きぼう屋

生きているから生きている

献身

2010年11月30日 | 教会のこと
我が家の洗濯機の排水溝がつまったらしく
洗面所に洗剤まじりの水がひろがってしまいました

仕方がないので洗濯機を動かして
(大家族なので大きな洗濯機でしてなかなかたいへんなのです)
排水溝を見てみましたら

ねじ式ではまっているはずのふたがゆるんでおりまして
半分ほど数ミリ浮かんでおりました

それをいったんはずして
中を掃除してみましたら

なんと
硬貨だがでてきました

おそらくその数ミリの隙間から入り込んだようです

それも次々と

合計470円

どれもとっても汚れていましたので
わたしは硬貨を洗うことにしました

そのかん
若菜さんが
もっともいやな
排水溝周りの掃除をしてくれました

すみません



ひさしぶりにピカピカにして
洗濯機を戻して
元通り

硬貨もそれなりに(使用できるくらいに)汚れが落ちました

なんか宝が出てきたような感じで
最初は憂鬱な気分ではじめたことも
最後は気持ちいいものとなりました

感謝感謝



その470円は
我が家のお兄ちゃんたちの
臨時おこづかいとなりました
(上の小学生3人は
 不思議なんですが
 みんなのこづかいをひとつにして
 みんなで相談しながら使っています
 将来は
 このまま3人で
 会社でも起こすのでしょうか)


さてさて
昨晩はなんと5時間も
教会の若者たちが
12月12日の子どもクリスマスのための準備をしてくれました

本日も18時からしてくれるとのこと

もうこの事実でもって
12日は大成功なのです

世の中のすべての事柄が
実は献身の質量でもってうまくいくかいかないかが決まる
という結論を
わたしは持っています


丁寧に隅々まで行き届く献身
それもおせっかいなほどにしつこい献身

これが人と世界を救い
ブーバー風に言えば神をも救うわけだと思っています

そうなかで
行き届かなかった自らの限界と出会い
そこでそれを埋めるキリストの十字架をはじめて発見するわけで

こういう十字架との出会いを繰り返す中で

キリスト者と教会は

ホ・ン・モ・ノ

になるのだと思います


そういう意味では
当教会では
すんごいことがもうひとつ起こっています

教会のEさんが
ホームレスを強いられているとある方を
毎週整体してくれています

そのとある方は

立つことも寝ることもできないほどに足腰を悪くされていました

腰の強烈な重みは4年前から訴えておりましたし
医者は「変形しているので治らない」というばかりでした

しかし
Eくんの整体を受け始めて2ヶ月

その直前はただただしゃがんだまま生活するしかなかったのに

だんだんと腰が伸びてきまして

まずは90度
そして80度 60度 45度
くらいの傾きまで伸びてきまして

昨晩の施術後は30度くらいにまでなっておりました
しかも
しばらくの間だったらピンとまっすぐ立てるほどになりました

足腰のストレッチも軽くできるようになりました


わたしは
これはEさんのスキルによるのではなくて
Eさんの献身の質量によるのだと思います


あと
施術のたびにふたりの夕食を準備している若菜さんの献身の質量にも
いつも圧倒されます

十字架に生きる
それは具体的には
献身の質量としてあらわれる

そして
この生き様は
強烈に幸せ


というわけなんです

というところでおしまい



ぼくなバプテスマしたいねん

2010年11月29日 | 教会のこと
当教会は礼拝の中で
みんなが席を立って会堂を自由に歩いて
互いにあいさつを交わす時間を持っています

昨日の礼拝のその時間に
小学3年生のSくんがわたしのところにきまして
「Tくんが言いたいことがあるって」
と興奮して伝えてくれました
Tくんは小学2年生です

わたしはそのとき他の方と会話を交わしておりましたし
Sくんの興奮具合からして
わたしは勝手にいつもの遊びの一種だっと思い込みまして
「礼拝終わったらね」
なんていうつれない返事をしてしまいました

すると少し経ってから
Tくんがわたしのところにきまして

言いました

「ぼくな
 バプテスマしたいねん」


わたし

一瞬すべての動作が止まりまして
(呼吸も止まりまして)

心の中での
うおぉおおおおおおおお

という叫びとともに
動作が再開したわけですが


なんとも
つれない返事をしてしまった自分を反省しつつ

キリストの起こされる業に感謝するばかりなのでございました

あっさりとした決心したTくんもステキ!
そのことを聞いて興奮して伝えにきてくれたSくんもステキ!


昨日の子どもメッセージもステキ
ご自身が小学生だったときの証から
キリストが伴われることの豊かさを伝えてくださいました

意識しないと涙がでてきてしまう種類の証でして
感動しました

感謝感謝


いよいよクリスマスにむけて準備がはじまりました

まず6,000枚のチラシの地域配布が始まりました

そして12月12日の子どもクリスマスにおける
恒例のみんなでお菓子作りの
そのお菓子の試作を野の花会の仲間たちがしてくれました

感謝感謝

その試作品は夕方から当教会で開催された
関西地方連合拡大役員会のメンバーでいただきました

美味しい!!

12月12日(日)午後2時からの子どもクリスマスに
親子でぜひとも!!

