きぼう屋

生きているから生きている

変化

2010年05月30日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

****************

「変化し続ける」

和解の主を信じる私たちは、
主により世界のすべてが出会い、和解するために、
そこにむかって、その只中で、歩みます。

だから私たちは、
和解とは逆の方向に向かっている世界中の出来事に敏感になり、
その出来事の只中にいる他者と
できれば寄り添い、少なくとも彼らのために祈ります。

朝鮮半島が緊張しています。
戦争となる可能性もあります。
これはよその国のことではありません。
たまたま近い国だからから自分のことでもある、ということでもありません。

主が和解のためにそのはざ間で十字架にかかっているから、
これは私たちのことであり、
また私たちの罪ゆえのことです。

朝鮮半島での戦争を利用して経済大国になったこの国で生きる者が、
現在の緊張の原因である罪を持つことを知るのは難くありません。

さらに言うと、
地球上のすべての緊張、摩擦、戦争は、
私たち個々人の罪も原因となります。

私たちが日常生活で、
和解の道ではなく、
自己実現、自己保守の道を歩むゆえに、
それが次第に大きな渦となり、戦争となります。

では和解の道とは何か。
それは、
日々他者と出会うなら、
その他者との接触により、
私が変化することです。

「私」が「私」のままでいることに囚われず、
出会いゆえに新しい「私」にしっかり変化することです。

出会っているのに変化しないことは、
「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらは全て神から生じた」、
という御言葉を信じないということにもなります。

現在、
主は当教会の礼拝に新しい仲間を招いています。
そこで出会いが起こります。

そして、教会は御言どおりに絶対に!ここで変化します。
変化が和解の道の途上にいる証拠です。

ただ、変化はエネルギーと勇気を必要とするので、
私たちは無意識にも現状維持を求めます。

でも当教会はもはや現状維持が勝つ場をもたないくらいに成熟できていると思います。

私たちは主により与えられている出会いにより、
新しい者に変化し、新しい教会となります。

目指すは自己実現、自己保守ではなく、自己変化です。

キリストの体はそうやって成長し、たくましくなります!!

アーメン。


決断=信仰

2010年05月29日 | 教会のこと
今週は久しぶりにずっと京都にいることができました

そしていろんな人と一緒にごはんを食べることもできました

それも
社会で大きな責任を担う大先輩のいろんな教会のキリスト者のみなさんとの食事から
牧師の仲間との食事から
当教会の若い青年キリスト者たちとの食事と
幅広いみなさんとの食卓を囲むことができてうれしかったです

そこで面白いことを発見しました

ちょっと単純化しすぎでもありますが
大先輩たちと青年たちの信仰の違いを発見しております

大先輩たちの信仰の基本は
(信仰とは人生における決断をキリストにおいてすること
 でも決断が間違える場合も多し
 しかし罪人として堂々と決断するのが信仰)
自分の仕事が
あるいは自分の思い描いていることが
うまくいくために
キリストに委ねつつ決断するというところにあることに気づきました

しかし青年たちは
他者との関係における限界において
あるいは何をしても地球のどこかの誰かを傷つけるという限界において
しかし前に進むために
キリストに委ねつつ決断するということが多いことに気づきました
(しかしもしかしたら当教会の青年たちだからかもしれません)

そして
とある牧師仲間との食事では
(奥やんなのですが
 滋賀講演の帰りに寄ってくれたわけです)
その両者を包含しつつしかし超える決断を
少しずつ発見し
少しずつ言葉化していく
というものでありました

そのキーワードは
「おせっかい」
でしょうか

これから世界のシステムはかならず変わりますし
私たちの生活も本当にダウンサイジングするでしょうし
そのなかで
これまでは独占することと享受することが行為の基準であったものが
共有することと贈与することへと移ってくるだろうから

その中で
信仰もまた
かならず新しい言葉となっていくのだなあ

世界の危機と
危機に向き合う緊急性の中で
しかし
ほがらかにうれしく
応えていくことができたらいいし
きっとできるなあと
思ったのでした

というわけで

明日の礼拝でお会いしましょう

祈りつつ

うれしい!

