きぼう屋

生きているから生きている

味わい

2006年08月31日 | 「生きる」こと
ことあるごとにお花をつくってもらっている人がいます。
教会の冠婚葬祭や個人的なお見舞いで持っていくお花などです。
いつも心のこもった丁寧なやさしさにあふれたお花をつくってくれます。
差し上げる相手の人柄をすこし伝えるだけで
ずっと長く付き合っているかのようなぴったりのお花ができあがってきます。

わたしが勝手に惚れ込んでいる人です。

昨日もお見舞いに行くのでお花をお願いしました。
そしてお店に行ったのですが、
そのお店

そうげんカフェ ←ぜひクリックを。

というお店でして

これまで時間なくてなかなかいけなかったのですが
ようやく
食事をすることができました。

これまた
スープも小皿料理も
やっぱり心がこもった丁寧でやさしい味わいなのでありました。
とてもおいしいので
ついつい
デザートもお願いしました。
これまた
同じく
なのです。

お花も料理も
店主の人柄が滲み出ていることは、店主に出会えばすぐにわかります。

実は店主のお父さんと親交がありまして・・・
そのお父さんは
わたしが京都に来て出会ったスゴイ大人のひとりでして・・・
そういうつながりで
息子さんの店主とも出会い
惚れることができているのは
嬉しいかぎりなのです。

わたしがいうスゴイ大人というのは

成功している大人とかではなくて
勢いがある大人とかではなくて
知力体力が豊富な大人とかではなくて

その人にしか醸し出せない人柄が形成されていて
それは歴史を丁寧に生きるからこそ醸し出されるような人柄で
視野が広くて深くて
常に他者に向かっていて
それも細部に行き届く繊細さをもって向かっていて

だから

正直で
情熱あふれて
でも
淡々としていて
太くて
根付いている

そういう大人のことなのです。


店主も
そうなのですよ。

だから味わい深い。

店主もお花も料理も
店のデザインも

また行きます。

そういえば
思いもかけず
昨日は店主のお母さんにも久しぶりに会えまして・・・
感謝感謝。

憲法集会相談会

2006年08月31日 | 平和のこと
本日夜に下記のとおり開催されます。
発送されている案内文です。
*********************************
各位
2006年8月11日
2006年度5・3憲法集会
呼びかけ人 大谷心基

これからの憲法集会についての相談会 のご案内

猛暑がつづく中、皆様には平和で安心して暮らせる社会の実現に向けご奮闘のことと存じます。

さて、京都の地では、2002年、それまで独自に5月3日の憲法集会に取り組んできたグループ・団体が力をあわせて円山野外音楽堂で集いをもちパレードを行い、以降毎年共同の取り組みを積み重ねてきました。また、昨年は自民党の改憲草案に対し明確に反対の意思を示し、より広範な人々の協働を進めるために、憲法公布の日である11月3日にも集いを持ちました。
今、改憲のための手続法である「国民投票法案」、教育基本法改悪、共謀罪と、憲法を変えて国のあり方を変え、戦争する国づくり人づくりを進めようとする動きがいっそう強まっています。
これらの動きを許さない力を大きく広げていくために、今年の11月3日をどのように迎えるか、そして来年以降の5月3日をどのように迎えるか、忌憚なく意見を出し合い、知恵と力を集めていければと下記のとおり相談会を持ちたく思います。是非ご参集ください。


日時 2006年8月31日(木)午後7時~
場所 バプテスト京都教会 (河原町荒神口東入)
  ℡ 075-231-1351

帰宅

2006年08月30日 | 「生きる」こと
空君が学校から帰ってきました。

D君兄弟にU君にN君にT君にK君も到着。

これだー!!

と、久しぶりの感触を味わえて叫んでしまった私でした。

執務室に飛び込んでくるみんなの庭で遊びまくっている声たち。
新1年生で出会ってからもう1年半。
つまりみんなが遊びに来るようになって1年半。
最初はお母さんに連れられてやってきた彼らも
もう自転車でのびのびやってきます。

こんないつもの光景も
夏休み中は消えていて・・・
たったそれだけの期間なのに・・・
わたしの感触も消えていて・・・

しかし
戻ってきました。
いつも
が!