そうそう
青年会は
子どもクリスマスでおこなう人形劇の人形作りを
今晩からはじめるとのこと

こちらも感謝


しあわせです

和解と癒し その6

2010年11月28日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

**********************

「和解と癒し その6」

WCC(世界キリスト教協議会)は「21世紀の世界宣教」にて次のことを謳います。
「聖霊に目をむけよ。
聖霊は交わりをつくることを聖書は教える。
聖霊は我々とすべての被造物を、
神との和解、互いの和解という統合と全体へと導く」。

そしてグローバル化という現況の中で聖霊の働きを見分けるのが難しいことを指摘し、
この時代に聖霊は、
「もうひとつの共同体モデル(国家、グローバル世界に変わるものとしての)、
公平な経済システム、適正な貿易、
責任あるメディア、
環境に配慮した実践」
に教会が積極的に参与していくよう働くことを宣言します。

私たち京都教会の交わりは聖霊に目を向けます。
だから地球規模における神の国の創造に参与します。
地球規模における神の和解と癒し、救いに参与します。
(モルトマンという神学者は宇宙規模への広がりをも語ります)。

聖霊は、私たちを外側の生命、魂、状況とつなげます。
だから聖霊は常に私たちの殻をやぶるかたちで働き、
私たちが殻から飛び出して新たな他者、世界とつながるよう働きます。

しかし今日においても、
聖霊の働きは個人の体験、共同体の体験として語られる場合が多いことを省みます。
個人や共同体にすでにおこった癒し、救いを聖霊の働きと認識するケースが多いと思います。

ところが
聖霊はそのような私たちの体験という枠をもやぶり、
私たちを体験の外に送り出し、
私たちそれぞれの体験ではなく、端的に主を見つめるところへと導き、
その主により体験として覚えることができないほどの和解、癒し、救いを受ける信仰へと私たちを導きます。

体験として覚えることができない、
というのはどういうことでしょうか、

まずは時間的な事柄があります。
私たちは自分の生きている範囲のみならず、
生きる前の出来事、さらに遠い将来の出来事とまで、
和解をなすことがゆるされています。

つまり、
二千年前の十字架とこれから訪れる終末の救いとの出会いを
まさにその過去と将来の時間を生きるかたちで与えられます。

また空間的な事柄があります。
私たちは自分の足を運べる範囲のみならず、
地球(宇宙)全体との和解と統合を主よりいただきます。

聖霊における和解と癒しは、
つまり自らのイメージ、経験、体験、感覚という殻が壊されるところから始まります。
そして私たちは聖霊により端的に外側の他者と世界と出会い、
そこで主により和解と癒しとが生み出されることに賭けていきます。

さらにその生み出された和解と癒しは
私たちの言葉などの表現手段では表現しきれないものであることをも知ることができます。
でも身体と魂は和解と癒しを知るゆえに、
私たちは私たちには表現できないことを表現します。
言葉で表現できないことを言葉で表現し、
音楽で表現できないことを讃美で表現し、
あらゆる手段をもってしても表現できないことを様々な手段で表現します。

でも、だからといって伝わらないわけではありません。
なんとここでも聖霊が働き、
私たちの証しは言葉の意味や人間の感覚としてではなく、
聖霊により私たちのすべてを超えた圧倒的な中身が伝わります。

これこそ聖霊による和解と癒しの業です。

繰り返しますが、
私たち京都教会の交わりは聖霊に目を向け、聖霊の働きに従います。


***************


この「和解と癒し」シリーズは
180回くらいのものになると思います。

たぶん5年くらいかかるとおもいますが・・・。

ねばれ!二つの問いと共に

2010年11月27日 | 教会のこと
今週いただいた二つの問い

ひとつめ
小学校高学年の我が家の兄貴たちから

「サンタなんかいないんちゃう?」

弟、妹に配慮した優しい口調でした

そしてもはや答えを持っているという口調でした

そりゃあ学校でそういう話はでるわなあ



考えました


きっとこういうことだろうと思いました

「サンタがいることを信じている人のところにサンタはプレゼント持ってくるんよ
 信じてない人のところにはこないんよ
 だからサンタがいない!って言う人のところにはサンタが来ないから
 サンタがいることがほんとにわからんのよ
 ところで
 ウチはサンタからプレゼントを毎年もらっているわけだから
 それはあんたたちが信じているからこそで
 あんたたちがえらい!!」

まあそういうことなんです


もうひとつの問い
若者から

「イエスさまは人を癒したあとに『このこと誰にも言っちゃああかんよ』っていうのはなぜ?」

うーん
なぜ?


ふたりで考えました


きっとこういうことだろうと思いました


つまり
共におられる存在なんです

主イエス・キリストという共におられる存在がすでに癒しなんです

主イエスが共にいるからもう安心なんです
その時点ですでに癒されているんです


いろいろと身体や生活状況が
人が考えるところのいい方向に変化したということは
共におられる主イエスと同時にのみ知ることができることで
主イエスの伴いぬきに
わかりやすいところの
変化
のみを語るのは「あかんよ」
ということだろうなあ

ということになったわけです


キリスト者という神の子とされた私たちは
(なにしろ「神の子」ですから
 主イエスと同じ称号なわけですから)
徹頭徹尾
隣人と
同じ時間同じ空間に
しつこいほどに共にいる
ということから

