しろくま日記

読んだ本の感想を記録してみたいと思います。
なんだか忘れてしまうので。

覆面座談会事件

2017-11-18 | 日本SF
日本SF史上名高い「覆面座談会事件」にふと興味を持って調べたので書いてみたいと思います。

事件の概要はwikipediaで読んでいただければと思いますが、「SFマガジン」1969年2月号誌上「匿名」で当時SFマガジンの編集長であった福島正実氏他が、日本のSF作家たちを論じ、その内容が物議をかもして大騒動になった事件です。

以下敬称略で、名前が上がった作家は星新一、小松左京、筒井康隆、光瀬龍、眉村卓、豊田有恒、平井和正等々。

座談会出席者はwikipediaによれば福島正実、稲葉明雄、石川喬司、伊藤典夫、森優の5氏のようです。
「匿名」なので文中はA、B、C、D、Eとなっていて個人名はわからないようになっています。

Wikipediaでも書かれていますが一番辛口な発言の「B」が稲葉明雄というのは定説なようですが、他はいろいろ調べましたが特定できませんでした。

発言からの私なりの推定ではA=福島正美、C=森優、D=石川喬司、E=伊藤典夫という感じなのですが…。
記事中の全作家の箇所でA~E表記が同じ人かどうかもわかりませんし、謎です。
(ご存知の方いたらお教えください)

ただA=福島正実なのはまず「間違いないのでは」と思っています。

Cは批判が強い方に行くとフォローに回る傾向があったので、当時S-Fマガジン副編集長という立場で、かなり過激な福島編集長をフォローしていた「森優だったのでは?」という推定。
D、Eは「作家 石川喬司」を論じた部分からの推定です。

とりあえず一次資料は集めようと、事件に関連した記事の載った以下の「S-Fマガジン」各号は入手して確認しました。
1969年2月「覆面座談会」
1969年5月「空想覆面座談会 SF界に新風よ吹け!」
 矢野徹氏がことをおさめようとして載せたもの。
1969年6月「日本SFの原点と志向」山野浩一
 覆面座談会の内容を論文形式にした感じ。
1969年8月「それでは一応さようなら」福島正実
 福島正実編集長の早川書房退職の挨拶
1969年12月「特別日記」福島正実
 豊田有恒との衝突についてあられもなく書いているもの
1970年1月 「福島正美氏に答える」豊田有恒
 上記「特別日記」に答えるもの、これまたあられもない…。

その他、参考文献として福島正実著「未踏の時代」巽孝之編「日本SF論争史」「小松左京自伝」は入手して読みました。
手持ちの豊田有恒著「あなたもSF作家になれるわけではない」最相葉月著「星新一1001編つくった人」該当部分等読みました。

他登場した作家の作品で未読のもの何作か読みました。

上記含め読んだ本の感想は個別に書いていくつもりですが、あらためて日本SF第一世代の実力に感心しました。
期待したい気持ち、よくわかりました。

ここまで書いてきただけですでに疲れたのと(笑)調べれば調べるほど「書くほどのことではないかなぁ」とも思ったのですが…。

折角結構なお金と時間を使ったので書いてみます。

○1969年2月「覆面座談会」
 最初にA、B、C 三氏で1967年の日本SFシーンを概観しています。
 市場が拡がってきたが、「質」が伴わないと今後の発展は難しいのではとの論旨。
 その後作家別に活動を論じる座談会が繰り広げられます。
 
章タイトルと作家名は下記のとおりです。
 "進化した"星新一

 小松左京=一九六八・日本・世界

 時代と踊る筒井康隆

 眉村卓期待にこたえるべし

 世界に冠たれ無常SF(光瀬龍)

 SF作家プロパー(豊田有恒)

 有望株か不真面目か(久野四郎)

 未完の大器・石原藤夫

 虎は起きたか起きないか(平井和正)

 うわさの二人(石川喬司・福島正実)

 アウトサイダーたち(河野典生・西村京太郎・草川隆・山口裕一・福田紀一・宮崎惇)

全体を読んでのとりあえずの個人的な感想は「結構的を射たこと言ってるなー」というものです。

個別発言を見ると豊田有恒については部分的に(B氏)かなりひどい部分があり、小松左京、筒井康隆、眉村卓、光瀬龍、平井和正に対してもまぁひどい発言がありますが…。

発言がひどい方向に行くと、福島正実かなぁなA氏と森優かなぁなC氏が結構フォローしてまぁそれなりに公平になっているのかとはと思いました。

座談会出席の福島正実、石川喬司の作品をベタ褒めしているのもシャレと思えばまぁ許せるような気もします。
(ちょっと悪ノリだとは思いましたが)

福島正実側としては星新一以外の作家は自分が育てた意識もあり多少悪ふざけ的に厳しく言っても大丈夫だという判断だったんでしょうが…。

結局SF作家陣と険悪な関係になり福島正実はS-Fマガジン編集長及び早川書房を去らなければいけなくなったのはそもそもその前から関係が悪化していたんでしょうね。

まぁ福島氏は編集長やめてもかなり作品やら評論の執筆は続き、それを豊田氏が批判したりもするのですが…。
1969年12月号目次見ると

福島氏の名前が4っつ....「多い」かもです。

福島氏が一生懸命に種を蒔き育ててきた日本SFですが、それなりに市場が生まれて収入やら発表する場も他に出来ている中、上から目線で押さえつける福島氏に対する反感溜まっていたんでしょうねぇ…コワイ。

豊田有恒など早川書房からの収入が全収入の「19%でしかない」ことを確認してからケンカしたとのこと。
(出典「あなたもSF作家になれるわけでもない」)

当時の福島氏としては、星新一と直木賞候補にもなった小松左京・筒井康隆あたりには下手だったようですが、他出版社に作品を発表した眉村卓や、発表しようとした豊田有恒にかなりキツくあたり、時には「ここは不要と思ったから削っておいた」と原稿を勝手に削って掲載したりしていたようです。
(出典「星新一1001話つくった人」「あなたもSF作家になれるわけではない」)

当時のSF作家の文章、今読んでみると確かにぎこちないところもありますし、SFをあまり書かずテレビアニメの方に行っていた豊田有恒や平井和正やSFから万博をプロヂュースしたりと「知識人」になっていく小松左京に対して「色々言いたかったんだろうなー」というのと「エールと激励のつもりだったんだろうなー」というのは、福島氏の「未踏の時代」など読むとわかりますし、この1969年2月号も「日本SF作家大特集」、巻頭諸言も日本SFに対する愛に満ちています。
折角なので紹介すると、

SFマガジン九周年記念特別増大号をお送りします。
恒例によって、現在の日本SF界の全勢力を結集しての―――そしてSFに積極的関心を持つ、他の分野の作家たちの協力を加えての―――日本作家特集号を編集しました。この特集によって、日本のSFの実力が、今や英・米・ソのそれと比肩し得ることを、如実に示し得たと我々は信じています。
去年も書きましたが、ここから何かがでてくるはずです。日本の文学、日本の社会、日本の未来に加えうる何かが?


