しろくま日記

読んだ本の感想を記録してみたいと思います。
なんだか忘れてしまうので。

大地は永遠に ジョージ・R・スチュワート著 中村能三訳 ハヤカワ・SF・シリーズ

2018-11-23 | 海外SF
本書は’12年ローカス誌オールタイムベスト67位、1949年の作品となります。
1951年に第一回の「国際幻想文学賞」を受賞しています。

この賞1951年から1957年と短命でしたがスタージョンの「人間以上」シマックの「都市」最後の1957年にはトルーキンの「指輪物語」とそうそうたる作品が受賞しています。

本書は文庫化されていないので、新書版のハヤカワ・SF・シリーズの古本をアマゾンで注文して入手しました。

奥付見ると昭和43年(1968年)5月刊行、私が生まれる2年前の刊行です。

解説は福島正実氏、福島氏らしいなんとも真面目な解説です、この辺も時代感あります。

原題は"Earth Abides"聖書の伝道之書第一章第4節の文句「世は去り、世は来る、地は永遠にたもつなり」から取られているそうです。

いわゆる「エンターテイメント」なSFではなく教養小説と科学シュミレーション小説を合わせたような内容です。

著者のジョージ・R・スチュワート氏、SF作家というよりも歴史家、主流文学・ノンフィクションよりの人のようです。
本作以外ではアメリカでもほとんど忘れられている作家のようですが…。

本作がSFのオールタイムベストの上位に来ているのは「古きよきアメリカ」好きな人が投票しているんでしょうかねぇ。
内容紹介(裏表紙記載)
「・・・・・・そこで、アメリカ合衆国政府は、コロンビア特別区を除いて緊急事態突入のための活動を停止します。兵士を含む連邦公務員は、各州知事もしくは地方自治体の指揮下にはいってください。大統領代理の命令です。神よ、合衆国人民を救いたまえ・・・・・・」こう伝えるラジオ放送も、やがてかすかな空電のうなりの中に埋もれ、途絶えた。アメリカ全土が、いや世界中が未曾有の死亡率と猛烈な伝染性をもった未知の悪疫に席巻され、人類文明はあえなく滅び去った。生残者はごく僅かだった。社会生態学の研究のため山奥にこもっていた若き学生イシャーウッド・ウィリアムズもその一人だった。彼が下山したときは、もはや文明は存在しなかった。町もハイウェイもすべてまったく無人の砂漠と化していた。なすすべもなく人類は滅亡したのだ。だがイシャーウッドは絶望しなかった。初めて人間性と社会意識にめざめた彼は、持てる最後の力を奮起し、勇気と信念をもって立ち上がった、新しい文明社会の再建のために!

内容紹介の通り典型的な人類絶滅小説です。
「いわゆるSF」的な仕掛けはなく人類は淡々と滅びを迎えます。

異常な事態に直面して生き残った主人公及び数少ない人類の生き残りたちの姿を丁寧に描いています。

伝染病で人類ほとんど絶滅という状況は小松左京の作品では「復活の日」に近いですが、ごく少数になった人間の生活をシミュレーション的に描くという意味では「こちらニッポン…」に近い感じでしょうか。

ただ小松左京の2作と違い派手な描写はありませんが尻切れトンボではなく、主人公の40年以上(多分50年くらい)の長きに渡る生活を根気強く描いています。(小松左京に厳しいですかね…。)

新書版1冊でそれほど厚くは見えないのですが、小さい活字で2段組424ページですから今の版組で文庫化したら上下巻にはなりそうです。

情感溢れる良い作品だとは思うのですが、派手な作品ではないですし、なにせ60年前の作品ですから…「今どき」の内容でもなく、映画化でもされて大ヒットでもしないと新訳・文庫化はなさそうな気がします。