癒しは本当に起こることを知るわけです

だから教会というしつこいほど共に生きる共同体が
地球規模でずっと続いているわけでしょうし



キリスト者が反省すべきは
共にいる存在として主に立たされていることよりも
なんらかの教会の仕事をするために懸命になっている場合は
そこには癒しは起こらないことを知るべきということなのでしょうなあ

いちばんいけないのは

目立つ奉仕は懸命にするし
自分のイメージどおりの活動はするけど

目立たない地道なしかしそれなしで教会が動かないという奉仕に気付かず
端的に共にいるという奉仕をないがしろにする

ということ

これは
教会共同体のみならず
その個人と
そして神をも
台無しにする行為なわけですなあ


だから主イエス・キリストに新しいいのちを頂き
癒され目覚めたみなさま

ねばれ!!
ねばってねばって共に生きるわけです

そういうときはすんごいことがどんどん起こります
でも
それが後退して各自のイメージや計画や気分が先行するとき

なんにも起こらなくなり
つながらなくなり
演技するようになり
疲労がたまり

いつのまにか
見事に共に生きることが消えていきます
隣人がいなくなります


ねばれ!!




THE教会

2010年11月24日 | 教会のこと
去る主の日の礼拝
子どもメッセージがまたまたすばらしい!!

難しいローマ書の学びを
子どもたちにわかるように噛み砕き
教材を丁寧に用意され
さらにその教材自体も教材の用い方も
ハッとするもので

これはもう当教会の伝説の子どもメッセージとして
古典落語化したい!
と本気で思っております

感謝感激!!

午後はそれぞれの会がクリスマス準備や世界祈祷週間に向けて例会を開催

その後はクリスマスの飾りつけ
これまたすばらしい!!

ぜひとも日本バプテスト京都教会の東側フェンスを見て欲しいです。
目立つのですぐにわかります
しかしうるさくないです
子どもたちが作ったボードはとにかくステキ!!

ウチの教会の成熟さは
内向きから外向きに完全に変わったというところに最もよくあらわれていると思います
常に
これからキリストと出会う人と出会うことを目指しています

それはつまり
自分がキリストと出会った衝撃を生々しく覚えていて
それこそがすべてであるから
まだキリストと出会っていない人たちに出会って欲しいと願い
祈り行動するわけなのだなあ
と思います

内向きの場合は
キリストとの出会いよりも
教会という社会で安心して生きる
みたいなことが中心になっているということであり
あまり魅力のあるものではないわけだなあ
とも思います

さて
内向きから外向きに変化した教会は
次にどんな変化が起こされるかというと

わたしはこんな風に思います

それは
最も苦しい人悲しい人寂しい人貧しい人
のリズムとペースにみんなが歩みを合わせていく
ということではないでしょうか

すると教会共同体は
次の四つに類型化されるかもしれません

1) 内向きで教会の中のこの世で成功した人に歩みを合わせる
2) 内向きで教会の中の最も重い十字架を担う人に歩みを合わせる
3) 外向きで教会のみならず世界全体のこの世で成功した人に歩みを合わせる
4) 外向きで教会のみならず世界全体の最も重い十字架を担う人に歩みを合わせる

1) は成功者のサークルだなあと思います。
2) は傷の舐めあい以上の癒しとの出会いが難しくなるなあと思います
3) は下手すると客集めになるなあと思います
4) こそは教会であり永遠の共同体!!

そういう意味では
恐らく日本一ゆっくりと主の祈りを祈り
アーメン三唱ではろう者がハンドベルを演奏し
貧しい者がまさに「幸い」と宣言されるゆえに礼拝にたくさん集い
車椅子でのんびり礼拝に参加し
子どもたちが自由に礼拝堂を行き来する

という当教会は
なかなかいい線いってるなあと思いつつ
さらにTHE教会になっていきたいと願うわけです

さてさて
昨日のお休みの日は
有志で大文字山に登りました
昨年も同じ日に登って
そこで撮った写真を年賀状に使ったのですが
今回もそうなると思います

昨年は一歳の言ちゃんを抱っこして登りました
まあたいしたことありませんでした

今年は二歳の言ちゃんを抱っこして登りました
いやあなかなかのぼり応えがありました

言ちゃんはいい空気を吸いながら胸でくうくう眠っておりました


頂上に着いて休憩しておりましたら
たまたまですが
なんと保育園で一緒のお父さんが
走って頂上まで登ってこられまして
笑顔で私にハイタッチしてくれました

しかもまだまだ余裕です

すげーーーー

トライアスロンの選手なのですが
優しくて力持ちで
尊敬するおひとりです

その日は
彼の指導を受ける数十人の仲間を引きつれてその先頭で走って登ってこられたようです

下山し教会に戻りまして
みんなで餃子をつくりました

生地からつくります

そしてそれをひとつひとつのばして皮ににして
あんをいれて包みます

子どもたちも包みます

だからいろんなかたちがあって面白いです

水餃子にしていただきました
とてもおしかったです
他に鍋もつつきました

お向かいのIさんが故郷の超新鮮な白菜と大根をくださいまして
それをみんなでいただきましたが
あまりにおいしくてびっくりしました
スーパーで買う白菜がどんなに水っぽいのかというのがこれからわかるようになってしまいました


では祈ります

今週の礼拝を最後に京都を離れるNさんのために
昨日入学試験があったEさんのために
月曜日に就職試験があり次週月曜日に結果が出るFさんのために
月曜日から新しい生活が始まるTさんのために
新しく自分を獲得するスタートにたったIさんのために
明日でバプテスマクラスが終了するYさんのために