ラインナップ、


「覆面座談会」で論じられる作家はほとんど出ています。

でも当時のSF作家陣としては我慢ならなかったんでしょうねー。

作家論の内容ですが、記事から50年近く経過した現在視点で読んでみると私ごとき素人でもなかなか興味深いです。

記事が書かれた後70年代から80年代中盤くらいまでは、星新一は別格として、ひどいことを言われた小松左京・筒井康隆・光瀬龍・眉村卓・豊田有恒・平井和正は「売れた」という意味では全盛期を迎えます。

小松左京は1970年の大阪万博を仕切り、「日本沈没」(1973年刊)が大ベストセラーとなり映画化等々大活躍。
筒井康隆は純文学の方向に行き各種文学賞を受賞して高い評価を得て、「時をかける少女」が映画化されポピュラーにもなる。

光瀬龍は時代・歴史を取り込んだ新境地、「百億の昼と千億の夜」が萩尾望都によりマンガ化されポピュラーに。

眉村卓はジュブナイルが売れ(たのだろう)「ねらわれた学園」の映画化でポピュラーに。

豊田有恒は...2017年現在でポピュラーな作品がないのが残念ですが、日本の古代史に新境地を開き多くの作品が文庫で出ていました。

平井和正はウルフガイシリーズそれなりに売れたようですが、やはりポピュラーなのは映画化もされた「幻魔大戦」でしょう。
(私が中学の時、それなりにクラスの話題になっていました)

ただ....。

2017年現在近所の駅前の小規模な本屋で著作を確認しましたが、普通に文庫で置かれている作家は星新一と筒井康隆のみ。

星新一、小松左京、光瀬龍は亡くなりましたが、他は存命なんですけどねぇ...。

小松左京はトランプ政権と「アメリカの壁」の世界観がよく似ているということで話題になったりしていますし、他の作家も再評価される可能性はもちろんありますが、「作家」が50年生き残るって大変なんでしょうね...。

星新一は記事中でも「進化している」と評されており、ぶれずに独自の世界を進化させていった感があり、多分50年後も読まれているような気がします。
「SF」や「メジャー文学」とは離れる感じがありますが、「アンデルセン」的な国民作家という感じです。
星新一に対する評価は先見の明があったのでしょうかねぇ。
(または単に遠慮したのがたまたま当たったか....?)

座談会の内容読んでみると福島氏としてはせっかく「自分が育てた」日本SFが50年、100年と残るような「ジャンル小説」でなく「大文学」となって欲しかったんだろうなーというのをすごく感じました。

ちまちま私小説やらを描いていた日本文学の主流は現在は現実を超越しイマジネーションを拡げた「SF」的方向になっている気がします。

村上春樹などはまさにそうですし世界的にも今年ノーベル文学書を受賞したカズオ・イシグロ(未読なのでいい加減)などもそのような感じです。

また世の中を見回すと上述の文学はじめ、映画では「シンゴジラ」や「君の名は。」が大ヒットし、漫画もSF的な作品がかなり多いです。(「進撃の巨人」などもかなりSFしてます)

ハリウッド映画もSF結構な割合ですしね。(スターウォーズとか)

ただ…そこには「世界に冠たる」となって欲しかった「SF作家」の名前がない…。
(すごい誤解招きそうですが...メジャーという意味です)

70年代から80年代に日本SF作家たちは締め付けが厳しく、原稿料も安い福島氏=早川から離れ光文社やら角川の(甘い?)誘いに乗り大量移動しました。
(80年代には第一世代の作家たちの早川から出ていたものは角川文庫になってしまった…)

角川春樹氏には「思い」があって「復活の日」はじめ日本SF作家の作品の映画化などにも熱心でしたしハルキ文庫でもずいぶん日本SF作家作品だしてますが…。

豊田有恒批判で論じられた「SF=エンターテインメント」ではない、「文学性が大事」という方向からはかなり離れていったような…。

日本の場合エンターテインメントとしては漫画やら、ライトノベルの存在もありボリュームゾーンを獲得出来なかったというのもありますが90年代以降はいわゆる「SF作家」の存在感は薄れていきます。

特に期待していた「小松左京」が「大文学」としての「SF」確立に興味を失ってしまったのが大きかったかと…。
科学知識獲得に貪欲で、京大文学部出で文学の素養も十分、「拝啓イワン・エフレーモフ様」(日本SF論争史収載)では大文学たるSFにやる気満々だったのに…。
今後も大地震が起これば「日本沈没」パンデミックが起これば「復活の日」が話題になるでしょうが...。
その作品の文学性が評価されることはないんだろうな...。

筒井康隆は「文学」に近づいていきましたが、まじめなためか手法論に偏った実験的手法に手を出し過ぎた気がします。
あれではなかなか一般受けしなそうな…。

虚航船団」レベルの対策が連発できれば村上春樹なみには成れたような気がするのですが…あそこまでの大作の連発はなかなか難しかったんでしょうね。
(「虚航船団」は世界文学レベルの傑作だと思っています。)