で、
みんななかなかなもんで
時間が来ると、家の近い者どうしで帰ったりする・・・

K君とT君
「あ!もう急いで帰らないと」
と、言いながら
妻に
「今日、オオタニ君ちでごはん食べてってもいい?」
なんて聞いたそうです・・・
「ごめん、今日の夜は教会なんだ」
「わかった!急いで帰る!」

ふたりで
「だめだって・・・あーあ」
ということだったそうですよ。

時々みんなでご飯を食べていきます。
それはそれはわたしにとっても幸せな時なのだから
子どもたちにとってはなお幸せなのだと思います・・・

また今度ね!

あのドタバタご飯の時が再開したら
さらに
いつも

やってくる!

楽しみ楽しみ!

いいヤツ

2006年08月30日 | 「生きる」こと
空君の夏休みが終わり、今日からまた学校に行きます。
実は小学校が二期制になったので、新学期が始まるというコトではなくて
休みが終わるということだけなので
気持ちの持って行き方は大変だろうなあ・・・
と、眺めています。


実は先週金曜日から学校は始まっていたりします。
空君は金曜日は東京の妻の実家から箱根の親戚の家に行ってそこから京都に帰ってきた日ですし
月曜日火曜日は奈良の葛城山に行ってましたので
早くも3日休んで・・・
学校の始まりなのです。


昨日夜
空君の親友のヨウキ君から電話があったとのこと

空君はそのときちょうどお風呂で
妻がヨウキ君とおはなししたのですが・・・

「オオタニ君元気なん?」
「ごめんねえ、ずっと旅行とか行ってて今日帰って来たから、明日から学校いくよ」
「本当!よかったー!」

なにしろ学校になかなかやってこない空君をすごく心配してくれてました。
いい友達なのです。
本当いいヤツなのです。

学校では先生によく怒られるようですが・・・
先生に怒られないでどうする?というくらいの学校社会なので・・・
怒られるほどにその子が人間性豊かだと判断できるほどでもあるので・・・
そういうヤツなので・・・
友達のことや家族のことをいつも心配しているようなヤツでして・・・
でも、
時々教会にきて大人向けのわたしのお話も聞くのですが・・・
これが
実はちゃんと聞いているヤツでもありまして・・・

態度ではそう見えなくても
最も大切な人の声、言葉に耳を傾けることはものすごくできるヤツでして・・・

人の子を
ヤツ
と表現して申し訳ないのですが・・・

そういわざるを得ないほど
かわいいヤツでして・・・


お父さんとお母さんも人間味あふれる方で・・・

ありがとう
ありがとう



空君
さっきまで宿題していて
ようやく

出発です。

いっぱいみんなとじゃれてきてねー

勉強なんか二の次やー

宿題なんてできていないところはしないでいい!
って言ってるのに
いうコト聞かないでぎりぎりまで張り切りやがって・・・

まあ
いいか

ちなみに
いま出発するということは
重い荷物がたくさんで
ゆっくりしか歩けないわけでもありますし
ずばり
遅刻ということです。

トホホ



リラックス

2006年08月29日 | 教会のこと
昨日本日と
奈良は葛城山にて
日本バプテスト連盟関西地方連合牧師家族修養会なるものが開催された。

企画準備をしてくださった方々に感謝。

家族みんなで参加できるプログラムをつくってくれた。
牧師は牧師で分かち合い
連れ合いは連れ合いで分かち合い
子どもは子どもで分かち合った。

子どもの世話をしてくれた方々にも感謝。

いいプログラムだった。
分かち合われる事柄が机上の空論になりようがないプログラムだった。

肩肘張らず、小難しい講演もなく、
少しだらけるくらいリラックスするなかで、
それぞれの日常のテーマとそれをとりまく複雑なものを分かちあうと、

が見えてくると思う。

講演やシンポジウムみたいにかたちをつくることも必要だろうが、
それは
そういうかたちがないと整いようがない場合の手段のようにも思える。

とりわけ
参加者の主体性や情熱に欠けると思われるなら
(というか、ほとんどの場合そうだが)
かたちを整えねばならないだろうけど・・・

情熱を持ってる者が集まれる分かち合いは
リラックスしきる場さえあることのみ
準備できれば十分なのだと思う。

今回すごかったのは
格好つける人がいないこと
成功話をする人がいないこと
自慢をする人がいないこと
知識をみせびらかす人がいないこと
自己利益を求めている人がいないこと

