しろくま日記

読んだ本の感想を記録してみたいと思います。
なんだか忘れてしまうので。

永遠の0(ゼロ) 百田尚樹著 講談社文庫 

2019-01-01 | 日本小説
たまには今どきの作品(かつSFでないもも)を読もうかなぁということで本書を手に取りました。

といっても本書2006年刊行ですからそれほど新しくはないんですけれどもね...。

もっとも著者の処女作となる本作ですが、”当初原稿を持ち込んだ多くの出版社には認められず、縁あって2006年にサブカルチャー系の太田出版から書き下ろしで発表された”(wikipediaより)ようで最初は認められなかったようです。
2009年に講談社で文庫化されてから話題になって売れ出したようですのでまぁ一般的には2010年代の作品とも言えますかねぇ。

岡田准一主演の映画が2013年で世の中では話題になっていたようですからまぁ…私の読む本としては新しい部類に入るかと。

今どきの話題になって売れる小説は「面白いんだろうなぁ」という認識は持っていて、本作も気になってはいました。

会社の友人に数年前「おもしろかった!」とも進められてもいましたし…。
ただ「みんなが読む小説を同じタイミングで読みたくない」という天邪鬼な面もあったりして読むのがこのタイミングとなりました。

本は今
年ブックオフで108円で購入しました。(まぁ入手も安くなりますし)

本作の著者百田尚樹氏、2012年以降最近までいわゆる「右より」な発言で物議を醸しています。

「作品」と「作家」は関係ないとはいえ本作のように、太平洋戦争を題材にしたセンシティブな作品だと一定のイメージがつくのは否めない気がします。(なお私の政治スタンスは…ノンポリです(笑))

そんなこともちょっと時間を置いて読むと客観的に作品を見られる(もしくは偏見?)ということかなぁと思ったりしています。

内容紹介(裏表紙記載)
「娘に会うまでは死ねない、妻との約束を守るために」。そう言い続けた男は、なぜ自ら零戦に乗り命を落としたのか。終戦から60年目の夏、健太郎は死んだ祖父の生涯を調べていた。天才だが臆病者。想像と違う人物像に戸惑いつつも、1つの謎が浮かんでくるーー。記憶の断片が揃う時、明らかになる真実とは。


とりあえずの感想、よく売れたのがよくわかりました。
構成がとてもうまく先が気になりどんどん読み進めてしまい最後は涙もウルウルしました。
(歳とともに涙腺ゆるくなっています。)

今どきの小説はやはり面白いですね。

ただ…これが20年、30年持ちこたえられるかどうかは時代経ないとわからないですが。

本作ほどの作品だと現代の空気感を反映していわゆる「受ける」書き方を十分研究して書かれていると思います。

良くも悪くもそれが「今」読むとアドヴァンテージにはなってはいるかと思いますがそのアドヴァンテージが抜け落ちてからも価値が残るかどうかがいわゆる時代を超えた名作かどうかの分かれ目と思います。

まぁなかなかそんな作品はないのも事実なんですけどねぇ。
(読む人の年代にもよりますし)

本作は前述のとおり、孫がゼロ戦乗組員であった祖父の足跡を関係者のインタビューでつないでいくという構成で、最初は「とんでもなく情けない人」という印象の祖父の真実の姿が明らかになっていくところなどなんともうまい!!

インタビューそれぞれが独立した話になっているので連作短編っぽくなっていて「感動」させるには一番向く構成ですね。
(SFでいえば「火星年代記」「都市」などなど)

まぁ逆にいえばいかにも「感動させてやろう」というのがあざといとも言えるんですが...。

また登場人物も割とわかりやすい人が多く単純明快(最後の方に出てくるやくざの大物など特に)で類型的過ぎるかなぁとは感じましたが…。
いわゆる「文学」な作品ではなく「面白さ」重視かと思うのでこれはこれでいいんでしょうね。

