しろくま日記

読んだ本の感想を記録してみたいと思います。
なんだか忘れてしまうので。

ラフ あだち充著 少年サンデーコミックス

2016-07-30 | 漫画
MIX」1-8読後に短期間にあだち充作品読み返したり新たに読んだりなどしたので感想など。
(全部書くかは??)

「ラフ」はとりあえず家の本棚の出しやすいところに入れてありましたので手近なところからということで手に取りました。

1987年-89年「タッチ」の直後に少年サンデーで連載。

この時期私は高校2年-大学2年くらいでしたが、読んでいませでした。

高校時代は「みゆき」と「タッチ」「陽あたり良好」1-3巻を持っていてときどき読み返していました。
92年に社会人になってマンガを大人買いしだして「ラフ」も全巻セットで古本屋で購入して読んだ記憶があります。
当時は「H2」も出るたび買っていました。
懐かしい….。

あだち作品読み返すに当たりネット上でいろいろ評判を見たのですがあだち充の最高傑作として「タッチ」以外をあげている人の中では本作「ラフ」を「最高」としてている人が多いようですね。

あと評価が高いのは「みゆき」「H2」あたりのようです。
私も「タッチ」の評価は低い方の人なのでまぁ似たような気持ちを持っていました。

あらすじ[Wikipwdiaより]
埼玉県の私立栄泉高校水泳部に所属する大和圭介と二ノ宮亜美。2人の実家はともに和菓子屋で、祖父の代からライバル同士であった。最初は仲が良くない2人だったが、様々な出来事を経て、次第に惹かれ合っていく。亜美が兄のように慕う日本記録保持者の仲西弘樹と、圭介と亜美の三角関係は。 あだち充青春ラブストーリー


読後の感想ですが、26巻と長すぎた感のある「タッチ」に対して「ラフ」は12巻(通常のコミックス版)と短いこともあり全体によくまとまっています。

ただ前半で息切れして後半からラストは短くまとめちゃったかなぁという感もなきにしもあらずですね。

始めは「嫌い」から入ったヒロイン二宮亜美の大和圭介への感情が、時間を追うごとに「好き」に変わっていく展開を描いた前半部は今回読み返しても「素晴らしい」と感じました。
冷静に考えるとなんとも不自然な展開なわけなのですが、読者に不自然感を抱かせない「あだちマジック」素晴らしいところですね。

寮のくじ引きの結果(当たったわけでもない)運命の導きに会ったがごとく1日デートをすることになっての「1日」は一点の隙もない素晴らしさです....あだち充の妄想力とんでもない!!しびれました…。

その後の二宮亜美の「いやよいやよも好きのうち」というか二人の微妙な関係性と周囲の当てられっぷりの描写はあだち作品の中でも屈指ではないでしょうか?

有名な(?)桜の木の下を二人が歩くシーンなどはよくこんな展開書けるなぁと感心してしまいます。
ちょっと間違えると思いっきりベタなわけですが、品よく仕上げています。

「まっ、いいではないか」…悶えます。

ここで6巻で、ある意味ここでクライマックスになっているのでここからの6巻は長すぎた気がします。

二宮の別荘近くでの事故以降の展開はキレに欠けさらに仲西弘樹のケガ以降は展開が重たい….。

あそこまでひっぱってラストで片方をフる「二宮亜美ってどうなのか…」という感も抱かせます。

これまた有名なウォークマンから流れる告白でのラストシーンは素晴らしいとは思いますが後半部分はもう少しコンパクトにまとめた方がよかったような気もします。

ただこの辺、週刊誌の看板作品としての立場もあるでしょうしどこまで作者の意思でやっているのかわからないところもありますよね。

手塚治虫などは作品を割と好き勝手に書いていたようなイメージがありますが、サンデーの看板作家「あだち充」にはどの程度創作の自由があるのでしょうか?
初期の「みゆき」や「陽あたり良好」あたりは割と好き勝手に書いていそうですが「タッチ」以降は背負っているものが大きそうな….。

「芸術家」と「職人」の違いなのかなぁなどということを考えてしまいました。
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三四郎 夏目漱石著 新潮文庫

2016-07-23 | 日本小説
「次何読もうかなぁ」と書棚を見ていたら本書と目が合い読み始めました。
漱石も私の中では読破したい作家の一人ということになっております。

