きぼう屋

生きているから生きている

地域の新聞

2008年11月29日 | 教会のこと
わたしたち

日本バプテスト京都教会の

クリスマスの催しの案内が

地域に配布される無料新聞に

記事として(広告ではありません)

掲載されました


「リビング京都」

このページです


北区・上京区・中京区・下京区・左京区・南区・東山区
のポストに
昨日
投函されているとのことです

うれしいですねえ!!!


地域のみなさま

クリスマスはぜひ教会へ!!!


リビング京都さま
ありがとうございました

収穫感謝

2008年11月27日 | 「生きる」こと
平安女学院中高の生徒さんたちから
ホームレス支援機構・京都寄り添いネットに
お米を約50キロほどいただきました

生徒さんたちが家からそれぞれお米を持ち寄り
それを学校でまとめて届けてくださいました

心から感謝します


先週
同校の収穫感謝礼拝にて
おはなしをする機会を与えていただきました

130年強の歴史を持つ同校で
全生徒が参加する礼拝は初めてとのことでした
また朝の礼拝も含めて
外部講師を呼ぶのも初めてとのことです

そして
終わって一週間が経ったいまごろになって
私は自分がそのような礼拝に招かれたことの重大さに
びびっております

そういえば
礼拝の運営をされた職員、生徒の
開始直前の緊張感は相当のものだったと
今頃になって思い出しまして
すると
今頃になって私もようやくその緊張感を味わうという
なんとも鈍感なことをしております

同時に
礼拝終了直後のその職員と生徒の
ホッとしている様子も
今頃になって強烈に響いてきまして
それをニタニタしながら味わっております

同じ場所と時間に
共有できなかった私の鈍感さを
おゆるしいただければと願うばかりです

そうなると
チャプレンが当日私に語ってくださった言葉が
急に生々しくなってきました

礼拝に向けて学校全体の緊張感が高まっていること
高まりすぎてどこかでそれが学校のそこかで破裂してしまいそうなこと

チャプレン独特のユーモアあふれる表現で話されておりました

そりゃあそうだと思います
あれだけの大きな組織が
130年強で初めてというのは

小さな交わりで56年の京都教会が
何かを初めてするというのとは

すべてが違う
のだと思います

そういう組織と歴史の規模の違いは
京都の地における働きや信頼度の違いであり
その積み重ねの違いであり

それはそれは
背負っているものがあまりに違うということを

わたしは当日までに想像すらできませんでして
今頃になって想像できてしまって
とってもドキドキしているわけなのです

そして私は

礼拝の前後に
奉仕者が円になって
チャプレンが祈ってくれた姿にこそ

平安女学院の規模の源を見た気がします


関係者のみなさま
鈍感で
すみませんでした

生徒のみなさま
お米を本当にありがとうございます。

来週の月曜日は
* 寒い冬を一緒に乗り切ろう!焼肉大会!*
を開催しますので
そのときにみなさまからのお米を用いさせていただきます

また
少しでもわたしのお話にビビビってきてくれていたら
なによりですし
そういう場合は
チャプレン室に飛び込んで
チャプレンをつかまえて
たくさん神さんの話を聞いてくださいませ

アドベントにいよいよ突入
平安女学院のクリスマスが祝されますよう
祈ります

ステキ

2008年11月25日 | 教会のこと
青年会主催礼拝は
やっぱりステキでした

感謝感謝

ひどい風邪で体調をひどく崩していたことを
みんなには見せずに
子どもメッセージをしてくれたMちゃん
ありがとう
そしてごめんなさい

主の癒しを祈っています
主が共にいてくれています

子どもたちのために
教会のために
キリストの体のために
つまり主イエスのために

しんどくても立つことを

わたしも選んでしまうし
下手したら
ぶっ倒れるまでやってしまう性質でもあるので

その気持ちというか
精神性を多少ですが
共感してしまうので

お休みすることを積極的に勧められなくて
ほんとにごめんなさい

でも
わたしは実際にぶっ倒れた経験から

休むという罪を
積極的に大胆に犯しつつ
それをキリストに担っていただき
さらに牧師にも一緒に罪を背負わせて
さらにさらにチーム・キリスト全体でその罪を背負い

とりなしの祈りを質量ともに集める

ということもとても大事だこと
と考えるようになりました

今のわたしたち教会は

それができます!!