他名の上がった眉村卓・光瀬龍・豊田有恒・平井和正など才能はあったんでしょうが現代まで残る大作を連発とはいかなかったのが今の段階の事実だとは思います。

「福島氏の批判をきちんと聞いていればきちんと育った」という単純な話ではないとは思いますが改めてもったいないなーと思いました。

残っているという意味ではここで取り上げられなかった半村良や広瀬正(評価されて出てくるのがもう少し後)の方が残っているような….。

ということで小松左京以下の評を見てみます。
小松左京評は前記のようにかなり私の感じと合いました

小松左京=一九六八・日本・世界
A そろそろ話題を移そうか。小松左京はどうだったかな。彼は去年は二冊の長編を完成させている。「継ぐのは誰か」と「見知らぬ明日」とね。ぼくは、小説としては前者に軍配をあげるけど。
D でも、両者に共通しているのは、小松左京の初期の良さというかナイーヴさというか、それがなくなってることだね。小説としてはむしろ退化してる。データをあんまり生まのまま放り出しすぎるよ。
E 「継ぐのは―――」は科学的データによる推理小説という感じがする。
D 彼の最近書いている未来学的な作品は、とくにデータの未消化な傾向が見られて、読みづらいな。
A それは、「見知らぬ明日」にも共通の問題なんだ。こっちの方は、むしろ、小説であるよりも一種の疑似イベントづくりなんだ。もしかりに、いま、地球上のどの勢力にも属さない?―――つまり宇宙人が侵入してきたら、現在の中ソ関係、東西対立、あるいはそのあいだにはさまれている日本、そういった勢力がどんなふうに動き、反撥しあるいは協力し得るか、あるいは宇宙人を受け入れようとするか、または異物として拒否するだろうか、そういったことへの興味に、この作品の全精力が注がれてしまってるんだ。これは、SFとしてだけでなく小説としての完成度を最初から度外視している。そしてこれは、ここ二、三年の彼の作品のすべてに共通した傾向何だ。それがとくに、時間的なあるいは紙数的な制限とからみあって、いまDさんがいったみたいな結果になる。要するにアンバランスになるべくしてなったアンバランスなんだな。
C 「見知らぬ明日」は、小松左京のいまの関心のありかを端的に示している。あれが中途半端なのは、宇宙人の侵略ものであるにもかかわらず第三次大戦ものの域を出なかった。例えば中共の国連加盟手続きなんかにものすごく紙数を使ってしまう。この関心のありかたを別の方向へ持っていって、ぎりぎりまでおしつめたのが『神への長い道』だと思う。これはぼくは非常に高く買うんだが、一般にはキヨホウヘン甚しいらしい。
A ぼくも買う。だから問題なのは、あの作品でも、知的興味と同時に完成度をも目指したら、かつて彼がエフレーモフへの手紙に書いたような大文学としてのSFにつながる作品になったんじゃないかと思うんだ。それが、置き去りにされているんだ。かつて彼は何かの後書きに、ある友人から「きみの作品はきみの文明論のメモにすぎないじゃないか」といわれて、それでもいい、現在の自分にとって完成度なんかどうでもいい、とさえ思うことがある、と書いていたけれど、あの独白めいたいいかたは、彼の自己認識であると同時に、やっぱり弁解なんだ。だから、いまは、やがてより高次のものへ達するためのプロセスだと思うな。
E ただ「見知らぬ―――」の場合は終らされちゃったんだろ。
A それはコマーシャリズムの中で書いてる以上、いったってしょうがないさ。
B 小説でなくてもいい、メモでいいってのはだけど、やっぱりすごくアポロジーだな。
D いつもそうだ。自己弁護だね。
C いや、ぼくはそうは思わんな。もっと切実なんだ。彼は内からつき上げてくる要求のために、メモしか書けないという状態なんじゃないかと思うよ。
A うん、つまりさ、小松左京自身、たとえば「果しなき流れの果に」の後書きで、いつの日かもう一度このテーマと四つに組みたい、というふうにいってる。だから、これがメモだということは、ある意味でやっぱり自己弁護ではあると思うんだ。でもそれは、他人に対する弁解じゃなくて、自分の内的要求に対するそれなんだな。切ない口実なんだ。
D しかし、作家は作品が勝負なんだ。ぼくたちが読みたいのは、メモじゃなく、あくまでも小説だと思うけど。
B 小松左京のフロシキはすごく大きい。だからいくらでも中身が入りそうだけど、その結果扱われる思想なり国家なりが、類型化してくるんじゃないの。つまり小松左京個人の社会的な立場がひろがるにつれて、情報もこまかくなってくる。するとますますフロシキを拡げなければならなくなるんだが、腕の方がついていかないから、かえって類型化してくるというわけじゃないかな。
A 小松左京のフロシキは、一種の魔法のフロシキでね、これも入れたいと思うと、どんどん大きくなるんだ。ただ、腕が----つまりフロシキの結び方が、うまくいかないんだな。
C 大ざっぱにいうと、小松左京というのは、何千年という歴史をもつ人類の現時点における代表者たらんと----知性の代表者としての責任を引きうけたみたいなところがあると思うんだ。これは栄光であると同時に悲劇だよね。それで、ヴェルレーヌの詩じゃないけど、選ばれてあることの恍惚と不安と二つながら我にありというわけで、人類全体を代弁してることで的は二つに裂けてるんだ。彼が見てしまったもの、人間の運命をうたえば、いくらでも上手にうたえるはずなんだ。それだけの腕はあるんだ、ところが彼は自からその道を捨てたんだよ。見てしまったんだから、もうほんとはどうにもならないんだけど、しかしどこかへ行かなくちゃならないというんで、苦しんでいる。それが、現在の彼の作品のアンバランスさの原因なんじゃないの。
D トラディショナルな文学の伝統から抜けだして新しい道を見つけようという意欲はよくわかるけど、そうすると、彼の持ってるあの通俗性はどうなんだ。あれは自己矛盾だと思うな。あの通俗さを切って捨てない限り、いつまでたっても彼の小説はこのあたりまでということになると思うけどね。
A 具体的にいうと?
D たとえば「神への長い道」でも、どうしてああ通俗仕立てになっちゃうのか……おしまいに行ってね。