ただ
それぞれの教会の交わりのために
それこそ
献身
している人が
献身
している人からのみ出る言葉をもって
分かち合うことができたこと

そうすると
福音派とか社会派とかいう区分とか
聖書無謬とか聖書批判とか
分かち合いに何の障害にもならないわけで・・・

献身
なんだろうなあ

他者のために一生懸命なんだよねえ。


全国少年少女大会にしろ
この修養会にしろ
この夏は
何かいいプログラムにあたったなあ。



が見えて
始まるような気がするなあ。

こんなんが起こるということは。


葛城山まで車で行きましたが
地図を見て
24号から166号、そして竹内街道を通るというコースが最短だったのですが、
166号
国道なのに
民家の間にぎりぎり車一台分のスペースがある道路で
両側に小川が流れていて
蓋もない・・・

地図ではぶっとくオレンジの線で書かれている国道なのに・・・

竹内街道も
また
同じく。

どちらも
でも
一方通行
では
ない・・・

奈良
おそるべし!!

古墳がたくさんあるあたりが
そういう道路でした。

今回も楽しかった。



食卓

2006年08月27日 | 「生きる」こと
「家族のシンボルは食卓だ」
と父(妻の)が言いました。
たまたま妹(妻の)が食卓を買うというはなしから、こんなはなしになったわけですが、
まさにそのとおり!

「食卓に家族が集まるのだ」
と父
さらに
「食卓は天皇みたいなものなのだ」

・・・・

もちろんこれはかなり濃いジョークなわけですが・・・
しかし
相当に今のわたしたちの社会を言い当ててもいるわけで・・・


わたしたちは憲法において「象徴天皇」なるものを選択していますが、
なるほど
わたしたち(憲法を守るべき者)は
家族なり、地域社会なり、あらゆる共同体において
そのシンボルは天皇だ!

言ってしまっているということなのか!!!

改めて口をあんぐりさせてしまうのであります・・・

家族なり地域なり
つまり
人と人とをつなげるものは
天皇・・・

天皇っていったい何?
歴史をさかのぼれば
それは
最大級の力!

今で言うなら
マスコミを駆使してつくられた
家族の理想像!

つまり
人と人は
巨大な力

理想

つながるということで
うまいこと憲法はまとめているのだろう・・・

これ
天皇が好きとか嫌いとかいう問題以前の
天皇の戦争責任があるとかないとか言う以前の

ただの非論理

でしかなかった・・・

ということのようです・・・

人と人は


理想

つながるのではないわなあ・・・

金でも
主義でも
ないわなあ・・・

じゃあ
何でつながる??


わたし
やっぱり

食卓

だと
思うのですよ。

キリスト教信仰が主の晩餐(食卓)を具体的なキリストとの交わりとしている真理性は
ここにある・・・

バプテスト教会って
居酒屋で
ビール片手に
礼拝が始まった
らしい・・・
これ
仲間のつながりは
食卓
ってことが無意識にもあるような気がする・・・


長く深く共に生きている仲間・・・
それは
一緒に勉強してきた者か・・・
一緒にビジネスしてきた者か・・・
よく議論できる者か・・・

たくさん一緒に飯を食べた者だったりしないか・・・

力や理想じゃあない
つまり知力でも体力でも財力でもない

人と人をつなげるのは

食卓


ちょっとこれからの研究テーマにしてみようかな・・・



バプテストだからこそ

2006年08月26日 | 教会のこと
浦和キリスト教会でのおはなし その4

わたしたちはバプテストです。
バプテストって何でしょう??
わたしは正直に言うとわかりません。
勉強していないわけではないのですが・・・
うねりをあげるような「バプテスト」の物語に出会っていません。
どうもどれも原理的で・・・
「個人」という原理や、最初期の教会「モデル」という原理や・・・