ここが
教会が10年で身につけたことだと思っています

でも
そうしてまで奉仕してくれた姿は
教会を本気で生きている仲間たちに
大きな励ましを与えてくれています

メッセージの中身も
子どものみならず
大人たちにも響くもので
すばらしかったと思います

Mちゃんのメッセージは
十字架と復活がかならず語られて
魂の奥に響いてきます

十字架がないと
魂に届く前に興奮したり納得したりできるのですが
それをゆるさないメッセージは
誰にでもできることではないだろうと思います

この場所に立ち続けることは
教会でも教室でもどこでも
人とかかわるとき
人に話すときに
キリストの事柄として現れるのだろうと思います

ほんとうにありがとう
でもごめんなさい


司会をしてくれたMくん
丁寧に祈り準備を重ねてくれて
ノートまでつくってくれて
発するすべての言葉に内容を持たせ
余計な言葉がまったくなく

でも
というか
だからこそ
優しくてゆとりのある司会進行で

とっても感動しました


奏楽のKちゃん
手話通訳のHちゃん
映写のMちゃん
受付のSちゃん、Tくん

みんなみんな感謝感謝

受付はすっごく楽しい!
教会のみんなと会話できるし!
ステキな表情と出会えるし!

と言ってくれて

さらに
受付したら名前を覚えられてうれしい!

と言ってくれて

これまた感動しました!!




Sちゃん、Hちゃん、Mちゃん

一緒に晩ごはんを食べることができて
いろんな話をすることができて
嬉しかったです

子どもたちの相手もしてくれて
感謝感謝です

なのに
わたしが疲れが出て
先に寝てしまってすみません

翌朝の手紙は
天が来たかと思うほど嬉しかったです

これでクリスマスを乗り切れるくらい
信仰とやる気が降ってきたかんじです


青年のみなさんに励まされてばっかりの
なんだか役割が逆転してしまっている
ダメ牧師ですが

わたしもたくさんたくさん祈ります

みんな
ほんとに
ありがとう

チーム・キリスト その4

2008年11月23日 | 教会のこと
今週の京都教会週報巻頭言

******************

「チーム・キリスト その4」

本日は青年会主催礼拝です。
心から感謝します。
すでに、「恒例の」礼拝!と嬉しく言えるところの青年による礼拝ですが、
彼(女)らの企画する礼拝に私たちの心が震えるからこそ、
次回を楽しみにしつつ「恒例の」と呼びたくなるのだろうと思います。

そして私たち教会は、この礼拝から学びます。
「チーム」として礼拝が準備されるということをです。
青年たちの持つこの「チーム」の感触を、
少しでも教会全体のものとしてつかみ取りたく願います。

先々週、私は連盟の定期総会に参加しました。
そこでは、青少年が教会から「消えた」状況にどう対応すべきか、
という課題が、
至る所で語られました。
連盟としては、「人づくり」というテーマを掲げ、
様々な方策をさらに進めることが決まりました。

どうしたら青少年は戻ってくるのでしょう?

私はそれについては単純に考えるべき、
と思います。
私は、
信仰と希望と愛を!
神とキリストと聖霊を!
復活と十字架を!
身体で覚えることができる!教会であれば、
青少年に限らず、
教会から人が「消える」ことはないだろう、
と信じます。

とりわけ昨今の世界事情のなかでは
もっとも無視されるケースの多い十字架を
繰り返し身体で覚えることは、
人が共に愛に満たされ生きるための最大の鍵となります。

私たちはキリストの体であり、
各々はその一部であります。
私たちは教会というチーム、さらには地球というチームとして、
(宇宙というチームと言ってもいいでしょう!)
まさに「キリスト」を頂く者!です。
その名を、その身体を、その赦しを、頂く者です!
私たちはそれを端的に信じ生きることができます。
その歩みを選び取ることができるし、選び取るべきです。
そして、その歩みにこそ、深い真理の喜びが隠れていることを知ります。
ここに立ち続けることは極めて大切です。

青少年とは、自立する時を迎えている者たちです。
それはありとあらゆる出来事を、
新しく自分の視点で受け取りなおす作業に
懸命に取り組まねばならない者たちです。
つまり青少年とは、
すべてにおいて新来者になる時です。
だから彼らは、
教会においても新来者となります。

だから教会が青少年に出会うとき
教会は単純に
教会の新来者に対するかかわりの深さ、重さなどの質が問われます。
教会の愛が!問われます。
教会の希望と信仰が!問われます。
教会が本当に自分の思いではなく、
神、キリスト、聖霊に従い、キリストの体というチームとなっているか!が問われます。
さらにそのチームが丁寧に復活と十字架とを生きているか!が問われます。

