きぼう屋

生きているから生きている

ご一緒に

2008年07月29日 | 京都寄り添いネットのお知らせ
8月2日(土)

☆鴨川と御所のパトロール☆

午後1時までに教会集会室集合



8月4日(月)

☆炊き出し―暑い夏を乗り切ろう!焼肉丼大会―☆

昼11時40分までに教会集会室集合



以上よろしくお願いします



二日後

2008年07月28日 | 教会のこと
今日はとっても身体が重たいのでございます

二日前の土曜日
明石教会の草刈をしまして
ごみふくろ200枚分の草を刈ったわけですが

真夏の炎天下
崖にある雑草を
刈っては集めて

ふらふらになりまして

でもおととい昨日は
疲労感はありつつも
そんなにたいしたものではなかったのですが

二日後の本日

どっ!ときました

そういう歳になったというわけです



昨日はそのまま明石教会の礼拝で説教でした

明石教会からは瀬戸内海と明石大橋が一望できます
また海からの風をうけながら
クーラーなんぞはいらない会堂で
礼拝でございまして

なんとも粋なものでした

礼拝後食事の交わりもいただいて

そして京都に帰ります

時間にして1時過ぎ

今から急いで帰れば
まだ京都教会のみんなに会える!

というわけで
まっすぐ帰りまして

京都のみんなに会うこともできました

とくに

京都教会の礼拝説教をお願いした石居前牧師が
決して体調が万全でなかったので
その日のうちに会いたかったわけでもあります


その後は
鴨川にもぐっている子どもたちに合流


というわけで

本日は
バテバテですが
しかし
明日までには回復しないと
大変なことになります

明日からのことは
また後日ご報告

平和の旅in広島の報告の続きも
また後日

ではでは


平和の旅in広島 その六

2008年07月25日 | 教会のこと
さて
袋町小学校を出ましたら
そこから徒歩2分ほどの
旧日本銀行へ行きました

中身はすべて燃えてしまったけれども
外側はそのまま残っているというものです


中に入りましたら
高校生たちがいろんな絵を飾りつける作業をしていました

思わず

どういう集まりなんですか

と聞いてしまいましたが


広島高校生ナントカカントカ
(カタカナがついたグループでした
 なんだったか忘れてしまいました
 ごめんなさい)
でして
平和と人権を考えている広島の高校生のグループなんですが
まだ平和や人権と出会っていない高校生のために
自分たちで平和や人権を絵で表現して
それの展示会をするんです

ということでございまして

わたしは
日銀のことはふっとんでしまいまして

こういう高校生たちの活動の
活き活きとした姿に
惚れ込んでしまいました

そして希望をいただきました

このブログで何度も言っておりますが

今の若者はなかなかやりまっせ

メディアとか
えらい大人たちは

若者がだらしなくなったとか
勉強できなくなったとか
人を殺すようになったとか

好き勝手言うけれども

わたし
きっとそのあたりは
今も昔もそうそう変わっていないと思います

ただ
だらしないけれども
ある一定の場ではきちんとしないと
それこそ暴力的な対応をされるという
社会の雰囲気があったのだろうと思うし

人を殺す若者の数は
メディアの網が大きくなった今と
そうでない昔では
同じように数が出てくるはずもなく

昔も今と変わらないくらい
殺しはあったのだと思います

勉強が出来るかどうかも
ものさしが何かで
出来るともなるし
出来ないともなるわけで

ほんとに一斉テストなどの結果が
客観的なデータになっているかというと

そんなに簡単な話ではないと思っております


ってな感じで
高校生がここまでの大きな展示会を企画できるというのは

なにしろ
えらい
わけです

ハートフルな絵がたくさんありました
全部が展示されたかたちで
もっとしっかり見たかったあ

なにより
みんなすごくいい顔でした

いとおしい顔をしているんです


そうそう

今回この旅に一緒にいくことができた
おじいさん
おばあさん
おじさん
おばさん
おにいさん
おねえさん
おぼっちゃん
おじょうさん

見事にみんな

とってもいとおしい人たちで

このいとおしさって何なのでしょうねえ

なんか胸からおなかのあたりが
ぞわぞわってするでしょう?