2010年05月25日 | 教会のこと
とても学ばされました

おとといの礼拝では信仰告白がありました
当教会への転入会を希望された方によるものです

その信仰告白は
神やキリスト、聖書とかを理解した!
とか
神やキリストを経験した!
とかいうことではもはやなく

神、キリスト、聖霊で生きている!
ことを具体的に告白するものであって
また
その生きているってことも
私が生きている!
が同時に
世界のみんなが生きている!
に開かれている
というか
それどころではなくて
もはや本当にひとつの体として生きている!
という告白となっていて

とても感動し学ばされました

ひとつなるキリストの体として
ずっと共に歩んでまいりましょう

うれしい!!

また
日本バプテスト連盟が2002年の総会で採択した
平和に関する信仰的宣言が
信仰の中身を知るに至った大きな要因であるいう事実も

うれしい!!

*****************


バプテスマを受けたい!
と申し出てくれた方がおられました

主のかかわりに感謝

うれしい!!





聖霊を受ける

2010年05月24日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「聖霊を受ける」

本日はペンテコステ。
十字架の主に私たちをつなげ続ける聖霊が起こされ、
ゆえに教会が誕生した記念日です。
つまり教会は聖霊により十字架の主に毎週つながる場です。
それもキリストの体なるつながりをキリストとのつながりとして頂き、
その交わりの中で十字架の主を受ける場です。
さらに聖霊は、その教会の交わりを世界と歴史の全体とつなげるために働きます。
 
だからキリスト者の歩みは、
すべての存在、生命、空間、時間とつながる歩みです。
それは相手が敵であろうと、
つながりが不利益であろうと、緊張を強いるものであろうと、
キリストの十字架の愛ゆえに和解せられ癒されつながるところまで広がる歩みです。
だから安心してつながることを選ぶことができます。

ただ、今の日本の教会が(もしかしたら世界の教会が)、
教会がつながらないでいい領域を持っているケースが多いことが残念なことです。
そしてそれは本当は聖霊を信じていないことでもあろうと思いますが、
しかし聖霊理解を狭めることで、
つながらないことの正当化がそれこそ不思議にも聖霊を語ることで起こっています。

それはまず、教会を神と個人とのつながりの場に限定し、他者との関係を二の次にするケースとして起こります。
聖霊が神として個人の心に働くという点のみが、聖霊の働きとして採用されるケースでこうなるようです。

しかし私たちは、
聖霊により、
キリストの体として、
他者とつなげられ、
他者と共に、
神との和解へと導かれることを聖書から頂きます。

したがって私たちは神とつながると同時に他者ともつながります。

また、教会は魂を救う場所であり、社会や政治とかかわるべきでない主張する教会も多いですが、
しかし、主イエスが、そして弟子たちが、またモーセやダビデなど旧約聖書の神に仕えた者たちが、
社会と政治に直接かかわり、
魂の救済は世界全体の救済と同時に起こることを示すことから、
教会が魂の領域のみを扱う場であることも否定されねばなりません。

また社会や政治にかかわる教会を「社会派」と呼び、
魂のみかかわる自らを「福音派」と呼んだことから始まったこの二つの区分も、
よく用いられる用語であるのとは裏腹に極めて意味がない区分であるため、
私たちはただただ、
この区分を超えて、
端的に聖霊に従う決意をしたいと願います。

聖霊は私たちを他者、社会、政治、歴史へとつなげます。
そして私たちはその真ん中に和解のために十字架の主イエスがおられることを発見し、その主と出会います。

ペンテコステおめでとうございます!


設定変更

2010年05月24日 | Weblog
ふと気付いたのですが

このブログは実名にて行っているので
コメントの受付はないほうがいいだろうと思いました

匿名のブログにおいては
そのコメント欄でのみ対話ができるので
必要だと思います

でも実名でのブログでは
記事を書いている本人に直接会うこともできれば
手紙でも電話でもメールでもコンタクトをとることができるので
その点でまずコメント欄でのやりとりは重要性を持たなるなあと気付きました

さらに
コメントをされる方も
それが公になる場よりも
私のみにわかるかたちのほうが
言いたいことを本当に言えるわけで
やはりコメント欄の使用が最善ではないと気付きました