アーメン

総会の成熟という福音

2010年11月22日 | 教会のこと
先週の週報巻頭言です
今週のではなく先週のでございます
今週のものはひとつまえの記事でございます
ややこしくてすみません
おそくなりすみません

*********************

「総会の成熟という福音」

先週の10日から12日に
伊豆の天城山荘で第56回連盟定期総会が開催されました。

私は信徒時代から含めると20年間参加していることになります。
そしてその間に連盟の総会がますます成熟していることを知ることができています。

15年前くらいまでは、
それぞれの活動の理念、目的、そのための方策、さらには具体的予算のよくわからないものもあったと記憶します。
特に過去の活動の評価があいまいだったことには総会で意見もしていましたがとても心配していたものです。

しかし昨今は、
今の時代状況を分析し、
それに対して教会・キリスト者が何を神からの使命として与えられているかを
祈りから聞き、全国の教会から聞き、よく研究し、
議案書が丁寧にまとめられています。

そうすると、議論が冷静に進みます。
やはり15年くらい前の総会での発言の
実に半分以上が感情的で攻撃的だったのは、
時代分析、祈り、研究、理念と目的の制定、方策、反省と評価、課題抽出が、
今のように丁寧ではなかったゆえだと、
今だからわかります。

そして昨今の連盟総会では、
これらの作業に加え、
それ以上に、
対話が大切にされています。

総会の場でも議題ではなく協議というかたちでテーマが提出され
そのテーマの共有のために説明者が極めて丁寧に準備されていることを知ることができます。
これも成熟に欠かせないことです。

そして対話から生まれてきたものがあります。
それは、責任をお互いに担い合う、ということです。
これも以前は、責任をなすり合う場面が多かったと記憶します。

しかし日本のバプテストは、
自分は正しく相手が悪い、
というところから、
お互いに悪いところがあるのは当然、それらを引き受けあいつつ、責任を担い合う、
というところへと、
生きる場を移しています。

これぞ福音!これぞ神の愛!

さて、今回の総会に参加して、
私は、
当教会も次のステップとして
もうひとつ成熟した総会を開催できる教会にすでになっている
と思いました。

教会の各々の活動の現状分析、祈りあいと対話、
そこから生まれる理念と目的、方策、終わったことの反省と評価、
さらに課題を確実に次につなげることを、
さらに丁寧にするスキルがすでにあるし、そういう時を迎えていると思いました。

つまり当教会も年々成熟しているわけです。

そこで私は牧師として、
各委員会、各会、教会学校各クラス等で、
総会に向けてますます丁寧に話し合っていただくよう祈りつつ要望したく願います。

ぜひともよろしくお願いします。


暴力装置? 和解と癒し その5

2010年11月21日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

********************

「和解と癒し その5 暴力装置?」

先日の連盟定期総会にて、
日本バプテスト連盟は
2011年から2020年にかけて
「和解のつとめに仕える~和解の福音に生きるバプテスト教会の形成と伝道~」
というテーマで歩むことを決定しました。

私たちは神との和解、他者との和解を必要とします。
その和解からのみ歩みだすことができます。
それは同時に、
人は和解を必要とするような行為をおのずとなしている存在であるということです。

仙石官房長官が先週の参議院予算委員会にて
「自衛隊は暴力装置である」と発言しました。
そして野党の非難を浴び、その言葉を撤回し謝罪しました。

ただ軍隊が暴力装置であるという概念は
近代においてドイツを中心とするヨーロッパの思想として共有されていることです。
そしてその大前提には、
カントが「恒久平和論」で述べたように、
人間の自然性は暴力である、という重要な概念を発見します。

つまり、
人間が自分を守るためには、本能的に他者に対して暴力を振るい、
国家が自身を守るためには、やはり暴力に頼るしかない、
というのが、そもそも人間と国家の限界性です。

(暴力は殴る場合もあれば脅す場合もあり、
脅しは強い口調もあれば優しく騙す場合もあります。
そして実はお金をより多く持ちたいという欲望が最大の暴力です。
さらにキング牧師やマザー・テレサは、無関心が暴力とも言いました。)

しかしキリスト者は、
そのような暴力性がキリストの十字架で力を失い、
さらに終末には完全に消えることを信じます。
だからこそ、敵同士の和解が主により起こされます。

しかし、
今私たちは暴力が力を失っているものの、
いまだ暴力自身が駄々をこねてへばりつき、消え去ってはいないという時代に生きています。

そして残念ながら暴力(お金)にたよって生きるしかない私たちです。
だから私たちは、
自分の暴力性、また自分の所属する国家の暴力装置をただしく丁寧に認識せねばなりません。
逆に先の予算委員会のように、
暴力性を隠すという論を持ってはなりません。
(予算委員会では、暴力装置という言葉の思想的背景が語られておらず、政治家の不勉強に不安も覚えます)。

そしてキリストの十字架と、人間の暴力性とのはざ間で、
世界の全部を本当に守るのはキリストの十字架上で起こる和解の業であることを信じ、
しかし暴力に頼る私たちの罪をみんなで告白しつづけることが欠かせないはずです。

さらに、その罪を直接背負うのは軍備のそばで働く仲間たちです。
彼らの重荷は、その国で生きるみんなが覚え、みんなで背負う必要があります。

つまり、国に所属する私たちみんなが暴力装置抜きでは生きられず、それにかかわっており、
その責任は徹頭徹尾みんなで追うべきことを知る必要がありましょう。

そしてそれは十字架上のキリストと共にのみ起こされることです。

このようにして、
私たちは和解のつとめに仕えます。


個人?