A そうかね。ぼくはあのラストシーンを通俗だとは思わないな。通俗めかしたところはサービスだけど、つまり外へベッドを持ちだしてしっかりやれっていうこと自体はサービスだけど、それがいやらしいかどうかはだから別として、あのシーンには必然性があると思うよ。あの「しっかりやれ」にひっかかる人はけっこういるらしいんだが、しかし、あの一語で、それまで読んできたことがみんなすっとんじまうんだとすると、むしろ読手のほうに問題があるんじゃないかな。
E 読み手の品性下劣というわけか。(笑)ぼくは彼にもっと時間を与えれば、なにしろ今だって世界のSFの最先端をいくんだと思うし、もっと……。
A いや、それはどうかな。いま彼に非常にたくさん時間を与えたとするね、そしたら彼はそれを使って、やっぱりメモを増やしていくと思うな。あとはテレビのポストが一つ二つ増えるかもしれないけど。(笑)
E ぼくは、彼はポーランドのレムぐらいの力量は持ってると思うんだ。ところがいまの日本の忙しさが、彼のあれだけの創作力を持ってしても、追いつけないほどいそがしくさせちゃうんだと思うな。その結果、あれだけのものしかできないんじゃないかな。
A ぼくは正反対だと思うな。ぼくは、彼はこの日本的状況の中だからこそメモが増やせ、だからこそいいSFへの基盤をつくりつつあるんだと思う。情報が少なくなったら彼もぜんぜん違ったものになるんじゃないか。
C しかし、同時に彼は、そのメモの、情報の、行きつく先の空しさも知ってる。それにもかかわらずまだメモを集めるのは、つまり彼の甘さなんだ。まだ何かいいことがありはしないかというセンチメンタリズムなんだ。あれだけのリアリストであるにもかかわらずそんなが幻想も持ってるんだ。それがDさんがさっきいったような通俗性と見られることもあるし、いろんなボロを出す原因にもなるんじゃないかな。
A だけど、ぼくは「神への長い道」のラストに関してだけいえば、ほんとはサービスをあまり感じないんだ。あんなに切ないシーンはちょっとないとさえ思うんだ。彼は人類の知的限界を考える。そしてこの道もだめあの道もだめ、結局最終的に人類は何かに到達できるのか、それともできないで、一つの環を描いて終ってしまうのか、それをずっと追及していくんだ。出てくるあのシーンは、何と理由をつけようと、いわば力尽きたかたちなんだな。
C うん、ただね、彼はヒューマニズムへの訣別をつけるべきところに立ってはいる。しかし彼は、そうするにはこまやかすぎるほどの温い心を持ってる。そこで彼はこういう問いの前に立たされるんだ。お前の母親、子供、友人を捨てれば人類は救えるんだがどうするか、とね。彼はその場合どっちをとるか。多分答えはわかっている。それが壁だと思うな。
A しかし、クラークの場合と比較してみたら。クラークの方は、同じ設定をとった場合、人類よりもはるかに高次の存在がいて、それが何とかしてくれる、という考え方をとるね。ところが小松左京の場合は、日本人として……というか、非西欧人としてというか……そういう一種の衿持みたいなものがあって、そういう高次の存在がかりにあるにしても、それによって助けてもらうなんてことはいやだ、そんな空望みは最初から捨てておいて、己れ自身の中に、否定なり肯定なりの答えを見つけたいと考えるんだ。その態度は甘くないと思うんだ。世界がエントロピー増大の世界であることはどうしようもなく分るけれども、負のエントロピーとしての生命、人間というものを信じようとする、それをしも甘いといってしまうと、どうしようもないと思うんだ。
C 甘さといったのは、つまり関西人としてのしたたかさ図太さともいえるものを指したわけだけどね。決断に迫られると返答をしないで生きのびていく、というね。
A ニヒルになんか簡単に陥らない。
B 甘さはまだあるような気がするな。これは彼自身が書いていたけれども、彼は二十世紀のバルザックたらんとしているところがあるんだが、また事実そうかもしれないんだが、どうも話を際限なくひろげはじめると、最初の意気ごみにしては密度がどんどんうすくなっちゃって、けっきょく読み手としてはプロセスはどうでもよくなって、終りだけ気になってくるといったところがあるんじゃない?
D うん、たしかにそういうところはあるな。
A 結末についていえば、「極冠作戦」なんかには、そういった意味の甘さがあるな。あの、収拾のつかない状態を救う一つのテーゼとして、彼は若さ、若者というものを出してくるけど、あの若さ、若者に対する信頼のしかたはかなり軽薄だな。あれはたんなるどんでん返しの役目しかしていない。それについてはメモもない、看破しかない。
C 今年の小松左京を語るには「未来の思想」を問題にしなければならない。
A そうそう、あれは去年から今年出た未来論の中で、たとえば香山健一の『未来学入門』なんかと較べても面白かった。彼が当然やるべきことだったしね。香山健一の方はいわば優等生の論文で正確さが取り柄なんだけど、彼の場合は、主体的な燃焼があって、図太く魅力的だった。ただ、結局のところ、彼が、人類のさまざまな到達の中から、これこそはジンテーゼだといって取りだしてくるもの、それに実はあんまり説得力を感じなかったんだけどね。その手つきが、こう、いわば香具師的で……。
E でもぼくは、あれが断定せずに、つねに疑問形でたたみかけているところが、ソート・プロボーキングな感じだったな。
A あの疑問形はレトリックだよ。
C 内部事情もある。彼はちゃんと結論をだしたんだけど、出版元の方でこれじゃあんまり悲しいからというんでせめて明るくしてくれというんで、ああいうかたちになったらしい。それと、Aさんのいった香具師的というのは、ことによったらSFそのものの持ってる軽薄さであるかもしれないよ。つまり、専門家でないものの大胆さだといえるかも。身軽さであるかも。
A なるほど、そうかもしれない。ぼくにとって物足りなかったのは、彼が『未来計画』の中で大いに主張していた個の問題ね、未来計画をおしつけられる側、良かれ悪しかれそれを受けとめざるをえなくなる個体の側の主張が、「未来の思想」の中にあんまり反映してなかったところでね。だから、どうも、彼が結論を出すのに急なために、それを----小松左京が主張すべき一番大事なものを省いちゃった感じがした。そうまでして形をととのえたあたりがつまり、軽薄な感じだという意味だったんだ。彼はほんとは、小松左京=一九六八年・日本・世界という式のつくれる作家なんだ。
C それだけにいまの小松左京は、歴史なり世界の構造なりを、最大公約数的に解釈せざるを得ないんだな。それで軽薄な印象を与えるというところもある。