そういう意味ではこの作品自体が「忘れられていく遺産」という感じで本作の読後感ととても親和性高いです…。

以下内容紹介です。
未読の方は読まない方がいいかもしれません。

物語は三部構成になっていて前述の通り主人公イシュの目から見た世界(アメリカ?)を描いています。

・第一部 終わりなき世界
主人公イシュがひょんなことで生き残り、誰もいないアメリカを国中周り数少ない生き残りの仲間を探しコミューン的な集合体を構築するまで。
第一部では当時の生物学やら色々と科学的な知見を生かしてシミュレーション的な面があります。
そういう意味では「こちらニッポン」的ですが...。
徐々に壊れていくアメリカ中の構造物の描写はもっと詩的です。
第一部の終わりでイシュは伴侶を得て数人の仲間を集め集落を形成します。
第一部の終わりには「あわただしい日々」と題したつなぎの章を置き、かいつまんで集落のその後の21年のあゆみを紹介して第二部に続きます。

・第二部 第22年
集落結成の22年目の1年間を描いています。
中年となったイシュを中心とする集落。
最初の7人の子が育って孫もでき、数十人規模の集落となっています。
鉄やら石油やら水道やらは残されたものを使用して生きています。
年月とともに残された文明の遺産は劣化していきますが治す能力はなく、このままでは人類の文明が喪われてしまうということでイシャーは教育やら何やら悪戦苦闘しますが…。
「鉄」一つとってもその辺から持って来ればいくらでも手に入れることが出来る楽な生活の中で「学ぼう」という気になりません。
そもそも高度に役割分化し大量消費を前提に設備化されているものを復活させることは誰にも無理。
例えば「タイヤ」など1から作るのは不可能ですしタイヤがなければ車は動かない。

そんな焦燥感もありイシュは子供達を車でアメリカ探索の旅に出し他の集落との交流を試みますが…。

子供たちが連れ帰った中年の男チャーリーは何やら不穏な空気をまとっており、イシュを中心にまとまっていた集落に波乱をもたらします。

第二部も第一部同様「あわただしい日々」の章を置き、23年目から43年目、それ以降はイシュも年老いて毎年恒例のハンマーで石に年を刻むこともしなくなり、何年経ったかわからなくなり、集落で生き残った第一世代はイシュだけとなります。
第二部ではなんとか「文明」を残そうと悪戦苦闘していましたが…その辺はすっかり諦めています。

・第三部 最後のアメリカ人
最後に生き残ったイシュは集落の長老とも半ば神ともいえるような存在として敬われています。
集落の人々はいわゆる「文明的な生活」からはかけ離れていますが、それなりには満足してたくましく生きています。
そんな中イシュにもついに終わりが訪れます。
「最後のアメリカ人」というのがなんともアメリカ的な表現ですが…。

淡々としたラストでしみじみとイシュの人生に思いを馳せたくなリました。

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永遠の終わり アイザック・アシモフ著 深町真理子訳 ハヤカワ文庫

2018-11-17 | 海外SF
本書は’12年ローカス誌SF長編オールタイムベスト66位、1955年の作品です。

アシモフのSF長編、本書の感想を書いてコンプリートです!!!

アシモフの邦訳SF作品、あとは短編集未収録作品を残すだけですがほぼ制覇といってい
いので数年越しの課題が終わり感無量です。

本書の初読は小学校高学年か中学生頃ですが、その後も何回か読みなおしていて最後に読んだのが12~3年前、古本屋で見つけて買って読みました。(もともとの本は実家にあったため買った)

その時本書の構成の巧みさに舌を巻いた記憶があり改めてアシモフを見直し、「またSFを読もう」というきっかけのなった作品です。

若干あっさりし過ぎている感はありますが緻密な構成で完成度の高い名作だと思います。

アシモフの長編では「ファウンデーション三部作(1,2,3)」「神々自身」と本書あたりが将来まで残る普遍性のある作品だと思うのですが…ファウンデーションを除き絶版なのが惜しまれるところです。
(あとは「夜明けのロボット」もお薦めですが…これも入手できない。)
今回読んだのは実家から持ってきたもの。
昭和52年1月刊です。当時7歳ですから日付から見ると古本屋で買ったんでしょうねぇ。

本書を子供のころ最初に読んだ時はミステリー的に読み、ラストで「なるほどねー」と感心したのですが、今思えば浅い読み方だったと思っています。

時間を行った来たりして世界を変えるというところ、「男」が巻き込まれ「エージェントとして動く」ということから 小松左京の「果しなき流れの果に」との類似性を感じた記憶があります。

