鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.11月取材旅行「石出~松岸~銚子」 その最終回

2011-11-20 06:43:09 | Weblog
 私が「松岸駅に行こうと思っています」というと、その自転車に乗ったおじいさんは、「どこから来たんだ」と聞く。

 「神奈川の厚木の方から」
 
 と答えると、今度は、

 「どこの駅から歩いて来たんだ」

 と聞く。

 とっさにどこの駅で降りたかを思い出せず、「えーと」としばらく考えて、ようやく下総橘駅だったことを思い出しました。

 「下総橘駅から」

 と答えると、

 「だったら、松岸駅ではなくて銚子駅の方へ行った方がいい」

 とアドバイスしてくれました。

 おじいさんは、「銚子駅の方がちょっと遠いけど便利だ」といい、

 私が「歩いて何分ほどですか」

 と聞くと、

 「25分ほど」

 だと教えてくれ、さらにその道筋まで教えてくれました。

 この道をまっすぐに進んで出た国道を左折し、右手に小学校があるから、その先の右斜め方向に延びる道を行けば銚子駅に出る、とのこと。

 確かに、銚子駅の方がJR総武線の特急電車もあるから、松岸駅よりもいいかも知れないと判断して、そのおじいさんのアドバイスの通り、銚子駅へと向かうことにしました。

 時刻は14:38だから、早足で歩けば15:00ちょっと過ぎには銚子駅に着けるはず。

 自転車にまたがったままのおじいさんにお礼を言って、まず国道へと足を進めました。

 歩きながら思ったことは、あのおじいさんは、おそらく初めに聞いたおじさんと私の会話を近くで聞いており、私が松岸駅へ向かおうとしているのを見て、後ろから追っかけて声を掛けてくれたのではないか、ということでした。

 私の姿恰好から、近隣の者ではなく、東京かどこか遠くからやって来て最寄りの駅を探していると判断して、わざわざ声を掛けてくれたのです。

 そのおじいさんの好意を感じながら、歩くことしばらくして国道356号線に出たので、そこを左折。おじいさんの言う小学校とは「本城小学校」でした。

「本城」という地名は、崋山の『刀祢河游記』(とねがわゆうき)に、「まことや本城まつぎしといへるは」と出てくる地名で、見覚えがある。解説によると、「本城(ほんじょう)」は、「下総国海上郡本城村(銚子市本城町)」のこと。「松岸」は、「下総国海上郡松岸村(銚子市松岸町)」で、「利根川の河岸で、水運の発達に伴い、遊郭などもあった」とあり、『利根川図誌』巻六の「松岸」の説明が引用されています。

 「銚子往来の旅人此河岸より揚る。婬肆(いんし)有りていと繁昌なる地なり」

 この説明文からも、松岸遊郭は松岸の河岸にあって、河岸と遊郭の存在により大変繁盛した土地であったことがわかります。その「松岸村」に隣接した村が「本城村」であったのです。

 千葉交通の「本城小学校」バス停を過ぎたところに「↑犬吠埼 →銚子駅」を示す道路標示があり、おじいさんの案内通りに、右斜め方向に延びる道がありました。

 その道に入ってまもなく、左手と右手に西洋風の教会風の建物が現れました。これも実は結婚式場であり、おりしも結婚式を挙げて外に出て来たカップルとそのカップルを取り囲む集団の姿が塀越しに見えました。

 松岸の利根川近くにもこのような西洋教会風の大きな目立つ結婚式場がありましたが、ちょっとまわりの雰囲気とは場違いなように私には感じられました。しかしこれが最近の流行り(トレンド)なのかも知れない。それとも銚子だけの流行りなのでしょうか。

 「松本町」を過ぎ、黄色の背板に黒く「ヒゲタしょうゆ」と書かれた木造腰掛けが置いてある商店の前を通過し、JR銚子駅前に着いたのが15:09。

 この銚子駅前には、すでに前年の冬の取材旅行で訪れたことがあり、見覚えがあります。

 1年間以上、崋山の『四州真景図』の旅をたどる取材旅行をしてきたことになり、崋山の旅の大きな目的地であった銚子に、東京隅田川から小名木川に入って以来、徒歩を重ねてようやくたどりついたということで、やはり感慨深いものがありました。

 そのJR銚子駅から、成田線上り千葉行きの普通電車に乗り、急いで帰途に就きました。


 終わり


○参考文献
・『宮負定雄 下総名勝図絵』川名登編(国書刊行会)
・『史談 松岸遊郭盛衰記』(郷土史談会)
・『渡辺崋山集 第1巻』(日本図書センター)

※「松岸の里」の絵は、『宮負定雄 下総名勝図絵』より引用しました。


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