またコメント欄にてブログの中身がさらに建設されていくという可能性もありますが
これまでの当ブログにおけるコメントは
そのように機能するものはほとんどなかったので
(実名ブログではこの働きはそもそも起こらないとも思いますが・・・
 さらに当ブログのような内容の場合はなおさら・・・)
やっぱりコメント欄を用いる意義を見出すには至りませんでした

また実名ブログでのコメント欄は
コメント者が匿名で
コメントへの応答者が実名となると
2chの性質が少し変容しただけの意味を持ってくるので
それは避けねばならないことでもあるだろうと思いました

というわけで
コメント欄使用は中止いたしますので
ご了承を。

そして遠慮なく
直接
ご連絡を。

忘れてた

2010年05月22日 | 「生きる」こと
あれだけ他人に宣伝しておいて
わたし
見るの忘れました

朝から
気になっていた教会の植え込みを刈っておりまして
それが終わって階段の掃除をしておりまして
それが終わってちょうどIさんが会堂清掃のために教会に到着されまして

「見ました!」
とおっしゃられまして
一瞬なんのことかさっぱりでございましたが

そうでした

奥やんのテレビ番組が放映されたのでした

忘れてた・・・

関西は今朝の9時から放映されまして
他の地域では先週の土曜日の11時から放映されました
奥田先生を追っかけた番組を記録されている方

ご一報くださいませ。

両輪

2010年05月22日 | 「生きる」こと
昨日は市役所前炊き出し

集まるみんなが互いに声を当たり前のようにかけあっているのを見て
これが10年間の最大の成果だなあと思いました

なんだか親戚一同が集まっているかのような
あったかあい感じ

時代が変わったねえ
というのが
この間の当事者さんたちとの会話

彼らは最底辺に追いやられているから
時代の変化に敏感なのだと思いました

10年前は
いつかまたバブルが来ると信じていて
5年前くらいに
もうこないかもしれないと思い始めて
この1年で
もはや経済的にかつてのようなもりあがりは
まずやってこない
とわかったということを

いろんな当事者から聞きました

彼らの感覚は
研究室で分厚い本を読んでいる学者さんたちのことばよりも
的を得ているだろうと
経験的に思います

はじめてボランティアにくわわってくれた若者が3名

この半年のあいだに
共に礼拝に集うようになった青年たち

この数年は
ボランティアにきた青年が礼拝に来て
礼拝に来た青年がボランティアに来て
ということが当然のように起こっていてうれしいかぎりです

そんなこんなで
先週は23名の青年が礼拝に参加しておりました
10年前の礼拝参加者数と同じくらいです
ちなみに先週の礼拝は85名でした


明日はペンテコステ礼拝
青年のMちゃんの信仰告白もあります
青年たちの特別賛美もあります

夕方から青年たちはバーベキューもするそうです
天気だけがちょっと心配


当教会においては
礼拝での出会いと
ホームレス当事者との出会いは
両輪なのですなあ


要は
十字架のキリストに出会う
ということなんですなあ

こういう当教会で
いま何が起こっているのでしょう?

それは
聖書を学ぶとか
聖書を分かち合うとか
を超えて

端的に
聖書を生きる!

ことが起こっているのだなあと思います

キリストの体というからには本気で体の一部になるし
隣人愛をアリバイとしてでなく本気で実践していくわけでございますなあ


さらにみんなで声を掛け合って
互いに引き受けあって
ゆえにキリストに引き受けられて
ぼくらは生きるのであります

礼拝とホームレス支援は
ほんとに両輪です

「この小さき者のひとりにしたのは
 わたしにしたことなのである」

信仰って何?

2010年05月17日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

******************

「信仰って?」

キリストって誰?
十字架って何?
復活なんてカルトではないの?
終末なんておそろしい!
聖霊って何?
キリストの体って何?
教会ってどんな場所?
礼拝って何?
などなど、
信仰にまつわる様々な疑問を、
キリスト者ではない友人や家族から投げかけられたり、
また自分でも疑問に思ったりしたことはないでしょうか。

これらの疑問に私たちはどう応えることができるでしょう?。
またどんな証ができるでしょう?。
もし堂々と応えることができたら、嬉しいと思いませんか?
そして信仰というのは本来堂々と表現できるものでもあるのです!

