しろくま日記

読んだ本の感想を記録してみたいと思います。
なんだか忘れてしまうので。

映画:君の名は。 新海誠監督

2017-01-14 | 映画
正月(1/3)話題の映画「君の名は。」を家族で見に行きました。
8月公開の作品というのに地元のシネ・コンのそこそこ大きな上映会場がいっぱいになっていました。
改めてですが人気なんですね...。

小学校2年の娘には「わかるかな?」と思って連れてくのに少し躊躇したのですが、いろんなところで話題になっている作品だけあって「見た」ということにしたいというのもあったのだと思いますが見たがったので、私も便乗して見にいくことにしました。
(私はとても見に行きたかった)

結果小二の娘も多少は退屈したようですが、それなりに楽しめたようでよかったです。

それほど乗り気でなかった妻も「面白かった」といっていたので万人に楽しめる作品に仕上がっているところが本作の人気の所以なんでしょうね。

私もにわか新海誠ファン(…というか注目をしている人)ではありますが、一応本ブログでも’14年7月にこのブログで「秒速5センチメートル」の感想を書いていますので「君の名は。」で初めて名前を知って書いているのではない…という言い訳はしておきます。

「秒速5センチメートル」を見た後、新海誠監督作品では「ほしのこえ」「雲の向こう、約束の場所」はDVD借りて見ています。
「星を追う子ども」は途中まで見たのですが...どうも内容についていけず半分くらい見てやめました(汗)。
今回これを書くのにいろいろネット情報みていたら「星を追う子ども」は「ジブリ作品を意識していた」ようですが「画的な」アニメーションのクオリティが低く、活劇部分の思い切り度合が中途半端で3流アニメを見ているようにしか感じられませんでした….。

「秒速5センチメートル」はメジャーになりそうな雰因気のある作品でしたが「ほしのこえ」「雲の向こう、約束の場所」はSF的要素が強く、マニアックで万人受けとは思えず、「星を追う子ども」はそこから退歩したかのようなライトノベルもしくは同人誌的SFファンタジー展開にもついていけなさを感じたので「この人はメジャーにはならないだろうなー」と勝手に思っていたので今回の「君の名は。」のあまりの売れっぷりには驚いていました。
「言の葉の庭」は見ていないのですが、それなりに売れたようなのでいわゆる「売れる」アニメ監督に脱皮していたんでしょうか…。

上記含め「君の名は。」がどんな作品なのかとても楽しみで見に行きました。


全体的な感想としてはとても楽しめました。
オープニングで映像と音楽、とても美しく「こりゃいい映画な気がする」という印象を受けました。

もともとの「新海誠」の特徴である映像美、音楽との調和に加え入念なストーリーの作りこみと説明しきらないで観客に想像させる構成、速いテンポで展開し飽きさせないところがそろい、売れる作品になったのではないでしょうか。

テンポについては一つの場面で一番長かったのは、最後 ご神体の辺りで三葉と瀧が探し求め、出会う場面くらいでしょうか。
男女の入れ替わりがテーマの作品なのにお互いが入れ替わっている場面も一つ一つはとても短くBGMを入れセリフなしの場面展開で処理している場面がとても多いです。

一方で重厚感は薄くいわゆる「名作」とか「作品」としての玄人受けする感は薄いかなとは感じました。
音楽もジブリ作品のように久石譲の重厚な音楽を使うのではなく、RADWIMPSですからその辺も軽量感かなぁ。
説明しきらないストーリー展開は「いい点」でもありますが「わかりにくさ」と裏返しでもありますね。

序盤、糸守での三葉の登校場面でのいかにも日本の田舎の景色などはっとするほど美しかったですし、最初に三葉が入れ替わった場面を描かず「あーこの前日入れ代わりがあったんだな」というところから始め、三葉の日常→東京のイケメン=瀧くんとの入れ代りがとてもスムーズでした。
その他全体よく練られた楽しい作品だったと思います。

以下ネタバレ気にせず書きますのでご注意。

すでに見ていた長男(中二)から事前に「主人公二人のIPHONEのバージョンの違いに注目」と時間のズレにつきネタバレ的な話を聞いてしまっていたのでそこがストレートに楽しめなかったのが残念でしたが、IPHONEだけでなく細かいディテールにこだわっている所には感心しました。

瀧くんが腕に巻いている「紐」の扱いなどうまいなぁ…。
「紐」が存在の輪的な位置づけを持ち、瀧君と三葉の縁をつないでいる。

ラストでも三葉は髪に紐をつけていますので、最初の方で三葉が何気なく髪に結んでから映画の時間軸では三葉→中学生の瀧→高校生の瀧3年、糸守の危機で瀧→三葉→ラストまで5年=8年は使われている紐なわけですよねぇ。
最後の5年のうち最初の3年は同じ時間上に存在していることになるわけですが、果たして同時に存在しえたのかどうか...、パラレルワールド的なことなのか?
「存在しえない」とするとラストで二人が出会って認識できるのは「???」なのですが…。