――
「A 略-SFとしてだけでなく小説としての完成度を最初から度外視している。そしてこれは、ここ二、三年の彼の作品のすべてに共通した傾向なんだ。-略」
「A 略-かつて彼は何かの後書きに、ある友人から「きみの作品はきみの文明論のメモにすぎないじゃないか」といわれて、それでもいい、現在の自分にとって完成度なんかどうでもいい、とさえ思うことがある、と書いていたけれど-略」
「B小松左京の場合は一口でいうと、仏つくって魂入れずというところがある」

上記がそのまま当てはまるかどうかはともかく「魂」だけ作って「仏」を入れないようなところはあるのかなぁと感じていました。

「日本沈没」にしても「テーマ」をある程度書けば「小説」「文学」としては「未完成でいいや」という感じの後半部分に感じましたし、そんなところはあったのではと。
小松氏の長編は未完成多いですしね。

福島氏にすれば「世界的傑作長編SFを書ける才能があるのにもったいない…」と感じたのでしょうが、小松氏本人にしてみれば「大きなお世話」だったのかもしれません。

時代と踊る筒井康隆
B ぼくは、小松左京と筒井康隆を、よく比較して考えるんだけど、小松左京の場合は一口でいうと、仏つくって魂入れずというところがある。
A そろそろ出てきたな。(笑)
B それに対して筒井の方は、葭(よし)のズイから天井のぞく……(笑)今までの作家はどちらかといえばこの後者の方だった。彼の特長は、現実における自己の存在に対する自意識が稀薄なところだ。だからこそ、へんな軽薄さの魅力が出てかえって一般受けするところがある。だから、彼が大人になっちゃって軽薄さがなくなると、どうなるか。
A ぼくも思いだすことあるよ。アルジャーノンをね。ほら。
C あ、ひどいね。(笑)
B 天性の資質は非常にある。ところがそのことに就いての認識がまるでない。そしてそれが強味なんだ。しかし、いつまでも強味かどうかは疑わしいね。
A 直木賞候補になった「アフリカの爆弾」なんかはそれがたしかに弱味になってる。あれはどうも、小松左京のやってることを、筒井スラプスティックにしたかったんじゃないかと思われる節があるけど、そういう形にすれば誰でも喜んでくれる、面白がってくれると多寡をくくってる感じでね。ところが、話の流れがどう流れていくか、読者にはみんな判っちゃうから、面白くも何ともない。むしろ秘密な感じさえする。あれはぜんぜん買わないね。あれより「色眼鏡」のほうがいい。
E 「アフリカの爆弾」は、途中の手つきが非常に常套的で、細々してるくせにまるで印象が稀薄な感じだったな。だけど、ラストの赤ん坊での締めくくりは短編としちゃみごとだと思った。
B みごととはいえないな。
D 彼の作品は結論がいつもないね。しめくくりの手つきしかない。
C ぼくは「幻想の未来」が面白かったな。「アフリカ」にしろ「ベトナム観光」にしろ彼の世にもてはやされてる作品は、時代の風潮にマッチした、テレビ時代の面白さみたいなものがある。ところが「幻想―――」には、SF作家としての筒井康隆がいる。あそこには、彼の内部にある、ナンセンスやドタバタでなく、彼の本質的に持ってるイメージが一つの世界に結晶されている。
B それは同感だな。出来は、同人雑誌小説的だけど、にもかかわらず面白い。いかがなりゆくかの興味があった。
A つまりあの暗中模索がね。今の彼には暗中模索なんてなくなった。きわめて常套的な手段の連続で、ただ変ってるのは目先きだけだ。あれみてると、ぼくはいまのボードビリアン・・・・・というよりも司会役たちを思いだす。彼らは目先きの変ったことばかりしゃべるけど、その台詞じたいは常套句ばかりだ。
E あれを書いた時点では、筒井康隆はサイケもスラプスティックもなかった。今はその反対だ。だから新鮮な感じがするのかもしれない。いまそれが書けたら大したものができるな。あれ自体は、やっぱり、ファンの書いた習作だと思うけど。
A ただ気になったのは、後書きで彼が書いてることなんだ。彼はこの作品を「SFのテーマやアイデアを逆手につかみ、これでもかこれでもかと逆撫でにした」って書いてあるけど、ちっともそうしてないんじゃないか。
E 彼の被害者意識じゃないかな。
D これもやっぱり手つきだね。いま彼が書いてるようなものは、きっとあまり残らないと思うな。いまの時代に受けるだけで。彼の安直さ、人生すべてスラプスティックという見方じたい、あれはじつは、彼の逃避にすぎないんだ。しかも、彼は自分でそれを知っていて平気なんだ。そこがイヤだな。
C しかも「賑やかな未来」では、ぜんぶ後書きと前書きをつけて、本心をさらけだしてるんで。
A このあいだ福島正実がどこかで書いてたけど、彼が、あの「ファンタジイ・ファンタジイ」のような作品に、あんまり無理に意義を見出そうとしているのは、よくないね。
D 気にくわない。イヤらしいね。
C ただ、ここでぼくが筒井康隆を持ちあげておきたいのは、彼が非常に勇気のある作家だということなんだ。つまり、現代のタブーに、つぎつぎと挑戦してることね。卑俗な見方かもしれないが、創価学会とかNHKとか、普通の人なら触れずにおこうとすることにすすんで触れる。これは勇気というより、精神異常かもしれないけど。つまり自分の避けたいものを余計触れたくなるというね。これは決して社会派的発想ではなく、実存主義の作家たちと同じ地盤に立ってるところからくると思うんだ。人間を知的存在として概念的に捕えるんじゃなくて、もっと血と肉の塊りとして捕える、それがごく自然な発想として出てくる作家だからこそ、受けてるんじゃないかな。
A でも、お言葉を返すようですがね、あのNHKといい創価学会といい、一見大胆に見えるんだけど、実はかなり手前に限界があって、この辺までならまあ大して問題にはなるまいという多寡をくくりたくなるんじゃないかな。その証拠にどの作品にも必ず韜晦があって、致命傷を相手に与えることは決してない。
E 問題を横にそらすね。
C しかしそれだけのことにしてもほかの作家はやってない。
A そりゃそうだけど、ほかの作家がやったら、ああ韜晦できないからやらないということもいえる。
C うん。星新一や小松左京はエッセイ書いても面白いけど、彼のはぜんぜん読めないということは確かにいえるな。
A 話はそれるけど、彼の発言はときどき無責任で困るね。いつか、俺は右翼だが、考えてみればSF作家はみな右翼だとどっかに書いてた。あれは怪しからんと、みんな怒ってた。
D 彼にはそういう思想的な観念がないね。育ちも環境もそうだし、そこから一歩も出ようとしない。それで満足してる。
C ただね、彼の、人間をモノとして見るという見方は、かなり彼の身にそなわった資質だよ。『人口九千九百億』の中の圧縮されたビルのイメージとか管理人が床をあけると下が大西洋だったとかいう、イメージの喚起力というのは、すぐれた作家的才能だよ。その点は認めなきゃね。
A 彼の場合は、そういう自分を大事にすることがまだ判ってないんじゃないの。
C 「時代と寝ている」というか「時代に踊らされてる」ところは多分にあるね。「幻想の未来」で持ってた貞操を時代という深情けの年増にとられたんだな。(笑)。
A それはやっぱり彼の方にも好き心があったからだよ。(笑)チョイトといわれたとたんにアイヨって行っちゃったんだ。


筒井康隆、その後の文学性を求めたスタイルの変更というか追求というかの姿勢を考えると少なくとも文学的には「軽薄」と真逆なイメージがあります。

そういう意味ではこの座談会で取り上げられた作家のうち一番ひどい言われようかもしれません。

今回この項を書くために処女長編「48億の妄想」を読み直しましたが、「かっちり文学」
しています。
ちょっとヴォネガットの影響を感じましたが…素晴らしくかっちり出来上がった作品と感じました。
が…器用なだけに小松左京のような「細かいことはいいだろー」というパワーを感じなかったのは事実でした。
その辺が
「C「時代と寝ている」というか「時代に踊らされてる」ところは多分にあるね。「幻想の未来」で持ってた貞操を時代という深情けの年増にとられたんだな。(笑)。」
「A それはやっぱり彼の方にも好き心があったからだよ。(笑)チョイトといわれたとたんにアイヨって行っちゃったんだ。」

相当「文学」やら「哲学」について勉強して、著作のたびにスタイルを模索・試行錯誤して書いていたのでしょうが、その辺を「軽さ」とか「軽薄」と捉えられるとつらいでしょうね。
「D 彼の作品は結論がいつもないね。しめくくりの手つきしかない。」
は私も若干同感な部分がありますが、筒井氏の場合エンターテインメント的文学な「結論」かっちりした「結末」「オチ」は「必要ない」と思って書いていたような気もするのでここもきついような…。

「D これもやっぱり手つきだね。いま彼が書いてるようなものは、きっとあまり残らないと思うな。いまの時代に受けるだけで。彼の安直さ、人生すべてスラプスティックという見方じたい、あれはじつは、彼の逃避にすぎないんだ。しかも、彼は自分でそれを知っていて平気なんだ。そこがイヤだな。」
1960年代後半のスラプスティック作品はあまり残っていないような気はするのでここはあたっているんでしょうね。