バプテストが個人の救いとか、個人の魂とかに引っ張られるのは、時代の状況に引っ張られていることだというところまでは何とか自分なりにわかっているつもりでして・・・
だから「個人」をバプテストの特徴とすることはできないと思います。

そうではなく
バプテストは巨大な力を放棄し、力にもならない小さな力を連帯するという方向を選び取ったというところに注目したいと思います。

それがたまたま、キリスト教会が国家権力でもあったので、その全体の大きな力から、個という力にもならない小さな力の連帯を選びとる状況もあったと思いますが、
それは状況の話であり・・・
本質は、小さな力の連帯を選び取ることが出来るかというところではないでしょうか。
今なら、個と個の分断、あるいは関係性の喪失という巨大な力のなかで、小さな力、つまり、愛とか希望という、いのちをつなげるものを選び取り、連帯するということではないでしょうか。
小さな力を選び取り、それが共に生きるということは、まず原理にはなりえません。
とても具体的です。

で、

これがバプテストなのだとしたら、
バプテストがホームレスと連帯するのは、
選び取るべき事柄ではないでしょうか。

そもそも
なにゆえに
小さな力にもならない力を選び取らねばならないのか。

繰り返しますが
最も小さい力ってなんでしょう?

それは
十字架の主イエス・キリスト・・・
キリストを選んでいるわけです。
わたしたち。

最も小さな力を。

でも、その力にもならない小さな力が
「すでに世に勝っている」

他人が見たら「アホか」というしかないようなことを
信じつつ・・・

バプテストだからこそ
ホームレス支援もできる

真理性があるとも思いますがいかがでしょうか・・・

教会という「ホーム」

2006年08月26日 | 教会のこと
浦和キリスト教会でのおはなし その3

さて、教会は「ホーム」となれるのでしょうか。
「ホーム」を目指しているでしょうか。
誰の「ホーム」となっているのでしょうか。
「すべての人」のホームとなっているのでしょうか。

これ
「ホーム」に「なろう」とすると
そうならないのであります。
「ホーム」が「ある」ことを
一緒に繰り返し発見せねばならないのです。

どこに「ホーム」があるでしょう。
これは言い換えると
具体的にいつ誰と出会っているでしょうか?
ということにもなるでしょう。

さらに本日の聖書箇所のルカ14:15~24から知るならば
(浦和教会から提示された聖書箇所です)
具体的にいつ、神が招く具体的な隣人と出会っているでしょうか?
ということではないでしょうか。

神は招きます。
教会に隣人を。
わたしたちの信仰生活の日常に隣人を。

でも、人々はいろんな言い訳をして、隣人との出会いを拒否しているのが本日の聖書の箇所からわかります。
さらに、言い訳して隣人と出会わない者は、もう神は招かない!というおどしめいたコトバまで登場します。

わたしたち
言い訳して
ホームレスと出会わない・・・
もっと言うと
排斥するのです・・・

こういう言い訳があります。
わたしは高齢者福祉に取り組みます。ホームレス同様に困窮にある小さき者ですから・・・

半分アッテいます。
半分マチガッテいます。

こちらから出会う相手を決めることはできません。
神が招き出会う者と出会うしかないのです。

もうひとつ
大阪の本田神父は、より小さくされている者たちがいて、それがホームレスだといいます。
多くの困窮かかえる者がいるけれども、その最底辺に網をかけるかたちでかかわらないと、実はみんな、つまり高齢者も、救われないといいます。
最底辺はホームレスというわけです。
実際、
ホームレスは一般人の50倍もの暴力を受けます。
その暴力の度合いまで考えると、たんに50倍という数字では表しきれないほどに命を脅かされています。

来るでしょう。
ホームレスの人
教会に。
神は招いていないのでしょうか。

京都教会がホームレス支援を教会の事柄としてするようにいたるには険しい道のりがありました。
実際に起こったことを客観的に分析しています。
それはホームレスと出会わないようにする言い訳の三段階です。