内臓からして喜ぶみたいですねえ
いとおしい人たちと一緒だと

とまあ

平和を愛するというのは

こういういとおしさという感触を
生み出すようです

悲痛をいとおしさが包み込むことを
体が知っているわけだし・・・



こういう高校生たちが生まれるというのは
広島の悲痛の歴史ゆえ

心から応援します

平和の旅in広島 その五

2008年07月24日 | 教会のこと
ホテルを朝の9時に出発して
最初に行くのは
そこから徒歩2分の
袋町小学校平和記念館

まずは
今の袋町小学校にびっくり
これは大学か?
というような建物です

しかしそれはおいといて

63年前
校庭での朝礼の最中に
原爆が落ち
全員亡くなりました
みんな瞬時に吹っ飛ばされて
かたちも残っていないとのことです

また
街中の小学校に通っていたのは1,2年生で
3年生以上は、疎開していたそうで

つまり
街中がおかしいと知った3年生以上の児童が
帰ってきたものの
もはや誰も生きていなかった
という
想像したくないところの現実もあり・・・

そして
小学校に残った階段の壁に
家族を探す人たちの
悲痛なる文字が残っています

80歳の管理人のおじいさんが
子どもたちに丁寧に説明してくださいました

予定の時間の倍以上話してくれました

彼は
家族が消えることの悲しさと
家族が大事であるという思いを
子どもたちに語りました

家族が大事!
というところは
昨今のこの国の流れの
家族回帰的な論でありましたが
(つまり天皇制の枠組みにおいての)

まあそれは大人のテーマとして

子どもたちにはよくよく

家族を失う悲しみが
伝わっただろうし
そういうことを起こす戦争は
ぜったいにダメ!!
ということも伝わっただろうと思います


わたしは
なにしろ
一瞬にして全滅
想像を絶する光景を
想像を絶するゆえに
想像できず

わかっているようでわかっていないという

そういう状態で存在であることを
自省しつつ

限界を知りつつ
しかしそれでも
下っ腹がこれほどまでに重くしんどいことに
驚愕し

絶対に戦争はダメ!
と祈るばかりでした


管理人のおじいさん

心から感謝


平和の旅in広島 その四

2008年07月24日 | 教会のこと
平和の旅二日目で最終日
ということでございますが



子どもたちはしっかり起きまして
しっかり顔を洗ってふとんたたんで片付けをしまして

あっさりと朝食に行く用意ができました

バイキング形式の朝食が楽しみだったようです

朝食はなかなかおいしかったです
ついつい食べ過ぎてしまいました

子どもたちは
ソーセージにハムを巻いて
さらにそのまわりに味付け海苔を巻くという
なんともおいしそうな食べ方にはまりまして
たくさん食べておりました



その後ロビーに集合
みんなで記念撮影

パチッ

として
ばらけて
さあ出発!!

というところで

共くんがいない!
という声がしまして

しばらくするとトイレから帰ってまいりました

というわけで
共くんは集合写真に入っていませんでした

でもそれは悲しいので
もう一度撮影することに・・・


ではみなさん!
先ほどと同じ場所で同じポーズをしてください!
先ほどの写真と今回の写真で
間違い探しが出来るようにしましょう!!
ガハハハ!!!!


ということで
素直にもみなさん同じ場所に並んでくださいまして
おかげですぐに用意も整いまして

二回目の記念撮影

パチッ


ってなわけで

いよいよ
肝心の被爆現場の見学へと
向かうのでありました

平和の旅in広島 その参

2008年07月23日 | 教会のこと
さて、
予定より30分はやく広島到着

まずはホテルにチェックイン
30分ほどゆっくりして

一階ロビーに集合

みんなでお好み村に行きます
ホテルからは徒歩5分ほど

わたし
これ
すっごく楽しみにしていまして


お好み村に入って
数人のグループにわかれて
それぞれ気に入ったお店に入ります

わたしは
小学生の男の子を連れて行くことに・・・
わたしだけでは大変なので
男の子たちに

いっしょに行く人を指名してくださーい

ということで

Jさん夫妻が巻き添えになりました

すみませんありがとう


ビルの2階3階4階が
全部お好み焼きのお店という
あのテレビでよく見るところへ

どの店がどう
という情報はいっさいなかったので
適当に店を探します

といいますか

大勢座れる席がうまい事空いた店に入ります


いいねえ!!!!


まずは

若菜さんがすきそうなところだなあ
と感想を述べましたら

女性のJさんも
ほんとほんと

という感じで
これはもう一度若菜さんをつれて
広島に来たいわけであります



生中くださーい

と言ってしまいましたら
子どもたちが

ずるーい!!