1908年(明治41年)「虞美人草」「坑夫」に続いて朝日新聞に連載した作品です。

初読は思いっきり背伸びしていた小学校高学年時期かも中学生頃だった記憶があります。(そのときも写真の本...だったと思う)
当時は田舎から出てきた大学生を主人公としたビルディングノベル的な理解でそれなりに楽しく読んだ記憶があります。

まったく深く読めていなかったとは思いますが小学生でもそれなりに楽しませるのは漱石の手腕ですかねぇ。
小悪魔的なヒロイン里見美禰子に翻弄される三四郎のラブコメ的読み方もしていたかなぁ。

その当時本作の後に同様な舞台設定(と思われた)鴎外の「青年」を読んでこっちもそれなりに楽しく読めました。
(調べてみたら鴎外は思いっきり「三四郎」を意識して書いたようですね)

その後単純に「三四郎」の続編と思い「それから」に手を出し挫折した記憶があります。
こっちは小学生には厳しかったなぁ….。

最近、「それから」「」は読んだので、今回本書を読んでこのブログ上漱石の前期三部作制覇です!!

内容紹介(裏表紙記載)
熊本の高等学校を卒業して、東京の大学に入学した小川三四郎は、見る物聞く物の総てが目新しい世界の中で、自由気儘な都会の女性里見美禰子に出会い、彼女に強く惹かれてゆく……。青春の一時期において誰もが経験する、学問、友情、恋愛への不安や戸惑いを、三四郎の恋愛から失恋に至る過程の中に描いて『それから』『門』に続く三部作の序曲をなす作品である。


読後のとりあえずの感想ですが。
「三四郎」中高生の読書感想文の課題図書的に取り上げられていますが、上述したような表面的な読み方はできるでしょうが、一般的な中高生が深く読むには厳しい作品な気がします。

三四郎や美禰子より広田先生的な年になった自分からいろいろ見えてくるものがありました。
小中学生から見ると三四郎他登場人物はみんな年上になるわけでなかなか客観的に見られませんよね。

地方から大学に入ってしばらくは真面目に講義に出て、段々サボりだすというようなところは妙に現代の大学生っぽくてその辺追うだけでも楽しいのですが、多面的に見た方が楽しめる作品な気がしました。

と書いてきて….「まぁ感じ方は好き好きかもしれない」という気もしだしました。
オヤジ視点だと逆に若者に見えてるものが見えないところもあるかと思います。

老若問わず楽しめ、時代を超えているところが漱石の天才性なのかもしれません。

若いうちに読んだ人には是非オヤジ(もしくは淑女?)になっても読んで欲しいものです。
ただ三四郎のあまりのウジウジ感というか自意識過剰ぶりは女性受けしないような気もしますけれど。

ウジウジ感は女の子に声をかけるのにも基本ウジウジする自意識過剰タイプだった私にはとても共感できました。
基本漱石作品の主人公はウジウジ系ですよねぇ、その辺が漱石作品好きな理由の一つかもしれません。

この感想を書いている時点であだち充の漫画を多く読んでいて(「MIX」 1-8)その影響もあり感じたのですが漱石作品の登場人物、シチュエーションもあだち作品同様結構ワンパターンですね。

本作の広田先生と「猫」の苦沙弥先生、「こころ」の先生、「三四郎」の与次郎と「明暗」の小林かなりかぶります…。
美禰子と「坊ちゃん」のマドンナ、野々宮とうらなりなどもかぶっている気がする。

「三四郎」は田舎から都会に出てきて戸惑いますが、「坊ちゃん」は江戸のにおいを残した東京と田舎の伝統社会、赤シャツを代表する近代との間で戸惑う話ですから「坊ちゃん」の裏返し的作品と考えてもいいのかもしれません。

ワンパターンといえば村上春樹も主人公の性格設定など(海辺のカフカ以降の作品は読んでいませんので何ともいえませんが)ほぼ同じキャラのような…。
一つの「形」で多様な世界観を描き出す…才能なんでしょうか?