まずわたしは京都教会赴任時に、京都教会は鴨川の橋のとなりにありますから、隣の住人である橋の下のホームレスの人に挨拶に行き、そこからかかわりが生まれ、支援に発展しているわけですが・・・
その最初期
かかわりが生まれ、ホームレスの人が教会に出入りするようになった頃
教会の何人かの人が、わたしたち家族を愛してくれる中で、
こう言いました。
「奥さんや子どもさんが危ないので、ホームレスとかかわるのをやめて下さい」
これは同時に
「教会にあつまる自分たちも危ない」
ということが含まれていることは、他の状況とあわせる中での単純な心理分析でわかることでもあります。

つまり
教会の「安全」
という理由、言い訳をもって、ホームレス排斥をするわけです。

しかし、聖書の言葉を分かち合う中で、
さらに実際にホームレスと会話する中で、
「安全」を脅かすような「怖い」存在ではないことが共有されて、この言い訳は姿を消しました。

しかし

それから半年後
次に出たのは
ホームレス支援は
教会の「働き」ではない
という理由、言い訳でした。

しかし、これも聖書を分かち合う中で、聖書がまさに「ホームレス支援」を指し示していると共有する中で、
さらに、やはり実際にホームレスと出会う中で、
この言い訳は姿を消しました。

しかし

それから2年後
次は
教会の「疲労」
という理由、言い訳が出てきました。
教会がホームレス支援で疲労している・・・
他の人たちへ手を差し伸べる力がなくなってしまっている・・・

教会の「安全」
教会の「働き」
教会の「疲労」

このホームレス排斥の三段階の言い訳
今回は冷たくも類型化させていただきました。


「疲労」という言い訳ですが・・・

これはキツイ!
ずぼしなので!

他者と出会うことは当然疲労することなので・・・
全く異質の他者同士が出会うのだから、スムーズにいくわけなく・・・
当然疲労するので・・・

しかし、
実は、
この疲労経験なしに
聖書の言葉で救われるという経験も・・・
ない・・・
と・・・
ホームレスと実際に出会う仲間が知っていたので・・・

この言い訳も姿を消したのであります。

これは当然なのですが、
言い訳は出会うことが出来ない者から出てきます。
で、
実は、
この言い訳が出るというところにこそ、キリストの赦しの宣言が必要なわけです。
出会うことが出来ない私たちを赦し
「次は出会おう」

何度も招くキリスト!

ホームレス支援は、出会いのしんどさゆえに、
私も何度も逃げてしまいます。
でも、今一度チャレンジするのは、
信仰によるもの、キリストによるものでしかない・・・
ホームレスとの出会いは、そういうものなのです。
信仰なしにホームレスと出会うことはできないといっても過言ではないと思います。
信仰でなんとか心身が持っているところがあるのです・・・

これはスレスレといえばスレスレ
でもスレスレだからやらない!
とは
ならない。
理由は単純。
マタイ25章を読んでみたりすればよいのです・・・

最も小さき者のひとりにしたのは、わたし(キリスト)にしたのである・・・

最も小さき者
それは主イエス・キリスト・・・

隣に具体的に神に招かれわたしの側に居る困窮深き、いと小さき者・・・
それは十字架の主イエス・キリスト・・・
そして、それは、本田神父の言うところの最底辺のホームレスの仲間たちの只中で出会うキリスト・・・

「故郷」「旅」

2006年08月26日 | 教会のこと
浦和キリスト教会でのおはなし その2

「ホームレス」が関係性の喪失であるならば
路上で生活する人に限らず、関係性を喪失している人はたくさんいるわけで、
サラリーマンにもいれば、
主婦にも、高齢者にも、
若者から子どもにも、
また
それこそ教会にもいるわけで
実は、「ホームレス」は、極めてひとりひとりの身近な事柄であることがわかります。

さて、この関係性という「ホーム」ですが、これの中身をふたつの視点から見てみましょう。

ひとつめ
それは、「故郷」というイメージにおける「ホーム」です。
関係性の基本であるような家族をイメージするとき、
そこには「故郷」というものがかならずあると思います。
とてもホッとするところです。
人はこれがないと生きていけないと思います。
なにしろ無条件でホッとするところ。
「ホームレス」は、このホッとできる「故郷」の喪失でありましょう。