著者は本作が処女作なわけですが放送作家経験が生きていたんでしょうか、とても達者です。
そう考えると場面場面「映像的」な表現のような気もします。

太平洋戦争の各局面、航空隊の実態などもかなり取材、調査した感もあり戦後70年経った2006年に出された本書は太平洋戦争の実態(の一部)を広く知らせるという意味でも意義深いものかと思います。
(私は結構太平洋戦争もの好きでその手のもの昔よく読んでいました。山本七平だったりしたので若干偏っていますが)

ただ主人公(現代の方)の姉の婚約者の新聞記者(左系想定と思われる)の造形はいかがなものかなぁ...とは思いました。

この著者の作品は本作しか読んでいないので著者に対する評価はなんともいえませんが、本作とてもおもしろかったです。

とくに「おじさん」泣かせと感じました。
お薦めです。

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ながい坂 上・下 山本周五郎著 新潮文庫

2018-11-16 | 日本小説
前にも書きましたが、本書、個人的にとても評価の高い作品です

山本周五郎作品は父親が好きだったこともあり、小学校高学年頃からちらちら読んでいました。

「武家もの」「人情もの」の時代小説短編が代表的な作品ということになるんでしょうが、長編もNHKの大河ドラマになった「樅の木は残った」や、連作短編になるかと思いますが黒澤明が映画化した「赤ひげ診療譚」などもそれなりにポピュラーです。

他、黒澤明監督の「椿三十郎」の原作が「日々平安」、最近でも2000年に「雨あがる」が映画化されたりと多くの作品が映像化されています。

なお「赤ひげ診療譚」はとても好きで中学生から高校にかけて何度となく読み返しました、最近では10年前くらいに読み返したような....。

そんなこんなもあり「私的日本小説番付」では「赤ひげ診療譚」「大関」です。

以下「文学賞メッタ斬り!」の直後ということでその辺の話題です。

「山本周五郎」文学賞嫌いですべての賞を辞退していたようです。
直木賞(17回)も辞退しており、現在まで唯一の直木賞辞退者だそうです。

まったくの余談ですが...。
前述の関連で「直木賞受賞作」wikipediaで眺めていましたが一貫性がないように見えます。

作品に関わらず文壇の「中堅どころ」の大衆小説作家に授賞する賞と思えばある程度納得いくラインナップなのですが...。
・第85回(1981年上半期) - 青島幸男「人間万事塞翁が丙午」
・第86回(1981年下半期) - つかこうへい「蒲田行進曲」

「ベストセラー」でしょうが....「作家」としてはどうだったんでしょう?。
この辺に受賞させるなら筒井康隆あたりに受賞させてもと思うのですが....。

その一方で当時20代で「大衆小説作家」と思えない山田詠美(第97回(1987年上半期)「ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー」)が受賞しています。

山本周五郎賞の方は第1回の山田太一「異人たちとの夏」がちょっと「???」ですが受賞者・受賞作のラインナップ見ると一貫性があるように見えます。(全体的にミステリー色かなり薄め、SF色は皆無なのは残念ですが...)

第7回(1994年)の久世光彦「1934年冬-乱歩冬」などはTVライターの久世氏ですが渋い作品です....。
そもそも文学賞嫌いだった人の名前を「わざわざかぶせる」いうのもどうかというのもありますが....。

さて本書、1964年6月-66年1月まで週刊新潮に連載されていた作品。

1967年2月に著者は亡くなっていますので最後の長編作品となります。
解説にもありますが「集大成」といってよい作品であり、精神の「自伝」ともいうべき「思い」をありったけたたきこんだ作品です。

私が本書を初めて読んだのは20代中盤から終わりくらい(20年くらい前)かと思います。

典型的なビルディングスロマンなのですが当時の私には響くものがあり本作品が私の中の一部に今でも確実に残っているのではないかと思っています。

良くも悪くも「思い」が過剰気味に入り込んでいる作品ですので好き嫌い分かれるかもしれません。
私も「小説」として客観的に評価すると「赤ひげ診療譚」の方が上だと思っていますが、不思議な魅力のある作品で折につけ読み返したり、人に勧めてきたりしています。

