鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2006.10月の「東浦賀・横須賀」の取材旅行  その3

2006-10-16 22:18:19 | Weblog
 R16を県合同庁舎の前で、右斜めに折れ、湘南信金の前で右折。京浜急行の高架を潜って、税務署のところをまた右に折れ、三崎街道に入りました。
 地図では、左手に中央図書館が見えるはずですが、通り沿いにはそれらしきものは見えないので、少し走って左折しました。地図では、中里商店街通りになっている通りです。その通りに入って、見当をつけてすぐに左折すると、「緒明(おあき)山公園」という表示が目に飛び込んで来ました。

 「緒明」という文字を見て脳裡(のうり)にひらめいたのは、伊豆の戸田(へだ)に行った際、図書館で調べていた時に出てきた人名です。緒明嘉吉とその子緒明菊三郎(1845~1908)。

 嘉吉は戸田村の船大工としてヘダ号建造に関わり、その子菊三郎は、その父を手伝って洋式帆船の建造技術を学んだのです(「戸田・下田・韮山、取材旅行最終日」参照のこと)。

 その通り(ゆるやかできれいな坂道)を進むと、突き当たりに、横須賀市立中央図書館がありました。

 駐車場に車を停め、坂道を「緒明山公園」の表示があるところまで戻ると、案内板がありました。

 それによると、この小高い丘は、通称「緒明山」。「我が国近代造船業の発展に尽くした伊豆・戸田村出身の緒明菊三郎の所有地」だったところ、とありました。

 まさしく、ヘダ号の建造に関わった緒明嘉吉の子である菊三郎(1845~1908)に関係したところだったのです。

 緒明菊三郎は、幕末、榎本武揚(たけあき・1836~1908)に従い、修理工として「開陽丸」に乗り込むことになりますが、その後のことは私は知りません。

 どういう事情でか、菊三郎は横須賀のこの地の所有者になっていたのです。屋敷か何かがここにあったのでしょうか。詳しいことをご存知の方がおられたら教えて下さい。

 人気(ひとけ)のない緒明山公園内を通り抜け、図書館に入りました。

 まず2階に上がりました。そこには、郷土・参考資料室がありました。こういうコーナーに入る時、私はいつも心が躍ります。どういう本に出会えるだろうと、ワクワクした気持ちになるのです。

 入ってすぐの棚の上のところに、『中島三郎助文書』があるのが目に入りました。これはおそらく、戸田図書館の分厚いファイルの中に見つけた吉村昭さんの手紙にあった、「中島三郎助の文書がこの度公開されました」という一節の「中島三郎助の文書」のことでしょう。

 その棚には、『幕末維新 外交史料集成 1~6』が並べられていました。

 093 横須賀市関連の史料、190 神奈川県全般、094 鎌倉・逗子・葉山、
091,092 横浜・川崎、099 海軍関係の資料、095~098 藤沢・小田原その他、という風に区分けされ、びっしりと本が並んでいました。

 そのびっしりと並んでいる本の中から、めぼしいものをチェックし、取材ノートに書き留めました。

 そのチェックしたものの中から、ネットで購入出来るものについては、いつの日か購入し、購入出来ないものについては、地元の図書館(海老名市立図書館や厚木市民図書館)にないかどうかネットで検索し、それでもないものについては、再びここに来て目を通すことになります。もちろん、その前に、調べることをしっかりと絞っておく必要があります。一冊一冊漫然と読んでいったら、時間がいくらあっても足りないから。

 棚を見ていって気付いたのは、分厚い濃紺の背表紙の本がたくさんあることです。それらは、「横須賀市立図書館」が編纂した本でした。潤沢な予算があったのでしょう。今まで訪れた図書館(と言っても、そんな多くはありませんが)にはなかったものでした。

 お金をかけて、貴重な郷土の史料を、しっかり閲覧出来るものとして残しているのが素晴らしいと思いました。
 
 軍港のあった都市であるということもあって、海軍関係の本が充実しているのがとりわけ印象に残りました。 

 一般の歴史書コーナーも充実していました。時代別・地域別にしっかりと分けられていました。

 新書がまとまってあることも印象に残りました。
 岩波新書、中公新書、講談社現代新書、岩波ジュニア新書(これだけはなぜか1F)は、どれも、「今まで刊行されたのは全部あるのでは」と思わせるほどの充実ぶりでした。

 「インターネットコーナー」があり、パソコンで情報を入手出来るようになっていました。どの席も、若い、大学生と思われる男女が使用していて、真剣な面持ちでキーボードを叩いていました。

 また「視聴覚ライブラリー」という部屋もありました。ビデオ、DVD、CD、カセット、16ミリフィルムなどが利用出来るようになっているのです。テレビが9台あり、やはり若い学生(大学生や高校生)が、イヤホンを耳に当てて、画面に見入っていました。一番右側のテレビの画面には映画『ラスト・サムライ』が映っていました。渡辺謙の演じる「サムライ」が刀を振り上げている場面です。