さてしかし
家族なり夫婦というような、あるいはキリスト教会というような
互いの距離が近いほどに、ホッとできないということがあることは、みんな感じていることです。
近いと、互いによく知っていると、あるいはあまりにも知られていると、
ホッとできないわけです。
そこでは細かなことで変な緊張や摩擦も起こります。
岩田先生の言うように愛情と憎悪が行き交う現場となるわけです。

すると
「ホーム」は「故郷」だけでは説明しきれません。

そこでひとつ
たとえば「夫婦」の関係について少しばかり考えたいと願います。
夫婦の関係が、いつもホッとするという方は正直、いますでしょうか。
たぶん、夫婦関係においては、そういう捉え方をされるよりも、次のような捉え方をすることの方が多いのではないでしょうか。
それは、
夫婦とは「旅」である!
というものです。


それは
繰り返しの出会いです。
繰り返し出会うなかで
一緒に
大切な何かを
丁寧に確実に
探し当てるというもの
ではないでしょうか。

夫婦というのは、一生懸命にヴィジョンをかかげて、それに向かって「なっていく」ものではないでしょう。
そもそも「夫婦」とはこれだ!というような答えじみたものなど存在しないのですから。
「夫婦」の原理なり本質は「秘密」なんですよ。
人類誕生以来、他のさまざまなかたちが壊れる中で、なぜか残る夫婦というかたちなのですが、
そのかたちのあるべき姿を説明できた者はいないと思います。
だから夫婦は「なる」のではなくて
夫婦とは繰り返し出会いが「ある」というものでして・・・
その「ある」を繰り返し発見する旅を、
それこそ一緒にやっていくというものではないでしょうか。

家族もしかり
教会もしかり

教会
それは
「故郷」なる拠点=礼拝で共に祈り、主の赦しの宣言を受け
「旅」なる日常の信仰生活にて、正義を行うという
そういう場ではないでしょうか。

「ホーム」レス

2006年08月26日 | 教会のこと
浦和キリスト教会でのおはなし その1

ホームレス支援をする市民と行政はまずかならず岩田正美さんの論文を読んでいます。
彼は2,000年に発行された著書『ホームレス・現代社会・福祉国家―生きていく場所をめぐって』(明石書店)にて次のように書いています。
**************************
「生きていく場所」は物理的地理的な意味だけを持っているわけではない。住居の内部で営まれるプライベートな生活は家族という集団を単位とするものであり、基本的な生活行為は家族というまとまりの中で、その関係性の中で遂行されている。したがって「ホーム」という生活拠点は、家族の愛情や憎悪の交錯する「場所」でもある。人はその中で、家族の一員としての「役割」を割り振られ、その家族の一員である自分を確認する。
**************************
これ、バプテストの一員であるならば、どこかで一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。
しかも2,000年より前に。
これ、北九州のバプテストの仲間たちが、ホームレスを強いられている仲間たちとの出会いと対話の中で発見してきた事柄であります。
それも、そのような状況と聖書との対話をもするなかでで発見した事柄であります。
岩田先生は北九州の活動からこういう考えを持つに至ったわけです。
ホームレス
それはハウスレスではありません。
単に「家(ハウス)」がない(レス)ということではありません。
「ホーム(家族、家庭、関係性)」が喪失(レス)しているのです。
ホームレス問題は、物理的困窮(ハウスレス)問題であると同時に、
いやそれ以上に
関係性喪失(ホームレス)問題なのです。
で、
この考え方が日本のホームレス支援の前提となり始めています。
おそらくキリスト教会が聖書から見つけてきたものが、行政を含めた大きな活動の中心になるということは、日本では数例しかないでしょう。
先日、大阪市立大学の教員たちによるホームレス支援調査のグループのMLでは
「さすがバプテスト」
なんてコトバも出てきておりまして・・・
バプテストは、今、日本のホームレス支援で欠かせないどころの騒ぎでないことを
バプテストのパイロットチャーチと呼んでもおかしくない浦和教会のみなさまには
まず知っていただきたいと思うのです。

学友

2006年08月25日 | 「生きる」こと
昨晩品川にて
東京の大学時代の仲間たちと会うことが出来まして・・・
とりわけわたしは
福岡に京都と、
東京を離れておりましたから
相当に久しぶりだったわけですが・・・