と言いまして

じゃあ
子どもたちにはジュース

とは行かず

わたしは8割がたまじめに
(2割がたジョークで)


そうや!大人はずるいんや!これはわかっとけ!


と応答しまして

周りのお客に店のおかみさんは爆笑しておりましたが


大人はずるい!

というのが世界の前提になっていることを
小学生は知っていますでしょ??
知らないふりしているけど・・・

だからわざわざシュタイナーさんなんかは
ずるくない世界に
子どもを一定期間閉じ込めることの重要性を語るわけでしょ??


けれど

大人はすばらしい!
大人は子どもの模範!
ということを
教育システム構築のなかで
まじめに語る大人が多いというか

少なくとも京都における
小学生教育
地域における子ども教育

まじめにそういうことを語っていまして

あたしゃ
くすぐったくなるし
わらえてくるし

そもそも
えらい傲慢だし

変な気分になってしまいます


そんな風に隠蔽することなく

大人は子どもに

大人の世界のずるさを伝え
そういう中で
しかしずるくならないで生きる術を
なんとかいっしょに探そう!



しかし残念ながら
ずるく生きないということはできず
痛みつつもずるく生きねばどうにもならない場面に遭遇するから
そういう状況において
何を基準に
次の道を選択するのか
ということを
なんとかいっしょに探そう!



語ったらいいだろうと
わたしは思っております

子どもは賢いので
わかってくれます




いわゆる広島焼きは

うまかったぁあ!!!

さらに
おかみさんの手際のよさは
ひとつの芸術でもあって

なにしろとっても楽しい場所でした

DなんとかやUなんとかより
よっぽど楽しい空間だと思います



ホテルに戻り
大浴場で汗を流し

そうしたらのどが渇いて
ジュースを飲みたくなったもんだから

仕方なく子どもたちに

ジュース飲むか

なんていう
お好み村とはまったく逆のことを
平然と言いまして

みんなにジュースを買って
わたしものどを潤しました


部屋に戻ってからは

これまた男の子の部屋でいっしょに寝たのですが
騒ぐ子どもたちに

うるさい!はよねろ!

と何度か言っていた記憶はあるのですが
たぶん
子どもたちより先に
わたしが寝てしまったみたいです

日曜日でしたから
礼拝説教をした日ですから
主の晩餐式もありましたから
ものすごい疲労していたわけです

というわけで
一日目が終わっていきました

次回は二日目の朝

平和の旅in広島 その弐

2008年07月22日 | 教会のこと
広島到着前に

映画「ヒロシマナガサキ」から
もうひとつ感想を・・・

アメリカ兵の話から読み取ったことは午前に書きましたが

それはしかし二義的なことでありまして

なにしろ
被爆者の証言こそはじめのことであり
その証言という
受けるべき事柄を受ける
という

勝負!!!!

(まさに勝負
 受ける苦しさから逃れようとする
 自分自身との勝負)


歴史を学ぶということにおいては
起こされるわけです

共感なんてしきれないなかで
ひとつでも共感できるってことさえ偽りの中で

しかし
共感していきたいと願い
期待し
自らの精神を解放して開放する

という
あの極めて困難な作業をせねばならないわけです


わたしは最初の大学の学士論文で
「追体験」についての研究をしましたが
そこでのひとつの結論は
追体験は共感による極めて近似値的な他者理解
と述べたわけですが

昨今
自分の論を信用しなくなっています

他者と結ばれるというのは
人間の
追体験であろうと
共感であろうと
そういうあらゆる方法を駆使しても
どうにもならないことで

ただ
キリストによってのみ成立している!!