最近勢いで会社の若者に本書勧めてしまったので改めて読み返しました。(10年ぶり)

読んだのは手持ちの新潮文庫 旧版です。

内容紹介(裏表紙記載)
上巻:
徒士組という下級武士の子に生まれた小三郎は、八歳の時に偶然経験した屈辱的な事件に深く憤り、人間として目ざめる。学問と武芸にはげむことでその屈辱をはねかえそうとした小三郎は、成長して名を三浦主水正と改め、藩中でも異例の抜擢をうける。若き主君、飛騨守昌治が計画した大堰堤工事の責任者として、主水正は、さまざまな妨害にもめげず工事の完成をめざす。
下巻:
異例の出世をした主水正に対する藩内の風当たりは強く、心血をそそいだ堰堤工事は中止されてしまうが、それが実は、藩主継承をめぐる争いに根ざしたものであることを知る。”人生”というながい坂を人間らしさを求めて、苦しみながらも一歩一歩踏みしめていく一人の男の孤独で厳しい半生を描いた本書は、山本周五郎の最後の長編小説であり、周五郎文学の到達点を示す作品である。


今回の再読も「巻を措く能わず」で一気に読んでしまいました。
特に前半の主人公が勉励刻苦を重ね成長、成功していく部分は読みやすいので速かった....。

あらためて自分が「ベタな成長小説」好きなんだなぁと認識しました。
(三浦綾子の「泥流地帯」などもこのパターン???)

一方で私的には「山本周五郎は永遠」なイメージがあったのですが、今回読み直して「さすがに古いかなぁ」と感じる部分はありました。

江戸時代的(戦前的?)価値観、道徳観が前提となっているんですが、特に「女性観」などは今の時代と相いれないかなぁと感じました。

また「殿様」に対する盲目的「忠義」、硬直的身分制度などもなにも説明なく「すー」っとは入っていきにくいかもしれません。
(会社の若者からもそんな感想....)
説教くさいのもどう受け止められるか....価値観を押しつけているわけではないんですけどね。

その他、今回読み直して改めて思ったこと。

前から思っていましたが「善悪」「正しい・正しくない」は「見方と立場の問題」がテーマ。
主水正及び藩主と対立する側も一生懸命やっているので....。
価値感の相対化なわけですが…これがひたすら繰り返されます。
飽きる人は飽きるかもしれません...。

これまた「人間とは?」をびたび自問していますが...まぁ答えはないですよねぇ、これまたしつこく繰り返されます。

連載小説ベースなので「連載しているうちに都合が変わったのかなぁ」という感じで内容がつながっていないところがある。
代表例は冒頭出てくる江戸からきた信田氏、結局ほとんど登場せず終わっています。
事件に対して主人公の視点と「別の動きがある」というようにしたかったんじゃないかと思うのですがまぁ真意は謎ですね。

ただ主水正が城代家老になる、滝沢兵部が堕ちた上で最後に救済される。
「つると主水正は結ばれる」辺りの設定は書き出しから決まっていたのかなぁという気がします。
ただ滝沢兵部は救済されるか???なまで堕ちるわけですが...最後の救済はちょっと書き込み甘いかなぁと感じました。
作者も最後の最後迷ったのかもしれません。

その一方で最初小三郎の「師」として「凛」としていた谷宗岳の壊れっぷりは見事です。
上巻で死んでしまうかなぁとか持ち直しそうな感じもあったのに...。

こちらの方は当初の想定になく、筆の流れで壊してしまったのかなぁという感じです。
人間壊れると持ち直せないというのを滝沢兵部と対応して表現したかったんですかねぇ。
小三郎=主水正も老いれば変わる可能性もあることの暗喩でしょうか...。

師筋の米村青淵、小出方正も巻を追うごとに衰えてますし...。

その辺の師匠に対する態度も冷たい主水正ですが、肉親に対する「冷たさ」は異様だなぁ...と感じました友人・妻(愛人)にもそれなりに冷たいのですが肉親=親・弟に対する冷たさはすごい。

儒教道徳としては「忠」とならぶ「孝」の部分まったく欠落しています。

立身出世しても情に流されないためには必要な冷たさかもしれないのでしょうかねぇ。
または「完璧」な人間などいないということでしょうか?
もしくは山本周五郎自身「肉親」と何か葛藤があったのでしょうか?