さて「三四郎」、冒頭の宿屋での女性との一夜からぐっと読者をひきつけます。
絵的にはタッチの上杉達也がはまりそう(笑)、間違いなく草食系ですね。

その後電車の中での広田先生との出会いに(この時は誰だかわかっていない)なりますが、偶然出会ったこの広田先生が三四郎の東京での生活に大きな影響を与える人になります。

現実ではありえない展開なので、自然主義的立場の人たちは怒りそうですが…。
電車の中で広田先生と出会った辺りからこの作品独特の異世界に入り込んでいることを暗示していると理解しました。
電車の中での広田先生の話が全体のモノローグというか予兆として機能している感じです。

恋愛小説的部分は置いて、九州の裕福かつ優秀な青年がそれなりの自負感を持って帝大生として東京に出てくるわけですが、まじめに授業を受けていても何も得ている感じも得られず集団に埋没してしまう感を得てしまう。

それを解決するには余程の才能に恵まれているのでない限り、普通に考えるとコツコツ努力していくしかないわけですが…。(野々宮氏のように)

周りを見ると余程の才能があるわけでもなく、コツコツ努力しているわけでもないのに与次郎や美禰子のように広田先生いわくの「露悪」的に生きることでなにやら自分の位置を確保しているように見える人がいたりもする。(実際に「ある位置」を確保しているのかもしれない)

そんな「露悪」的な人になにやら魅力を感じながらも、九州の地元の「偽善」的文化からも離れられない三四郎は明治の東京で「ストレイシープ」になってしまう。
一方「露悪」的な与次郎・美禰子もどこかで「偽善」的世界から理解や賛美も欲しくて三四郎についついちょっかいを出してしまう…。

また美禰子はコツコツ努力して光の研究で成果を出しそうな野々宮にも惹かれるわけですが、自分の露悪的立ち位置とは相いれないこともわかっていて、野々宮へのあてつけもあり自分のひとことひとことに反応してくれる三四郎にもちょっかいを出してしまう。
それはそれで「ストレイシープ」な状況ですね。

江戸時代的な変化の比較的ゆるやかな時代ならともかく、明治以降の変化の激しい中で価値観がバラバラになっている状況では社会の普遍的な課題といえるのかもしれません。

狂言回したる広田先生は「偽善」から「露悪」への社会の変化を十分認識し分析しているわけですが世の中や人のために動こうという気はありませんし三四郎に対しても「解説」はしていますが、三四郎の行くべき方向は何も示しません….。

冒頭「ビルディングノベル」ということばを出しましたが鴎外の「青年」と違い作品世界を通して「三四郎」はほとんど成長していないように見えます、まぁ「東京」及び近代に戸惑っているだけです。

ただ与次郎・美禰子のように近代世界になんとか折り合いを付け「露悪」していたり、広田先生のように「傍観」しているだけの人より誠実に今を生きているといえる態度のような気はします。

出番は少ないですが、野々宮の妹よし子も「露悪」でも「偽善」でもないある意味企まない「ながれのまま」に生きています。
三四郎もそんなよし子にそこはかとない好意を持っているようにも見えるのですが、美禰子の態度に戸惑い具現化しません。

最終的に美禰子はよし子のお見合い予定の相手と結婚していますので、三四郎だけでなくよし子に対してもなにやらちょっかいを出してしまう気持ちがあったのかもしれません。
同じ「露悪」でも与次郎のそれは陽性ですが、美禰子は何やら陰にこもった闇があるような...。

漱石という男性作家の描く世界ではあるわけですが、意識において性差(善悪・優劣ではない)はあるわけでこの辺も普遍的な課題ですよねー。

「三四郎」いろいろ考えさせてくれる名作です。

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桜田門外ノ変 上・下 吉村昭著 新潮文庫

2016-07-10 | 日本小説
まだ「SF」という気にならず本書を手に取りました。

吉村昭の歴史小説は高校生時代に結構読んでいたのですが最近とんとご無沙汰でした…。
(2011年に「ポーツマスの旗」を読んで以来)

