鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

江戸博の企画展「横山松三郎」について その7

2011-05-02 05:30:36 | Weblog
 ちなみに、長崎大学附属図書館の「幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」で、検索対象を「撮影地域から探す」に絞って「日光」で検索してみると、464件の写真が出てきます。その写真の多くは「撮影者未詳」となっていますが、しかし、撮影者が分かっていたり、クエスチョン(?)ながら推定されているものもあり、その撮影者を列挙してみると、日下部(くさかべ)金兵衛、小川一真(かずまさ)、玉村騎兵衛、A・ファサリ、スチルフリード、鈴木真一、F・ベアト、臼井秀三郎など、明治初期および中期の錚々たる写真師の名前が出てきます。

 しかし、この中に横山松三郎の名前はありません。つまり、おそらくこの464枚の写真の中に横山松三郎が写した写真は入っていないことになります。

 この464枚の写真の中で、もっとも撮影時期の早い写真を探してみると、スチルフリードが写した明治初年の「中禅寺湖畔(4)」(目録番号3951)ではないかと思われますが、「明治初年」とあって、「初年」がいつの年であるかはわかりません。

 F・ベアト(フェリーチェ・ベアト)は、幕末の日本の写真を精力的に撮影した人物として有名ですが、幕末に彼が写した日光の写真は、『F.ベアト幕末日本写真集』にも『F.ベアト写真集2 外国人カメラマンが撮った幕末日本』にも掲載されていません。

 ベアトは、幕末に日光に行ったことはないのではないか。ということは当然に日光を写した写真もないことになります。では、明治になってからベアトは日光に行ったことがあるのだろうか、というと、確かに「メタデータ・データベース」の中に、目録番号3048の「日光東照宮唐門と拝殿(2)」や同3056の「日光東照宮五重塔」、また同4090の「華厳滝(6)」(F.ベアト/スチルフリード)があるものの、実際にベアトが日光に行ったことがあるかというと、現時点では、私は確証を持てません。

 幕末に日光を写した写真が「メタデータ・データベース」の「日光」の464枚の中におそらくない、となると、横山松三郎が日光を写した写真がおそらく最も古いものということになり、しかもその撮影時期は、明治2年から3年にかけてと絞り込むことができるわけです。

 松三郎が、明治2年(1869年)頃に日光を写した写真の中で、私が注目するのは、「日光山中禅寺行屋并湖」というもの。この写真は、どこを撮影したものなのか。

 そのヒントになったのは、「メタデータ・データベース」の目録番号2684、2723、3951、5484などの写真であり、これらはいずれも同位置から同アングルで撮影しています。つまり日光のビュー・ポイントの一つであったわけですが、横山松三郎も同位置、同アングルで撮影していることになります。

 では、その場所はどこかというと、それがわかるのが目録番号2723の解説で、それによると、この写真は、二荒山神社中宮祠の境内から中禅寺湖岸を眺めたもので、手前の二つの小屋は行者小屋であるという。中央に六軒茶屋があり、その左奥にも行者小屋が写っているとあります。さらに行者小屋とは、男体山に登る信者たちの宿舎であるとも記されています。

 この解説から、横山松三郎の撮影地点は二荒山神社中宮祠の境内であり、そこから眼前に所在する行者小屋(「行屋」)や六軒茶屋などの建物と、中禅寺湖畔を撮影したものということになります。

 おそらく松三郎が写し撮りたかった景観は、行者小屋が集中する中禅寺湖畔のたたずまいであり、それはよく見ると、幕末の動乱のためか、やや荒れた印象を受けるものです。

 この整然とはしているもののやや荒れた印象を受ける景観が、その後、どのように変化していったかは、ほかの同位置からの写真によって見ることができ、その変化を追うことができるのが、古写真の魅力の一つといっていいかも知れません。


 続く


○参考文献
・『横山松三郎』(江戸東京博物館)


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