主水正の妻「つる」の見事なツンデレぶりは相変わらずよかった...。
下巻の重めな展開を明るくしています、こちらは随所に伏線はっていましたし。

エンターテインメント的には、藩主の謎をミステリータッチで解いていくという面もありますが、これまた今どきの人にはピンとこないだろうなぁ。

江戸時代でも藩は「血」ではなく、結び付けられた「縁」でつながるイメージなのでここまで「血」の部分には違和感なかったんじゃないかなぁとも思いますし。

等々いろいろ書きましたがいろいろ考えさせられる小説であることは間違いなく、また10年位後に読み返すことになると思います。

最後に。
冒頭、先代城代家老の滝沢主殿のことばとして紹介される「正しいだけがいつも美しいとはいえない、義であることが常に善ではない」まぁ当たり前といえば当たり前の言葉なのですがこれをどう受け取るかは人それぞれですね...。

↓中高…でなく忠孝、チュー公…日本語難しいですねぇ???よろしければ下のバナークリックいただけるとありがたいです!!!コメントも歓迎です。
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同時代ゲーム 大江健三郎著 新潮文庫

2018-08-14 | 日本小説
本作まぁ普通に考えると「SF」ではないのでしょうが....。

1979年の発刊で、発刊当時世間的に不評であったため、本作を高く評価していた当時日本SF作家クラブの事務局長の筒井康隆が本作に受賞させようと「日本SF大賞」を創設したという話があります。(wikipediaー日本SF大賞)結局第一回は小松左京が強く推す「太陽風交点」が受賞しましたが、第二回は井上ひさしの「吉里吉里人」が受賞と、ジャンルとしての「SFにこだわらない」姿勢は貫かれた感じです。

「太陽風交点」の受賞はその後早川と徳間の抗争の基になっていますし、「吉里吉里人」に受章させるくらいなら、もっと他の作品を評価した方が後のSFの発展につながったような気もするので成り立ちからこの賞ジャンルSFにとってどうか?という気がしますが...。

と余談はともかく、昨年後半日本SFに凝ったからみもあって前述のような展開にも興味を持ち本書を手に取りました。

あとは大江健三郎くらい多少は読んでいないと、小説について「偉そうな(?)こといえないなー」という感もありましたー(大江作品は「万延元年のフットボール」を昔読んだだけ、こちらは世評も高いですが私も読んでとても面白かった記憶があります。)

本自体は「読まなきゃなー」という感があり10年位前に古本屋で入手済み。


内容紹介(裏表紙記載)
海に向って追放された武士の集団が、川を遡って、四国の山奥に《村=匡家=小宇宙》を創建し、長い〈自由時代〉のあと、大日本帝国と全面戦争に突入した!?壊す人、アポ爺、ペリ爺、オシコメ、シリメ、「木から降りん人」等々、奇体な人物を繰り出しながら、父=神主の息子〈僕〉が双生児の妹に向けて語る、一族の神話と歴史。特異な作家的想像力が構築した、現代文学の収穫1000枚。

とりあえずの感想としては....。
ものすごい「面白い」とは言えない作品でしたかねぇ。

本書は四国の山奥の<村=国家=小宇宙>の歴史を語るべく、父=神主ののスパルタ教育を受けた語り手「僕」が第一部ではメキシコから、第二部以降は東京から<村=国家=小宇宙>にいる妹へ向けて、<村=国家=小宇宙>の歴史をつづった書簡の形の形を取っています。