2月に開催された定期総会にて、
今年度は牧師による信仰基礎講座を開催することが決まりました。
全8回の講座です。
しかし、当初予定していた日曜日の午後の時間は、
ありがたいことに教会の様々な活動の活発化により、
新しいプログラムが入る余地がないため、
6月と7月の礼拝説教にて、信仰の基礎的テーマを分かち合い、
その後の教会学校でさらに分かち合うというかたちを取ることを執事会で決定いたしました。

そのテーマは以下のようになります。
① イエス・キリストの誕生と生涯
② イエス・キリストの十字架
③ 罪、罪人、さばき、赦し
④ 復活と終末
⑤ 神、創造
⑥ 聖霊、関係性、教会の起こり
⑦ 教会(キリストの体)の精神と倫理
⑧ 礼拝と日常生活

このカリキュラムは、
バプテスマクラスと転入会クラスの共通部分を、講座用に準備しなおしたものとなります。

そして目指すところは、
背骨の中心に、
内臓の真ん中に
カキーンと響く真理を主より与えられ、
自信を持ってキリスト者として立つようになることです。

例えば、罪とは何か?と問われたら、
一般的なイメージによる問いはもちろん、小難しい心理学や哲学的な問いと遭遇しても、
教会で分かち合ったことが揺らぐことがないほどに、
罪という事柄を、身体の中心で知ることを経験します。

さらに、
キリストを知らない多くの友人、知人、家族にも
伝えたくて仕方がなくなるほどの信仰の中身を経験します。

お楽しみに。

教会が教会とされる

2010年05月13日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

*************

「教会が教会とされる」

教会はキリストの体なる教会となるために、
歴史的に迫害と死、傷を負いつつ歩んできました。
つまり
教会をキリストの体とはさせず、
時の世に従う群れとさせようとする勢力が
全ての時代と地域に必ずあり、
教会はその勢力に抵抗しつつキリストの体を死守してきました。

しかし世の勢力はいつもよくわかる形で迫ってくるわけではありません。
聖書にて、悪魔が露骨に描かれると同時に、ばれない形で忍び込んでくる姿で描かれることが示すように
世の勢力はまるで親友であるかのように近づいてきます。

そして歴史的に、教会は国家そのもの、あるいは国家の一部とされることが多かったのですが、
バプテストは、それこそに抵抗し、
国家からの自由を求め、
キリストの体を純粋に形成することを目指し続けており、
今もなお目指しています。

そして現代における国家は、法治国家です。
それは律法時代のイスラエルに近いのではないか、と、最近私は考えています。

そして日本では、
教会は宗教法人法に則って歩むよう求められます。

しかし、宗教法人法による教会の姿とバプテスト教会が死守してきた教会の姿は
当然ですがどうしても異なります。

まずは運営方法が異なります。
宗教法人法は代表役員が最終責任者です。
しかしバプテスト教会は総会が最終責任者です。

これは、宗教法人法が宗教における民主性まで思いが至っていないものの、バプテストは民主主義を採用している、
というだけの話しではありません。

これは現代の律法とのたたかいです。
しかもイスラエルの律法のように神から与えられてはいないところの、
人間による法とのたたかいであるので、
新約時代の教会が律法とたたかった以上にたたかうべきたたかいかも知れません。

つまり現代の日本の教会は、
どうどうと宗教法人法に基づくのみの教会であるか、
それとも、律法という法にも慎重になった新約聖書の教会が一貫して語るところの、隣人愛に基づく教会であることを大前提として、
日本という制約のために、宗教法人法も無視は出来ない、という教会であるか、
を、繰り返し意識しつつ歩まねばなりません。

そして当然後者の教会とされ続けることを祈ります。

さて、隣人愛に基づくとき、
それは深い交わりにおける愛と信頼において責任を担いあうことへと導きます。
これが総会の本質です。

また、隣人愛に基づくとき
教会活動も交わりとして行います。
執事会、各委員会、各会、教会学校、また土曜日の礼拝準備など、
すべてはキリストの体としての活動です。
だから教会活動は、
常にキリストの体としての交わりの質、つまり、愛と信頼が問われるのみ!となります。
主イエスの十字架の下に集う、赦された罪人たちとして、
共に十字架を背負いあうチームとして動いているか否かが問われるのみ!となります。