そして、もし青少年という新来者が「消える」なら、
それは神さまからの教会への豊かな問いかけであるはずです。

また同時に一般の新来者も、
青少年の「消える」教会には、
同じ原因ゆえにつながることができないと思います。

私はこのあたりのことを丁寧に省みつつ、確認したいと願っています。

私たち「チーム・キリスト」の、
さらなる成熟を、
共に祈り、
共に担うことがゆるされるなら、

幸いです。


チーム・キリスト その3

2008年11月22日 | 教会のこと
今週の京都教会週報巻頭言です。
と言っても
今週は今日までなのですが・・・

********************

「チーム・キリスト その3」

私は小津安二郎の映画が大好きです。
人生の先輩方が、「懐かしい」と言うほどの、
また同世代では小津を知らない人が大半となっているほどの、
いわゆる古い映画ですが、

しかし、
小津以後の映画からはなかなか見つけられない、
人間が世で生活するために不可欠な事柄を、
小津は淡々と描いてくれるので、
私は
学びと楽しみを兼ねて観るようにしています。

小津映画は、
共同体に不可欠な事柄を
冷静な情熱をもって描いていると思います。
親子関係、夫婦関係、兄弟関係、地域の関係における
鍵が、
映画の中の、
見過ごし、聞き流してしまうような部分にまで、
丁寧に組み込まれています。

さらに、関係の一つひとつ(映画の台詞の一つひとつ)の中に、
余計な言葉が全くないのに、
「生」と「死」とが語られていきます。
 
ただぼんやり見ていると、そのまま終わってしまいますが、
すべてを見逃すべきでない極めて緻密な映画です。

私はしかし小津映画の宣伝のために紙面を使うわけではありません。
小津以来、
それ以上に緻密に関係性の鍵を描く映画がないことと、
キリスト教会という共同体が、
緻密な関係性を味わっていた時期と、
そういうのが希薄になり、
個人と神の関係をより多く語るようになって、現在を迎えていることが、
決して別々の現象ではないような気が、私にはするのです。

小津映画が押さえるポイントは、
個人が各々の生活ゆえに、
関係を担うときの時間、地理、経済などの限界を抱えつつも、
しかし、その関係が重いままであること、
ゆえにかかわることのできない現実もまた重たい!ことを
静かに丁寧に抱え悩むこと、
その悩みが共有されること、
それらが熱狂的にでも冷笑的にでもなく、
淡々と冷静な情熱の内に交わされること、
などであります。
 
私はここに「チーム・キリスト」のヒントを見ます。
生活の中の十字架と復活を見る気がします。

共同体が熱狂で維持されるのでもなく、
共同体を冷笑し、個人維持に走るのでもなく、
キリストにより共同体を生かされるという、
つまり誰も孤独ではない!「チーム・キリスト」を、
本日は確認できればと願います。

私たちはキリストの体です。

ルワンダより

2008年11月21日 | 「生きる」こと
皆さま

ご無沙汰しておりますが、お元気でお過ごしでしょうか。
ルワンダの佐々木です。
ご存じのように、
コンゴ東部の紛争激化と人道危機、
それにルワンダの関与が取りざたされている問題、
さらには、ルワンダ政府要人のドイツでの逮捕以来
(1994年4月6日、前ルワンダ大統領搭乗機撃墜の容疑)、
連日のように抗議デモ
(訴追したフランス、フランス司法当局の要請に従って逮捕したドイツへの抗議)
が続いていたなど、
こちらは少し重苦しい雰囲気の中で生活しています。

既にご存じの方もおられることと思いますが、
私がルワンダのNGOの仲間達と進めている
「修復的正義による和解」の取り組みに関するドキュメンタリーの放映日が近づいてきました。
日本においでの方は、ぜひご覧頂くとともに、
ルワンダや和解の問題に関心をお持ちのご友人・知人の皆さんに
ぜひご紹介くださいますようにお願い申し上げます。

NHK衛星第一放送(BS1)
BS世界のドキュメンタリー
<シリーズ 和解への苦悩>
“償い”への家造り ~ ルワンダ・集団殺戮からの模索 ~ (仮)
11月27日(木) 午後9:10 - 10:00

再放送予定 12月11日(木)午前10:10-11:00 

詳細はhttp: //www.nhk.or.jp/wdoc/yotei/index.htmlをご覧ください。

この週は、
「和解への苦悩」をテーマに、
南アフリカの真実和解委員会を通しての和解への歩みや、
北アイルランド紛争の加害者と被害者の間の対話の取り組みなど、
非常に興味深いラインアップになっています。

今のところ、
上記のようにBS1で2回放映が決まっていますが、
日本での反響が良好であれば、
英語版の製作も検討したいとのことです。
私もぜひそうなって欲しいと願っていますので、
出来る限りの宣伝をさせていただいている次第です。
ご協力どうぞよろしくお願いいたします。