両者を比べるとエンターテイメント性は本書の方が上なので当時の私は単純にその辺評価して比べて「本書の方が上だ」と感じていた記憶があります。

今思えば「超越者」を前提とした「果しなき流れの果に」とあくまで「人間」の力で世界を変えていこうという本書とはテーマ性がかなり違うんですけどもね。

好みの問題かとは思いますが「宇宙観」のようなものを無理矢理表現して「大説」を描こうとして中途半端感のある「果てしなき〜」よりも、大きな流れに巻き込まれた「個人」=「1人の男」が意志の力と行動で世界を変えていく設定の本書の方が私は好きです。

最終的に変わった世界はある意味神も仏もない世界ですし、とてもアメリカ的なマッチョな世界なんですが…このラストを肯定的に書いているこの時代のアシモフの、進歩を無条件に信じる「若さ」を感じます。

後期ファウンデーションものなどでは「何が正しいのか」に迷いを感じるのでその辺も読み所かと。

また本書、アシモフとしては珍しいタイムトラベルもの(アシモフはタイムトラベルは科学的に実現しないものの際たるものということであまり好きでなかったようです)で唯一の長編となります。

時間ものでは他に短編の名作「停滞空間」があります。
アシモフ自身「時間ものは仕掛けとしてはとても魅力的」といっているように科学的実現性はともかくとして、「名作」が生まれやすいテーマとはいえるんでしょうね。
内容紹介(裏表紙記載)
時のはざまを彷徨し、未来の安寧と平和のため過去を矯正する資格をもつ「永遠人」。
厳しい訓練と教育を受けたハーランは15歳のときに、時間管理機関<永遠>の研修生となり、やがてもっとも有能な技術士の一人となった。彼の担当は482世紀。この世紀は人工生殖が隆盛を極きわめた唯一の時代で、いまや<現実矯正>が必要とされていた。だが、<普通人>の美しい女性、ノイエスとの出会いは、彼の運命を狂わせた。
<現実矯正>の結果は、愛するノイエスの消滅をも意味していたのだ。執行日は容赦なくせまるが・・・・・・!? ミステリタッチで描 く巨匠アシモフ唯一の時間テーマSF!


今回読んでの感想、前回読んだ記憶がかなり残っていたのと、最近の私が「SFズレ」していることもあり「すげぇ」とまではなりませんでした。

ですがアシモフには珍しい抑え気味の筆致でタイムマシンものの基本とパラドックスの面白さを描きつつ、ミステリの要素も兼ね備えて最後までぐいぐい引っ張っていく作品であり前述のとおり「名作」といってよい作品だと思いました。

物書きとして一番油が乗っていたであろうアシモフがこの頃からサイエンス・ライターの方に興味を移してしまったのはとても残念です...。

これまた前述ですがラストの「結論」日本的にちょっと受け入れずらいものがあかなぁ...なので本書が再刊されない理由、その辺の事情もあるかもしれません。

「永遠」=「エターナル」という組織の発想、手の込んだ仕掛けと謎解き、後に統合されるアシモフ未来史の番外編となる構成どれをとっても巧みすぎるくらい巧みです。
初読の方は舌を巻くこと必定でしょう。
未読の方は古本屋で見つけたら買いですねぇ。

何言ってもネタバレになりそうなので...内容のことは書きません。(手抜きではない...つもり)

今回読んで気づいたのはこれまで主人公のハーラン、マッチョな青年なイメージでしたが、初心でオタクな若者に感じました。

これは年取って読んだ効果ですね。

ただまぁ男はいくつになっても「バカなものかなぁ」とも自分でも思いますし、本作に出てくるエターナル評議会の長老であるトウィッセルなど見ても思います...。女性にはかないません(笑)
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ながい坂 上・下 山本周五郎著 新潮文庫

2018-11-16 | 日本小説
前にも書きましたが、本書、個人的にとても評価の高い作品です

山本周五郎作品は父親が好きだったこともあり、小学校高学年頃からちらちら読んでいました。

「武家もの」「人情もの」の時代小説短編が代表的な作品ということになるんでしょうが、長編もNHKの大河ドラマになった「樅の木は残った」や、連作短編になるかと思いますが黒澤明が映画化した「赤ひげ診療譚」などもそれなりにポピュラーです。