そして牧師とは、この問いへと常に教会を導く者のことです。

つまり教会が教会となるためには、
「法治」以上に
「隣人愛治=十字架治」を語りきることが必要です。

さらに、国家からの解放として確かに民主主義を採用しますが、
これもまた、
「民主」以上に
「キリスト主」を語りきる必要があります。

ここでも、キリストの体なるチームが生きているか否かという問いが助けになります。

私たち教会もさらに教会とされていきます!
祈りつつ。


足らん

2010年05月09日 | 教会のこと
週報の数が足らん
昼食の数が足らん
わたしがみなさんとおはなしする時間が足らん

うれしいことだけど
これだけずっと礼拝に来る人が多いということは
もう一時的なことでもなさそうなので

サイズが変わったことを意識して
ちゃんと足りるように
感覚をつくりなおそうと思います

しかし

教会学校の部屋が足らん
昼食を食べるテーブルといすが足らん
おむつを替える場所が足らん

などなども

本日の懇談会にてたくさんの人が
情熱をもって意見をくれて考えてくれまして

先立つものがないのがあれですが

しかし

近いうちになんとかなっていくんだろうなあ


みなさんの明るい声から予想してみたりもしまして・・・


母の日ということで
いつもはバリバリ奉仕しているお母さんたちが
手持ち無沙汰でそわそわしながら食堂のいすにすわっている姿は
かわいかったです
そして
いつもありがとうございます

青年たちが昨晩から丁寧につくってくれたハヤシライス
おいしかったです
ありがとう

アッコのつくってくれたウェブ上のうちの教会の写真館に
さらにいろんな人からの写真がアップされているではありませんか
いいねえ
ありがとう

全体懇談会での
とっても上質の情熱を伴って語られる
建設的な発言は
本日はほんとに
全部美しかったです

教会学校もどのクラスも盛り上がっているし

なにしろみんながみんなに声かけてるし

笑い声が絶えないし

手をつなぎあってるし

誕生カードに涙している姿もあるし


イエスさまが働いていることがよーくわかってうれしいです




なにはともあれ

本日の礼拝説教がむずかしくてごめんなさい

えらくむずかしくてごめんなさい


でも
説教の中における
裁判員制度についての聖書からの私の見解に関して
とっても優れた異なる論もいただき
うれしかったあ

わたしは
異なる論をいただきたくて仕方がない人間ですので
どしどしよろしく



最後に


とっても明るくて楽しくて
しかも交わされる言葉の深い
主の日を頂き続けておりますが

そんな中で
しかし
しんどいときはしんどさを隠さなくてもいいし
泣きたいときは泣くことができるし
人と話せないときは机におでこをつけたままでいることができるし

こういう姿も覆われずにしっかりとあることが
うちの教会が教会となっているということだなあと思います

ぼくらは
キリスト家族です


しかし
足らんもん
どうしよ

昨日

2010年05月08日 | 「生きる」こと
昨日は
小学校の先生が家庭訪問してくれる日でした

今は長男から三男までが小学生なので
3人の先生が来てくださいました
感謝感謝でございます

若い先生たちですが
たいへんだと思いますが
よくやってくれるなあ

やはり感謝感謝でございます

丁寧にとってもたくさんウチの子のことを褒めてくださいまして
そして困っているところをほんの少しだけ仰ってくださいまして
つまり
やっぱり苦労しているんだなあと
そしてこれからもウチの子のことで苦労されるのだなあと
恐縮するばかりなのでございます



家庭訪問日だったので
ひさしぶりに教会に一日中いました

すると
メールが入ったら
すぐに応答できるという経験ができまして

すると
コトがどんどん運ぶことにちょっと驚きまして
持ち運べるPCを購入して
いつでもどこでも応答できるようにしたほうがいいのかなあ
と考えてみましたが
先立つものがないことと
そういうスタイルは結局は自分に向いていないだろうということで
却下となりました


