「武市半平太と土佐勤王党 その2」の年表の冒頭、文久3年としたのは文久2年の誤りでした。すでに訂正していますが、もし印刷などされている場合は、訂正をお願いします。
以下、「その2」に引き続き、文久3年(1863年)の正月から年表風に。
文久3年
1月24日 平井、江戸から伏見に到着した容堂に謁し、京都の近況を報告。
1月27日 長州藩主催の尊王攘夷派の諸藩の会合に、土佐藩を代表して、武市と平井が出席。
1月29日 平井、容堂に謁し、時局に関する意見を述べるが、容堂の怒りを受ける。土佐勤王党弾圧の端緒。
2月 1日 平井、他藩応接掛(かかり)を免ぜられる。
2月16日 攘夷期限決定。
2月24日 間崎、容堂に、青蓮院宮の令旨の内容をゆがめた形で藩主豊範(とよのり)の実父豊資(とよすけ・12代藩主)に伝えたとして難詰される。
3月15日 武市、破格の抜擢(ばってき)で京都留守居加役を命ぜられる。
3月23日 武市、土佐勤王党同志の血判状を容堂に示す。
3月28日 間崎、捕縛される。
4月 1日 間崎と平井、京都から高知へ向け護送される。
4月12日 容堂、高知城下東邸に入る。容堂、「吉田元吉(東洋)を殺した者の詮議はどうした」と藩重役に問う。
4月23日 幕府より列藩に、5月10日を攘夷期限の日とすることを布告。
5月 2日 平井・間崎・弘瀬、自宅で軟禁状態となる。
5月11日 未明、長州藩下関海峡で、アメリカ商船を砲撃。
5月24日 平井、山田町の獄に入れられる。
6月 3日 武市、容堂に書を送って、藩政改革を建言。また平井・間崎・弘瀬の罪を許すよう嘆願。
6月 6日 容堂・豊範(とよのり・藩主)の出座した奉行職列席の会所において、平井・間崎・弘瀬の死罪が確定。
6月 8日 山田町の牢獄内の原っぱで、三人の処刑が行われる。それを、篤助(中江兆民)、塀の上から目撃。
以上の年表から分かることは、武市や平井らを首領とする勤王党がもくろみ、実現したことは、守旧派と結んで、時の実力者である参政吉田東洋を暗殺して、東洋一派を藩政から追い払い、藩主豊範(とよのり)を上京させて、薩摩・長州両藩主とともに、国事周旋・禁闕(きんけつ・皇居のこと)警衛の内勅を受けさせること。
そして、藩主豊範に、将軍家茂(いえもち)に攘夷を督促するために派遣する勅使(正使三条実美〔さねとみ〕・副使姉小路公知〔きんとも〕)の護衛をさせること。
さらに、青蓮院宮(しょうれんいんのみや・伏見宮の家の出身・孝明天皇の信任が厚く、当時の尊王攘夷派の志士から「今大塔宮」と称され、その実力を期待される)の令旨(命令を伝える文書)で豊資(とよすけ・12代藩主)を動かし、その力で、藩政改革を断行し、藩論を尊王攘夷に固めること。
驚くべきことに、武市ら土佐勤王党は、吉田東洋暗殺後、藩政や国政を動かす大きな力を持つに至ったのです。
藩主豊範を前駆とした勅使三条・姉小路の一行は、将軍家茂に孝明天皇の意を伝えて攘夷を幕府に督促、そして12月には将軍の上洛を約束させました。
また、青蓮院宮の令旨を携(たずさ)えて帰国した間崎と弘瀬は、帰国の翌日、令旨をてこに帯屋町南会所の牢獄に投ぜられていた吉村虎太郎を釈放させ、藩政改革に乗り出します。
ところがいよいよ勤王党による藩政改革が緒(ちょ)についたか、という矢先に、平井が容堂から激しい怒りを買うという事件が起こります。
容堂は(そして守旧派も)、平井・間崎・弘瀬らが、青蓮院宮の令旨をてこに12代藩主であった豊資(とよすけ)を動かすといった形で、藩政改革に乗り出したことに対して、強い危機感ないし嫌悪を抱いたのです。
