きぼう屋

生きているから生きている

キリストの十字架の物語

2009年01月25日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。
他の記事を書く時間がなくてすみません・・・

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「キリストの十字架の物語」

キリストの十字架といえば、
私たちは毎年イースターの前の週、つまり受難週に、その物語を聞きますが、
しかし同時に、
その週のみならず、日々の各々の生活の中で、
キリストの十字架の物語はいつも中心を占め、
その十字架ゆえに、極めて個々の自由な物語が、ひとつの身体としてつなげられていることを、
常に確認できることは幸いです。
 
去る17日、私たちは阪神淡路大震災から14年を迎えました。
私は世の中において、この間に大震災の語り方が変化していることに心を留めます。
おそらく当初は災害の規模や全体像を数字や映像で語るケースがほとんどだったと記憶します。
しかし、今は災害における個々の物語がそれこそドラマチックに語られます。
その個々の物語は、親や子、友人などの死であり、また、家や仕事、仲間を失った出来事です。
つまり今私たちが知るのは、
大震災とは、
ある人にとっては、父親の死であり、
またある人にとっては娘の死である・・・
という事実です。

そしてこの個々の物語の表現しきれない困窮の中に、
キリスト者はキリストの十字架を発見することでしょう。
すると、
「私の苦しみがどうしてあなたに分かるのか?」という互いの困窮を知り、分かち合うことを拒絶する問いを超えて、
十字架を信じるゆえに、
共に担い生きることが起こされます。

これは大震災のみならず、
63年前までの戦争や、
昨今の金融恐慌や派遣切りなども同様です。
つまりいずれも個々の物語の集合体です。

私たちがかかわるホームレス支援でも、
当事者個々の物語を聞き、
それが積み重なり絡み合う中で生まれ出るかたちで、
私たちは十字架を発見するゆえの言葉を与えられるのでありましょう。

無論、教会における信仰共同体もそうです。
そこでは歴史において教会に集う個々の物語がたくさん語り継がれる中で、
それぞれのキリストの十字架を覚え、その栄光を讃美します。
そして十字架ゆえにつながる事実に感動します。

教会の歴史とは、
それぞれの時代の企画や制度や人の名前ではなく、
それぞれの時代の企画の中で起こったことが、
その時と同じスピードで語りなおされる物語や、
その時のみんなの顔や発音が鮮明に思い起こされ語られるというものです。

この物語再生こそ、
(これを証!というわけですが!)
キリストの十字架を信じることによる具体的な幸せです。
この物語再生こそ、
神の愛です!!

キリストの十字架で他者と出会う

2009年01月18日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「キリストの十字架で他者と出会う」

世界の貧困が広がる経済状況の只中で、
小泉元首相が構造改革を始めた約10年前から、
私は
「みんなホームレス予備軍となった」
と言ってきましたが、
それが予想通りになってしまいました。

私が占い師や偽宗教家や評論家だったならば、
将来を予想できた力を誇るところなのかもしれませんが
(テレビでコメンテーターが誇るように・・・)、

しかし
予想はそうならないための警鐘だったわけで、
実際にそうなったことは、私にとって大きな苦痛となっています。
悪い将来を予想できたなら、予想通りにならずして初めて喜べるわけで、
国をあげて貧困やホームレス状況を議論する今は、
最悪の状況です。

この間、
「格差」「貧困」「金融危機」「派遣切り」と、
徐々にホームレス問題が騒がれ始め、
今やブームとなりました。

かつてからの支援者は、この騒動に戸惑うばかりですが、
でもこうなったら、
関心の向けられている間にホームレス当事者の困窮ができるだけ減るようがんばりたくも願います。

そしてこのブームで支援者が急増しています。
昨日は弁護士会が初めて支援者懇談会を開催しました。
また力のある組合や市民運動体、病院がホームレス支援を決定しました。
個人のボランティアもどんどん誕生しています。
これはとても心強く感謝なことです。

しかしそんな中、
昨日の弁護士会主催懇談会終了後、
ある方が私にこう仰いました。
「新しい支援者を子育てと思って面倒みてくれませんか」。

いやいや最近子育てには慣れてきたけどそんなそんな・・・
と私ははぐらかしてみたのですが、
続けて
「このブームが去っても彼らが支援できるようになってほしいのです」
と仰られ、なるほど!と思いました。

ブームは利用されます。
金儲けのために(貧困ビジネス!)、
また無意識の中で自己実現のために、
ホームレス当事者が利用されます。
それがこの発言の意味なのでありましょう。

ならば.このような利用を突破した支援とは何でしょう?