2010年11月20日 | 教会のこと
一昨日と昨日のまたまたつづきのようなものですが

「個人」とは何なのでしょう?

わたしは
「個人」は国家に対抗して生まれてきた概念ではないかと思っています

それは
人が国家という大権力に従うしかなく
時に国家のために死んだり殺されたりということも起きる世界の中で

人は自分が何者であるのかを見失ってしまったのだと思います

どうして見失うかというと
生々しさがないからだと思います

つまり国家には生々しさがない!

生々しい関係性がない!

個人と国家の関係性は
抽象的には
論理としては
わかるけれども

生々しくはない!

把握しきれないほどにデカイ国家を
それこそ把握しきれないから
自分でその像をつくりだして
あるいは誰かの言う像を信じてみて
いえいえ
国家自身が「これが国家である」という像をつくって個々人に信じさせて

つまり
国家とは何であるかがわからないままに
なんらかの像を国家として思い込み

そういう国家に従うしかなかったり
あるいはその国家のために命を張ったりするということで

人はもう何がなんだかわけがわからなくなってしまったと思います

つまり
国家というまるでおばけのようなものと関係を結ぶことを努力したり
強いられたりするわけで

もうこれは頭の中で納得するしかなく
皮膚感覚で生々しく経験することはありえないわけです

そういう中で
「個人」という
生々しいものを獲得したかったのではないでしょうか

ただ
「個人」というのはとてもわかりやすいとも思います
つまり

身体という単位でそれぞれ見てわかるように「個」だからです

だから「個人」というものを一生懸命語るのは
実は国家への反抗を語るということであり
「個人」とは何か
を語ることにはならないわけです

しかし
「個人」ということを今度は抽象化し像としてむずかしくし
さらにその像として「個人」になろうと努力したり
そうなることを強いられたりするということが逆に起こっている時代でもあります

「個人」がおばけ化している時代です

ですから現代は
そういう意味で
「個人」と「国家」がつながりやすい時代だとも思います。
それはどちらもおばけ的だからです
どちらも生々しくないからです

そしてそういうおばけ的「個人」は
実に中間共同体に反抗しはじめます

もちろん中間共同体が国家の小グループにすぎなかったり
国家みたいに像でしか理解できなかったり
国家みたいに大権力を握り
そこで明らかにいじめや差別があるならば
大いにそういう中間共同体に反抗したいところですが

しかし
中間共同体は昨日書かせていただいたように皮膚感覚で知る生々しさを伴うものでなければなりません

しかし
抽象化したおばけ的個人は
逆に皮膚感覚的な関係性を嫌い始めます
他者とべったりとなる関係から逃げるようになります
個人の像
つまり「自分」という像(それは虚構でしかないなあと最近は思ったりもしますが)

すっきりしないと気が済まなくなります

つまり
他者との関係が苦手になります
一定の距離をとったり
はすに構え始めたら要注意です

でも不思議なことに
国家には愛着を覚えます
さきほども書きましたように
おばけとおばけだからです

その内実としては
具体的にかかわりあるというエネルギーをつかわなくてもいいものどうしだからです
愛し合うと宣言して実行するというわずらわしさがなくていいからです
つまり他者の責任を引き受けるということをしなくて済むからです

だから
愛国心と自己愛は同じ本質でもあります

個人を身体いじょうの像にするとほんとにやばいと思います
しかもそれが心の病の最底辺にある原因だとも思っているところです

個人は端的に身体

そして中間共同体は
その身体を共同体として知り
共同体全体で身体という生々しさ
皮膚感覚でもって歩むこと

それは聖書でいうならば
ひとつの体であり

つまり
端的な個人が身体としてひとつであるように

同じ生々しさでもって
中間共同体はひとつの体なわけで

個人をこえて身体を作り出すという奇跡こそ
キリストの業なわけです

ですから

中間共同体においてはまず体の一部分となっていることを確認し
一部分であり続ける必要があり
それは
常にその共同体の責任を担い
逆に絶対に逃げることなく
そういう中で

歩み語っていくことが欠かせません


いま
おばけ「個人」論で
相当に変な論がでてきても
それがシャープな論と思われる時代ですが

これもまた現代の深刻な病だと思っています
死に至る病


つまり

いましっかり獲得すべきは

中間共同体として互いに互いの責任を担うあうこと

ひとつひとつをバラバラにして
あれはあっちの責任
これはまあこっちの責任かも
というのは病なわけです

全部の責任を担いあうわけです

キリストの体なる教会という共同体は
当然そうなわけです

だから
しあわせだし
すごいわけです


といったところでおしまい

中間共同体

2010年11月19日 | 教会のこと
昨日の記事のつづき
みたいなものですが

この10年ほど
この国では
中間共同体が消えた
ということが言われております

つまりそれまでは
国と個人との間に
地域や企業や学校という
中間共同体が存在していて
実はその中間共同体こそが人の生きる場であり
人が育まれ
人が安心して病にもなれるし死ぬことも出来るという
そういうものだった