 中央図書館では、今回は目ぼしい本をチェックしただけで、読むことはしませんでした。

 16時前に、図書館の駐車場を出発。

 三崎街道に出て、三崎方面へ出て、海沿いの通りを逗子・鎌倉・茅ヶ崎を経て帰ることにしました。
 
 車内で聴く曲は、いつものことながらモーツァルトのピアノ協奏曲。今日は、主に第27番の第一楽章。

 県道27号線に入り、衣笠(きぬがさ)を16時12分に通過。

 「鎌倉5キロ 逗子2キロ」と案内表示があるあたりから、いきなり渋滞。ノロノロ運転をしながら、逗子市小坪のトンネルを抜けたところで、左手の海の果てに、鮮やかな橙色(だいだいいろ)の夕日が沈みかけていました。長い砂浜の沖合いには、サーファーが密集。黒くて、やはり海に漂(ただよ)う烏(からす)のようでした。

 R134に入ると、由比ガ浜辺りで薄暗くなり、前方左手には人家の灯火(ともしび)がチラチラとする江ノ島が見えてきました。右手に見えた「キグナス七里ヶ浜ステーション」はレギュラーがリッターあたり131円。厚木辺りでは、安くても133円。利用はしませんが、取材ノートにメモ。

 窓を全開にして、波の打ち寄せる音を聴きながら、大きな音量でモーツァルトのピアノ協奏曲を聞く。渋滞してはいるものの、なかなかリッチな気分です(渋滞が気にならない)。車の中は、自分専用のコンサート・ホールのようなもの。

 右手に、鎌倉方面へ向かう江ノ電四両が走る。対向車線も大渋滞。

 通りに沿って瀟洒(しょうしゃ)な人家が並んでいますが、毎日、湘南の海や江ノ島を眺める生活は、どんなものだろう……と、またまた埒(らち)もないことを考えました。

 江ノ島の少し手前あたりから、いきなり道がすきました。

 そのまま快調に走り、相模川を渡ったところで、右折(厚木方面へ)してR129に入ったのが19時10分。

 途中、東名や小田・厚の出入り口でやや渋滞に巻き込まれながらも、19時過ぎに厚木市内の林のパイパスに。

 夕食は、バイパス左手にある「すき家」に入り、「ねぎ玉牛丼」(並盛450円)を注文。すぐに、目の前に、卵一個のついたねぎたっぷりの熱々の牛丼が置かれました。若い女性スタッフがきびきびと働いていましたが、気持ちのいいもの。

 牛丼をかきこみながら、メニューを読むと、「牛丼Light」というものがあるそうです。ご飯の代わりに豆腐の入った丼(どんぶり)とのこと。次回はこれを食べようと思いました。

 妻に4度目のCメール。

 無事、帰宅したのは20時少し前でした。

 走行距離は、189,8キロ。

 次回(11月)は、横須賀市立中央図書館で、調べ物をじっくりとやりたい。

 浦賀も横須賀も、ペリー来航、そして幕末以後の歴史が積み重ねられていて、秋の1日(前回を入れると2日)、充実した取材旅行を行うことが出来ました。


 ということで今回の報告は終わり。

 ここまで目を通してくださり、ありがとうございました。

 では、また。
                                    鮎川俊介


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5 コメント

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はじめまして (竜野 天馬)
2006-10-16 23:28:31
はじめまして。

「中江兆民のHomePage」というサイトを主宰しています竜野天馬と申します。

実は、鮎川さんには(出版社の方かな?)、「波濤の果て 中江兆民の青春」と「波濤の果て 中江兆民の長崎」を寄贈していただいたことがあります。

うち、「青春」の方はうちのサイトでも紹介させていただいたのですが、「長崎」の方は、お送りいただいていたのが体調をしばらく壊していた時期でしたので、未だに書籍紹介コーナーに載せておらず失礼しています。



このたび、松裕堂さんの「龍馬堂」で鮎川さんがこのブログを書いてらっしゃることを教えていただきましたので、一言後挨拶に来ました。



うちは、中江兆民を専門に扱ったサイトとしてはたぶん唯一なので、少しでもお目通しいただければ幸いです。



ところで、長崎時代までの兆民って、伝記の類を読んでもなかなか詳しいことが分かりませんが、鮎川さんは、どのようなところから史料を探してこられているのでしょうか?

私も、兆民ファンとして是非勉強させていただきたいと思っております。



それでは、新刊も楽しみにしております(今日、Amazonで注文しました)。
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長崎の兆民に関する参考図書について (鮎川俊介)
2006-10-17 06:18:49
 初めまして。

 と言っても、「竜野天馬」さんのことは、ずっと以前から存じています。「中江兆民のHomePage」でいち早く、私の最初の本を紹介していただいていたからです。 インターネットを始めた頃で、早速読んでいただいてコメントまで載せていただいたこと、たいへん嬉しく思いました。「堀川」保存のために奔走されていることも、よく承知しております。