容堂から見て、所詮、平井らは軽格(下級武士)に過ぎない。軽格の連中が、藩政改革(しかも尊王攘夷に向けての圧力を幕府にかけるという目的を持つ)の主導権を握ることに、それは上下の分を乱すものであり、また場合によっては(幕府や諸藩の動きによっては)藩の存亡に関わるものとの意識が、容堂にはあったことでしょう。
一時期、新しい流れに(やむをえず)乗るかと思われた容堂は、文久3年の正月早々、薩摩藩から次のような情報を得て、態度を急変させます。
「実ハ此節(このせつ)主上(孝明天皇)ニも粟田宮(青蓮院宮のこと)ニも長(長州)など之暴論ニ御当惑之気味…薩論(薩摩の藩論)ハ断然と開国論主張……」
このことを、薩摩藩高輪(たかなわ)藩邸を訪問した小笠原唯八・乾退助(後の板垣退助)に告げたのは、薩摩から江戸に到着したばかりの大久保一蔵(後の大久保利通〔としみち〕)。
この大久保は、9日には鍛冶橋の土佐藩上屋敷を訪問して容堂に謁し、長州と土佐の暴論(鎖国攘夷論)と「救うべからざる勢い」となっている京都の過激尊王攘夷派を鎮静するように要請しています。
京都の過激尊王攘夷派とは、土佐藩の場合、武市を首領とする勤王党のことになるでしょう。
確かに勤王党のメンバーは、血なまぐさい「天誅(てんちゅう)」事件を次々と起こして、親幕派の公卿や幕府に対して強い圧力をかけていました。
この正月以来、容堂は、勤王党弾圧の機会を(虎視眈々〔こしたんたん〕と)狙い続けます。
そしてついに、6月8日の深夜、平井・間崎・弘瀬が断罪されることになりました。
これ以後、藩庁の勤王党に対する弾圧は、過酷さを増していくことになり、ついには、土佐勤王党の首領である武市半平太の処刑に至ります(慶応元年〔1865年閏5月11日〕。
次回は、そのことについて触れていくことにします。
では、また。
※写真は吉田東洋(元吉)
◇おもな参考文献
・『武市半平太 ある草莽(そうもう)の実像』入交好脩(よしなが)(中公新書)
・『流離譚(りゅうりたん)』安岡章太郎(新潮文庫)
以下、「その2」に引き続き、文久3年(1863年)の正月から年表風に。
文久3年
1月24日 平井、江戸から伏見に到着した容堂に謁し、京都の近況を報告。
1月27日 長州藩主催の尊王攘夷派の諸藩の会合に、土佐藩を代表して、武市と平井が出席。
1月29日 平井、容堂に謁し、時局に関する意見を述べるが、容堂の怒りを受ける。土佐勤王党弾圧の端緒。
2月 1日 平井、他藩応接掛(かかり)を免ぜられる。
2月16日 攘夷期限決定。
2月24日 間崎、容堂に、青蓮院宮の令旨の内容をゆがめた形で藩主豊範(とよのり)の実父豊資(とよすけ・12代藩主)に伝えたとして難詰される。
3月15日 武市、破格の抜擢(ばってき)で京都留守居加役を命ぜられる。
3月23日 武市、土佐勤王党同志の血判状を容堂に示す。
3月28日 間崎、捕縛される。
4月 1日 間崎と平井、京都から高知へ向け護送される。
4月12日 容堂、高知城下東邸に入る。容堂、「吉田元吉(東洋)を殺した者の詮議はどうした」と藩重役に問う。
4月23日 幕府より列藩に、5月10日を攘夷期限の日とすることを布告。
5月 2日 平井・間崎・弘瀬、自宅で軟禁状態となる。
5月11日 未明、長州藩下関海峡で、アメリカ商船を砲撃。
5月24日 平井、山田町の獄に入れられる。
6月 3日 武市、容堂に書を送って、藩政改革を建言。また平井・間崎・弘瀬の罪を許すよう嘆願。
6月 6日 容堂・豊範(とよのり・藩主)の出座した奉行職列席の会所において、平井・間崎・弘瀬の死罪が確定。
6月 8日 山田町の牢獄内の原っぱで、三人の処刑が行われる。それを、篤助(中江兆民)、塀の上から目撃。