ということなわけですが

これはとってもただしいと思っています

そして
地球規模でみるならば
この中間共同体が宗教である場合が多いわけでもあります

そして
これからはこの中間共同体を今一度復活させることは欠かせません

そして
たとえば政府は「絆」といい
京都市は「地域」といったりしますが

わたしは
その中間共同体の性質が問われると思っております

それはたとえば
中間共同体がキリスト教会だとOKで
それ以外だとダメ
ということではありません


中間共同体が人にとって本当に必要なものであるためには
次のふたつの条件が整うべきと思っています

それは
1、 人を孤立させない
2、 国家に迎合しない

まず
中間共同体の中で
いじめや差別など
人を孤立させる現象、行為があるとするならば
その時点でその共同体は人に必要なし
と判断していいと思います
そして改革をせねばなりません

中間共同体は
その共同体構成員のすべての人がお互いに行き届いている
というものであることを目指し続けねばなりません

そして
愛し合うことを宣言できねばなりません

その場合
中間共同体は
習慣や慣習、伝統や文化、地域性みたいなものに固執する必要がなくなります
端的に愛に立ち
その愛が慣習となり文化となり地域性となっていることを発見するという順序になります
教会の場合はその源がキリストであり
そこから信仰告白が生まれるという順序です


次に
中間共同体は国家のための小共同体であってはなりません
中間共同体は
その具体的人間関係の繰り返しという経験から
国家のすることがただしいか否かを判断し
ただしくない!というときは国家を批判せねばなりません

生々しい具体的人間関係(経済)の皮膚感覚にあわない国家は当然おかしいわけです

しかし
この10年では
なぜか国家の小グループとしての地域みたいな観点が叫ばれます
これはあぶないです

そして
バプテスト教会も400年前に
教会という中間共同体が国家の小グループになる危険性を指摘し
そこから解放されるためにたたかったわけです

わたしはやっぱり
キリスト教会がもっとも
中間共同体として国家に迎合し
そのゆえに間違いを犯してきたグループであることを
知るしかありません


だからこそ

国家を

生々しい人間関係
お互いに責任を担い合い逃げることのない人間関係
誰一人孤立させないという宣言のもとにある人間関係
そこで酸いも甘いも経験し豊かに人格が育まれるという人間関係
が毎日繰り返し起こる中間共同体の
その皮膚感覚から

導いていく

という

そういう中間共同体が
実に人を本当の意味で生かすわけでしょうなあ

と思っております


というところでおしまい



神さまのはたらく場

2010年11月18日 | 教会のこと
神さまを信じるってどういうこと?

この大前提において
すでに横たわっている大きな過ちを
ようやくことばにできそうなので
書いてみます

神さまは
個たちの交わりの中にはたらいています

それはまず身体がそうですが
遺伝子たち
細胞たち
器官たち
の交わりのなかに神さまははたらいています

ただ
単独の個にのみはたらいているのではありません

交わりとして機能している個たちにはたらいています

だから
単独の個人にはたらき
神さまと個人の関係
という関係を神さまがもつことはないはずです

個人と個人との関係のただなかに神さまははたらきます
個人と個人との出会いとして神さまははたらきます

そういう交わりに神さまははたらきます

だから神さまは聖書の意味するイスラエルにはたらき教会にはたらきます


だから
神さまを信じるということは
神さまにより出会い共に生き交わりをかたちづくっているという具体のなかで発見されます


同時に
個人と神さまという関係のなかでは発見されません


ちなみに聖書で神さまが個人にはたらくのは

その個人のためにはたらくというのではなく
交わりの象徴としての個人
その交わり(社会)全体の罪の象徴としての救いの象徴としての個人
を通して
交わり全体のためにはたらくということだったりします




いま
地球全体の教会を漠然とですが見るときに

個人と神さま
という関係を求めている場面では
教会も信仰も聖書を読むことも祈ることも消えていく傾向があるなあと思います

逆に
神に招かれて結び合わされたキリストの体なる家族として
教会という交わりを具体的に生きている場面では
祈りあい
聖書に聞きあい
信仰を分かち合い
教会が生き生きとしている
ということが起こり続けていると思います


大事なのは
教会家族として具体的に生かされる喜びであり
そこでおこる具体的なさまざなの葛藤を生かされる喜びであり
さらに具体的なさまざまの救いを経験する喜びであり

実に聖書はそればっかり述べていたりします


神さまと個人
という狭い枠はどこからうまれたんだろう??



たとえば平和のこととか福祉のことに関する活動をするときに出会う中で

神さまと個人という関係でクリスチャンだけど
具体的に生きているのは教会という交わりではなく政治的セクトだったりするケースが
よくあります

あるいは
教会で生きることなく血縁家族という交わりのみで生きるクリスチャンもまた多いです

つまり教会にはかかわらないでも大丈夫なクリスチャンが世界中にはたくさんいます
(とくに富める国、地域)

これは

ひとつの大きな病であり
キリスト教界全体で今後丁寧に祈り考え
解放を目指さねばならない
死に至る病だと思います


というわけで

神さまを信じる
というときには

この最初を誤るとえらいことになると思います。

個人と神さま
あるいは
個人のための神さま

ではなく

交わりにはたらく神さま
神さまのはたらきのための交わり

という具体のなかで
信仰を知ることがはじめて

はじめて!!!!