第一の手紙はプロローグ的なもの、、第二の手紙で<村=国家=小宇宙>(しつこいですが本の趣旨にそいます....)の神話的な部分が語られます。

神話の部分がかなり長く感じたのですが....(イメージ半分くらい)見直すと意外と短いんですね。
<村=国家=小宇宙>の「藩」からの離脱、創設の物語、創設者たる壊す人の不死性、巨大化したという伝説、それに対峙した女性オシコメの伝説などが語られます。

第三の手紙は江戸後期~幕末あたりなのでまぁ歴史とも民話ともつかない感じ。

第四の手紙は第二次世界大戦直前、第五の手紙が主人公の家族をめぐる話、歴史...というか近所のホラ話に近い感じ。

第六の手紙が僕と父=神主の関係外来者と「村」、外来者たるアポ爺、ペリ爺と国家権力とそれを守らない「村」のリアルなお話。
そして「神話」「民話」「歴史」「ホラ話」と実際の「僕」とみたところの着地点というお話かと思いました。

まぁ、つまらないということもなくそれなりに読めるのですが、全体的に「旧い」感じがしました。

wikipediaでも
本作”文化人類学者の山口昌男の著書を下敷きにして書かれている。”と記載されていますが、この山口昌男氏が著作を発表してるのが1970年代。

「民族学やら神話に隠された真の歴史を読み解く」というような話が世の中でそれなりに一般化しだした時代だったのかなぁと。

「騎馬民族国家」が1967年、70年頃は邪馬台国ブームでしたし、高木彬光の「邪馬台国の秘密」が1973年。
松本清張るが古代史に興味を持ちだしたのも70年代、80年代前半まではそんな話がはやっていたような記憶があります。(高木彬光「古代天皇の秘密」は1986年。)

私もその辺の話好きなので当時いろいろ読んだ記憶があります。
そんあこんなもあり新鮮味を感じないのかもしれせん。
(最近の流行りは信長辺りの頃のヨーロッパ陰謀説、幕末期の幕府の当事者能力見直しというところ?)

また本書「民話」「神話」を「本当にあった歴史」として叙述していくという意味で、パロディでありそういう意味では斬新なんでしょうが...。

パロディとしては筒井康隆や清水義範の作品の方が徹底していて今読んでも楽しめそうな気がします。(「筒井順慶」とか「蕎麦ときしめん」とか、今読んで本当に楽しめるかは読んでないので???ですが...)。

政治思想的なもの、父子関係、土俗的意識と都市文化の対立、第二次世界大戦の意味、戦後の時代転換といったテーマがうっすらとではなくかなり鼻につくように思われるのがなんだか1960年代的で当時(1979年)としてもちょっと旧く感じられたんじゃないかと思うのですが....どうなんでしょう?

冒頭記載の通り文壇の一部からは本作ずいぶん不評をかったようですが...。

ほぼ同じテーマでのちに(1986年)著者は『M/Tと森のフシギの物語』を執筆した(MはMatriarch=オシコメ、TはTrickster=壊す人を意味するようです。)くらいですからこのテーマそうれなりに入れ込んでいたんでしょうね。

機会があればこちらも読んでみたいところですが....ずいぶん先かなぁ。

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慶應本科と折口信夫- いとま申して2 北村薫著 文春文庫

2018-06-17 | 日本小説
SFが続くと違うものが読みたくなるので本書を手に取りました。

北村薫の「いとま申して三部作」の第二部となります。

第一部の「いとま申して 「童話」の人びと」を読み終わった段階で本書が単行本で発刊されていたのは認識していました。
でも単行本を買うまでの情熱がなくで...文庫が出たら買おうと思いながら忘れていたのですが最近ブック・オフで見かけて購入しました。

購入したのが「無限の境界」を読んでいる最中だったので珍しく入手してから時間空けずにの「読み」となりました。

北村薫作品では「円紫師匠とわたしシリーズ」の「太宰治の辞書」も「文庫出たら買おう」と思っていたのですが、現時点でも未入手なのが気になっています。
(ぼちぼちブックオフで出ていますが新刊で買おうと思っています)
こちらは単行本は新潮からで出ているのに、文庫が創元推理文庫からというのがなんとも北村薫らしいというか....もしくはなにか出版界の事情があるのか....。