眉村卓期待にこたえるべし
A そこで、非常に正反対な感じのする眉村卓に話題を移すとするか。彼は今年、彼の一番の力作である「EXPO'87」を完成してるけど、これ、どう思うかな。評価はかなりマチマチなようだけど。これはまあ、いわゆる社会SFのチャンピオンである眉村卓の総決算だし、その意味で彼にとって重要であるばかりでなく日本のSFにとっても重要でなければならない作品だけど。どう、端的にいって面白かったかな?
E 三章までは面白かったな。でもそれからが……伏線が陳腐だし、第一あの催眠術が困っちゃうな。あれが、結局一番大きな役割を果すものになってるからね。未来の経済の動きそのままが出てくる未来SFとして、最初すごく期待したし、結構も悪くなかったと思うんだけど……。
A そうなんだ。社会なり、経済システムなりが動いていって、そこに新しい状況ができたときに、そこで、そういうものを動かす人間、たとえばビッグ・タレントとか産業将校とかというロールを持った人間像が出てくる。それらの手で動かされる社会がどうなるかということを「EXPO'87」というビッグ・イベントの中でやる、この発想は、いまの日本のSFにとって重大なテーマだったと思うんだ。
E 日本SFの突破口だ。
D ぼくはしかし、今のままではあまり買わないな。面白くないんだ。
A なぜ面白くないのかな。
D まず説得力がない。感情移入がどうしてもできない。
C 確かに彼は、胸をときめかして読む作家じゃないよ。しかし、非常に地道な問題提起をやる作家だよ。現実の社会に対してね。サラリーマンが切実に感じているような日常の問題を先取りしてSFにする。
A 彼は本当は私小説タイプなんじゃないのかな。
C うん。もっと思いきって私小説を書いたほうがいいね。
E ただそれにしちゃ文章のコクが足りないな。表現や描写が月並みで。
B ぼくが気になるのは、やっぱり彼のインサイダーSF論だな。
A パワー・ポリティクスを認めること自体問題だが、しかしそう決心したからには、大変な努力が必要だということを、案外御本人は気がついていない。
C それは、今度の参議院選挙における石原慎太郎と同じだと思うな。慎太郎は、自民党に入るのはイヤだけれども、体制の中に入らないと体制は動かせない、という論理を使った。眉村卓のインサイダーSF論もそれと近いところがある。慎太郎がそれであれだけの票を稼いだのと同じように、眉村のそういう発想は今のサラリーマンにピンとくるところがあるんだ。
A でも眉村卓の場合には、その考え方の中に、ちょっとフラストレーションの要素が強く入りすぎてる。それなのに、インサイドに居れば動かせるんだと力んでいるがちょっとおかしいんだ。負け犬ならば負け犬の気持ちに徹したほうがいい。私小説を書いたほうがいいというのもそのことだ。水は油にならないしね。
D でも、いいのもある。「万国博がやってくる」はいいな。
C しかし、あれが宇宙人だったというのは、やっぱり月並みじゃないかな。
E ぼくは「虹は消えた」のほうを買うな。
A でも、もうすこし味の素がいる。
B それと、タバスコ・ソースみたいなきつい調味料がね。どうもぼくは、彼が体制の中に入っても、体制を動かせるということにはならなくて、結局役に立たないような気がするんだがな。
C そりゃそう。でも、体制を知らなければ体制を動かせないというのは、実際その通りなんで、眉村卓には、ビジネス権力機構を実際に内側にいる目で見て知っているという自信があるんだよ。もちろん現実には、それは、サラリーマンがそういう中にいるとけっきょく頽廃していくということを肌で知っているということに過ぎない。でも何も知らないで、体制なんぞといってるよりはいいはずなんだ。彼のSFを読んで、出世したいと思ってるサラリーマンやすこしルートに乗りかけた人たちが、自分のやってることは大したことじゃないんじゃないかということをふっと疑問に思うという、そういう効果はあると思うよ。
A 眉村卓はこれからどうしていけばいいのかな。このままでいいのかな。彼はどっちかといえば庶民的な人間を捕えていく、というところから文学を志したんだし、それが一番身についてるんだから、そういうサイドをもっとつきつめていったほうがいいんじゃないかな。一時期くぎってでもいいから、私小説を書くとか。
C SFファンじゃない一般読者が身につまされるようなものを書けばいいんだよ。その意味で私小説とぼくはいったんだ。
E そうだな。一般読者を納得させることだ。眉村卓の欠点は味の薄いことだけだよ。だから、技法的なことだけだと思うよ。彼の分野ではアイデアはいくらでも見つかるはずだし。
A 「養成所教官」はナニワ節だけど、一般読者が身につまされるところはある。だから、こういうナニワ節を、一時、うなるだけうなってしまえば、道は自ずから開けてくる。一皮ぬげる。


眉村卓作品は基本ジュブナイルしか読んでいないのでなんともいえませんが…。
ジュブナイルは小中学生時代読ませていただきとても楽しかったです。
どれもこれも眉村卓的正義、民主主義論みたいなものが入っているのが「どうかなぁ?」というところはありますがまぁジュブナイルならよいのでは。

ただ今回「EXPO’87」を本稿書くために読みましたが、まぁ下記の座談会通りの評価でした。
「E 三章までは面白かったな。でもそれからが……伏線が陳腐だし、第一あの催眠術が困っちゃうな。あれが、結局一番大きな役割を果すものになってるからね。未来の経済の動きそのままが出てくる未来SFとして、最初すごく期待したし、結構も悪くなかったと思うんだけど・・・。」

出だしのところは「ニューロマンサー」的で期待できたんですが…、力尽きた感が…。
文章も今一つでした。

眉村卓は「消滅の光輪」未読(1976-1978連載)で1979年泉鏡花文学賞を受賞していますし、文学的な成熟は70年代を待たないといけなかったのかもしれません。

世界に冠たれ無常SF(光瀬龍)
A 光瀬龍は、今年すこし鳴りをひそめていたんじゃないか。
D 「カナン五一〇〇年」一冊だね。
A ジュヴナイルの方では大活躍だけどね。まあ、ぼくにいわせれば、これは或いはいいことかもしれない―――彼が自らの中に何かを蓄えようとしているのならばね。彼は、あらゆるテーマを捕えて彼一流の、いわゆる光瀬節でこなしてしまうという評価が、そろそろ出来てしまった。「百億の昼と千億の夜」も、その意味で、それらしいものができただけだった。これは、彼の中に、語るべきものが乏しくなってきたからなんじゃないか。だから、このへんで、彼一流のあの仏教的----東洋的世界観をぐっと深めたようなものを構想すればいいんじゃないかと思うんだけどね。このままでいくと、たとえば『オホーツク二〇一七年』とか、この種の、未来はピンク色じゃなくて灰色だ式の作品群、こういうものが多くなっていくのは危険だと思うんだ。ピンク色は戴けないが灰色だ灰色だとただいってるだけじゃ裏返しただけだからね。彼は―――この点でいうと「スペースマン」みたいなものを本当はもっと書いていくべきだね。これは作品としては小ぶりだけど内容的に充実がある。
B この作家は技術的にはうまくなった。内容的な点がもっと考慮されなきゃ。ぼく自身の好みをいえば、間然するところない作品というのは、ごく初期の「弘安四年」だね。
A 「レイ子、クレオパトラね」とか『ヴェトナムとハルコの間』とか、この手のものもちょっと困る作品だな。
E 何か書きたいんだけど何を書いていいかわからないって感じだ。
D 何も書くことがないから光瀬節だけになるんだ。何かと何かをくっつければいい、みたいな。
A ぼくは、彼の場合、せっかく彼が打ち出してきた、アメリカにもないサイボーグもの、ヒューマン・サイドになったサイボーグをもっと書けばいいと思うな。それが一番の突破口になるよ。
C ぼくは光瀬龍のぶつかってる壁はちょっとどうしようもない壁だと思う。彼の世界に冠たる無常SFは、もう行くところまで行きついてしまったんだ。この壁を打ち破るには、サイボーグものもいいけど、戦争小説がいいんじゃないかね。
A いま、むかし宇宙塵に書いた『派遣軍還る』を書き直してるらしい。
C 日本のSFが世界の中で独自性を持ち得るとすれば、その一つの方向として光瀬龍の方向を挙げなきゃならない―――大乗的諦観思想というかね―――無常SFでもいいけど。
B あの文体が重要だね。
E あの文体でいいの? ぼくは何だか疑問があるな。
A それは、彼のあの世界に冠たる無常SFそのものの質とも関係あるんじゃないか。つまり、彼の無常感というのが、よく引き合いに出される、長城の上に立ってはるか地平線をながめる一人の男というアレね、あの一幅の絵だけのものでしかないんじゃないか、とカンぐりたくなるわけよ。だから表現がセンチメンタリズムに終始する。彼にとって無常感というのはセンチメンタリズムだけかということになる。本当の無常感というのは、もっと切ないものでどうしようもないもののはずだからね。
E どうも、読んでるうちに、ワケがわからなくなる。
B 読んでるものを、ワケがわからなくするのも一つの才能だよ。(笑)
C 悠々たるかな天地だけど、やっぱり変っていくわけだし、逝きて還らぬ水の流れも実際には回帰してるわけだし、光瀬龍ももっとその辺を踏まえて実質的に世界に冠たる無常SFを書いてもらいたいね。