そんな疑問もあり瀧君側はあの紐はどの場面から出ていたのか…もう一度確認のために見たくなりました。
ネット上では何回も見てその辺指摘する人やら、逆にあら捜しする人やらいるようですが、それに耐えるほどよく練られた映像なんでしょうね。

また根本的に「入れ替わっている間に当事者二人は時間のずれに気付かなかったのか?」という問題があります。
もしかしたら入れ替わっている間は気づいていても「戻ると記憶があいまいになる」というところで説明がつくかとも思いましたが...。

瀧君の方が三葉と入れ代わっている間「糸守高校」に通っていて隕石が落ちたことを知識として知っているのに「隕石」と「糸守」を結びつけないところを見ると、入れ替わっている間も気づいていないと思う方が合理的かもしれない…。
なにか完璧な入れ替わりでなく時代に意識がアジャストされる機能をもつというような。

三葉の東京行きの場面は時代の違いに気づいているのか、いないのかで三葉が髪を切る感情が違ってくるのでとても気になりますが…。

そんなこんないろいろ考えさせられました。

三葉の世界で最初に隕石が落ちる所、前後の場面の切り替えもうまいなぁと感じました。

瀧に景色をたくさんか描かせて糸守の美しい景色に思い入れを抱かせた後に隕石落下後の糸守の無残な姿を見せるあたりもぐっときましたー。

最後の入れ代わりから、三葉、瀧、三葉の友人勅使河原、早耶香とで町の人々を救おうとする辺りは若干紋切型かなぁとも思いました。
この辺の奮闘最後に町長を説得する場面はもう少し考えようもあったのかもしれません。

なおこの場面では勅使河原が超常現象部に入っているところ(部室)が興味深かったです…。
「ムー」読んでいる勅使河原くん、ゼネコンの息子でゴツイ顔している割にオタクですねぇ...新海誠監督も地元のゼネコンの家に生まれたらしいのでその辺自身にかぶらせているんでしょうね。
勅使河原の読んでいるものかなにかに糸守の湖がクレーターであることが書いてあり、状況からご神体辺りもクレーターっぽいので糸守ばかいにクレーターが落ちる原因がなにやらありそうな気もしますし、宮水神社とその辺の「運命」的なものがもう少しでてきてもよかったと...。
掌の「すきだ」はまぁ高校生男子はこの程度のものかと(笑)

ラストのハッピーエンドはこれまでの新海監督の「結ばれない」作風からの転向ととらえられているようで賛否両論巻き起こっているようですが「秒速5センチメートル」とほぼ同じような流れで、見ている人はハッピーエンドであることを知っていてもハラハラするでしょう。
「すれ違い」の代名詞の「君の名は」をタイトルで選んでいるわけですからここは思いっきりすれ違いを重ねないといけないでしょうね。

出会いの場面は三葉が年上になっていることをもっと強調するのもありかななどとも思いましたが、まぁ「よかったねぇ」と見ている立場としては「ホッ」としました。
ここで出会えるラストでなかったら現在の驚異的な興行成績はないんでしょうね。

でもまぁ三葉・勅使河原・早耶香の三人、瀧・司・高木の三人とも、他の友達と別に昼食をとっているなど高校の中で必ずしも大勢と溶け込んでいないように見えました。
その辺、本来の新海監督の「マイナー感」の表れなんでしょうね、次作は思いっきりプレッシャーかかるでしょうがどんなものを出してくるか楽しみです。
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最果ての銀河船団 上・下 ヴァーナー・ヴィンジ著 中原尚哉訳 創元推理文庫

2017-01-07 | 海外SF
‘12年ローカース誌オールタイムベスト46位、1999年刊、2000年のヒューゴー賞受賞作です。
wikipediaでヒューゴー賞長編部門の受賞作品を見ていたら前年の1999年は「犬は勘定に入れません」が受賞、本作の世界観の下敷きになっている(?)「遠き神々の炎」は1993年「ドゥームズデイ・ブック」とヒューゴー賞を同時受賞しています。
ヴィンジ、ウィリスと縁ありますね…というか同時代の作家なんですね。(当たり前か)

ちなみに21世紀最初2001年のヒューゴー賞長編部門受賞作はなんとハリーポッターシリーズ第4作『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』う~ん…「SF」なのか?

なお本作も絶版のためamazonで古本を購入、ブックオフで出会う方が運命を感じますが
まぁ効率的ではあります。(比較的ポピュラーな作品ですからプレミアはついていません)

なお「遠き神々の炎」もそうですがライトノベル風の表紙イラストはちょっと作品とイメージ違うような気がします、創元はヴィンジ作品はこのイラストで行くと決めている感じですが果たして???。

上巻
250年のうち35年間だけ光を放ち、それ以外は火が消える奇妙な恒星。その星系には知性を有する蜘蛛型生命が存在していた。彼らの惑星がもたらす莫大な利益を求めて、二人の人類商船団が進出する。だが軌道上で睨みあいを続けるうち戦闘の火蓋が切られ、双方とも装備の大半を失い航行不能に。彼らには、地上の種族が冬眠から目覚め、高度な文明を築くのを待つしか手段がなかった。