また本記事を書くためちょっと調べたら、どうやら4月に「小萩のかんざし-いとま申して3」が出ているようです。
本書を読むのに「いとま申して」を読んでからかなり経っていて(2015年に読んでいたので3年くらい)人間関係などを忘れていて入りこむのに大変だったので「早めに読んだ方がいいかなぁ」とは思うのですが....。
やはり単行本を買うまでには至らないかなぁです。

内容紹介(裏表紙記載)
昭和4年。著者の父・宮本演彦は慶應の予科に通い、さらに本科に進む。教壇に立つのは西脇順三郎や折口信夫。またたびたび訪れた歌舞伎座の舞台には、十五代目羽左衛門、五代目福助が・・・・・・。父が遺した日記は、時代の波の中に浮かんでは消えていく伝説の人々の姿を捉えていた。<本の達人>が描く小さな昭和史。


前述もしましたが前作を読んでしばらく経っいたので家族構成やらなにやら忘れていたので入り込むのに若干苦労しました。
本作単独でもまぁ問題ないとは思いますが「いとま申して」を未読だと入り込むのに苦労するかもしれません。

「いとま申して」の感想にも書きましたが、近親者の日記を基に、周辺情報を調べて書き込んだり、自身(この場合息子として)の所感を書き込んだ形は星新一の「祖父・小金井良精の記」と重なるところがあります。

「業績」中心でなく「生活」の視点から日記を書いた人物の行動やら考えを追っていくスタイルでしみじみ楽しめました。

本書中、”星新一「きまぐれ暦」より引用”という記述もありで、北村薫自身もある程度「祖父・小金井良精の記」を意識はしていたんじゃないかと推察しています。

小中学生時代まだ新作の単行本が発刊され読んでいた「星新一」が時代を帯びてすらりと引用されるということは....自分も年を取ったんだなぁなどと感慨深かったです。

お話の方は弟の死、卒論の苦労など山場の話はありますが、主人公かつ北村薫の父である宮本演彦の慶應本科での昭和初期の学生生活が中心に描かれています。

著者自身も序で書いていますがこんな形でとらえた作品はあまりないかと思うので、昭和初期やら歌舞伎やら民俗学やらが嫌いでない人は楽しめると思います。

私自身、昭和初期も歌舞伎も民俗学も詳しくはないのですが....嫌いではないので楽しめました。
民俗学については本書に登場し名著とされる「花祭」是非読んでみたいものです。

なお民族学に関する個人的所感ですが、最近地元の神社の祭礼の手伝いなどちらちらやっていて思うのですが、祭礼のスタイルやらは「人」につくので移ろいやすいのではないかなぁと思っています。

昭和初期辺りはまだまだ江戸辺りまでのスタイルが残っていたのでしょうが、それがそのまま中世・古代までさかのぼれるのか....疑問な気はします。
その辺は地名も言葉もですが....。(まぁ素人の所管です)
と言って「文書」により現れる「歴史」だけではなく、人々の「暮らし」や「伝承」に着目する民族学の必要性を否定するわけではないのですが...。
そういえば「君の名は。」の三葉の父親も民族学者でしたねぇ。
私も小学生頃民族学にちょろっと憧れ柳田国男の著作「遠野物語」やら「海上の道」などを背伸びして読んだのを思い出しました、当時の私には難しくて苦痛でした...、今読んだらどうなんだろう?