できるわけなのだと思います

というところでおしまい

スピリチュアル!

2010年11月15日 | 教会のこと
昨日もステキな主の日でした

礼拝での子どもメッセージは
Tさんのなんと手作り紙芝居!!

その紙芝居の美しさと同時に
キリストのすごみを伝えるために
時間と労力をあっさりと割かれる人格に感動!!

伝道のために時間と労力を割く生活へと導かれる!
これぞ霊の導き!!
まさにスピリチュアル!!

Mさんははじめて主の祈りを手話通訳
司会のHさんが会衆のみんなにそのことをアナウンスしてくれまして
すると
いつもの主の祈りも手話のスピードにあわせて
他の教会の倍くらいゆっくりなのですが
さらにゆっくりとみんなが祈り始めまして
その皮膚感覚で瞬時に他者のリズムとペースをつかむという
すごいことが礼拝で起きているなあと
これまた感動!!

自分の思いやリズムではなく
最も時間を必要とする兄弟姉妹の思いとリズムを全体のこととする!!
これぞ霊の導き!!
まさにスピリチュアル!

またなんとコートジボワールのバプテスト教会員のBさんが礼拝に参加
二週間京都大学でフランス語学の学会があったとのこと

わたし
コートジボワールの方とはじめてお会いできましたし
コートジボワールにバプテスト教会があることもはじめて知りました
また写真でコートジボワールのバプテスト教会の様子を見せていただきましたが
同じく自由で
いやいや日本より自由で
これまた感動!!

コートジボワールの方と共に礼拝できた!
これぞ霊の導き!!
まさにスピリチュアル!

午後の全体懇談会もステキ
あたたかいし
ほのぼのしているし
責任を引き受けあうし
積極的に奉仕に立候補するし
難しい議題も本質をはずさないし
なんと2時間もかかったけれども
誰も途中で帰らないし
時間が長くなっているという感覚がないほどに
充実していたし
幸せだったし
だからみんなすがすがしく終えて帰ることができたし

これまた霊の導き!
まさにまさにスピリチュアル!

そして
若者たちが結成を目指している
「教会バンド」が
昨日の全体懇談会の決議を持ちまして
スタートすることになりました

彼らが会議のために用意したレジュメがすばらしい!!

理念にドカンと聖書のみことば
目的の一番目に「キリストの体」を賛美で確認する!がやってくるのはたぶん当教会ならでは!
そして活動方法もみんなに開かれているものでみんながウキウキ!

質疑応答のところで
わたしはちょっと困るような質問をしてみました
賛美歌の作詞作曲もする?
とってもいい目で
します!
ってこたえてくれましたよ!!

当教会の交わりと歴史から賛美歌が生まれる日もそんなに遠くないでしょう!

そして「教会バンド」発足が決定したら
みんなが拍手!

ちなみに
バンド名はほんとに「教会バンド」

これほどまでに本質をあらわすバンド名もなかなかないなあと思いつつ感動!!

もちろん霊の導き!!
もちろんまさにスピリチュアル!!


最後にとくに覚えて祈ります

主よ
今週手術をされるHさん
先週仕事で指を落としてしまったYさん
今日明日と仕事の面接にいくTさん

働いてください
アーメン

バザーのすべては救い

2010年11月07日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

*********************

「バザーのすべては救い」

先週のこの紙面にて
私はバザーの「奉仕」は救いの業と述べさせていただきましたが、
3日のバザーを祝福の内に終えた今、
今度はバザーの「すべて」が救いの業であったことを噛み締めております。

まずご奉仕くださったみなさまに心から感謝します。
また祈りで支えてくださった方に同じく感謝します。
そしてご来場くださったみなさま、温かく見守ってくださった地域のみなさまに心から感謝いたします。

午前10時から午後2時までの開店時は常に満員でした。
満員電車のような会場内を動くことが出来ないくらいの状態になる時間帯もありました。
そしてきっとそういう状態では人はイライラするし、
そのことによって騒乱が起っても仕方がないところですが、
しかし、
来場者と奉仕者が協力し合って互いに思いやり、
みんなが気持ちよくバザーに参加し続けられた光景を目の当たりにし、
私は神さまとみなさまに感謝してもしきれませんし、
また神さまの愛のきせきがバザーの場で起こったと信じるしかありません。

バザーではあちこちで大きな喜びが起こっています。
貧困時代を迎えていますが、
バザーで一年分の衣類を超格安で購入できた方が最高の笑顔で私に感謝されました。
若い母親は子どもに久しぶりにおもちゃをプレゼントできると涙を浮かべて言われました。
このバザーに母親を連れてくるのが唯一の親孝行です、と言われた若い女性もいました。

また出会いが起こされています。
バザーに来ればいろんな人に会える、と喜ばれた地域の方がいました。
バザーで家族が集まるというケースもありました。
かつて同じアパートに住んでいた仲間がばったり会うということも起こりました。
心のこもった手作り品と出会うために朝一番で並ばれた方もいました。
奉仕者同士も出会うことがゆるされました。