のだけれども

しかし人間として出来る範囲は
追体験であり
共感であり

だから
それをするしかないし
せねばならないし
することができる

のだけれども

その作業には
信用に値するものは
なにもない

ということをまず第一に知らねばならない

とまあ
思っているところです

そういう
弱い人間として

不可能な事柄を
ゆるされて行っていく

そういう作業を

被爆者の証言を受ける際に
頂いていくわけです




おそらく
受けたかどうかという判断を
なんとかしてみようとするならば

どれだけ
全身が重たくなったか
というところくらいしかないのではないか
と思っています




今回わたしが受けた重さを言葉に
これまた不可能ながらになんとか表現するなら

被爆者の被爆後の人生は

死んでいるのに生きており
生きているのに死んでいる

という

聖書的あるいは信仰的な言葉でいうならば
十字架にある生
そのものなのだ
ということでもあるのかなあ

というところです


ローマカトリックは自殺を禁じているから
たまたま私は死を選べなかった

とか

妹は死を選んだけど
私は生を選んだ
両方の人生が開かれていた

とかいう証言は

生と死が
全く異なることであり
別次元のことであると同時に

同時に起こされることであり
両者が複雑にねじれて共に入り込んでくる

という事柄が
歴史認識において
実は欠かせないということを

わたしに知らせるものだったのだろう
と思いました


というわけで
明日は
広島到着後のことを書いてみましょうか

ではでは

平和の旅in広島 その壱

2008年07月22日 | 教会のこと
平和の旅in広島
ということで
京都教会は20日の午後から21日にかけて
広島に行ってきました

平和の旅はこれが二回目

一回目は3年前に長野は松代へ行きました

夏の旅は
①教会に泊まってなにかをつくる
②具体的に人と出会いに行く
③具体的に土地と出会いに行く
という順序で
この間やっております。
人と土地が別々ということが
本来ありえないのですが

たとえば
人という場合は止揚学園
土地という場合は広島

といった具合です


今回は広島

まずは行きのバス編

礼拝が終わって
教会前に到着している観光バスに乗って広島へ

バスにのるやいなや
みんなにおにぎりが配られます

野の花会のみなさんが
朝早くから教会にきて
にぎってくれたおにぎり

梅に昆布におかか

感謝感謝

しかもひとりみっつ

これはさすがにたべきれない人もいるわけですが
そこは
でっかいJさんをはじめ
若者たちがスタンバイ

さらに
ひとりひとりに袋が手渡されます

なんと
お菓子の詰め合わせ

クッキーからあめちゃんから
柿の種からハイチューまで

子どもたちが大興奮


その興奮のままで
こんどは封筒が手渡されます

その中身は
今回の旅のしおりと
見学にいく施設のパンフレットに
広島の地図など


オリエンテーション開始

ますます気分が高まってきます



最初の大きなプログラムは
バスのなかで
映画「ヒロシマナガサキ」を見ること

この映画は
証言が淡々のつながっている映画で
しかし
見終わると
体に大きな重石が入ったかのような
感触を得ているという

秀作であります


被爆者の言葉
体の傷跡
残された写真、絵
を受けつつ

想像を絶する
(まさに想像を絶するわけです
 戦争体験者がまず必ず使うこの言葉は
 とても重要な言葉でして
 そうしか表現できないわけです)
出来事に言葉を失っていきます

また
この映画は
原爆をつくったり実際に落とした
アメリカのみなさんの証言もあります

彼らは基本的に
アメリカ
における基本認識の線からはずれることありません

その悲惨さをよく知りつつ
そこで深く胸をえぐられているけれども

すべきことをしたし
平和に貢献した
という線はくずしません



ひとつの発言から
彼らの葛藤が見えてきました

原爆を落としたひとりが言います

イラクに原爆を落とせば終わるではないか
という人がたくさんいる
とんでもない
彼らは核兵器について何も知らない

そのときの表情は
他のときと違って
こわばっていました

アメリカの教育では
ヒロシマナガサキへの原爆は
戦争を終わらすために必要だった

されるわけです

だからイラクもそうですが
戦争を終わらすために核兵器を
というのは
当然起こる声でもあるわけだと思います

この歴史認識は
アメリカの矛盾として
大きく横たわっています


こういうのは
どの国にもあって
日本にも
歴史教育で当たり前に言われていることが
大きな矛盾であることを
多くの人が気づきつつも
でも無意識にそれを押し殺し
主体的に洗脳され
矛盾が横たわり続けている
というものは

たくさんあるわけです



そういう矛盾に対する発言は
弱点をつく発言になるので
とても恐れられますし
ゆえに
そういう発言をする者は迫害を受けますし
だから
なかなか発言できないわけですが

