鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

中江兆民とプティジャン神父 その3

2007-05-18 22:28:56 | Weblog
1866年の初め(西暦)に新しい長崎奉行が任命されますが、彼はプティジャンに対して前任者と同じように、親切で、「欧和語学校」(済美館)の授業の継続を依頼します。

 この新しい長崎奉行とは、おそらく能勢大隅守頼之。能勢は、前職は日光奉行。慶応元年(1865年)8月10日に長崎奉行に任命され、慶応3年(1867年)12月12日まで勤めています。

 西暦で「1866年の初め」というのは、慶応元年の11月半ば。おそらくこの頃に、能勢は長崎に着任したということなのでしょう。

 では「前任者」とは誰か。

 調べてみると、慶応元年の11月頃に離任した長崎奉行はいません。しかし、能勢が長崎に赴任するまで長年長崎奉行を勤めており、外国(とりわけフランス)との親しい関係を築いてきた長崎奉行として、服部長門守常純を挙げることが出来ます。

 服部は、前職は小納戸頭取。文久3年(1863年)4月26日に長崎奉行に任命され、慶応2年(1866年)の8月8日まで勤め、その後勘定奉行になっています。「能吏」であったのでしょう。

 能勢の長崎着任とともに、永らく長崎奉行を勤めてきた服部は、後景に退いた(あるいは江戸に戻った)ということでしょうか。「隠れキリシタン」の発覚という一連の事件の対応に迫られた、という事情があったとも考えられます。

 1866年1月29日(慶応元年12月13日)、プティジャンは次のように記しています。

 「我々の発見(「隠れキリシタン発見」)がヨーロッパの新聞によって半ば知られてしまったので、我々はやむなく沈黙を守らなければなりません。政府(幕府)の怒りを招かないように我々はできるだけ小さくなっていました。我々は帳方の会合を少なくし、我々の立場を危くすることをすべて控えています。我々の秘密をル・ロジエ・ド・マリという小新聞に漏らしたのは誰でしょうか」

 秘密にしていた「信徒発見」の事件が、小新聞に漏れ、プティジャンやローカニュが戦々兢々として過ごしていることがわかります。

 仕事に忙殺され、疲労と心労を重ねているプティジャンとローカニュに朗報が舞い込みます。近いうちにフュウレ神父が2人の新しい同僚を連れて長崎に帰ってくるという知らせでした。

 フュウレ神父は、1855年の2月26日(西暦)、ジラール神父、メルメ・カション神父とともに琉球に上陸しました。その二ヶ月ほど後に、フュウレは琉球を離れ、平戸沖・長崎沖・香港・箱館に立ち寄ってから、1856年の10月(西暦)、再びムニクゥ神父とともに琉球に上陸し、それまで琉球にいたメルメ・カション神父と交代します。

 このフュウレ神父がプティジャン神父とともに琉球から横浜に到着したのは、生麦事件の直後(1862年の夏)。

 さて、このフュウレ神父は、語学(日本語)は出来たのでしょうか。

 『日本キリスト教復活史』(P209)には、次のように書かれています。

 「フュウレは、外国宣教会の神学校に入ったのが遅かったので、彼の頭髪と髭は半白になりだし、彼の一生が明らかに無駄であったことを辛い思いであきらめていた。彼は、そのほかに、語学の勉強に苦労し、同僚に向かって『こんな老いこんだ頭では、さっぱり覚えられない……』と悲しそうに繰り返していた。」

 この記述から考えると、フュウレ神父は余り日本語は出来なかったようで、この点では、プティジャン神父やメルメ・カション神父、またジラール神父やムニクゥ神父とは異なっています。琉球において、フュウレ神父は、もっぱら通訳(琉球国の)を通して、琉球の役人たちと話をしているようです(『日本キリスト教復活史』)。

 さて、フュウレ神父は、1863年の1月22日(西暦)に、横浜から長崎に到着し、まもなく、いつか通訳の仕事をしようと思っている4人の生徒にフランス語を教えるようになります。そしてまた、教会を建てるために外国人居留地(大浦居留地)の隣りに土地を取得し、教会の図面を仕上げました。この教会は、「長崎の二六人の殉教者に捧げられることになって」いました。すなわち長崎において「大浦天主堂」を建設する計画を着々と進めていたのは、このフュウレ神父だったということになります。

 この年(1863年)の末、フュウレ神父は、「二六殉教者教会」(大浦天主堂)の完成を見ずに、日本を離れてフランスに帰国しますが、1866年の5月7日(慶応2年3月23日)、クゥザンという宣教師(日本語は全く知らない)とともに長崎にやって来て、プティジャン神父やローカニュ神父の手伝いをするようになります。

 この1866年の前半においても、プティジャンは多忙にも関わらず、依然、新町の済美館でフランス語の授業を続けています。

 それがわかるのは、プティジャンによって、1866年3月10日(慶応2年1月24日)に書かれた次のような記述です。

 「私の生徒は少なく、それも二〇歳かそれ以上の者である。彼らはヨーロッパ人について知っているのは欠点だけで、先生である宣教師の教えに対し警戒している。それにもかかわらず、彼らはカトリック教から健全な考えを得、また政府(幕府・長崎奉行所)自身もあまり疑い深くないようである。」

 このプティジャンの「二〇歳かそれ以上」の「私の生徒」の中に、中江兆民(篤助)がいたことはまず確実です。

 長崎に再渡来したフュウレ神父は、「長崎では最古参なので、教会の管理」を行うとともに、注目すべきは、「不幸にも、…フランスに旅行している間にかつて知っていた日本語を少し忘れてしまった」にもかかわらず、「通訳学校でフランス語を教えることになった」のです(『日本キリスト教復活史』P281)。