それは
当事者個々人との出会いの物語が「共有のいのち」となる経験をすることだと思います。
この経験者が増えればホームレス問題は本質から改善されることでしょう。
逆にこの経験を持つ人材が増えずに支援事業を増やしても、自己実現を超えることは不可能です。

そしてそれをよく知るのは信仰者ではないでしょうか。
歴史を通して
神をビジネスや自己実現のため利用する事態に信仰者は幾度もおぼれています。
でも他者の困窮の中にキリストの十字架を発見することへと導かれ、
キリストと共に他者と出会うことで幾度も救われてきました。

そこで私たちは、
キリストと他者との「共有のいのち」を受けます。

だから私たちは、
神を利用していないのならば、
ブームと関係なく他者の困窮と出会います。
キリストが今も私たちみんなの救いのために十字架にかかるからです。

キリストよ!来たりませ!アーメン。


自立と交わり

2009年01月14日 | 教会のこと
2009年度の日本バプテスト関西地方教会連合の
基本姿勢を次のように提案することが
拡大役員会で決定しました

なんらかの目的を策定してそれに向かうのではなく
ただただ
出会って何が始まるのか
という
神の業に期待するために

ちゃんと出会うことのみ

提案するという
えらいことになっておりますが

2月の定期総会で決まれば
これでやるのであります

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2009年度関西地方教会連合方針(案)
会長 大谷心基

1) 聖書
☆「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」
  (創世記32:31=新共同訳)
☆夜も昼も、私たちはこの上なく熱心に、
 あなたがたと顔を合わせることと、
 あなたがたの信仰の不足分を補完することとを、祈っている。
(Ⅰテサロニケ3:10=岩波訳)


2) テーマ  
「自立と交わり・・・顔と顔とを合わせて」


3) テーマについて
①わたしたちは自立した教会・伝道所の連合である。
 自立する者とは、他教会・伝道所に対して責任を持つ者である。

②責任は、他者に告げられる形で発生する。
 その際、他者とは、「存在」「生命」「言葉」など、
 さまざまな概念で語られてきているが、
 今回は、他者を「顔」として認識したい。

③「顔」は他の概念と異なり抽象化を排除する。
 顔を合わせるならばわたしたちは互いに向き合うしかなく、
 また逃げることはできない。
 自立する者は自らの顔を隠さない。
 また相手の顔が、自らの相手に対する責任を告げることを知る。

④互いの互いに対する責任は、
 信仰理解から経済問題まで、
 ありとあらゆるかたちで現れると想像する。
 互いに丁寧に向かい合うことを期待する。

⑤互いの自立と交わりを、
 顔と顔をあわせるところから、
 再確認できればと願う。



とっても近いのです!

2009年01月13日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。


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「とっても近いのです」

先週は三日ほど教会より休暇を頂き、感謝するばかりです。
それを利用して、私たち家族は和歌山の白浜と那智勝浦に行きました。
美しい浜辺と海、美味しい海産物、抜群の温泉と、リフレッシュにはもってこいでした。
そしてなによりこの旅行で、
私は、いろんなことを近く受けることができ、とても嬉しかったです。

まず、家族といつもより近く接しました。
毎度思いますが、
子どもは0歳の長女を含めて、
近く接する機会を経た直後に、急激に成長します。
それは精神のみでなく、身体の成長をも含むと
私は考えるようになっています。

人と人が近く生きることは、
解明されない秘密があふれていると今回も思いました。

そして
「インマヌエル!神われらと共にいます!」
というキリストを受ける私たちは、
「共に」の近さの秘密をここに発見することでしょう。

さらに温泉では、地元の高齢者と近く接しました。
4人の息子を見て、彼らは子どもや孫の話をしてくださり、
とりわけ苦労話を明るくしてくださり、
「今は大変でも必ず将来は幸せだよ」と接したすべての先輩方がおっしゃってくださり、
大きな励みとなりました。

食堂ではスタッフが長女を抱き、息子たちと話してくれて、家庭に加えられた近さを受けました。

また白浜ではアドベンチャーワールドという動物園で動物とふれあい、
那智勝浦では、くじら館という施設で、クジラやシャチ、イルカと触れ合いましたが、
どちらも、動物たちとの距離が近くて驚きました。
動物園では、
ヤギと一緒に歩き、キリンに舐められ、らくだや馬に乗りました。
他の動物も1m未満の距離で見ました。
すると、匂いや感触、細かいしわや目に浮かぶ涙までわかり、
その動物たちが好きになるのを感じました。
これまで行った動物園はいずれも遠くから動物を眺めるというところでしたので、
この近さは衝撃でした。