E あの文体でいいの? ぼくは何だか疑問があるな。
A それは、彼のあの世界に冠たる無常SFそのものの質とも関係あるんじゃないか。つまり、彼の無常感というのが、よく引き合いに出される、長城の上に立ってはるか地平線をながめる一人の男というアレね、あの一幅の絵だけのものでしかないんじゃないか、とカンぐりたくなるわけよ。だから表現がセンチメンタリズムに終始する。彼にとって無常感というのはセンチメンタリズムだけかということになる。本当の無常感というのは、もっと切ないものでどうしようもないもののはずだからね。
E どうも、読んでるうちに、ワケがわからなくなる。
B 読んでるものを、ワケがわからなくするのも一つの才能だよ。(笑)
C 悠々たるかな天地だけど、やっぱり変っていくわけだし、逝きて還らぬ水の流れも実際には回帰してるわけだし、光瀬龍ももっとその辺を踏まえて実質的に世界に冠たる無常SFを書いてもらいたいね。


これまたひどいことを書いていますが...。

このころの光瀬龍作品は「百億の昼と千億の夜」しか読んでおらず、なんだかごまかせされたような気がしていたのですが、今回、宇宙年代シリーズ「・・・」を読んでみたらかなり良かったです。

独特の「センチメンタリズム」突き詰めていった方がよかったのではないかと思うのですが…、光瀬龍氏はこの後、時代ものに行ってしまったような気がします。
(読んでいないのでいい加減です)
「百億の昼と千億の夜」これまで「長編としてはどうかなー」という感想だったのですが、短編集一冊読んだことで、連作短編として読んでみたら別の見方ができ楽しめました。

あのラストはどうかと思うのですが・・・・・なんとも抒情的描写は楽しめました。
サイボーグの戦闘シーンは「ハイペリオン」シリーズばりでかなり「いい」….。

SF作家プロパー(豊田有恒)
C その点、まだほんとに未知数なのは豊田有恒だね。
A 彼は去年の長篇のあと今年は「アステカに吹く嵐」一冊だけど、わりとよく書いてる感じだね。
B ぼくは一番買わない人だな。つまり、彼には、SFを書かなきゃならない必然性があるのか。次元テーマ、タイムトラベル・テーマ、宇宙テーマというものがあって、そこへそれぞれの状況を挿入していくと、一篇の作品が出来上るという、オートメーションみたいなものを、彼に感ずるんだな。
E いや、だからこそ、彼は本質的にSF作家なんじゃないかな、SFで書かなきゃならないものがあるかどうかということより----。
A 何でもかんでもSFになっちゃう。
C 逆にいうと非常にプロパーなSF作家だよ。ただ、あまり優等生すぎるから魅力がない。
E 何でもかんでもSFになっちゃう、その裏に、彼の持ってる思想内容が入ってくればいいんじゃないかな。何でも自然にSFになってくるという頭の機構を、自分が自覚すれば。
A ぼくも彼は一番、商売人としてのSF書きになれる素質があると思うね。そのイミで、石川喬司や福島正実がよくいってる、SF作家の層の薄さ、これを何とかするために必要な人物だと思うな。いまのSF界は、みんな一人一党的でそれぞれ特性を主張してる----それ自体はいいことなんだが、そこにSFプロパーの、何でもSFにしてしまえる作家ももっといてほしい。面白いSF、うまいSF、読めるSFを書ける作家が必要だ。アメリカなんかそうだしね。テーマもジャンルも好き嫌いなしに書く、大衆作家としてのSF作家が必要なんだ。そのイミで最も有望株だと思うな。
E 読める文章は書く。
D そいつはどうかな。
B 通俗の極みだよ。何とかでゴザルといえば時代が出ると思ってる。(笑)
E スラスラ読めるよ。
D 文章にあまり品のないところは小松左京に似てる。
B 層の薄いところへこんな人がいると、全体の株を下げるんじゃないか。
A それはそうは思わない。彼の研鑽しだいだね。大衆作家がほしいというのは三文作家がほしいということじゃないんだ。大衆の肌に合う人がほしいんだ。それが、それこそ山本周五郎になってくれりゃ結構なことじゃないか。
C 「渡り廊下」なんか面白かったな。
E あれは全然買わないな。
D 全然冒険していない。
C そうかな。つまり過去というものの意味が現われていた。
D でも彼の作家的資質からいえば、あれは彼の行く方向じゃない。
A そこが、何でも書いてやろうということで----実際、彼は、従来のジュヴナイル調から脱するためにだいぶ努力してて、その努力ぶりは敢闘賞なみだと思うよ。
D アイデアがあまり簡単に出て来ちゃうのは直ってないな、思いつき的で。
B それがまた既成のアイデアだ。仲間が書いた作品にヒントを得て、すぐ書く。あれはいかんね。オリジナリティがあるのかしら。


覆面座談会事件で最後まで福島氏にかみついていたのが豊田有恒氏で確かにひどいこと書かれていますが….。

稲葉明雄氏=Bさん除けば、福島氏であろうAさんとCさんはかなり買っている発言です。
そんなに怒らなくても…と思うのですが。

豊田氏の場合
A ぼくも彼は一番、商売人としてのSF書きになれる素質があると思うね。そのイミで、石川喬司や福島正実がよくいってる、SF作家の層の薄さ、これを何とかするために必要な人物だと思うな。
A それはそうは思わない。彼の研鑽しだいだね。大衆作家がほしいというのは三文作家がほしいということじゃないんだ。大衆の肌に合う人がほしいんだ。それが、それこそ山本周五郎になってくれりゃ結構なことじゃないか。

というA=福島氏(?)の期待に応えられなかったのが…。
ひどいことを言われながらも研鑽を重ね続けた筒井氏との違いなのでしょうか?
(私もひどいことをいっていますが)