時間の経過などなんでもなく
やはり端的に仲間であって・・・
心底こういう仲間たちがいることが嬉しくてありがたいわけです。

子どもたちも一緒でした。


会社帰りにスーツでやってきているのに
子どもたちを何度も肩車し、2人、3人と一緒に担ぎ上げて、
汗をそれこそ滝のように流すヤツもいてくれれば

丁寧に子どもと話しこんでくれるヤツもいまして・・・

ウチの息子たちは、一晩たって起きたと同時に
サトシ
アベチャン
ゴメ
ユカリ

など
一緒にあそんだおじさんおばさん(にいさんねえさん?)の名前を言い出すわけです。


今回この仲間の特徴をはっきりと見たような気がします。

みんな他者とじっくりと長く付き合えるということ。

こうやっていまだに連絡を取り合って集まることもそうですが・・・
結婚したヤツで離婚したヤツはいないし・・・
結婚していなくてもえらく長く同じ人と付き合っているヤツはいるし・・・

まあこれからこういう問題はいろいろあるだろうしあって当然ですが・・・
基本が
じっくり長く付き合える仲間たちだから
誰であっても相談できるし相談に乗れるというのは・・・

でしかない・・・

感謝なのでした。


振り返れば
福岡のときも
京都のいまも

こいつら
ようわざわざ遊びに来てくれておりまして・・・
これはあたりまえのことではなくて・・・
相当にありがたい深いつながりなんだなあと
再確認もしました。

互いに裏切る事はないし
裏切る事が出来るはずもないし
裏切ったとしても
みんなに包まれ諭されることになるだろうし・・・

たぶんこんなんで現役引退まで・・・
いやはや痴呆症がでるようになっても・・・
つながっているような気がしますよ。


わたし牧師で
キリスト教会という共同体について考えることも職務なのですが・・・
こういう仲間たち
キリスト信仰は選んでいない仲間たちだけど・・・
でも
こんなところに教会の本来の姿みたいのを
発見したりもしています。



数年ぶりに会って
やっぱりそうだったから
びっくりしつつ幸せだったのですが
本当に
みんなを
好いている自分も発見できて・・・

次に会えるのはいつになるのだろうか・・・
いつになっても
時間の経過はあまり意味ないので
いつでもいいということでもあるけれども・・・
ぜひとも
みんな幸せでありつづけてほしいなあと

思っているのです。


レッテル

2006年08月25日 | ホームレス支援のこと
京都駅横の歩道にて生活していたホームレスの仲間の荷物が強制撤去された。
「ごみみたいな」もので邪魔だからだと言う。
わたしが京都を離れているときに起こった。
いろんな方から携帯に連絡が入った。
関東にてニュースを通じて知る事もできた。

ニュースの扱い方は不思議だ。
「ホームレス」ということと
「京都の玄関口」ということのみ
強調されている。

もし「ホームレス」状態でない人が、歩道に「ごみみたいな」ものを溜めていたらどうなるのか。
もし「京都の玄関口」でない場所にそれを溜めていたらどうなるのか。

あのような取り上げ方は全く本質をついていないので、批判のしようもない。

今回荷物を強制撤去されたホームレスの仲間については、
当事者の仲間たちがずっと心配し、
声をかけ、
場所の移動の提案のみならず、
共に生きることへと招いていた。

なかなか対話は進まなかったが、
それでも少しは進んだ。

わたしも声をかけた。
そこですぐに気づく事ができた。
会話が苦手で、
同じ空間に他者がいることが苦手で、
つまり対話的な生き様がなく、
それを原因とするところの歩道における現象であることを。

もう強制撤去してしまった。
対話は今度はマイナスからになるだろう。

しかし
行政は「ごみのような」荷物が再び集まらないように見張ると言う。

やっぱり
対話はしないのだ。

「ホームレス」だから対話しないのか?
テレビでよくやっている「ごみ屋敷」と言われてしまう住民とは
もっと対話しようとしていると思うが・・・

レッテルはこわい!
「ホームレス」というレッテルを貼れば
あとは何してもよいようだ・・・

そもそも
「京都の玄関口」
ってのも
観光マーケットのためのレッテルでしかなく
中身はない。

つまらん。



一瞬で家族

2006年08月24日 | 「生きる」こと
家族でとあるところに遊びにいきまして・・・
そこでは催しものがありまして・・・
円形の会場席には長いすが並んでいるわけですが・・・