なお、最近の活動の様子については、
ホームページ http://rwanda-wakai.net
をご覧下さい。

皆さまの健康と安全をルワンダからお祈りいたします。 



反省

2008年11月19日 | 「生きる」こと
月曜日から水曜日まで
同志社高校の宗教週間に招かれておはなしをさせていただきました

月曜日は1年生
火曜日は3年生
水曜日は2年生
でした

いずれも楽しかったのですが
しかし最終日は反省材料がたくさん出ております

聞き手からすると
3回の中で最終日だけ反省材料が多いということは
わからないことかもしれませんが
話し手としては申し訳ないくらいです

ひとつは
急に寒くなり鼻かぜをひいてしまい
体調がほんの少し整わなかったことがあります

すると言葉にも影響するわけでして
語る言葉に身体が乗っかりきらない
ということが起こってしまったと反省します

言葉が前日までの2回とくらべて
軽くなっていたと思いますし
斜に構える生徒の閉じた胸筋にはじき返された言葉もあっただろう
と反省します

もちろん
体調が整わないならば
そういう身体として
その身体を言葉にのせるということもできるし
牧師ならばせねばならないのですが

それは体調の整っている時の何倍も準備が必要ですし
その準備をやりきれなかったというのが正直なところです

おなじように生徒は静かに聴いてくれていましたが
彼らの言葉への接触度は
違ってしまっただろうと思います

また最終日の話は
これまでは
人とかかわる仕事をする人たちや
そういう仕事をするために勉強している学生たちにしてきた話で

今回高校生にこの話をするというのは
ひとつの実験でもありました

しかし
この話を高校生にするためには
もう一年ほど熟成させる必要があることがわかりました

つまり
話の中心のキリスト論を
高校生に伝わる言葉にしきれなかったと反省しています

キリスト論は抽象語で語っても意味がありません
生活中の物語、証言として語られるべき言葉です

だからそれらを語る場合は
聞く相手が追体験できる物語を語る必要があります

そして高校生に語ろうとするならば
まずわたしの準備としては

わたしが高校生となって考える
ということが必要です

もちろん現在高校生ではないし
高校卒業後に多くの事柄を経験し、学びとっていますが

しかし高校卒業後のそれらがない状態のわたしとして
考えなければなりません

もちろんそれが完全にできる可能性はありませんが
これを丁寧にすることで
聞き手に届くキリストを語ることができるようになると思います

その意味で
本日の話はあと一年は
わたしがもっと高校生となって考えるということを必要としていますし
それを繰り返すことで
話自体が熟成されるだろうと思っています


さて
次は平安女学院です

次というのはもう明日なのですが・・・

平安女学院は
こういうキリスト教の集会を
はじめてするということでした

それにはびっくりしましたが
初めてということは

職員も学生もわたしも
同じ緊張感の中で時を過ごせるということでもあるので

これはなかなか楽しみです

キリストの臨在を感謝しつつ

光あれ!

2008年11月17日 | 「生きる」こと
本日から三日間は同志社高校の宗教週間でのおはなし

先週がわが連盟の定期総会だったので
先々週に話を仕上げておりまして
コンピュータに入れておりました


今朝ちょいと早起きして
そのデータをプリントしようとして
パソコンを開けたら

なんと
画面が真っ白に光っています

液晶が吹っ飛んだようです

画面に何もうつらないのでなにもできません

一瞬ですが
そうとう久しぶりに頭も真っ白になりました


聖書箇所と説教タイトルは
高校へファックスで知らせたときの紙が残っていたので
それをもとに
考えていたことをもう一度メモにしまして

無事おはなしはできました

学生たちは
おはなしの前はうるさいけれど
といいますか
積極的に
無視したり
雰囲気を乱したり
という
とてもなつかしい自己表現をしてくれまして

ほほえましいかぎりです

はなしが始まったら
徐々に体の角度がこちらに向いてきまして
最後は
正面を向いてくれていました

感謝です

実はなかなかの学生たちだということは
よくよく知っておりますので
安心して
この状況を楽しめるのは
嬉しいです


というわけで
学校から戻りまして
あわててパソコン屋に行きまして
お店の人と
いろいろ相談した結果

新しいパソコンを購入しまして
明日はその設定でかなりの時間がとられてしまいます

ちなみに
この記事の投稿は妻のパソコンでやっています


その後
お見舞いに行きまして
入院している仲間といっしょに
お医者さんから詳しく病状の説明を受けまして

最悪の状況ではないということで
かなり安心しました

入院している彼は
自分の食事代をけずってまで
猫たちの食事を買っておりましたが

その猫たちを
わたしは何としても
彼が元気になるまで
世話したいわけです

他の仲間も
すでに世話を引き受けています

彼は
その猫が心配なこともあり
ずっと入院を拒んできました

しかし
ボランティアの女性看護師さんが
彼と街で会ったときに
その状態を見て
涙を流しながら
入院をすすめてくれまして

「おれのことで
 涙までながして心配してくれる人がいるから
 入院する」


先週ようやく入院しました

みんながついている!!
気長に行こう!!