しかし

あの原爆を落とした人は
もっとも魂込めた言葉として
そういう表情で
そういうからだでもって

矛盾の只中に放り投げる言葉を語っていました


実は
キリストに従うということは

こういう世界のあちこちに転がる
それに対する発言さえもゆるされない
でもそれが力を持っているという
矛盾を

あっけらかんと突いていく
という倫理なのだろうと思います

現代社会の

自由
平等
民主主義
防衛
あるいは
精神


というものの中身は
実は
触れてはいけないという
矛盾領域を突破できないところで成り立っていて



その矛盾領域にまったく気づかずに
いわば洗脳されているところの論理を信じる人

その矛盾領域に気が付きつつも
自分が食べていくためにしたたかに論理を組み立て
その論理に満足している人

その矛盾領域に気が付きつつ
自分が食べていくためにしたたかに論理を組み立てるけれども
それが偽りの論理であることを知っている人

その矛盾領域に気が付きつつ
自分が食べられなくなる可能性を知りつつも
矛盾領域を突いていく論理を組み立てる人

という感じで
それぞれ生きているのだろうなあと思います


またそれぞれの論理が

他者非難に費やされるか
新しいものの創造に費やされるか

でも
実はかなり事情はかわるわけでもありますが


まずは
映画を事前学習ということで
バスでみて

いよいよ広島に到着というわけでした

続きは次回

ではでは

星の数

2008年07月17日 | 教会のこと
わざわざ庭に連れ出して

星を見てみい
数えてみい
数えきれるかいな
無理やろ

でもな
あの星の数ほどに
子孫を増やしたる


神さんはアブラムさんに言いました


これを
アブラムさんの共同体の将来にわたる勢力拡大
という風に読んでしまうと
最も大切なものが消えるし
そもそもとっても危険!なわけです

でも
キリスト教会は
結構こういうところで
勢力拡大という読み方をしてしまいます

わたしは

まず聖書は
そういう勢力拡大の枠組みで
経営学の枠組みで
イメージ戦略論の枠組みで
絶対に読まない!!
ということが大事で

そういう読み方から解放されたときに
そこで
大転換が起こる
つまり
主語が人間から神に変わる出来事の中で
読まされることが起こる

のだろうと思います


この神さんの言葉は

星の数は人間には数え切れない!
という
人間の限界性をはっきり見せ付けたところで

しかし!!!

神は
その人間の限界の外側で自由に働き
事をなす

という中心を持っていると思います


例えば人が増えたとしても
それは人間に数え切れるわけです
日本に住んでいる人みんながキリスト者になったとしても
そうなったら
それこそリバイバルぅうう
って
叫ぶ人がたくさん出るのだと思いますが

それでも人間が数え切れる範囲の話で
すなわち
人間が
人間の限界以前を
つまり人間の範囲内を
つまり人間を
信じる

ということになってしまい
神さんが出てくる話ではないわけです

神さんは
徹頭徹尾
人間の限界の外側でしっかり働いています

だからまずは数というものが
神にとっては意味を成さないのだろうと思います

数は必要悪と知りつつ用いるものなわけです




ここでは
実の子が与えられなかったアブラムに
子イサクが与えられて
なお子孫が増えるという
世界で認められるようになることが
神の働き
みたいに読まれてしまうのですが

これも
人間の限界性の外側で働く神が主語となるならば

もはや
子どもがどうのこうのという
人間のはなしは二の次で
実の子というよくわかることをはるかに超えて
神は事をなす

というところまで
アブラムは信じたのだろうと思います

アブラムは
ここで
実の子を欲するという自分を主語とするところから
神による限界の外側の働きという神を主語とするところへ

大転換

したのだと思います


だから
彼は
実の子に関しては
余裕を持って
待ち望むことすらできたのだと思います

だって
この神さんの約束のあとも
イサクが産まれるまでえらい長いわけだし・・・


また
この箇所の直前で
ソドムの王の世話にはならん!
とアブラムが言うあたりも

神以外の力には頼らん!
という宣言であって


人間の力から神の力への大転換があるからして


星の数

というのは

やはり
勢力拡大という人間の範囲内のことでなく

それが数えられないというところに意味を持つところの
神が人間の限界をはるかに超えた世界で
活き活きと働くという
そういう神の範囲のことなわけです


とまあ

昨日祈祷会で分かち合いました

おしまい


永遠

2008年07月17日 | 教会のこと
眠たいですう

思いついてしまったので
書いておきます

おかしい!
と思ってしまいました

よく
共同体について
もちろん教会についても
生物の生涯モデルで
語ることがあるけれども

あれは
やばいなあ!?
と気が付きました

とくに
教会共同体は
絶対にああいうモデルで語ってはいけない!!
と思いました

あるでしょう
こういうの

共同体を

誕生期

幼少期

成長期

成熟期

衰退期



みたいなモデルの
いまはどこらへん?
かでもって

いろいろと探ろうとするやり方!