那智勝浦のくじら館では、
くじらたちのショーを、それを指揮するスタッフの横に立って見たり、
イルカと握手したり、くじらに餌をあげたりするなかで、
動物とスタッフの家族に加えられたような近さを受けることができ、とても感動しました。
また日々イルカやくじらたちと近く接しているスタッフたちの
まさにその近さゆえに起こされている私たちに対する深い表情と対応は、
それはそれは美しいものでした。

ところで、
私たちはキリストを
生々しく近くに覚えているでしょうか。

キリストの目に浮かぶ涙が見えるでしょうか。
キリストの体臭を受けているでしょうか。
キリストの肌の感触を知っているでしょうか。

キリストの体の傷やそこから流れる血液、さらに治りかけてふくらんでいる皮膚を見ているでしょうか。

私たちはこの問いの前でハッとするはずです。
そして多くの場合、この生々しさと出会うことが少ないことを省みると思います。

しかし私たちがそのようにキリストに近くいなくとも、
実にキリストは
今もここでそれぞれみんなの最も近くにおられます。

近いキリストと出会うと、キリストを新しく知ります。
でも遠いキリストを眺めていると、
よくある動物園で遠くから動物を見て、その動物を知った気になるように、
キリストをもそのように知った気になる可能性があります。

これから私たちは
とっても近いキリストを
ぜひともご一緒に頂いてまいりましょう。


「キリストにあって」

2009年01月04日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「キリストにあって」

イエスさまが、
わたしたちみんなのために、
また全世界のために
与えられてからの、
2009年目がスタートしました。
主に心から感謝します。

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。
古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(Ⅱコリント)」。

私たちは新しい出来事のたびに、
新しく造られた者として、
すべてが新しくなったこと、そして、古いものが過ぎ去ることに、
感動することがゆるされています。
そして新年を迎えた今こそ、ぜひとも共にその感動を味わいたいと思います。

その際、
古いものが過ぎ去るというのは、
昨年の苦い経験が消えること以上の
奇跡的な感動であることを覚えたく願います。

それは、苦しいことだけでなく、
嬉しいことも気持ちいいことも
成功も名誉も
同じく過ぎ去ることを含みます。

そしてそれらすべてとは全く異なる新しいものを、
今、主が造られ、
わたしたちに与えます。

その新しいものとは、「キリストにあって」すべてがあるという事柄です。
だから、昨年の苦しみ悲しみ喜びなどのすべては、
「自分にあって」のそれら、自分の感覚、感性、感情、知識によるそれらではなくなり、
新しく「キリストにあっての」それらとして造りかえられます。
そしてその奇跡を私たちは覚えます。

ただ、
苦しみも含めて生活状況が一変するわけでもなく、
また苦い記憶が消えることもありません。
しかし、同じ生活、同じ記憶であっても、
それが「キリストにあって」のものとして、
ゆるされ癒され希望にあふれる生活、記憶となって、
私たちに刻まれるという神の奇跡が起こされます。

この救いの出来事を、
乱暴にはなりますが、もっと身近な言葉で言うならば、
私たちは、苦痛や悲痛を、
動じることなくおおらかに、
しかしその重みを失わずに知ることができるし、
また喜びや名誉に興奮することなく、
傲慢にならずに冷静に受けることができる
ということではないでしょうか。

そしてそのいずれも、
互いに愛し愛され、命たちが愛でつながれ、世界が愛で満ちる
という神の目標の下にあることを確認できることでもありましょう。

2009年も「キリストにあって」歩みます。


冷えぬ愛

2009年01月02日 | 教会のこと
2008→2009

新しい年を、出来事を、奇跡を、すべてを与えられる時に
その新しいものゆえに
私たちは古きものを
より明瞭に知ることができる

古きものは罪
新しいもの抜きに生きる罪
罪をすべて引き受けてくださる主を知らずに歩む罪
罪の赦しを見逃すゆえに罪にも気づかぬ罪

罪は罪の赦しとの出会いにより初めて知る

新しい年
私たちは今年も明瞭に人が人を辱め殺すことの只中で迎えたことを知る

イスラエルのガザへの空爆、侵攻
ガザのイスラエルのミサイル攻撃は
大戦直後の混乱以降最大規模だ

あっけなく顔が消える
細かく動く顔の筋肉と
それによる喜怒哀楽の表情
目、眉、頬、口のひとつひとつがミクロの単位で綿密に動き
数え切れない種類の表情を作り出してきた顔が
一瞬にして硬直する