今週はだいぶ寒くなるそうなので
路上で生活する仲間は
とても緊張しています

この間の金融破たんで
底辺で働いていた人たちがたくさん首切られ
ホームレスが増えてもいます

今週の金曜日は
夜10時から市役所前炊き出しですが

とても寒い中の炊き出しとなると思います

だから
みんなで暖かくなりたいです

パソコンは光らなくていいけど
こちらには
光あれ

夕礼拝

2008年11月10日 | 教会のこと
昨日の礼拝も祝され感謝でした

当教会は夕礼拝を持っていませんが
昨日
朝の礼拝に仕事で参加できなくなった青年と
彼女が来るのを待っていた二人の青年が
自主的に礼拝をしていました

こういう交わりが
あちこちで起こされるようになったら

バプテスト
ってことを主張できるのかも

と思いました

ステキな姿で
うれしかったです


執事会では
来年度の方針を決めました
それを23日の全体懇談会で共有し
来年2月の定期総会で決めるわけですが


テーマと聖書箇所は今年と同じ

ということでいきたいと思います

「チーム・キリスト」
ということばが
ここにきてあらわれたので

だったらそれを深めつつ
キリストの体
というテーマをさらに一年分かち合おう

ということになりました

来年度の特別伝道集会は
なんとかがんばって
ルワンダで奉仕されている
佐々木和之さんを招こう

ということになりました

また
キリストの体
をテーマとする
讃美歌をつくる!
ことにチャレンジすることにしました

ハード面では
議論が続いているところの
庭整備がなされます

また今年度に引き続き
みんなが会堂清掃という恵みに与れるよう
そういうプログラムを組み続けることにしました

また
バプテスト病院チャプレンを覚え祈り支える
ことも具体化したいと願いました


さらに来年度したいことがあったら
ぜひ23日の懇談会でご提案ください

ではでは


ホームレス その1

2008年11月10日 | ホームレス支援のこと
本日は今から
ホームレス支援機構・京都寄り添いネットによる
炊き出しです

さて
京都に来て10年
住まいが荒神橋の西詰めということで
橋の下で生活する人たちと顔をあわせて10年

そこから知ったこと
考えていること
などなどを

すこしずつここに書いていこうかと思います


今日はまずテーマをすこしあげてみることにします

① 食事と服
② 共同生活
③ したたかさ
④ もうひとつの生と死
⑤ 支援団体
⑥ 支援者
⑦ ホーム

チーム・キリスト その2

2008年11月09日 | 教会のこと
今週の京都教会週報巻頭言です。

*****************


「チーム・キリスト その2」

先週のバザーの成功を主に感謝します。
そして関係者、地域の皆様と共に喜びつつ、
奉仕者に厚く感謝申し上げます。

当教会においては、
バザーが最も地域に開かれる時になっていると思います。
それも素人集団が一方的に「開く」ことに
何ヶ月もかけてチャレンジすることによって成立しています。
「開く」ことでもたらされる利益もないのに
あんなに大勢の他者を迎え、受けるために開きます。

この無利益でこちら側を一方的に「開く」行為は、
キリストの業であり、
キリストに期待し、キリストと共に歩む
「チーム・キリスト」ならではの行為ではないでしょうか。
もし益があると言うなら、
それはキリストである!
と言うしかないところの
「チーム・キリスト」ならではの行為です。

ただバザーの場合は、
品物やお金が絡むので、
利欲、物欲が信仰、伝道に先行しないよう気をつけるのも大切なことであり、
ひとつの信仰を精査できる場でもあり
来年度以降もこのあたりを丁寧に認識し続けたいと願います。

さて、こちらが「開く」ことで相手も「開く」ことは、
心理学でよく言われることで、
私もそう思います。

そして「チーム・キリスト」は、
実はお互いを開きあうチームでもあります。

本日はバプテスト福祉デーです。
福祉は元々「チーム・キリスト」によるものでした。
それは、互いに開かれた状態でかかわりあうことが目指されてきました。

しかし、
福祉が「チーム・キリスト」だけでなく、
「チーム・ヒューマン」と表現できるような
人間の業として捉えられるほうが多い今は、
同じ福祉の中に、
突き詰めることの困難な二つの前提が混在していることを、
私たちは知ります。