5時半くらいに最後の先生をお見送りいたしまして

夜は
四男のれんくんの
お誕生日パーティー

5歳になります

本当は来週火曜日が誕生日ですが
私が時間が取れたのが昨晩だけでしたので
決行した次第ですが

れんくんのリクエストで
周さんのお店で
絶品の水餃子を山盛り注文して
お祝いをしました

妻と私は
ここでしか飲めない
絶品の紹興酒をいただきまして
心底リラックスしておりました

また
周さんとこのジョンとカオリちゃんも一緒に食卓を囲むことが出来て幸せでした



誕生日プレゼントは連休中に買いに行きました
れんくんは
ウルトラマンの変身グッズと自転車とで迷っていましたが
最終的に変身グッズとなりました

すると
長男のそらくんが
真剣な顔で言ってくれました

俺の誕生日(6月)には
俺は何もいらないから
れんの自転車をプレゼントしてもらおうかなあ
そうしたら
れんと一緒にいろんなとこ
いけるしなあ

うーん
あたしゃうなるしかありません
たいした兄ちゃんです

わたしは子ども時代にこういう風に考えたことは一度もなかったです

もはや
長男(6年生)から学ぶことがたくさんありまして
きっと本当は
パートナーとして歩むことすらできるのだろうなあ
と思わされております

まずは
わたしが
彼を子ども扱いしないようにする!

ということが第一のようです

がんばります

感謝感謝

平和の神

2010年05月04日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

その前に
昨日のホームレス支援ボランティアに
たくさんの方が集まってくださり
とても嬉しかったです。
せっかくの休みなのに・・・
なんていう言葉などもういらないほど
休みだからこそ参加したい!
という他者のための深い愛を知ることもゆるされ
その感動は泣きそうなほどでした

また午後からの円山野外音楽堂での憲法集会も
予想をはるかに超える人が集い
これまた感動的でした
これらの詳細はまた後日
(といいつつ、書く時間が取れないかも知れませんが・・・)


***************

「平和の神」

明日は憲法記念日です。
日本は先の戦争で多くの仲間を殺され、またそれ以上に多くの隣人を殺しました。
それは当時を生きていた方が、証言できないほどの惨劇でした。
だから、事実を生々しく伝えるということは、彼らの内臓をえぐりだす出来事でもあり、それはある意味奇跡的な業であり、
私のようなその後に生まれた者がその歴史を知ることは実はきわめて困難でもあることなのですが、
しかし、
生々しい証言のかわりに、
あるいは、重たい事実を軽い物語で語り変えるかわりに、
あの歴史を二度と繰り返さないことを、
憲法というルールにて、
大切にしてきたのではないでしょうか。

憲法9条は、戦争をしないことと武器を持たないことを、
25条はみんなが心身共に健康でいることができる環境であることを国に命令します。
これらは、ただのルールではなく、
65年前の悲惨すぎて語ることの出来ない歴史を
身代わりとして抱えている文言であるだろうと思います。
さらに言いうならば代理の祈りであると思います。

そして聖書も同じことを私たちに命令します。
殺してはならない、復讐してはならない、敵を愛せ、と戒めます。
これらの文言は、
歴史上の全ての惨劇の身代わりたる文言であり、
つまり同時に身代わりとしてすべてを背負う十字架の主イエスがおられるという出来事です。

だから私たちは、十字架の主イエスゆえに、平和を創り生きる決意をします。

そして大事なのは
十字架の主イエスこそキリストとして平和のために働く事実です。
これを抜きにして、
聖書の言葉や憲法の条文のみ取り出すことは、実は危険です。

原理として取り出すとき、
その原理が崇められ、神とされることが起こるからです。
またそのときは同時に、
大自然を崇めたり、
リーダーなどのある特定の人たちを崇めたりすることも起こります。

しかしそれらは崇められてはなりません。

神以外が崇められるところからナチズムが起こったことを私は忘れたくありません。

大自然や人間など
この世に実在するものの中に神の姿を見る信仰が、
最後には自分の民族に神を見るという論となり、
あの大虐殺が起こりました。

また実はどの時代のどの地域でも、
世に実在するものの中に神を見ることから、
自分の国や民族に神を見出し、その国や民族を崇めることが起きています。

日本の国旗や国歌を見るときに、
日本は自国を崇めることがとりわけ強く起こっている国であることがわかります。
これは実は深い危険を抱えているということでもあります。

だから、私たちは、
ただ十字架の主のみを崇め、
そこから出発する平和を求めます。

平和は本当にそこからのみ起こされ、
他からは絶対に生まれないのですから。