なんで
これを教会共同体で使用すべきでないかというと

教会というキリストの体は
復活をいただいており
永遠をいただいているからです

こんなサイクルではなくて

永遠をしっかりと共同体のモデルとして語らないというは

えらい罪なことだと

ふと気づいて

てーへんだー

いまひとりで叫んでいるわけです


バプテストの冊子にもこういうの出ていますが
ほんと相当やばいと思います
このモデルで教会を考えていた場合
かなり
というか
もっとも大切なものを
ずっと失っている
ということになっているのだと思います。


さて

本日は京都は祇園祭の宵山でして
街はにぎわっていることと思いますが

祈祷会のあと
参加してくれた方々が

行ったら?
って言ってくれたので

行こうかなあと思ったけど

どうもその気になりませんでしたなあ
なんでだろう
祭りは大好きなのに・・・

不思議と祇園祭には興味がわかない・・・

せっかく京都で生きているのにねえ


なんか
深い理由が隠れているんだと思いますが
もちろんわかるはずもなく
わかるときにわかるから
まあいいわけで


みなさま
いい時間なんで
おやすみなさい

係り決め

2008年07月15日 | 「生きる」こと

会議から帰ってきましたら

若菜さんがうれしそうに報告してくれました

子どもたちな
次の赤ちゃんが生まれたときの係りを
一生懸命決めてたんよ

とのことで・・・

わたしはとっても自然に

わが子たちよ
女の子が生まれたことやし
次の赤ちゃんはないやろ

と言って

ねえ若菜さん


同意をもとめましたら


うーんどうかなあ

という応えが帰ってきました!?!?!?


さらに

こればっかりはわからないねえ

ということでした!?!?!?



輪をかけて嬉しそうに

次の赤ちゃんが生まれたら
空くんがその赤ちゃんの係りで
共くんが言ちゃんの係りになることが決まったよ

と報告を続けてくれました


わが子たちよ
わかっていたことだけれども
あんたたちの母さんは

想像をはるかに超えて

ただものではないのですぞ


いやいや
しかし
経済的にねえ

なんていうわたしの言葉は
もみがらのごとく舞ってしまっておりました


かなりびびっておりますので
もう今日はこれにて寝ます

ではでは



胸張って

2008年07月15日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です


********************

「胸張って『キリスト』」

秋葉原の事件が頭から離れません。
あの事件からみえる社会的、時代的背景は、
他人事ではないから・・・。

多くの他者の生命と歴史と将来を、
トラックやナイフで奪った彼ですが、
その彼が、
もはや彼自身でなくなるという、
つまり狂気となったワケとして、
いくつか言われています。

ひとつは、彼は孤独だったと言われます。

彼は、家族も友人も、コンピューターで文字でつながる仲間も、
もはやいない!
と信じ、
また、誰にも覚えてもらえない!
と信じてしまっていたかもしれません。

自分が覚えられ、覚えるべき他者をも失った!
と信じてしまうということは、
人間が狂気となるには実は十分な条件でもあると
わたしは思います。

私たちの最大の敵は、
もしかしたら
私たち自身の人格を殺し、実質的な死へと陥れるところの
孤独なのかもしれません。
孤独という他者の喪失、愛の消失なのかもしれません。

そしてこの最大の敵である孤独は、
今や世界征服をも企むようです。

悪しき意味での自己責任論から
後期高齢者制度や障害者自立支援法などができることなどは、
孤独の世界征服のひとつかも知れません。
聖書的にいうなら、
サタンはこうして、
あたかも正当な顔をしているかのようにして、
世界に入ってくるわけです。

だから、キリスト者は、
孤独であると信じている世界の人たちに、
(それはおそらく実は極めて身近にいるわけですが、
もしかしたら自分自身なのですが、)
そういう彼らに、
信じるべきは孤独ではない!
信じるべきはキリストだ!
その愛だ!
絶対に孤独にはさせない聖霊の力だ!
と、胸を張って堂々と言うことができるだろうし、言うべきだと思います。

ふたつめには、彼は大きな事件を起こして注目されたかったと言われています。
これは孤独の裏返しでしょうが、
注目への飢えも現代の病です。
みんな他者に注目してもらいたいし、そういう有名願望は益々強まります。

しかしキリスト者は、
有名になり注目されたいと思う彼らに(自分に)、
キリストがいつもあなたに注目し、キリストにとってあなたは有名だ!
と、胸を張って堂々と言うことができるし、言うべきだと思います。

きっとこれが証というものであり、
また伝道なのだと思います。

こういう時だからこそ私たちも、
胸を張って!
キリストを信じていきたいと願い
そのゆえに祈りたく願います

主よ!
信仰をください!