それは、他者との交わる方法、距離における前提です。

「チーム・キリスト」は、
相手が「開く」状態に変わるまで、
しつこくかかわることを選択すると思います。

しかし「チーム・ヒューマン」は、
相手が閉じていようと開いていようと、
相手の個人という枠を犯さない距離をもってかかわります。

ここには信仰の違いがあります。

「チーム・キリスト」は、
他者との関係の中で、
相手本人の言葉と同時に、
キリストの命令を、
キリストのかかわりを、
聖書から聞こうとします。

「チーム・ヒューマン」は、
その相手本人からのみ聞きます。

だから「チーム・キリスト」はおせっかいですが、
「チーム・ヒューマン」はスマートです。

このあたりはどう考えたらよいでしょう。

私は
自分がキリストにどう対応されたいか
を考えます。

私はキリストにおせっかいをやいてほしいです。
そして「私」という閉じた殻を
なにがなんでもやぶってほしいです。

そういうわけで、
私も「チーム・キリスト」として福祉を生きたいと思います。

みなさんにも「チーム・キリスト」をお勧めします。

ぜひ。


歴史

2008年11月08日 | 「生きる」こと
最近10年分の
関西地方連合の総会資料と議事録を
何度か読んでいます

手元にある10年分のニュースレターもすこし読んでいます

そこで
わかったことがあります

これだけでは
歴史がわかるはずもないなあ

ということです


わたしは10年間関西にいることがゆるされていて
関西地方連合の企画などに参加することもゆるされ
いくつかの責任を担いもしましたが

その経験と資料をあわせても

まず何もわからない

ということに

歴史の深さを思い知らされています


昨日
ある教会の40周年を祝う礼拝に参加できました
プログラムに簡単な歴史年表がありました

でも年表からは

わたしは何も知ることができない
ということがわかるのみでした

京都教会にきて10年
50年分の総会資料や週報を読みます

でも

そこに書かれていることと
教会に集まる個々人の言葉の

乖離は

時を重ねるほど明確になります


つまりわかることは

文字は

言うほど
ぼくらに
いろいろ
伝えない!!

ということです

もしかしたら逆に
取り繕っているものが多いのでは

ということです


熊野先生が

バプテストバプテスト言う者はバプテストにあらず

という言葉を残されていますが

そのとおりだなあと思います


たったすこしの残されている文字で
初代バプテストとかを語って

その原理を今の日本の教会に当てはめることに

客観性はまず認められないだろうと思います


では熊野先生はなにが言いたかったのか


バプテストとは
そういう文字
そこから派生する伝統文化
さらには国家

というものから自由になるゆえに

ただただ

キリストの交わりを生きる

ということではなかったか

と思います


歴史は
文字からそんなに見えないわけです

ではわたしたちが知るべき歴史は何か

というと

それは
なお伝承されている物語である!

といいたいと思います

今もなお
まるでその物語の時空に生きているかのような
生々しさと熱さとをもって
語られる物語こそ
そういう証言こそ
歴史!