虎は起きたか起きないか(平井和正)
A 平井和正はどうかな。
B 彼はごく最近長篇を完成したばかりだけど、これまた賛否両論はげしいようだね。
D ちょっとしんどい。
E 話にのるまでに骨がおれたな。
D でも、将来性は買えるな。はっきりと問題意識を持ってるし、それを展開する技術も持ってる。
A いまはっきり持ってるといい切れるかな。嗅覚は鋭いからちゃんと嗅ぎ当てるけど、まだかなりトライアル・アンド・エラーを経ないと自分がどういうことを書こうとしているのかはっきり掴めないところがあるようだな。「メガロポリス」の場合もそれがある。
D 一貫して人間の内面性を追求するところはいい。
A 内面性を図式化してね。
C 矢野徹が、SFはこの頃文学ずいちゃって面白くないといってたが、そういう面は確かにあると思うんだ。SFがエンターテインメントの一面を無視して文学一途につっぱしるというのは確かに偏向だ。そこで矢野徹のいうところによると、平井和正はエンターテナーで結構だという。ところがぼくはそう思わない―――むしろ文学性の方がつよいと思ってたんだ。それで、そういう従来の平井観をもってこれを読んだんで、非常に不満だった。
E そもそもの発端から、この作品はまちがってるんじゃないかな。説明がやたら多すぎて、長編を書きなれない未熟さが目についてしょうがない。
A うん、そういう意味では未熟だね。欠点を全部さらけだしてるといってもいい。それに、この作品を書いてるあいだに、彼はずいぶん揺れ動いた―――あるときは、スラプスティックSFに影響され、あるときは----という具合にね。それも、やっぱり出て来ちゃってる。
E そういう影響をみんなつめこんじゃったから、印象が散漫なんだ。いらない部分が多すぎる。赤原なんて人物はいらないよ。
A つまりあれがスラプスティックSFの名残りなんだ―――サイバネティックス社会の落とし子だってことを書くんなら、まだまだ手があったはずだ。あれに対する愛着が、けっきょくかなりこの作品に悪影響を与えてしまったね。
C 平井和正のSFは自己燃焼する情念のドラマだと、いつか石川喬司が書いていたけれど、長編になると、自己燃焼だけじゃだめだ。対立する他者がいる。対立する他者との間に極端な限界状況ができて主人公が追いつめられ、そこにドラマが出来ていくんだけどこの作品ではそういう他者の設定がない。
A なるほど、その通りだな。彼にとって自動管制文明というのが、対立する他者になってないんだ。
C だから虎の発動のしようがない。
A その意味で「ブラック・モンスター」なんかは、サイボーグ問題を黒人問題に置き換えて、そこに対立する他者を見出してある程度まで優れた作品になってると思う。残念なことに後半でエイトマン・ドタバタになっちゃった。
E ぼくはこの三部作の中では「ダーク・パワー」が好きなんだな。結末ですこし大きな展開をしてる。それまでが尻つぼみの話ばかりだったが、これはパーッと開いてるし。
C 虎がナルシストになっちゃいけないんだよ。だから……だいたい、平井和正はエンターテナーかね、それともシリアスSF作家か。
A 本質的にはエンターテナーだな。エンターテナーが文学青年なんで自らナルチシズムに陥ってると思うな。
C エンターテナーに徹し切れば「メガロポリス」も壮大なSFハードボイルドになったはずだ。
A だから、これは失敗作だけど惜しいんだ。それに、彼は自己燃焼するところも十分持ってるから、グレードの高いエンターテナーになれると思う。
C 潜在可能性は大きいな。
A 虎がまだ眠ってるんだ。夢遊病にならないようにしなきゃ。(笑)


平井和正作品は「ウルフガイシリーズ」・「死霊狩り」くらいしか読んでいないのですが、「SF」というよりバイオレンスの中での「人間の在り方」というようなところを描いているところでまさに「SFハードボイルド」路線かと。

覆面座談会は最後このようにしめられています。
A それは、こてこてと手先でこねあげた小説より、事実の持っている壮大なドラマ性の方がよりドラマチックであることは当り前でね。それはSFの場合でも例外じゃない。
B いや、ぼくのいうのは、SFにぼくが望みたいものがあるとすると、そういうものに匹敵するぐらいのドラマ性とサスペンスと密度を持ってほしいということさ。
D SFといっても現実の世界に生きてるんだから、現実の世界がどんどん変革されていく、今なんか大変な激動の時代だ、そういう現実とのかかわりあいを忘れない、というよりつねに直視するという態度も、SFにとって大事だね。当り前のことだけど。
E そうだな、いつになってもタイムマシンで過去へ行くんじゃね。
C 日本に限らず世界のSF界全体の問題だが、時代を先取りしてたはずのSFが今や時代のあとをくっついていくのが精一杯に近くなってきた。日本の場合は実作者が少ないので一層それが目立ちはじめてるんじゃないか。ただこれをどうしたらいいのか……どうにもしようがないんじゃないか。それからSF的発想が未来論の流れの中で埋没してしまいそうな状況もあるし、一方では活字文化が衰退して映像文化万能がいわれはじめて、その中にも埋没してしまいそうだし、さらには社会全体のSFへの寛容さが出てきてその中でいい気になりかねないようなところもでてきてるし----。
D 昭和元禄か。
C そう、SF界の元禄太平記的ムードがあるようだけど、その下には地獄がある。むしろ孤独な栄光者の道を決然として(笑)……歩む気概がSF作家にはほしいね。それはたとえば、われわれの使ってる言葉が、この頃やけによく通用するようなこと一つとってもそうだ。そうかんたんに理解されるはずはないんじゃないかと疑問を持つことが必要だな。
A、B、D、E さんせい。異議なし。ばんざい。


その後70年代以降のジャンルSFを見通しているような….。
いわゆる「SF作家」以外のところでSF的文学は普通に大文学化しているのでそれはそれでいいような気もしますが…福島氏ご存命だったら少しさびしいんでしょうね。

と長々書きましたが議論百出しそうな話なので大したSF読者でない私の私見ということでご笑読ください。


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2 コメント

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興味深く拝読いたしました (suna8)
2019-09-30 10:44:50
初めまして。
とあるキッカケから貴ブログにたどり着いて興味深く拝読させて頂きました。私は人生を一周し現在小休憩中で、蔵書を読み返したあと断捨離していたりします。俎上に上がっているSFマガジンも1970年代あたりを中心に何冊か持っていて、でも隅から隅まで読んでいたわけでもなく、今回「覆面座談会事件」のことを初めて知ったわけです。
そして貴殿の後を追うように関係しているSFマガジンを古本屋で見つけては、フムフムと感慨に耽りながら読んでいます。まあ、夫婦喧嘩は犬も食わない、喧嘩両成敗、などの言葉が浮かんだりするわけですが、結局「大人げない」ってやつですね。「いい大人が・・・」ということでしょうけど、でもまあ一種のレクリエーションというかストレス解消というか、余裕のあるオトナだから出来る遊びなんでしょう。
覆面座談会に関して言えば、発言者が覆面ならそのターゲットの方も仮名(かめい)にすべきだと思いました。まあ、それでも言いたい放題はマナーというか常識を疑われるわけですが、多少は笑って済ませられたのではないかと思うわけです。SF作家の仮名表現で思い出すのが、高斎正氏の『透け透けカメラ』ですよね。
・川松左東←小松左京
・富田有垣←豊田有恒
・箇井庚隆←筒井康隆
・平田和生←平井和正
などなど、総勢20名近くのSF作家が作品内に登場しますね。その名前が誰を指し示すか、想像しながら読むのが楽しいわけで、しかも結構言いたい放題的な部分もあって、SFファンならニヤリとする内容ですよね(ここで解説するまでもなく)。こういったノリの覆面座談会だったとしたら、もう少し楽しい結果になったのかな、と思います。
ということで、駄文失礼しました。
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Unknown (shirokuma_2007)
2019-10-20 16:55:29
suna8様
コメントありがとうございます。
また超遅い返信すいません。
私のどうでもいい駄文お付きあいいただきありがとうございます。
「覆面座談会事件」お互い大人気ない…の一言になるのですが…。
当事者は超まじめだったので熱くなっちゃったんでしょうね。
記事の自分たちの作品褒め合いはしゃれで、それで「しゃれ」だというのをわかって欲しかったんでしょうが…。
小松左京評やらなまじ真というかイタいところついてしまってしゃれにならなくなってしまったんでしょうね。

ご紹介のの「透け透けカメラ」もっていますが積読中で未読です当時のSF作家みんな仲良しだったんでしょうね〜。
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