鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010年夏の取材旅行「高知市および高知市周辺」堀川~山田橋~江ノ口川 その4

2010-09-21 06:54:55 | Weblog
 旧菜園場町と、この南北に流れる堀川を隔てて西側にあった町が旧種崎町。例の「高知城下町名今昔 種崎町」によれば、この種崎町は、「七町(ななまち)」と呼ばれる「古町(ふるまち)」の一つ。「古町」とは、古くからあった城下町で、それがかつては七ツあったということ。菜園場町・浦戸町・種崎町・農人町などがそうでした。

 南隣の浦戸町との間の堀川と、東の横堀から浦戸湾へ通ずる城下の水運の表玄関で、城下を代表する繁華街となった、とあります。江ノ口川から南下する堀は「横堀」と言われたことが、この説明文からわかります。

 「旧材木町」という案内板もありました。この材木町には、藩内から大量の木材が集められ、材木問屋、大鋸挽(おがびき・製材業)、大工が集中して住んでいた、とあります。旧種崎町の北側になる。

 横堀に架かる橋である「新堀橋」が現れる。橋を渡って横堀を眺めてみると、川幅は10m近くはある。かつてはこの横堀にも荷船が往き来していたのです。

 「旧新市町」という案内板。旧材木町の北側にあった町。幕末の町絵師・絵金(弘瀬洞意)はこの町の出身である、とある。

 左に新堀小の校舎を見て、さらに進むと、拡張され整備された道路は江ノ口川へと続き、堀川は埋め立てられていました。かつてこの地を訪れた時には、このような整備された道路はなく、江ノ口川から南下する堀川(横堀)の角から、江ノ口川を眺めることができたことを記憶しています。刎橋(はねばし)と呼ばれる小さな橋が、堀川に架かっていたような記憶も。

 その堀川も含めて、その付近はほとんど全て埋め立てられて、江ノ口川の北側から南側へと通ずる幅広い道路が造られ、当然のこととして、江ノ口川には幅広の立派な橋が架けられています。

 「堀川」が埋め立てられている、ということについては知っていましたが、現にその場に立ってみると、かつての播磨屋橋や木屋橋、菜園場橋のあたりが埋め立てられて、かつての景観が失われているのを見た時と同様に、かつての城下町およびそこに住む人々を支えた「水運」の貴重な歴史というものが、跡形も無く消されてしまったような寂しさを覚えました。

 陸上交通を中心とした都市整備のためには止むを得ない部分もあるのでしょうが、城下町を支えた「水運」の記憶を、後世の者にも目に見える形で部分的にも残すという選択肢はなかったのでしょうか。

 橋には「平成22年3月完成」とありました。つい5ヶ月ほど前に完成したばかりの橋ということになります。名前は、何の変哲もない「平成橋」。

 その橋から上流を眺めると、「山田橋」が見えました。

 その「平成橋」の手前、右側には、ラティスフェンスに、「新堀川は泣いている」という張り紙があり、またかつての堀川の写真を含む近辺の写真が掲げられていました。


 続く


○参考文献
・『高知県の地名』



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