といいたいと思います

さらに言うなら

5年10年で語られなくなる物語は
それでいいだろうなあとも思います

しかし
10年たっても
20年たっても
50年たっても
100年たっても

2000年たっても
3000年たっても

熱く熱く語られる証し
告白
物語


歴史である
ということができるのでは
と思います


京都教会の歴史とは

今なお語り継がれている
具体的な顔が見える物語であり

その伝承こそ

京都教会が歴史を生きた証である
ということでありましょう

逆に伝承がないなら
物語の継承がないなら
歴史を生きてきていなかった
ということでもあります

それはあらゆる共同体で同様なわけです


キリスト教会とは
いまなお
十字架と復活のキリストが
生々しく証しされる共同体です

それに触れたことによる
回心
転向
転換
触発
衝突
悔い改め
復活
などなどが

具体的な物語として

いつ
どこで
だれと
だれが

という物語として

語り継がれているところの
その物語そのものが

キリスト教会の歴史なのだろう
と思います


たぶん
歴史というものを普遍的に見た場合にも
そういう伝承されたものが
客観性を持つのだと思います

文字による資料がいくらたくさんあったとて
生々しい証言に勝ることはありません


文字を分析して
そのさまざまなイイワケやアリバイという取り繕っているものを削って
歴史の
ある地点を掘り起こすよりも

伝承された物語から
そのさまざまな膨らんだものを削り落とす作業などをして
歴史を掘り起こすほうが
客観性を得るのではないでしょうか

ただ
物語の伝承は
交わりの中で起こります
共同体を互いに責任的に生きる中で起こります
それが歴史を生きることです

だから
物語が伝承されていないということは
交わりに責任的に生きていないということ
歴史を生きていないということにもなるわけです



もしキリスト教会を評価しようとするなら
ここの部分だけでいいだろうと思います

教会の生々しい物語の伝承があるか否か

教会のビジョンとか企画とか
出席状況とか献金状況というものは

10年ですっかり消えてしまうようなものでもあります


キリストを証言する
キリストの物語を生きる

キリストの体を生きる

そこに歴史がある


というところを大事にしたいと思います


はなしは元に戻って

わたしが関西地方連合の歴史がわからないのは
そういう物語
証言を
生々しく熱く聞くことに出会っていない

ということだろうと思います

だから
わたしは
物語探しをするというわけです

というところで
おしまい。。。

来年

2008年11月07日 | 「生きる」こと
ようやく来年の手帳を買いました

来年は忙しいのがわかっているので

あえて

とても小さな手帳にしました

その手帳に書き込めることのみ

わたしが全身全霊でできる

という

わかりやすい基準にしようと思いました

たくさんやって

どれも中途半端というのは

なんとしても避けたいなあ

と思いました

ロゴス

2008年11月06日 | 「生きる」こと
来年1月から関西の教会連合の責任を担うので
そのために祈りつつ考えています

以前この場所で
関西では論理ではなく原理が語られているのでは?
という認識を示しましたが

しかし
関西ばかりの問題ではなく
地球全体の教会
さらには
地球全体で用いられている言語状況が

原理的になっている!

ということでもあるだろうと思います

原理というと
原理主義という倫理が批判的に語られるわけですが
そしてそれは
右とか左とかいう政治的区別のなかで
ウルトラ右
ウルトラ保守
として分類されがちですが

この分類は政治的に利用しているところの分類であり
正しくはないと思います

右だろうと左だろうと
原理主義はたくさんあります

原理とは
言葉を概念として認識し用いること
なのだなあと昨今考えるようになりました

そして言葉をいじりながら
お互いの概念をあわせていく作業をするという
そういう言葉のかぶせあいが
現在の主流の言語使用法なのだと思います
といいますか
それしかできないという
人間の限界性があるのだと思います


そこでは
お互いの概念がぴったりはまる
という信仰が働きます
つまり
同じ音の言葉を用いれば
たとえば辞書などでそれの意味があるように
かならず意味が
あるいは概念が
一致する
という信仰を前提として
言葉が考えられています

そういう概念一致信仰のなかで
足し算や引き算をする程度の言葉のやりあいで
お互い納得できるというものが
きっと
原理
と呼ばれるものだろうと思います

しかし同じく概念一致信仰のなかで
高度な幾何学的な言葉のやりあいとなると
それは
あの優れた思想的内容を持つ
「言語ゲーム」と呼ばれるものになるのだろうと思います

さて
原理なり
言語ゲーム(ほとんどは中途半端なものですが)

ことばとして採用している場合は
言葉の意味や概念のみが判断基準になります
だからそれのみが気になるようになります

そこでは
言葉の語られた歴史
背景
表情
音の長短強弱
語った人、場所、時
その人の歴史と背景

というものは
きっとあとまわしになります

顔も体も歴史も世界も
ずべてがことばとしてこちらに向かっている
という意識が乏しくなります

ここまでだと
高度な言語ゲームならば
含んでいるということになりましょうが

しかし
さらに超越の出来事こそが
それらをかたちづくり
命のことばとして衝突してくる

という
つまり

ことばがロゴスである
ということは信じられていないようです

ロゴスという人間の限界を超えた出来事は
軽く扱われるようです
限界を超えることを思うのは
積極的に非誠実なこととし
人間の範囲内ということにこだわることを
積極的に誠実なこととして
受け止めるようです

だから概念一致信仰に立つ人は
まずかならずすべてを
言語表記として発することを求め始めます

そしてその意味を追求します
意味を追求しないと落ち着くことが出来ない
という
病理的な振る舞いになると言っても過言ではないと思います

でもそれはひとつの政治手法とは言えるけれども
ことばの本質には迫ることにはならず
対話として成立することもないだろうと思います

概念の重ねあいを対話と錯覚することは極めて多いと思いますが・・・

また言語表記能力がない場合

つまり
お互いの言葉がまったく通じ合わないという
異邦人と出会った場合

脳の働きはそれぞれユニークだから
言語表記でない表現を得意とし
言語表記は極めて苦手とする人と出会った場合

そこでの対話とは
何を指すのでしょうか


概念一致信仰に立つ場合に起こるもうひとつの面白いことは
意見が一致しない場合に
それぞれの原理がある
という相対化で納得する
というか
消化する方法を選ぶということです