 この「通訳学校」とは、済美館のことにほかなりません。

 すなわちフュウレ神父は、プティジャンとともに(おそらくは多忙なプティジャンの後継者として)済美館でフランス語を教えることになったのです。

 さて、宮永孝さんが『日本史のなかのフランス語』(P106)で触れている、済美館でフランス語を教えていた教師の一人である「フィーゲ」のことです。

 この「フィーゲ」とは、実は、フュウレ神父のことではないでしょうか。

 そう考えるといろいろと辻褄(つじつま)が合うのです。

 中江兆民がフランス語を教わったフランス人宣教師は、プティジャン神父以外にもう一人フュウレ神父がいたことになり、フランス語の「文法書」を兆民が初めて「臨読」した際に、兆民が「質疑」した、日本語があまり出来ない「天主教僧侶」とは、実はプティジャン神父ではなく、フュウレ神父であった可能性が高い。

 そして兆民は、どうも、一生懸命手真似を交えてフランス語を教えてくれたこの「天主教僧侶」のことを、懐かしさと親しみをもって思い出しているように思われるのです(「目、察し、口、吟じ、手、形し、苦辛惨憺として、其(その)終(おわり)は、則(すなわ)ち相共に洒然(せいぜん)一笑して……」)。
 ※洒然…さっぱりして物事にこだわらぬさま。
  一笑…にっこり笑うこと。

 この年10月(西暦)、プティジャン神父は、長崎での伝道の仕事をローカニュに委(ゆだ)ねて香港に向かいます。ここで司教となり、上海と横浜に向かい、江戸でロッシュと会い、また横浜ではジラール神父に会って、伝道について話し合い、それから再び長崎に戻ってきます。彼が長崎に着いたのは、1866年12月2日(慶応2年10月26日)の夜。

 その後、プティジャンは長崎各地の伝道に忙しく、済美館のフランス語の教師をやっている形跡はありません。長崎を一時期離れ、戻って来ても多忙であるプティジャンに代わり、済美館でフランス語を教えていたのは、おそらくフュウレ神父だったでしょう。

 兆民が長崎を去り(つまり済美館を辞めて)、江戸に赴く(フランス飛脚船〔郵船〕に乗って)のは、慶応3年(1867年)6月頃。

 兆民は、慶応元年(1865年)10月頃(和暦)から慶応2年(1866年)3月ないし4月頃(和暦)まで〔遅くとも9月頃〔和暦〕まで〕、新町の済美館でプティジャン神父にフランス語を教わり、その後は〔慶応3年〔1867年〕5月初旬頃まで─この頃、フュウレ神父は長崎を離れ、横浜ないし横須賀に赴いています〕、おそらくフュウレ神父に教わっていたということになるのです。

 「浦上四番崩れ」という事件が勃発するのは、1867年7月16日(慶応3年6月5日)の未明3時頃。

 この時に、兆民が長崎に滞在していた可能性は十分にあり、プティジャン神父やフュウレ神父に、済美館で親しくフランス語を教わっていた兆民が、どんな感慨を懐いたかは大変興味があるところですが、残念ながらなんの記録も残ってはいません。

 この事件の勃発と、兆民が長崎を離れたことも、何らかの関係があるように思われるのですが、そのあたりについても何の資料も残されておらず、推測の域を出ません。

 興味深いことですが、この「浦上四番崩れ」と「済美館」とは、次のようなつながりがあったことが、クゥザン神父の言により判明しています。

 クゥザンは次のように言っています。

 「この実行(キリシタン逮捕)担当の役人たちはこのこと(キリシタン逮捕のこと)を話しあっていたし、ヨーロッパ人にとってもこの秘密を知るには少し耳を傾けさえすれば分ることだった。後になって、通訳の学校で宣教師の生徒だった者の一人がこの挙(キリシタン逮捕)に参加していたことが分った。…いずれにせよ、すべてが予(あらかじ)め計画されていて、計画は具体的に、犠牲者も、決行の日も決まっていたのである。」
             (『日本キリスト教復活史』P326~327、注12)

 すなわち、済美館で宣教師(プティジャン神父およびフュウレ神父)にフランス語を学んでいた生徒たちの中に、キリシタン逮捕に参加していた者がいた、というのです。

 その生徒は、当然のことながらプティジャン神父のことをよく知っており、もしプティジャン神父が(捕吏が踏み込んだ際)キリシタンたちと一緒にいるのが発見された場合、すぐにプティジャンだと識別できる者であったということになります。

 またその学生は、フランス人宣教師の誰かと遭遇した場合、それとじかに会話が出来る能力(通訳としての能力)をもっていた、ということかも知れません。

 兆民と肩を並べてフランス語を学んでいた生徒たちの中に、キリシタン逮捕に参加していた者がいた、ということは、なかなか生々しい「史実」として、強く私の記憶に残ったことです。


○参考文献

・『日本キリスト教復活史』フランシスク・マルナス/久野桂一郎訳(みすず書房)
・『幕末明治の日仏文化交流 日本史のなかのフランス語』宮永孝(白水社)
・『長崎奉行 江戸幕府の耳と目』外山幹夫(中公新書)
・『中江兆民』飛鳥井雅道(吉川弘文館)
・『中江兆民評伝』松永昌三(岩波書店)


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