他、黒澤明監督の「椿三十郎」の原作が「日々平安」、最近でも2000年に「雨あがる」が映画化されたりと多くの作品が映像化されています。

なお「赤ひげ診療譚」はとても好きで中学生から高校にかけて何度となく読み返しました、最近では10年前くらいに読み返したような....。

そんなこんなもあり「私的日本小説番付」では「赤ひげ診療譚」「大関」です。

以下「文学賞メッタ斬り!」の直後ということでその辺の話題です。

「山本周五郎」文学賞嫌いですべての賞を辞退していたようです。
直木賞(17回)も辞退しており、現在まで唯一の直木賞辞退者だそうです。

まったくの余談ですが...。
前述の関連で「直木賞受賞作」wikipediaで眺めていましたが一貫性がないように見えます。

作品に関わらず文壇の「中堅どころ」の大衆小説作家に授賞する賞と思えばある程度納得いくラインナップなのですが...。
・第85回(1981年上半期) - 青島幸男「人間万事塞翁が丙午」
・第86回(1981年下半期) - つかこうへい「蒲田行進曲」

「ベストセラー」でしょうが....「作家」としてはどうだったんでしょう?。
この辺に受賞させるなら筒井康隆あたりに受賞させてもと思うのですが....。

その一方で当時20代で「大衆小説作家」と思えない山田詠美(第97回(1987年上半期)「ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー」)が受賞しています。

山本周五郎賞の方は第1回の山田太一「異人たちとの夏」がちょっと「???」ですが受賞者・受賞作のラインナップ見ると一貫性があるように見えます。(全体的にミステリー色かなり薄め、SF色は皆無なのは残念ですが...)

第7回(1994年)の久世光彦「1934年冬-乱歩冬」などはTVライターの久世氏ですが渋い作品です....。
そもそも文学賞嫌いだった人の名前を「わざわざかぶせる」いうのもどうかというのもありますが....。

さて本書、1964年6月-66年1月まで週刊新潮に連載されていた作品。

1967年2月に著者は亡くなっていますので最後の長編作品となります。
解説にもありますが「集大成」といってよい作品であり、精神の「自伝」ともいうべき「思い」をありったけたたきこんだ作品です。

私が本書を初めて読んだのは20代中盤から終わりくらい(20年くらい前)かと思います。

典型的なビルディングスロマンなのですが当時の私には響くものがあり本作品が私の中の一部に今でも確実に残っているのではないかと思っています。

良くも悪くも「思い」が過剰気味に入り込んでいる作品ですので好き嫌い分かれるかもしれません。
私も「小説」として客観的に評価すると「赤ひげ診療譚」の方が上だと思っていますが、不思議な魅力のある作品で折につけ読み返したり、人に勧めてきたりしています。

最近勢いで会社の若者に本書勧めてしまったので改めて読み返しました。(10年ぶり)

読んだのは手持ちの新潮文庫 旧版です。

内容紹介(裏表紙記載)
上巻:
徒士組という下級武士の子に生まれた小三郎は、八歳の時に偶然経験した屈辱的な事件に深く憤り、人間として目ざめる。学問と武芸にはげむことでその屈辱をはねかえそうとした小三郎は、成長して名を三浦主水正と改め、藩中でも異例の抜擢をうける。若き主君、飛騨守昌治が計画した大堰堤工事の責任者として、主水正は、さまざまな妨害にもめげず工事の完成をめざす。
下巻:
異例の出世をした主水正に対する藩内の風当たりは強く、心血をそそいだ堰堤工事は中止されてしまうが、それが実は、藩主継承をめぐる争いに根ざしたものであることを知る。”人生”というながい坂を人間らしさを求めて、苦しみながらも一歩一歩踏みしめていく一人の男の孤独で厳しい半生を描いた本書は、山本周五郎の最後の長編小説であり、周五郎文学の到達点を示す作品である。


今回の再読も「巻を措く能わず」で一気に読んでしまいました。
特に前半の主人公が勉励刻苦を重ね成長、成功していく部分は読みやすいので速かった....。

あらためて自分が「ベタな成長小説」好きなんだなぁと認識しました。
(三浦綾子の「泥流地帯」などもこのパターン???)