「しばらくぶりに読みたいなぁ」という気持ちのある中、ブックオフで見かけ108円だったので購入しました。

1990年8月刊、2010年10月映画化されている作品です。

映画化の印象がありもっと最近の作品のイメージだったのですが結構前の作品だったんですねぇ、意外でした。

内容紹介(裏表紙記載)
上巻:
安政七年(1860)三月三日、雪にけむる江戸城桜田門外に轟いた一発の銃声と激しい斬りあいが、幕末の日本に大きな転機をもたらした。安政の大獄、無勅許の開国等で独断専行する井伊大老を暗殺したこの事件を機に、水戸藩におこって幕政改革をめざした尊王攘夷思想は、倒幕運動へと変わっていく。襲撃現場の指揮者・関鉄之介を主人公に、桜田事変の全貌を描ききった歴史小説の大作。
下巻:
水戸の下級藩士の家に生まれた関鉄之介は、水戸学の薫陶を受け尊王攘夷思想にめざめた。時あたかも日米通商条約締結等をめぐって幕府に対立する水戸藩と尊王の志士に、幕府は苛烈な処分を加えた。鉄之介ら水戸・薩摩の脱藩士18人はあい謀って、桜田門外に井伊直弼をたおす。が、大老暗殺に呼応して薩摩藩が兵を進め朝廷を守護する計画は頓挫し、鉄之介は潜行逃亡の日々を重ねる……。


徹底的に史実にこだわる吉村昭作品ということで、桜田門外の変前後の事情が細かく描写されています。
水戸藩と彦根藩の確執、幕閣と御三家たる水戸家の確執などなかなか興味深かったです。
「幕府」とはいえ徳川一家の親類、配下で構成されているんですから、まぁ人材難になりますよねぇ…。
老中やらなにやらといってもまぁ基本中譜代藩のお殿様なのだから非常時の危機管理能力など出るはずもないですよねぇ。

さて物語は主人公に設定されている水戸藩士・関鉄之助の視点から描かれています。

吉村昭の時代物の共通なのですが、主人公はじめ登場人物は標準語で思考し話しているように記述されます。
これは意図的とのことですが((前に著者が何かで書いてあるのを読んだ)雰因気は出にくいですよねぇ。
司馬遼太郎的に坂本竜馬に「ぜよぜよ」しゃべらすのも事態を正確に表すのには向かないとは思いますが....。

言葉も影響しているのか主人公にはそれほど野心や色気がないように感じられます。
その辺も事件を客観的に記述したいという作者の意図を感じます。

まぁそれはそれでいいんでしょうが、実際はどうだったんでしょうかねぇ?

本作の主人公の場合は江戸に妾を囲ったり、最後の逃避行でも水戸藩内の豪商との付き合い方というか癒着というか…お金のもらい方もかなり派手なのでそんなに小人物的な人ではなくてそれなりに野心があったんじゃないかなぁ…という疑問は浮かびました。

野心もないのに命を懸けて国事(藩事)に奔走しなきゃいけない武士階級ってなんだか損ばかりなような....。
大きな歴史的な流れでは「水戸藩」は維新の捨石的な立場になってしまったようなところもあるのでこのなにやら乾いた感じも違和感はないのですが、個々人はそれなりにウェットだったんじゃないかなぁなどと感じました。

主人公、国元の家族は地味な暮らしをしていそうなのに、諸国を旅して結構いいものを食べたりしているので特にそんな感じを受けました。

あと吉村昭の小説には珍しく、維新期の有名人である坂本竜馬がちらっと登場したのが「おっ」と感じたところでした。(ひたすら地味な登場、「ぜよぜよ」いっていません)

維新前後の話は好きなので、吉村昭は本作の舞台の後の水戸藩の動きを描いた「天狗争乱」や「生麦事件」など維新あたりのマニアックなテーマの吉村作品もそのうち読みたいところです。

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MIX 1-8 あだち充著 ゲッサン少年サンデーコミックス KINDLE版

2016-07-03 | 漫画
ふとあだち充の最新作MIXが読みたくなりKindle版で入手しました。

字の本は電子版より紙派なのですがマンガはスペースの関係もありついつい電子版に手が出てしまいます。

最初は1巻だけ読んでちびちびと購入して長く読もうと思ったのですが・・・。

読んでいくうちに先が気になってたまらなくなり結局発売済み(6月末現在)の8巻まで一気に大人買いして読んでしまいました。
この辺は手軽に買えすぎる電子書籍の悪いところ(いいところ?)ですね。

あだち充作品ですがこの「MIX」も含め「H2」以降の作品は読んでいませんでしたが初期のものからけっこう読んでますし(初期短編集を持っている)「ナイン」「陽あたり良好」「みゆき」「タッチ」「スローステップ」「ラフ」「虹色とうがらし」「じんべえ」「H2」は全巻読んでいて、短編も「ショートプログラム」「ショートプログラム2」は読んでいます。

ただ「H2」をオンタイムで単行本を買って読んだ以降「いつも美空」「KATSU」を途中まで買って止まっていたくらいであだち作品最近読んでいませんでした。
(「H2」傑作すぎた?)
好きなマンガ家なんですけどねぇ。

私的には(何の権威もないですが)日本マンガ界で天才と呼べるのは「藤子・F・不二雄」と「あだち充」!!と思っています。

両者ともあきらかに「非日常」な状態をあたかも「日常」として描き読者に違和感を抱かせないで読ませるところが天才だと思っています。
またある意味でのワンパターン性も共通点があります。
(「キテレツ大百科」「オバケのQ太郎」「ドラえもん」もある意味ワンパターンですよねぇ...)