もう
のどが震えることもなければ
涙が流れることもない

硬直する瞬間までの
他者、土地、時間、職、学とのつながりが
すべて切れる

キリストに従う者にとって
この土地の殺し合いは他人事になるはずはない

この土地だからこそ
キリストの十字架が
目をそらすことをゆるさないほどの実体を伴って立つ

わたしは
十字架の下にいなければならない

わたしは
十字架の下にいるだろうか


マラナタ
主イエスよ
来てください!

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元旦礼拝の聖書箇所は
マタイ24:3~14

今私たちは
戦争で見境なく殺してもいいという時代を再び迎えた

もはや戦闘員と市民の区別はない

そうだ!そもそもその区別が論理矛盾だ

私たちは
戦争をなくすことに真剣にはならなかった
戦争を残すことにむしろ真剣になった
正義の戦争という戦争を支持した

私たちは
自分を守るために相手を殺してもいいという選択肢を残した
そしてその際殺せる人間は戦闘員である!
という論理を無理やりつくった
それを正義の戦争と呼び続ける・・・

キリスト教会が始まってからずっと・・・
ヨーロッパが始まってからずっと・・・

今私たちは
無差別殺人という戦争と正義の戦争のどちらが正しいかという
空しい議論をする

9.11後は無差別殺人を正義の戦争とさえ呼ぶ

しかしここで主イエスは語る!!

そのふたつの戦争ではなく
正義の戦争と戦争放棄とのはざ間に人間は生きていると・・・

実に無差別殺人戦争を語るのは論外である!!と・・・

そしてさらに正義の戦争を戒める・・・

罪人である私たちは
自分を守るために正義の戦争をしてしまう
それは起こるに決まっている(6節、7節)
それを推進する偽預言者もたくさんあらわれる(11節他)

しかし
キリストに従う者は耐え忍び戦争を放棄せよ(13節)

自分を守る
という中心軸にたつときに
人間の愛は冷える(13節)
人間の人間への愛が消えて戦争が起こる(6節他)
人間の自然への愛が消えて災害が起こる(7節)

しかしキリスト者は耐え忍べ(13節)
人間の愛は冷えても
神の愛が冷えることはない!!

人間の愛は古い!
今や新しい神の愛を選びきれ!

そして神の愛を世界の只中で証せよ!!(14節)

すべてを赦しつなげる神の愛を証せよ!!


私たちの生きる世界における徴は
戦争や自然災害が最たるものではない!!

神の愛の証こそが最たるものだ!!(14節)
それこそが世界の徴だ!!

この最たる世界の徴がもっとも新しいものとして始まるゆえに
新年があり
2009年がある

冷えぬ愛で私たちは共に歩む!!!

新年感謝

2009年01月01日 | 教会のこと
2009
新年感謝

あらゆる顔たちがこわばりゆがみ
ぐちゃぐちゃとなっているまま

今年も新年が与えられ

つらくとも
面倒くさくとも

意地でも

新しい出来事を知り受け考え生きる



を迎えることができることは

感謝


覚悟を決めて
新しい出来事を選び取りたいと願います

新しいのは
キリストです
愛です


元旦礼拝が午前11時から・・・



我が家からのクリスマス・カード&年賀状は
例年どおり
今月中旬から下旬に発送できそうです
いつもおそくてすみません

今年もよろしくお願いします


元旦礼拝プログラムです

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日本バプテスト京都教会
新年感謝
2009年 元旦礼拝プログラム

前  奏                   奏楽者
聖  書 コロサイの信徒への手紙2:10   
讃  美 70「すべしらす神よ」       一 同
主の祈り                   一 同
祈  祷                   
聖  書 マタイによる福音書24:3~14  
分かち合い                  一 同
讃  美 521「キリストには替えられません」一 同
説  教  ― 冷えぬ愛 ―      大谷心基牧師
讃  美 73「善き力にわれ囲まれ」     一 同
献  金                   執事会
交  読 新生讃美歌14           一 同
頌  栄 674               一 同
祝  祷                  大谷牧師
アーメン讃美                 一 同