 「松裕堂さんの『龍馬堂』」で私のブログを紹介していただいたとのこと。面白いところで、つながるものですね。これが、ネットの面白いところだと、感激しました。



 ところで問い合わせの件ですが、「竜野」さんも御承知の通り、中江兆民については、フランスから帰国して以後のことは資料(『中江兆民全集』や『中江兆民伝』〔松永昌三・岩波書店〕)にありますが、それ以前の資料は極めて少ないのです(したがって、青年兆民を主人公にした歴史小説は皆無です)。

 私が、歴史小説にしたのも、実は資料が少ないからで、情況証拠を集めて、それで埋まらないところを、情況証拠を手がかりに自由に想像をふくらまして書いていきました。「おそらく、こうであったろう」という私の推測にもとづいており、史実を押さえていますが、史実そのものではありません。



 情況証拠であることがらについては、長崎に絞ると、以下の文献を主に参考にしました。



 『岩崎弥太郎日記』岩崎弥太郎・岩崎弥之助伝記編纂会。大根屋も、その主人新八も、その子熊次郎もそこに出てきます。長崎の長岡謙吉(今井純正)も龍馬、岩崎弥太郎らもそこに出てきます。

 『維新の澪標(みおつくし) 通詞平井希昌の生涯』平井洋(新人物往来社)

 『坂本龍馬全集』(光風社書店)

 『日本キリスト教復活史』フランシスク・マルナス、久野桂一郎訳(みすず書房)

 『浦上四番崩れ 明治政府のキリシタン弾圧』片岡弥吉(ちくま文庫)

 『幕末維新期 フランス学の研究』田中貞夫(国書刊行会 - 山本松次郎、村上英俊などについてはこの本に詳しく出てきます。幕末のむフランス学についても。

 『中江兆民』飛鳥井雅道(吉川弘文館)

 『萩原三圭の留学』富村太郎(郷学社)



 などです。



 長崎の土佐藩定宿「大根屋」は、鍛冶屋町にありましたが、そこに兆民(篤助)が逗留していたかについては何の資料もありません。岩崎弥太郎や今井純正が逗留していたことがあることは確かです。

 済美館(せいびかん)で、フランス人神父プチジャンからフランス語を学んだ仲間の一人に、山本松次郎がいたことは確かですが、篤助が松次郎と親しかったかどうかはわかりません。

 

 といった具合で、情況証拠は踏まえていますが、確かな事実を踏まえているわけではありません。

 あくまで史実にもとづいていくと、「竜野」さんが言われているように、一次資料はほとんどなく、中江兆民の青春時代を描いていくことは出来ません。



 第一巻も第三巻も、そして第四巻『中江兆民のフランス』も同様です。

 

 はたして、ご参考になったでしょうか。

 

 主な参考文献については、このブログで、そして第四巻の巻末でまとめたいと考えています。



 「竜野」さんの「中江兆民」のサイト、今後も、一層の充実、期待しています。



 また何かありましたら、コメントしていただけると嬉しいです。



 とりあえず、返事まで。

                     鮎川俊介
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米友協会 (藤村順彦)
2006-10-18 18:45:38
初めまして「久里浜行」のブログ拝見しました、実は小生の祖父がペルリ記念碑を建てた米友協会の幹事をしておりました、この度米友協会会史の原本が身内から出て参りまして横須賀市に寄付いたしましたがCDにコピーしております、記念碑の建立から除幕式の来客まで余すところなくかかれています。又、祖父は日本人で初めて米国で洋服やを開業した者でその波乱の人生も明治の人のスケールの大きさが分かります、ご興味が有る方には資料お送りします、ご興味が有ればyorkjack@mail.goo.ne.jpにメール下さい。この会史は東京在住の会員が多いため殆ど現存していない物です、出来ればこの会史内に有る主立った方のご子孫の方にお分け出来ればと思います、これに関してのブログも予定しております。
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米友協会会史のCDについて (鮎川俊介)
2006-10-18 21:09:24
 初めまして。



 私の「久里浜行」のブログ、お読みいただきありがとうございます。

 久里浜や浦賀については、いつか、私の歴史小説の重要な舞台の一つとして、描いていきたいと思っています。

 取材旅行は、そのためのものです。



 さて、藤村さまの祖父にあたる方が、「ペルリ記念碑」を建てる際の、「米友協会」の幹事をされていたとのこと。しかも、「記念碑の建立から除幕式の来客」まで詳しく書かれた「米友協会会史」の原本が見つかったとのこと。



 たいへん興味を抱きました。



 このブログのコメント欄でお願いするのもまことに失礼とは存じますが、資料の申し込みの方法など、もし差し支えがなければ、コメント欄にご記入いただければありがたく存じます。差し支えがあれば、一向に構いません。



 なお、今後ともよろしくお願いします。
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米友協会 (藤村順彦)
2010-04-05 15:47:35
鮎川様前回寄稿してからパソコンのリストアなどで貴URLを無くし、goomail addressも使わなくなってしまったのでその後そのままで失礼しました。米友協会資料をお送りしたいと思いますので送り先をtouroku@tohshi.co.jpへメール下さい。 祖父の事跡を残したい為の事ですので費用は必要有りません。何かのご参考にしていただければ幸いです
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