他、「歌舞伎役者」をめぐる考察などは芸談として楽しめますし、卒論のための「吾妻鏡」を古書店を回ってそろえる辺りの考察など、読んでいていろいろなことに思いをはせるような記述もあり楽しめました~。

また比較的「裕福な家庭」であった宮本家が財政的なひっ迫していく様が作品通じて背景として全般に流れており「どうなるのかなー」というはらはら感がありました。

といっても倹約しようとしながらもそれほど倹約するわけでもなく、ガッツリ働くことに現実感のない演彦青年、時代とその当時の裕福な家の青年の気分としてはわかります。

私も、単行本買えないわけではいのですが...ちょっとした倹約で買っていません。
他でずいぶん無駄遣いしているのにねぇ。(笑)

まぁ単行本買わないのはスペースと通勤時の読みやすさの問題もあるのですが。
「小萩のかんざし」は文庫が出たら早めに買おう。
三部通して読みなおしたいような気もします。

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額田女王 井上靖著 新潮文庫

2017-09-09 | 日本小説
SFが続いたので少し息を入れようかなぁ(?)ということもあり手に取りました。

言の葉の庭」映画版ではヒロインの雪野先生が読んでいる本として大写しされ(たと思う)「小説 言の葉の庭」では雪野先生の愛読書として登場場面に大きくクローズアップされ本作が引用されています。

そんなこんな気になっていたところブックオフ108円棚で見つけて入手しました。

本作は「サンデー毎日」に1968年1月7日号から1969年3月9日号まで連載され、単行本は1969年12月に毎日新聞社より刊行されています。

井上靖氏は戦前(1936年)から作家活動をはじめ、戦後から活発に活動し1980年代まで続く執筆キャリアですが比較的後期の作品といえるでしょうかねぇ。

「闘牛」で1950年芥川賞を受賞していますが、「純文学」でもなくいわゆる「大衆小説」でもなく「中間」的な位置の独特な位置づけにあった作家かと思います。
「敦煌」や「天平の甍」は割と大々的に映画化されていますし「氷壁」等映像化され話題となった作品も多くあらためて考えてみるとポピュラーな作家だったんだなぁと思います。

私と井上靖氏作品ですが高校生あたりで「敦煌」と「あすなろ物語」を読みました。
「敦煌」はほぼ冒険小説として読んだ感じでしたがすごく面白かった記憶があります。

記憶があいまいですが、1980年にテレビ朝日で放送された「蒼き狼」が面白かったのもあり中学生くらいに「蒼き狼」も読んだ記憶があります。

「あすなろ物語」は藤子不二雄の「まんが道」で「あすはひのきになろう」の言葉がでていて印象に残っていて手に取った記憶があります。
自伝的話は好きなのでこれまた楽しく読めましたが….その後「風濤」を入手して、冒頭入り込めずで挫折し著者の他の作品を読もうという気にならなかった記憶があります。

1996、7年頃山登りに凝っていたので「氷壁」も入手して読もうと思ったのですがこれも挫折していました….。

ということで読み始めるまで期待と不安が入り混じった気分でしたが….。

内容紹介(裏表紙記載)
大化改新後の激動する時代、万葉随一の才媛で“紫草のにほへる妹”とうたわれた額田女王をめぐる大ロマン。朝鮮半島への出兵、蝦夷征伐、壬申の乱……と古代国家形成のエネルギーがくろぐろと渦巻く中で、天智・天武両天皇から愛され、恋と動乱の渦中に生きた美しき宮廷歌人の劇的で華やかな生涯を、著者独自の史眼で綴り、古代人の心を探った詩情ゆたかな歴史小説。


読後の感想、前記で「不安」と書いたのはまったくの杞憂でした。
とても楽しく読めました。
終盤読み終わるのがさびしくなったくらいでした。

大化の改新直後から壬申の乱までの激動の時代を描いています。

私は高校でも日本史選択でしたし日本史はそこそこ得意な方でしたが、この時代は都が点々とし、大きな事件だけでも大化の改新・白村江の戦い・壬申の乱と事件が多すぎて登場人物やら事柄を覚えるだけに終始してしまっていました。
今回本作を読んでこの時代をまるで同時代かのように認識することができて非常に身近に感じることができつようになりました。

中大兄皇子が田中角栄的な与党の実力派幹事長のように書かれているのが違和感感じる人には感じるでしょうけども,,,。(笑)

