鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

中江兆民とプティジャン神父 その3

2007-05-18 22:28:56 | Weblog
長崎新町の済美館でフランス語を教えた教師について詳しく記されているのは、宮永孝さんの『日本史のなかのフランス語』(白水社)という本。そこでは、フランス語の教師として次のような人々が挙げられています。宣教師(パリ外国宣教会所属)ベルナール・タデ・プチジャン、フィーゲ、平井希昌(ゆきまさ)、名村泰蔵(たいぞう)、志築龍三郎。そして長崎駐在フランス領事レオン・デュリー。レオン・デュリーについては、元治元年(1864年)の6月、長崎奉行服部長門守常純が、フランス語の教授を嘱託しています。もっとも非常勤の教師であったようですが。プティジャン、平井、名村、デュリーについては、その事績をある程度たどることが出来ますが、フィーゲと志築については、全く不詳。飛鳥井雅道さんの『中江兆民』(吉川弘文館)でも、松永昌三さんの『中江兆民評伝』(岩波書店)でも、全く触れられていません。特に気になるのはフィーゲという人物。というのも、中江兆民は、済美館時代を振り返って次のように書いているからです。「文法書の如きも、其(それ)始(はじめ)て臨読するや、天主教僧侶に就(つい)て質疑す。彼れ日本語を能(よ)くせず、我れ仏蘭西語に通ぜず。目、察し、口、吟じ、手、形し、苦心惨憺(さんたん)として、其(その)終(おわり)は、則(すなわ)ち相共に洒然(せんぜん)一笑して、要領を得る事能(あた)わざるもの、日に幾度なるを知らず。」この兆民が学んだ「天主教僧侶」を、私はプティジャン神父のことだとずっと思っていたのですが、「信徒発見」の経緯を見てみると、プティジャン神父はそれなりに日本語を話し、また日本語を聞き取ることも出来ているのです(「中江兆民とプティジャン神父 その2」参照)。となると、兆民が学んだ「天主教僧侶」は、プティジャン神父ではない可能性も出てくる。済美館にはフランス語を教えたもう一人の「天主教僧侶」がいて、それが「フィーゲ」という人物ではないか、という推測が成り立ってくるのです。しかし、宮永さんが、どういう資料に基づいて「フィーゲ」という人物を挙げたのかがわからないため、「フィーゲ」について絞り込んでいくことはなかなかむずかしい。ともかく、プティジャン神父の周辺に、「フィーゲ」らしき人物(神父)はいないか。そのあたりのことを念頭に置いて、『日本キリスト教復活史』をさらに読み進めてみることにします。 . . . 本文を読む