりと失っていました。

 いや、駅前にあったはずの商店や人家などを含めた一切合財が、襲来した巨大津波のためにその姿を失っており、吉村さんが親しんだはずの町並みを含む島越の景観はことごとく消え失せていました。

 今、私の手元には『』文藝春秋 9月臨時増刊号 吉村昭が伝えたかったこと』があり、その扉写真には田野畑村の島越漁港で取材をしている吉村さんの姿や、海岸の小島で漁師鍋を楽しむ吉村さんなどを写した写真が掲載されていますが、そのようなかつての人々の生活や風景をしのばせるものは、まわりの切り立った断崖や海岸の岩山などを除いては、ほとんど見ることはできませんでした。

 高山文彦さんの「【ルポルタージュ】『三陸海岸大津波』を歩く」によれば、「両側の岬の中腹に口をあけている三陸鉄道北リアス線のトンネルは、一三メートルの高さのコンクリート橋でつながれ、その上に島越駅のホームが置かれて」おり、その駅舎は、「駅舎を兼ねた二階建ての観光センター」でもあったという。

 「三陸鉄道は、高架橋と駅のホームを安全地帯に指定」していたが、それにもかかわらず、その駅舎は、巨大津波のために「木端微塵に破壊され」、「それらの残骸は、五〇メートルほど上流にまで押し流されていた」のだという。

 

 続く

 

〇参考文献

・『三陸海岸大津波』吉村昭(文春文庫/文藝春秋)

・『文藝春秋 9月臨時増刊号 吉村昭が伝えたかったこと』「『三陸海岸大津波』を歩く」高山文彦



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