時の実力者、蘇我入鹿を殺してその一派を追い込んで「権力を握る」というのは現代の「天皇」像と相いれないわけですが、まぁ事実(真実)かどうかはともかく「歴史」ですからねぇ。
(日本書紀の記述や「大化の改新」が本当にあったのかどうか現在ではいろいろ説が出ているようです。)

本作では唐の制度にならって「日本」を強い国にしようと強い意志で豪族の力を奪い中央集権化を進め税制やらなにやらを整備していく中大兄皇子と中臣鎌足の姿が描かれています。

そのため中大兄皇子は天皇にならず皇太子に留まり豪族やら税に苦しむ民衆の恨みが直接的に来ないようにしています。
その上、傀儡としていた孝徳天皇と不仲になったら、せっかく遷都したばかりの難波の宮も見捨てて飛鳥に戻り、孝徳天皇が亡くなっても自分が立たず皇極天皇を立てたりと相当ひどいのですが…。

権力確保「だけ」のためならこんなことできないでしょうし、ここまで無茶すれば人もついていかないでしょうからまぁ求心力のあった人だったんだろうなぁと思わせます。

諸制度を整えかけたところで友好国百済が新羅に侵略されれ朝鮮半島に出兵して白村江の戦いでボロ負けして逃げ帰ってきます。
その上折角作りかけの飛鳥の宮を放棄してまったく田舎の大津宮に遷都して求心力を保つため天皇に即位….。

そんなこんなの間、最大の協力者である弟の大海人皇子の娘まで生んでいる額田女王を取り上げ情事を重ねるエネルギーは感嘆しますね。

大海人皇子は中大兄皇子に対する圧力を和らげる比較的「善玉」の役割となっているので、作中の中大兄皇子の「悪役」をいとわない迫力と比べると魅力的には少し落ちるように描かれています。

と、こんな風にこの時代を「同時代」かのように描いている空けですが、「敦煌」でもそうですしたがこの辺の能力の高さは井上靖の特長なんでしょうね。

同じ時代(白村江の戦い~壬申の乱)あたりを手塚治虫が「火の鳥 太陽編」で描いていますが本作の方が臨揚感ありました。

この激動の時代の中、宮中の神女として神の声を伝える「歌」を作る立場の額田女王は大海人皇子の娘を産みながらも、中大兄の求めにも応じ、その上でどちらの庇護も受けず「神秘的な歌人」の立場を守り通すわけですが….。

教え子にいじめられて引きこもってしまう「言の葉の庭」の雪野先生はどんな気持ちで本作読んだんでしょうね....。
「絶世の美女」で「歌」を愛することは共通でもそんなには強く生きられない…。

本作の「額田女王」男性作家目線で描いているわけですが女性目線で見て「額田女王」どう評価されるのかは気になりました。(「雪野先生」も男性・新海誠の妄想ですしね。)

ところどころ額田女王が歌を詠みますが古代は「歌」で奮い立つこともあったのかなぁとなにやら納得してしまう展開でした。

百済へ出兵のため九州に移る途中の松山出港の際詠んだ、
「熟田津(にきたつ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕(こ)ぎ出でな」
場面といい中大兄皇子との関係性といいしびれました….。

これに比べると、大津の都の標野での歌会で読んだ大海人皇子と天智天皇との三角関係をうたったとされる
茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」(額田女王)
紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも」(大海人皇子)

の場面はは迫力落ちる気がしましたが…。
この後、額田女王と大海人皇子の娘、十市皇女が大友皇子に嫁して、天智天皇没後壬申の乱が起こり....。

とドラマティックな展開でラストを迎えます。

「この通りのことが起こった」などという根拠はまったくないわけですが、「こんなこともあったかなぁ」もしくは「話としては面白いなぁ」と歴史を題材にして物語化された世界に浸る幸せな時間を過ごせました。


↓中大兄すげー...と思われた方、その他の方も、よろしければ下のバナークリックいただけるとありがたいです!!!コメントも歓迎です。
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