あなたの理解はあなたの理解で
わたしの理解はわたしの理解
というふうに・・・

これは
一致できない場合の
自分の抱えるしんどさを回避するための手段
でしかないところのものだと思います

ちなみにわたしは
相対化というものが
それを超えているという論に
出会っていません
相対化の本質はもっと違うところにある

いまだ信じるひとりであるのですが・・・

となると
概念一致信仰は
悔い改めを必要としません

ロゴスを言葉として歩む場合は
それが互いに引き受けあえるということの不可能性の上に立つので
つまり他者の歴史、人格、精神を知りうることの不可能性を前提とするので
人間の限界が前提なので
ゆるしと悔い改めと和解の中でしか
言葉が成立しないことを知ります


もうひとつ面白いことは

概念一致信仰に立つときの次の現象です

歴史には
交わりには
言語表記され得ない領域を含んだ
時空における他者との関係性が育まれているけれども

そしてそれを
自分の範囲内で概念化することは
実にとても大事だけれども

しかしその概念は便宜上のものであり
ある意味偶像であることをも承知しつつ
その罪を引き受けつつ取り扱う

ということにはならず

その概念化されたものが
信仰され

さらに
信仰された概念を壊して
(いわゆる概念くずしという思考における初期訓練をして)
あたらしい概念に組み替えると
それをまるで
新しい発見のように信じてしまい
高揚するという

そういうサイクルを生きることになりがち

という現象です



原理主義とは
簡単に納得することを目指します

程度に大きな差があれ
言語ゲームは
複雑に納得することを目指します

ロゴスは
納得できるはずがない地点を目指します


十字架
復活
創造
終末
イエス
キリスト
信仰
和解


福音
律法
聖霊


あげればきりがないこれらの主要な言葉は

概念一致信仰で読まれることを拒絶します

ロゴスにおいて与えられるしかありません



長いですが
もっといきましょうか

言葉は
お互いの関係の中で起こされます

関係は
交換であり経済であり制度であり手続きとなります

わたしはかつて
原理主義を手続き主義とも言い換えて批判していましたが
それは私の認識不足でした

経済も制度も手続きも
ロゴスの領域があるけれども

それらこそ概念一致信仰で語られることを求めるゆえに
そこに陥ってしまい
ロゴスとして受容することができないケースが
ほとんどなのだろうと
今は考えています

概念一致信仰者は
手続きやお金の話をたくさんするようになります

そこに命を賭けるほどになるケースも少なくありません

しかし
それを互いに納得などできない!領域!における
キリストによる出来事
という信仰に立って

つまり
来年一月から関西の教会連合の働きを担いたいと思うわけです


さいごに
概念一致信仰という原理なり言語ゲームに立つと

決断
宣言

という事柄が縁遠くなります

決断
宣言

納得できないところでしか発生しないからです

納得できるものを決断したり宣言しても
それは出来レースで内容を失います

だから平和に関する信仰的宣言は
いやいやあらゆる決断や宣言は
概念一致信仰がはびこる場所では
受容できる場所を持たないので

平和宣言を関西のひとつのテーマにしたいのですが
ここは悩むところです

世界状況上
待ったなしなのですが

しかしここは

平和宣言という決断が有効な土壌でないなら

原理で平和を考えるという仕方で
なんとかやっていく

ということで
状況に応答するという
わたしからしたら妥協ですが
しかし現状における最良の方法を
選ぶことになるのかと思っています


というわけで
長らくお付き合いいただき感謝

ではでは

問題集

2008年11月05日 | 「生きる」こと
バザーが終わって
ほっとしつつもさみしくて
昨日今日と
バザーの後片付けと会堂掃除を中心に
過ごしました


午後にすこし時間ができたので
DVDで映画を見ました
小津の「東京物語」
小津映画の凄みを語ったり
わたしの解釈を披露することは
こういう公の場では
はずかしくてできませんが
なにしろあらゆることを学んでおります
ホーム
関係性
人間性
などなどを・・・

その見ている途中で
電話をいただきまして
気になっていた方からのものでして
元気でなによりでありました

会話するなかで
その方が

聖書は回答集でなくて問題集ということですね

と仰られまして

なるほど!
というわけで
その言い回しをこれからお借りすることにしました

祈祷会も
新しい方と一緒に祈ることができて
感謝感謝でした

バザーが終わって
疲れが出ている教会の仲間がおられます

たくさん祈ります

主よ
癒しの手を差し伸べてください
アーメン