手塚治虫はすごい才能ですがこの二人より多才かつ理に走っているという意味で「天才」でない気がする。

22世紀の猫型ロボットが普通に生活している情景やら、「MIX」のように同日生まれの義兄弟かつ野球の才能が素晴らしく、美少女の妹がいるなどという状況を合理化する説明もなしに読者に納得させてしまうというのは手塚治虫には無理なような…。
(アトムでもその誕生、その後社会に受け入れられるまで紆余曲折いろいろ理屈付け描いています)

さて「MIX」あの「タッチ」の明青学園が舞台の野球マンガです。

内容紹介(ゲッサンHPより)
舞台は明青学園―――
上杉兄弟の伝説から26年、今、再び運命の兄弟が明青学園の扉を開く。
あだち充が描く大型青春野球ストーリー。

2012年にゲッサンで連載開始し連載中の最新作!
タッチと同じ舞台、世界ですが「タッチ」の主要キャラは出ていません。

買う前にAmazonで書評を見ていて「いい」という人と「陳腐なセルフパロディだ!」とひどくけなす人がいてその辺に興味を持ち購入したのですが...。

私は傑作だと思いました。

よくも悪くもワンパターンの野球と美人の妹やら幼馴染やらを巻き込んだ(いつものように犬の名前はパンチ)展開なのですが…本作「どうせワンパターンですよー」という開き直りが激しい。(笑)
その辺の開き直りをどうとらえるかかと思いますが、まじめな人だといやな気分になるのかもしれません。

私はあだち充もすでに65歳ですから「いい感じで枯れてきているのでは」と好意的に受け止めましたし、ストリーやら描き方の様式美的展開になにやら伝統芸能的なものを感じてました。
「様式美」という視点でみると「キレッキレッ」で「凄み」のようなものまで感じました。

といって1-8巻で印象に残ったシーンを思い返してみたのですが…あまりない。(笑)

手慣れた野球の試合の場面は思わず引き込まれてしまうほど読ませますし、ラブコメ的展開も楽しめるのですが、序盤(?)なのでキャラ紹介的な部分が多いのかストーリー的には薄めな印象なので「陳腐なセルフパロディ」という評価もある意味当たっているのかもしれません。

一番印象に残ったのはタッチにも出てきた西村勇のボヤキですから郷愁的なもの、時間経過的なものが強く打ち出されているような気もします。
(ターゲット読者年齢層がオヤジなだけかもしれません)
主人公の立花兄弟、その父母(亡くなった方)の関係性も時間軸の中で今後いろいろ展開していきそうですのであだち充の集大成となる大傑作になって…欲しいなぁ。

まぁこのまま乾いた様式美に終始して終わっても私的には「あり」ではあります。

あだち充の野球長編「タッチ」も「H2」も(「クロスゲーム」は未読)基本的に同じ世界を書いている気がしますが、ヒロイン像は時代に応じて変わって(変えて)きていますね。

その時代の「最先端」からちょっと遅れている感じで描いて安心感を持たせるというか….。
その辺が現代視点で以前の作品を読み返すと古く感じられる理由なのかもしれません。(タッチとか)

ちょっと情けなさもありながらも基本優しく、控えめで、努力家(あまり表にださない)な主人公像は見事に変化がないですがヒロイン像はかなり変わってきます。

タッチの浅倉南はかなりきれいごとの世界かつ新体操で大活躍の絵に描いたようなヒロインでしたが「ラフ」の二宮亜美は身体能力は優秀なもののそこまで超人的ではない。

「H2」の雨宮ひかり、古賀春華はかなり現実的な線で落ち着いています。

今回は….まぁ現実的な線なんでしょうねぇ。
義理の妹(「みゆき」的展開)は明るい性格でそれなりに運動能力は高そうですがそれほどでもなさそう、監督の娘(は「ナイン」の展開だ)は新体操(は「タッチ」だ)をやっていますがそんなに身を入れているとも思えませんし性格も「完璧」というものではない。

とにかくあだち充の(セルフパロディ?)集大成、期待です!!