一方で私的には「山本周五郎は永遠」なイメージがあったのですが、今回読み直して「さすがに古いかなぁ」と感じる部分はありました。

江戸時代的(戦前的?)価値観、道徳観が前提となっているんですが、特に「女性観」などは今の時代と相いれないかなぁと感じました。

また「殿様」に対する盲目的「忠義」、硬直的身分制度などもなにも説明なく「すー」っとは入っていきにくいかもしれません。
(会社の若者からもそんな感想....)
説教くさいのもどう受け止められるか....価値観を押しつけているわけではないんですけどね。

その他、今回読み直して改めて思ったこと。

前から思っていましたが「善悪」「正しい・正しくない」は「見方と立場の問題」がテーマ。
主水正及び藩主と対立する側も一生懸命やっているので....。
価値感の相対化なわけですが…これがひたすら繰り返されます。
飽きる人は飽きるかもしれません...。

これまた「人間とは?」をびたび自問していますが...まぁ答えはないですよねぇ、これまたしつこく繰り返されます。

連載小説ベースなので「連載しているうちに都合が変わったのかなぁ」という感じで内容がつながっていないところがある。
代表例は冒頭出てくる江戸からきた信田氏、結局ほとんど登場せず終わっています。
事件に対して主人公の視点と「別の動きがある」というようにしたかったんじゃないかと思うのですがまぁ真意は謎ですね。

ただ主水正が城代家老になる、滝沢兵部が堕ちた上で最後に救済される。
「つると主水正は結ばれる」辺りの設定は書き出しから決まっていたのかなぁという気がします。
ただ滝沢兵部は救済されるか???なまで堕ちるわけですが...最後の救済はちょっと書き込み甘いかなぁと感じました。
作者も最後の最後迷ったのかもしれません。

その一方で最初小三郎の「師」として「凛」としていた谷宗岳の壊れっぷりは見事です。
上巻で死んでしまうかなぁとか持ち直しそうな感じもあったのに...。

こちらの方は当初の想定になく、筆の流れで壊してしまったのかなぁという感じです。
人間壊れると持ち直せないというのを滝沢兵部と対応して表現したかったんですかねぇ。
小三郎=主水正も老いれば変わる可能性もあることの暗喩でしょうか...。

師筋の米村青淵、小出方正も巻を追うごとに衰えてますし...。

その辺の師匠に対する態度も冷たい主水正ですが、肉親に対する「冷たさ」は異様だなぁ...と感じました友人・妻(愛人)にもそれなりに冷たいのですが肉親=親・弟に対する冷たさはすごい。

儒教道徳としては「忠」とならぶ「孝」の部分まったく欠落しています。

立身出世しても情に流されないためには必要な冷たさかもしれないのでしょうかねぇ。
または「完璧」な人間などいないということでしょうか?
もしくは山本周五郎自身「肉親」と何か葛藤があったのでしょうか?

主水正の妻「つる」の見事なツンデレぶりは相変わらずよかった...。
下巻の重めな展開を明るくしています、こちらは随所に伏線はっていましたし。

エンターテインメント的には、藩主の謎をミステリータッチで解いていくという面もありますが、これまた今どきの人にはピンとこないだろうなぁ。

江戸時代でも藩は「血」ではなく、結び付けられた「縁」でつながるイメージなのでここまで「血」の部分には違和感なかったんじゃないかなぁとも思いますし。

等々いろいろ書きましたがいろいろ考えさせられる小説であることは間違いなく、また10年位後に読み返すことになると思います。

最後に。
冒頭、先代城代家老の滝沢主殿のことばとして紹介される「正しいだけがいつも美しいとはいえない、義であることが常に善ではない」まぁ当たり前といえば当たり前の言葉なのですがこれをどう受け取るかは人それぞれですね...。

↓中高…でなく忠孝、チュー公…日本語難しいですねぇ???よろしければ下のバナークリックいただけるとありがたいです!!!コメントも歓迎です。
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