下巻
戦争を繰り返しつつ近代化への道を歩む蜘蛛族の世界に一人の天才科学者が現れ、今まさに原子の火を発見しようとしていた。一方、軌道上でエマージェント船団に制圧されたチェンホーたちは長い雌伏の時を過ごす。蜘蛛族世界への侵攻の時がせまるなか、宇宙の深淵で3000年を生きてきた伝説の男が、ついに反撃に立ちあがった!ヒューゴー賞、キャンベル記念賞に輝く、宇宙SF巨編。


「遠き神々の炎」では神仙による復活させられた太古人類の人格として出てきていたファム・ヌウェンが実際に活躍していた時代、光速の限界がある「低速圏」を舞台に描かれています。(我々が暮らす「いま」から未来か過去かは不明確)

この世界での「人類」は銀河中のいろんな惑星に散らばっていて、惑星によっては文明が後退しまったく原始の状態から再進歩していたりするという設定です。

ファム・ヌェン自体もそんな惑星の出身という設定ですし、ヌェンが作中チェンホー時代のいろんな惑星での商売を回想していますがいろんな方向に進歩している人類の姿はなかなか楽しめます、

そんなこんなのお話と250年間のうち35年間だけ光を放つオン・オフ星、そこで進化し生活する生物群・蜘蛛族のファーストコンタクト、対する人類側の恒星間を移動して稼ぐ商人集団チェンホー、貴族的・封建的・全体主義的(?)集団エマージェントとの対立、人間を目的化的に機械化する集中化と仕掛けはいろいろ出てきくるのですが…。

SF的な発想としては本作の7年前に刊行された「遠き神々の炎」の方がレベルが高いというか、ぶっ飛び感があると感じました。

「群体生物」とか銀河の周辺部に行くほど情報やらなにやらスピードが速くなるという発想ほどの飛躍はなかったかなぁ…。

オン・オフ星やら蜘蛛族の星の結晶化石などは太古の宇宙意志(神仙?)的なものがあるような大掛かりな謎が匂わされていましたが回収されない伏線として終わってしまっています。

蜘蛛族と人類の思考形態がかなり似通っていることもなにやら意味ありげでしたが…これまた解決されず終わります。

ただ敵味方・善玉悪玉が図式的に書かれていたので、エンターテインメント的には「遠き神々の炎」よりわかりやすく「これぞアメリカンSF」という感じで楽しく読めはしました。
光速の限界を超えない設定なので、アインシュタイン的時間のズレも効果的に使われ、SF的仕掛けとしてレトロな感もありそれはそれでかえって新鮮ではありました。

人類側では比較的資本主義的なチェンホーと全体主義的なエマージェント、蜘蛛族側では比較的立憲君主制的なアンダーヒル側の国と敵対する全体主義的な暗黒教会側の国と冷戦構造を持ち込んだ対立軸を立てています。
(まぁ冷戦後の世界も似たような対立軸と思えば人類的世界に普遍的なものなのかもしれません)

序盤のアンダーヒルが暗期を克服しようとする辺り、チェンホーとエマージェント船団が航行不能になるくらいまではテンポが速く読みやすいですが、中盤は人類の船団側も蜘蛛族側も膠着状態として描かれていてちょっとだれました。

中盤では人類側の女性 キウィ、トリクシアそれぞれのなんともやりきれない悲劇的な境遇とお坊ちゃんエズルくんの頼りなさにもやもや感がつのります…。
とくにキウィの非道さはなんともかんとも。

蜘蛛族側でも天才科学者 シャケナーのボケボケぶりにもやもやとさせられます。

終盤に入るとそのモヤモヤ感を吹き飛ばすような展開が繰り広げられます。

ヌェンの大活躍と、シャケナーの深謀遠慮、堪能できます!

二転三転はらはらどきどきですが大団円では「モヤモヤ感は」ほぼ解決するのでスカッとします。
特に人類側はご都合主義的過ぎるぐらいの能天気な解決なので「どうかなー?」と思ってしまうほどの大団円です。
特にアンの場合は...苦労した分女性に優しい展開でしょうか?

トリクシアもまぁこれはこれで幸せな結末なのか????「集中化技術」が人類にとって有効なのか?幸せなのか?については一応否定的な結論とはなっていますが、トリクシアの運命を見ているとなんとも言えなくなります。

蜘蛛族の方も人類側が勝手にシャケナー側に感情移入しているわけですが、主観的な価値判断なわけで蜘蛛族的基準に立てばシャケナー・アンダーヒルが「マッドサイエンティスト」でヴィクトリーが軍事的な独裁者というのが真実だったりもするかもしれない…。

そんな風な裏読みもできるのかもしれないなどとちらっと考えました。

過去のチェンホー内でのヌェンの権力闘争の描写などを見ていると何が正義なのか分からなくはなるところがあります。

単純なようでいろいろ「正義」について考えさせる作品なのかもしれませんね。

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