アアメン!


**************************


実はこの倍のことを書いておりまして
到底週報の枠に入らないので
半分のみを今週載せました

後半はまた後々の週報で


順調

2008年07月13日 | 「生きる」こと
人間ドックの結果が戻ってきました

メタボです
腹回り86cm

しかし
中性脂肪等はまったく問題なく
サイズだけではかるのって何の意味があるのだろう・・・
腹筋や背筋のある人はみんなメタボやなあ・・・
と悩んでしまいましたが・・・

今年も
白血球がすこし少ないのと
尿酸値がすこし高いことが
いつもながらに出てきました

白血球が少ないのは体質のようで
つまり
抵抗力が弱いということだから
疲れやすく
風邪などもひきやすいということなわけで

無理は禁物なのでしょうが
そうも言ってられないので
うまいことやっていくわけですが

そうすると
抵抗力を強めたいと
体が要求するのだと思いますが
たんぱく質やビタミンなど
栄養価の高い物をたくさん食べます

すると
尿酸値が多少(0.2ポイント)
高くなるという

まあそんな感じなのだろうなあと思っております

というわけで

医学的には
様子を見る必要あり
と出ますが
わたし的には
至って順調
と出たということであります

これからも

無理せず楽せず

生きていきます

ではでは

記念

2008年07月12日 | 「生きる」こと
Y兄の記念会にたくさんの方が集まってくださり
感謝するばかり

記念説教は
結局本番までに原稿一文字も打てず
といいますか
これまた文字にしたら
言葉としては同じだけれども
大事なことが消えるような気がしまして

それくらい
複雑で微妙なところを
まばたきひとつゆるされない集中度において
見極め聞き極めていくべき出来事で

聖書に
三つのポイントだけを
直接メモして
それのみで本番突入

なりました

複雑で微妙な事柄の中の
しかし粘り強く集中して受け続けることで
見えてくる
実はなかなか太い骨格を
共有できたなかなあ
と思っています



いのちとは
生と死の両方を受けて
はじめていのちとなる

それも

生と死とを

自分とは何者か
という問いのためにいただくのではなく

キリストとは何者か
キリストによりつなげられた共同体とは何者か
という問いのなかでいただくとき

共同体に
またわたしに

いのちが起こる


そして

生と死とを結びつけることができるのは
十字架で死に復活したキリストのみ


このキリストを無視すると
死者は
生者に
利用される・・・


その逆で
われわれはキリストにより
死者を
強烈な矛盾とねじれと悲痛のなかで
受けることがゆるされ

そこで
生と死による
いのちを得る



といった趣旨の話でございました


アーメン
キリストが共にいます

記念にむかって

2008年07月11日 | 「生きる」こと
本日のおしごとは終了
ということで

探偵ナイトスクープを見ようかとも思ったけれども
なんかテレビの画と音をあびる気が起こらず
CDをセットして
静かにジルベルトのささやきギターとささやき歌に触れてもらいながら
PCをつけたわけでございます

この間
実にいろいろなことがあっているのですが
もう書くことができないくらいにあふれてしまいました

言が生まれたから
いろんな人が訪ねてくれるし
いろんな言葉をもらえるし

それをいちいち残すこともできず
というか
なんか文字にすると
それと同時に体にくっついているうれしいものが
とれていきそうな感じがして

文字にできませんのです

すみません



明日は愛するYさんの召天一年記念式

彼がかつてアンケートに書いてくれた
自分のテーマである聖書箇所
というのが
自分の十字架を背負う!
というところで

明日はそこでもって
記念説教をします

今日もいままでその箇所からいろいろ考えてきました

明日
わたしの体全体が記念会の出来事として動き出した時に
最終的に説教がすごいスピードでつくられていく
というもんなので

あとは
祈って祈って
明日起こされる出来事としての説教を
受けていきたいと願っています

Yさんの死と言の生を
同時に生きるという奇跡は何か

それは
自分の十字架を背負うことがゆるされた
という
恵みだなあ

といったところが
明日
どのような物語として
言葉となっていくのか

神さん
よろしく

Yさんの家族をずっと覚えて祈ります