そして多くの方が胸いっぱいの幸せを実感として与えられました。
バザーのすべてが神さまの救いの業でした。

すべてに感謝。そしてお互いにお疲れ様。


わたくしめのために・・・みなさまへのお願い

2010年11月06日 | 「生きる」こと
みなさまにお願いがあります

わたし
すべきことがたくさんあります

でもぜんぜん追いついていません

しかも
すべきことが意識から消えるときがあるほどに
身体が防衛に入ったりもします

だから

みなさまから励まされつつ
みなさまにせかされつつ

丁寧にこなしていきたいと思いますから

ぜひともお声かけをよろしくお願いします

日常の
教会の伝道と交わりと牧会
および
ホームレス支援機構京都寄り添いネット
の各職務のほかに
下記のようなすべきことがあります

☆ 「百万人の福音」原稿執筆
☆ 連盟ホームレス支援委員会フィールドワーク準備
☆ 連盟ホームレス支援委員会の今後のビジョンとシステムの考察
☆ 連盟定期総会資料分析
☆ 連盟医療団のこれからの柱となるパストラル・ケアの考察
☆ 連盟医療団のキリスト教精神と経営についてのビジョンとシステムの考察
☆ 連合の今年度の総括
☆ 次期連合伝道委員会の準備
☆ 当教会の今年度の分析と次年度のビジョンとシステムの考察
☆ 京都のホームレス支援の新展開の考察

以上のほとんどはあらゆる人たちとの対話が欠かせないものでもあって
いずれもとっても時間がかかることですが

でもそんなにのんびりできるものでもないので


ぜひぜひ

みなさまの祈りと
励ましと慰めと
ウソでもいいからあたたかいお言葉と

そして
つっついて急かすという行為を

心よりよろしくお願いいたします。



バザー感謝

2010年11月05日 | 教会のこと
今年も去る11月3日にバザーを無事終えることができました

地域のみなさま
ご来場くださったみなさま
ご奉仕くださったみなさま
献品くださったみなさま

心より感謝申し上げます

10時から14時の開店中は
ずっと超満員でした

商品を選ぶにも進めないし
購入するにも清算する場所までたどりつくのに時間がかかるし
本当はとってもイライラする状況なのに

来場者と奉仕者がみんなで協力し合って
ニコニコだったのがとても印象的でした

奇跡的だとも思いました


このかん

バザーをするたびにバザーが進化しています

それは
奉仕者が場数を踏むに連れ作業を合理的に
また身体的な自然な流れをつかむ中で行うことができるようになっていくことがありますが

同時に
ご来場されるみなさまが
(リピーターがとっても多いのですが
 だから毎年参加者は増えるというわけなのですが)
当教会のバザーの精神と雰囲気を
何度も足を運ぶ中で
身体感覚で覚えてくださっているというのが

バザーがますますあったかい場へと進化している要因だろうと思います

そして今年も謝らねばなりません

食事の数が足りませんでした
おなかがすいたけど食べられなかったみなさま
ほんとうにごめんなさい

来年はすべて最低でも2割り増しにする必要があります
3割り増しでもいいかもしれません


材料費よりも安い手作り品コーナーは今年も完売!
(なにゆえに材料費よりも安く提供できるのかは
 私はおそろしくてたずねることができておりません)
中古雑貨コーナーは昨年の150%の売り上げ!
中古衣料コーナーは今年もこのバザーで一年分の衣類を調達する方多数!
子どもコーナーも大盛況!一回10円のゲームが
会計報告から分析するなら300回くらいなされておりますから
子どもがたくさん来てくれたということで
感謝感謝でございます

カレーも焼きそばもたこ焼きもおでんも豚まんもわたがしもジュースも完売!
惣菜も完売!

そして今年も
止揚学園の仲間が来てくださって
当教会のバザーをポカポカにしてくださいました。
もちろん止揚学園コーナーも大賑わい!

またまた今年からは
当教会自慢の信徒であるプロの整体師さんによるマッサージコーナーも誕生

15分で300円という価格破壊による奉仕ですが
こちらも大盛況!

感謝感謝。

さてさて
そしてバザーに主体的にかかわる奉仕者の数がまたまた増えまして・・・

すでに昨年の段階で
私のバザーにおける仕事量が半分になっていることを
きっとこの場でもお伝えしていると思いますが

一昨年までは
バザーを終えた夜と翌日は
体が動かないほどに疲労するほど
私にとってはバザーが激務だったのですが
昨年は翌日は体が動きました
しかしびっくりしたのは
一昨年までは翌日以降も片付け作業が残っており
ひとりでゆっくりやっていたもんですが
昨年は翌日に片づけをするものが残っておりませんでした

そして今年は
当日は昨年よりも30分早く片付けと清掃作業が終わりました
しかも
私は半分になった昨年のさらに4分の1程度の仕事しかできませんでした
(みんながやってくださるのでやることがなかったのでした)
もちろん翌日以降に残された作業もありません

なんと今年は
私はバザー当日の夜も余力がありました
だから
晩の祈祷会を終えた後に
教会に残られた仲間たちと
夜中まで一緒に過ごしました

幸せでした

なんか
ウチの教会って
ほんとにすごいです

この町のありとあらゆるものが
教会に流れ込んで
教会からも染み出していくという

「ひと」
「いのち」
「たましい」

が豊かにあふれて行き来し

「キリスト」
が共におられるというのが

身体的に知ることができるって
すごいと思います


なにしろ教会のいろんな交わりにつながるすべての皆々様に
感謝するしかありません

バザーを主に感謝