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人類の足跡10万年全史 スティーヴン・オッペンハイマー著 仲村明子訳 草思社

2016-07-03 | ノンフィクション
スタータイド・ライジングの中で「人類を知性化したのは誰か」というような話がでていました。

トンデモ古代史好きにとっては、世界最古(とされる)メソポタミア文明を起こしたとされ、先行遺跡がなくどこから来たかわからない(とされる)シュメール人を「知性化したのでは?」となるのでその辺ネットで調べていました。

ネット上では「シュメール人宇宙人説」などと魅力的な説がいろいろ展開されていましたが、一番妥当と思われた説は文明勃興期はちょうど氷河期で下がった海面が上がる時期でもあり、海近くで生まれた文明の痕跡が海の下になってしまったのでシュメール人の先行遺跡が見つからないというもの。(日本でいう縄文海進あたり?)

氷河期の一番陸地化が進んだ時期はペルシャ湾などほとんど陸地だったようです。

陸地が海になるのは徐々にではなく氷河湖の決壊などによってある程度一気に海面が上昇することによるそうですからノアの洪水など、チグリス・ユーフラテス由来の神話はこの海進期の記憶が起源という説もあるようです、ロマンですねえ….。
今の教科書では新石器時代の始まりが1万年前辺りとされているようですが海底考古学が進むとこの辺の年代も覆っていくかもしれませんね。

そんなこんな人類の起源が気になるのと、もともとこの手の話好きなこともあり図書館でその辺の本を探していたところ本書をみつけて借り出ししました。

この辺の本は新しさが命だったりするので借りることにしています。

といっても本書訳書出版が2007年8月、原著が2004年7月出版とそれほど新しいものではありません。

内容紹介(表紙折り返し記載)
現生人類はアフリカで生まれた。一度は絶滅しかかったわれわれの祖先は、やがてアフリカを旅立つ。だがその旅立ちはたった一度しか成功しなかったという。なぜか?そしてアジアへ、オーストラリアへ、ヨーロッパへ、アメリカへ。人類は驚くべき速度で世界各地へ拡がっていった。気候の激変、火山の大噴火、海水面の大変動、さまざまな危機を乗り越えて―一体いかにして、どの道を通って、われわれは今ここにいるのか?その足跡はいかなる形でわれわれに受け継がれているのか?遺伝子に刻まれた人類の壮大な歴史を読み解き、化石記録と気候学からその足どりを追う!人類史の常識を覆す画期的な書。


基本的に分子生物学と考古学的(人類学的・遺跡検証)言語学など様々な学問を総合して出アフリカ後の人類の足跡をたどっています。

ネアンデルタール人と原生人類の混血説についてはミトコンドリアDNA解析の立場から「なかった」と一刀両断していますが、その後の遺伝子学の進歩から「ある程度混血はあったのでは」というのが現在の有力説のようです。
その辺が日進月歩の分野の本としては難しいところですね….。
(本書の末尾でネアンデルタール人との混血についてゼロではなかったかもしれないが主流とはなりきれなかったのは確かだろうとの見解は出しています)

私的にはネアンデルタールとの混血説ロマンがあり(あるような気がする?)好きではあります。
今西錦司などは「人類は常に混血可能な1種しかいない説」を唱えていましたね。

基本的には現在主流のミトコンドリアイブ説から話を展開していますが、出アフリカは教科書的にはアラビア半島北部からとなっていますが、本書では氷河期に海面が低くなったときに紅海-現在のペルシャ湾を渡ってから海岸沿いにインド西部で勢力を増しオーストラリアやヨーロッパへ異移動していった説を唱えています。
(オーストラリア到着時期を主流説より早めに設定しているようです)

考古学的証拠的には当時の海岸線が多くは海底になっているので提示が厳しいとしていますが遺伝子学的な根拠で説明しており、まぁ説得力はありました。

素人なのでなにが正しいのか評価はできませんが….、まぁロマンで楽しめましたー。

アメリカ進出なども氷河期の影響は受けており人類の進化に気候の影響大きかったんだろうなぁということもあらためて感じられました。

海底考古学の進歩期待したいところです。

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