我が家の三男の添くん

なぜか
あたりまえのごとく
見ず知らずの
親子の
その
間に
ぽつんと
座りまして・・・

その親子は目まんまる
添くんはニコニコ



その親子も一瞬でニコニコ


まあ
やってくれるのであります。

さらに

大きな水槽に大きなのが泳いでいるのが見えるレストランで
その水槽の前に
やはり
見ず知らずのきょうだいがいるのですが

なぜか
あたりまえのごとく
その
きょうだいの
間に
ぽつんと
加わりまして

普通におしゃべりしてました。


うらやましい・・・
こんなんなりたい・・・

ひーじーじ

2006年08月24日 | 「生きる」こと
先日家族が集まって
じいさんの誕生会ができました。
ひ孫が7人いるので
ひーじーじと
呼ばれていますが
93歳となるわけです。

いまだにローカルな雑誌の編集をしております。
「100歳まで編集を続ければ名物じいさんやねえ」
なんぞ励ましたりしております。

こういう大人がじいさんであることには感謝感謝であります。
今に至るまでいろいろと教わっております。

朝日新聞で生きてきた人です。
文章や言葉のセンスがやはりいい人です。

淡々とした人間性も魅力です。
淡々といろいろとお世話になり助けてもらっています。

高校2年のとき
駅で別の高校に通う中学時代の友にあった私は、そこから一緒に家路につくわけですが
その友人
その日はひとりではなく
数人引き連れておりまして・・・
なんかいやな感じを受けつつ
一緒に歩いていたわけですが・・・
ひとけがなくなったところでキンタマにひざけりをもらい
金を取られたことがあったわけです・・・

確かに中学時代はわたしが威張っていたというのがありましたし・・・
その経緯がひざげりとなったのかと考えたり
いやはやそもそも相当につるんでいた友だったので
そうなった事実のなかで複雑な感情を抱いたりして

その日は家に帰る前に
じいさんの家に寄って
そのことを話したもんです。

「おまえは友でい続けろ!」
淡々と言ってもらえたことを鮮明に覚えております。
さらに
親から参考書が欲しくて金を貰っていたときで
それが全部とられてしまったのですが
なにげなく5,000円をポッケに入れてもらって
「親にいう必要ない」

やっぱり淡々と言ってもらえまして・・・

そのひざげりの友
その後会うたびにあちらが逃げておりましたが
それから3年後
たまたまバスで会いまして

「あんときキンタマ5倍の大きさになったぞ」(これ本当に5倍になるんよ)
から会話がはじまり
最後は
「あんときはゴメン」
で終わり

またいい連れになったわけでもあります。

朝日新聞ですから
当時は小倉に西の本社がありまして
そこで生きておりましたわけで



実は原爆が落とされそうになったのですが
曇っていたので長崎になってしまったのですが

私が今存在していない可能性が
あの戦争のせいで
充分にあったことでもあるわけです。

ちなみに
わたしのアンチ巨人は
この朝日新聞のひーじーじから
引き継いでいるものなのです。

ひーじーじ
しかし

つぶやいております
「もう朝日はだめだ」

しかし
ひーじーじは
当分
大丈夫でしょう。

富士山

2006年08月21日 | 「生きる」こと
わけあって
おとといの夜明け直後に
富士山をマジカに見た。
美しかった。

その夜
念願の姪っ子のマサキちゃんに会った。
生まれて一ヶ月
美しかった。
かわいいなんてものを通り越して
いのちの美しさの秘密が凝縮されているのに出会った。

不思議と
かわいくてうつくしくて
食べたくなるほどに感じる。

ウチの息子達と一緒にフロに入ったりしても
時々かわいく美しいおしりをかじったりするが・・・

「なにすんねん!」

あきれながらおこる息子達であるが・・・

いのちは
すごい!

いのちが
すごい!