以上の年表から分かることは、武市や平井らを首領とする勤王党がもくろみ、実現したことは、守旧派と結んで、時の実力者である参政吉田東洋を暗殺して、東洋一派を藩政から追い払い、藩主豊範(とよのり)を上京させて、薩摩・長州両藩主とともに、国事周旋・禁闕(きんけつ・皇居のこと)警衛の内勅を受けさせること。
そして、藩主豊範に、将軍家茂(いえもち)に攘夷を督促するために派遣する勅使(正使三条実美〔さねとみ〕・副使姉小路公知〔きんとも〕)の護衛をさせること。
さらに、青蓮院宮(しょうれんいんのみや・伏見宮の家の出身・孝明天皇の信任が厚く、当時の尊王攘夷派の志士から「今大塔宮」と称され、その実力を期待される)の令旨(命令を伝える文書)で豊資(とよすけ・12代藩主)を動かし、その力で、藩政改革を断行し、藩論を尊王攘夷に固めること。
驚くべきことに、武市ら土佐勤王党は、吉田東洋暗殺後、藩政や国政を動かす大きな力を持つに至ったのです。
藩主豊範を前駆とした勅使三条・姉小路の一行は、将軍家茂に孝明天皇の意を伝えて攘夷を幕府に督促、そして12月には将軍の上洛を約束させました。
また、青蓮院宮の令旨を携(たずさ)えて帰国した間崎と弘瀬は、帰国の翌日、令旨をてこに帯屋町南会所の牢獄に投ぜられていた吉村虎太郎を釈放させ、藩政改革に乗り出します。
ところがいよいよ勤王党による藩政改革が緒(ちょ)についたか、という矢先に、平井が容堂から激しい怒りを買うという事件が起こります。
容堂は(そして守旧派も)、平井・間崎・弘瀬らが、青蓮院宮の令旨をてこに12代藩主であった豊資(とよすけ)を動かすといった形で、藩政改革に乗り出したことに対して、強い危機感ないし嫌悪を抱いたのです。
容堂から見て、所詮、平井らは軽格(下級武士)に過ぎない。軽格の連中が、藩政改革(しかも尊王攘夷に向けての圧力を幕府にかけるという目的を持つ)の主導権を握ることに、それは上下の分を乱すものであり、また場合によっては(幕府や諸藩の動きによっては)藩の存亡に関わるものとの意識が、容堂にはあったことでしょう。
一時期、新しい流れに(やむをえず)乗るかと思われた容堂は、文久3年の正月早々、薩摩藩から次のような情報を得て、態度を急変させます。
「実ハ此節(このせつ)主上(孝明天皇)ニも粟田宮(青蓮院宮のこと)ニも長(長州)など之暴論ニ御当惑之気味…薩論(薩摩の藩論)ハ断然と開国論主張……」
このことを、薩摩藩高輪(たかなわ)藩邸を訪問した小笠原唯八・乾退助(後の板垣退助)に告げたのは、薩摩から江戸に到着したばかりの大久保一蔵(後の大久保利通〔としみち〕)。
この大久保は、9日には鍛冶橋の土佐藩上屋敷を訪問して容堂に謁し、長州と土佐の暴論(鎖国攘夷論)と「救うべからざる勢い」となっている京都の過激尊王攘夷派を鎮静するように要請しています。
京都の過激尊王攘夷派とは、土佐藩の場合、武市を首領とする勤王党のことになるでしょう。
確かに勤王党のメンバーは、血なまぐさい「天誅(てんちゅう)」事件を次々と起こして、親幕派の公卿や幕府に対して強い圧力をかけていました。
この正月以来、容堂は、勤王党弾圧の機会を(虎視眈々〔こしたんたん〕と)狙い続けます。
そしてついに、6月8日の深夜、平井・間崎・弘瀬が断罪されることになりました。
これ以後、藩庁の勤王党に対する弾圧は、過酷さを増していくことになり、ついには、土佐勤王党の首領である武市半平太の処刑に至ります(慶応元年〔1865年閏5月11日〕。
次回は、そのことについて触れていくことにします。
では、また。
※写真は吉田東洋(元吉)
◇おもな参考文献
・『武市半平太 ある草莽(そうもう)の実像』入交好脩(よしなが)(中公新書)
・『流離譚(りゅうりたん)』安岡章太郎(新潮文庫)
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